(3-11)第三章 玖郎が知らない物語(1)
【瑠璃】
「――っ。ちょっと、玖ろっ、じゃなかった、小泉! その顔どうしたの!?」
その声は、ほとんど悲鳴でした。
ああ、やはりそういう反応になってしまいますよね。
その声は、椎名小学校五年一組のクラス委員長――霧島朝美ちゃんが、玖郎くんの顔を見るなり上げたものでした。
朝美ちゃんは、赤いフレームのメガネに、頭のうしろで二つの三つ編みを作った、いつものスタイルです。その髪型のせいで目立ちませんが、実は髪を解いて流すと綺麗な黒髪の大和撫子になるという、一人で二度美味しい女の子なのです。
赤いランドセルを、すぐそこにある自分の机に置くことにも意識が行かない様子で、玖郎くんを見て顔色を無くしています。
ええ。
その気持ちは非常に良く分かります。
空とぼけて、玖郎くんの顔に何かついていますか? などと言うのは――私の立場では特に――非常に白々しいのです。
というのも。
今日は、飯尾山ハイキングコースで行われた〈試練〉――あの『最悪の状況』をなんとか切り抜けた、まさにその翌日なのです。
つまり、私が怒りに任せて玖郎くんの頬を、二回も平手打ちしてしまった、その翌朝だということです。
私のそんな行動の結果として、玖郎くんの左頬は、痛々しく、青く腫れ上がってしまっているのです。
琴子さん――玖郎くんのお母さんが湿布を貼ってくれたらしく、直接青くなっている場所が見える訳ではないのですが。
私でさえ。
いつものように朝の通学路で合流した時――自分でやっておいて勝手な話ではあるのですが――何も言えなくて、それでも昨日玖郎くんがしようとしたことを許す訳にもいかなくて、それでも謝ってしまいたくて、恥ずかしい話ですが声もなく泣き出してしまいました。
つまり。
そんな状態の玖郎くんの顔を見て、朝美ちゃんが悲鳴のような大声を出して驚いたとしても、無理はありません。
めったに自分の弱みを見せようとしない玖郎くんが「大したことはない」と言いながらも「今でも少し痛む」と言うくらいなのですから。
ええ、それよりも。
今目の前にある問題は、朝美ちゃんにどう説明するかです。
クラス委員長の鑑のようなしっかり者の彼女ですが、隠しきれない玖郎くん好き好きオーラは健在で、先ほども思わず『玖郎』と下の名前で呼んでしまいそうになっていました。普段は恥ずかしがって『小泉』と呼んでいますが――心の中では親しく名前で呼び合っていることがバレバレです。
そんな朝美ちゃんを相手に、〈試練〉や魔法の存在を隠しながら、こうなってしまった理由を説明しなければいけません。
と言いながらも、私が玖郎くんを叩いてしまったという事実がある以上、親友である朝美ちゃんに嘘をついてごまかすことはしたくないのです。
一体、どうすれば――。
「大丈夫なの!? どこかにぶつけたの!?」
玖郎くんに駆け寄り、心配そうに声をかける朝美ちゃんの表情は真剣そのものです。
うう。
ますます適当な嘘ではごまかしたくありません。
とは言え、この状況で玖郎くんに弁解を任せるてしまうと――疑う余地もないような説得力のある理由を作り上げ、朝美ちゃんを無理なく納得させてしまうことは間違いないのです。
それはできれば避けたいと思うのです。
だから、ここは私が――。
でも、何を――。
「いや、これは――」
ああっ、玖郎くんが話し始めてしまいました。
ということは、矛盾なく完璧で納得感満載の、嘘の説明が準備完了してしまっています。しかも、朝美ちゃんの反応に応じて、五種類くらいの用意があるに違いありません。さすがは玖郎くんです。
うう。
それでも。
私の身勝手な感情であることは理解していますが。
それでも――。
やはり、それはダメなのです――。
「私がやったの。私が、力一杯叩いちゃったから」
気付いた時には、私は思い付くままに言葉を口にしていました。
朝美ちゃんだけでなく、玖郎くんも、私の顔を見て来ます。二人とも、何を言い出すんだ、と驚いた表情です。
朝美ちゃんは、私の言葉の内容に驚いたことでしょう。
そして、玖郎くんは、事実をそのまま告げたことに驚いたのだと思います。
ええ。
私が思わず言い放った言葉は、言い訳も虚飾もなく、正に事実をそのまま告げるものでしたから。
「瑠璃が――?」
朝美ちゃんはそう呟いて、何を思ったのか、詰め寄っていた玖郎くんからゆっくり一歩離れました。
ええと、その反応は?
朝美ちゃんの表情は不信の一言で、玖郎くんの顔を見ています。私の顔をちらりと見てから、玖郎くんに少し睨むような表情を向けました。
あ。
ちょっと待って下さい。今の言葉から、そういう連想が働いたということですか?
私が玖郎くんを叩いた以上、玖郎くんが叩かれるようなことをしようとしたと言うことで――それは、確かにその通りなのですが――つまり、玖郎くんが無理矢理私に、あの、何かよからぬことをしたという――。
「まさか小泉、瑠璃に変なことしようとしたんじゃないでしょうね?」
あああ、やはりそのように受け取ってしまったのですね?
昨日の暗く重くてシリアスな雰囲気から抜けきれていないため、こういうラブコメめいた反応に頭が対応してくれません。
いいえ、違います。
目を逸らしてはいけません。
この状況も、間違いなく重くてシリアスな状況です。
脱力している場合ではありません。
ええと、こういう場合はどうやって誤解を解けば良いのでしょうか。
まずは、落ち着いて、冷静になって思考しなくてはいけません。
最後の瞬間まであきらめずに思考を続けるためには、まず目的の設定が必要です。この場合は、朝美ちゃんの誤解を解くこと、でも嘘をつかずに、魔法のことは隠して――。
玖郎くんが私に、その、変なことをしようとしたのか、と言う問いに対して――。
「その通りだ」
「――玖郎くんはちょっと黙ってて下さい」
状況をわかっているのか、『変なことをしようとしたのだ』とか言い出している玖郎くんの口を塞ぎます。
玖郎くんが目を白黒させていますが、それは今は優先順位が低いです。
「玖郎くんがしようとしたことは、絶対に許せないことだったけど――朝美ちゃんが、心配してるようなことじゃないよ」
私がムキになって玖郎くんを庇うと逆効果になる気もしますが――今の私に思い付くのは、やはり正直に事実を口にして、誠実に伝えることでした。
こんなにも玖郎くんを――そして私を――心配してくれている朝美ちゃんに、嘘を告げることはできません。
それが、今できる精一杯の誠意だと思うのです。
ただし、その誠意の回答には、避けて通れない問題が一点あって――。
「……ふうん。説明してもらえる?」
納得できないことを表情と腕組みで表しながら、朝美ちゃんは私にそう言いました。
朝美ちゃんのことです。
私たちの反応から、複雑な事情があるらしいということを察したのでしょう。
落ち着いて聞いてあげるから、話してみなさい、という姿勢に切り替えるようです。
ただ――。
そう、この一点が問題なのです。
事実をありのままに伝える方針では、魔法を秘密にするという制約がある以上、途中からは全く説明できなくなってしまうのです。
だから、私の応えは――。
「ごめん。それは、できないの」
本当に正直に、説明できないことを伝えることなのです。
これで朝美ちゃんが納得できないことは、百も承知です。
それでも、今、私に言えることは――。
「……。そっか。うん、わかった」
――え?
私は、自分の耳を疑ってしまいました。
朝美ちゃんは、それだけ言うと、自分の席にランドセルを置いて座ってしまったのでした。
ちょっと待って下さい。
今の私の回答で、納得できた訳はありません。
突然興味がなくなった訳ではないでしょうし――あるいは、私の態度に怒ってしまったのでしょうか?
「あの、朝美ちゃ――」
私が目の前の背中に声を掛けようとした瞬間。
がらりと教室の扉を開ける音を立て、担任の金谷薫子先生が教室に入ってきました。
先生は、休日だったはずの昨日も、急な仕事の対応をしていたと聞いています。
それでも、いつもと変わらない真面目で明るい調子です。きりりとした、働く大人の女の人という雰囲気なのです。
とは言え、あまりにもタイミングが悪いのです。
先生が授業を始めようとしているのに私語を続ける訳にもいかず、私は言葉を飲み込みました。
今のやりとりだけで、この話が終わりになったとはとても思えないのですが。
そして、その予感が示す通り。
授業の間の休み時間や、お昼ご飯の時間など、朝美ちゃんの態度はどこかよそよそしく、朝の話題に触れようとはしませんでした。明らかに無理をして、気にしていないという様子なのです。
うう。
授業が終われば、王位継承試験のために――〈試練〉や〈仕事〉に――忙しく走り回ることになります。せっかく朝美ちゃんと一緒にいられる時間なのに。
なんだか、とってもやりにくいです。
そして。
そんな調子で一日を過ごし――。
今日の全ての授業が終わり、帰宅時間が告げられるとほぼ同時に――。
「瑠璃。ちょっと良い?」
ガラリと椅子を鳴らして立ち上がり、朝美ちゃんは私へと振り替えると、そう言ってきました。
普段の朝美ちゃんの声の印象とは全然違って、とても低い声でした。
いつもと違う雰囲気を察知したのか、玖郎くんが帰宅を始めるクラスメートの間を縫ってこちらに来てくれます。
ようやく、ですね。
朝美ちゃんの用件は、間違いなく朝の件の続きなのでしょう。
今日一日、しっかりと時間が取れる今の今まで、我慢してくれていた、ということなのでしょう。
それにしても。
「……何?」
あ、なんだか私の声までつられて低くなってしまいました。明らかに警戒しているという雰囲気になってしまったかもしれません。
でも、それくらい朝美ちゃんの様子はいつもと違っていて、見るからに何らかの決意を秘めた――言ってしまえば、戦闘体勢、でしょうか。
「この後、少し話がしたいの」
そう切り出してから、朝美ちゃんは玖郎くんに視線を移しました。
「小泉抜きで。女同士の、大事な話」
女同士の大事な話――ですか。
と言うことは。
朝美ちゃんは、私に対して怒っている、ということのようです。
大好きな玖郎くんを、言えないような理由で叩いて、その頬を青く腫れ上がらせてしまった私を。
怒っているのでしょう。
朝美ちゃんの怒りが、玖郎くんへの想いによるものだとすれば――。
私は――私も、いよいよ覚悟を決めないといけないようです。
そんなことを考えていたら、自然と玖郎くんへと視線が向いてしまっていたようです。玖郎くんの視線と、ばっちりと目があってしまいました。
そんな玖郎くんに向けて、朝美ちゃんが言います。
「小泉。悪いんだけど、今日は一人で帰って。瑠璃と、図書室裏のベンチで、大事な話をしたいんだ」
図書室裏のベンチで、ですか。確かにあそこなら、秘密の話にはうってつけです。
今の季節を考えると、寒いことは間違いありませんが――そこは目をつぶるべきでしょう。
玖郎くんは、朝美ちゃんの言葉を受けて、ほんの一瞬思案しかけたようですが、すぐに私へ向けて尋ねて来ました。
「瑠璃はどうしたい?」
玖郎くんのその言葉は、私の判断に任せるという、表面だけ見ればそっけない、興味がないともとれるものでしたが――。
私はそこに、玖郎くんの信頼があるように感じてしまって、胸のあたりが温かくなりました。
そうですね。
私も――覚悟を決めましょう。
「今日は別行動にしましょう。大丈夫です。明日の朝、いつも通りに会いましょう」
私のその言葉に、玖郎くんは頷き返してくれました。
「分かった。また明日」
玖郎くんは、その一言だけを残して私たちに背を向けると、振り返らずに教室を出て行ってしまいました。
玖郎くんが実際にした動作はそれだけなのに――。
私は、まるで琴子さんお得意のおまじないをされたかのように――玖郎くんが私を信じて送り出すために、そして、私がしっかり頑張れるよう励ますために――背中を、ばん、と叩いてもらったような気がしました。
ええ。
なんだか頑張れる気がしてきました。
「用件は、図書室裏のベンチに移動してからね」
朝美ちゃんは一方的にそう告げると、ランドセルや手提げかばんを持って先に歩き出してしまいました。
私も、自分の帰り支度を身に付けると、その後を追います。
――玖郎くんの頬の怪我を見て、今朝のやりとりを受けて、それからのお呼びだし。
――二人だけで、女同士の大事な話。
用件が何なのかなんて、私がいくら鈍くても分かるというものです。
だから。
私も覚悟を決めないといけません。
私自身のこの気持ちが、何なのか認める覚悟を。
そして――。
その気持ちと決別する覚悟を――。




