(2-21)第三章 予定にない嵐(6)
【瑠璃】
「〈操作〉――」
私の魔法に応じて、半球状の氷でできた防御が、一瞬にして解かれました。
巨大なサラマンドラの瞳が、私たちを睨み付けてきます。
その一瞬だけは、さすがに息を詰めてしまいます。
しかし、サラマンドラは、即座に襲いかかっては来ませんでした。
玖郎くんの作戦には、防御を解除すると同時に戦闘に突入する場合のプランも用意されていました。しかし、どうやら必要なさそうです。
「待ちくたびれちゃったー。隠れるのは終わり? 食べられちゃう覚悟は終わった?」
相変わらず、クロミは馬鹿にするような口調です。
「ああ、覚悟はできた――」
玖郎くんが、特に気負った様子もなく歩いていきます。サラマンドラへ向かって――最前線に向かって。
「ただし、このサラマンドラを無効化し、クロミを拘束するための覚悟だ」
クロミへと言葉を投げながら、玖郎くんが立ち止まりました。
その位置は、たった一動作で、サラマンドラが玖郎くんに噛みつくことができる場所でした。
あまりにも、無防備に近すぎる――そう感じてしまう位置です。
「あはは。――それ、あんまり面白くないね」
クロミは、砂浜に突き立った金属の杭の上に座ってしまいました。
「じゃあ、やって見せてよ――」
クロミが、そう言って息を吸い――。
「サラマンドラ! 我慢の時間は終わり! やっちゃえ!」
その指示が飛ぶと同時に――。
その体の巨大さからは想像できないような瞬発力を発揮して、サラマンドラが、玖郎くんに噛みつきました。
玖郎くんのお腹に牙を突き立てるように、頭から、一噛み――。
「――っ」
私は、息を吸いました。
そして――。
「バカなっ!」
クロミの叫びは、吹き飛ばされたサラマンドラが立てた轟音にかき消されました。
そうです。
魔法世界の〈精霊〉であるサラマンドラ――魔法の産物としてここに存在するものが、玖郎くんを傷つけられる訳がないのです。
〈保護魔法〉。
この世界の人間を、魔法から守るための魔法。
その強力無比、絶対遵守の魔法が、サラマンドラの力をそのまま反射させるように、そのドラゴンの巨体を吹き飛ばしたのです。
「私は、この〈試練〉、降参します!」
吸った息を吐き出す勢いで、私はそう宣言しました。
競争と棒倒しの〈試練〉は、この宣言をもって――。
「そこまで。勝者は、茜姫、向日葵――」
ジャッ爺の、〈試練〉終了宣言を最後まで聞いている暇はないのです。
「ジャッ爺! 『協力型』の〈試練〉を提案、内容は、サラマンドラの無力化。場所は、このプライベートビーチ。電撃の魔法で区切った領域の中で、サラマンドラを無力化することが目的! ――いくよ珊瑚っ!」
一息で、〈試練〉を提案した茜が、そのまま〈開門〉にとりかかります。
「任せろ――〈開門〉!」
「〈開門〉!」
珊瑚くんと、茜の声が重なりました。
今回の作戦の要は、茜と珊瑚くんが協力して、サラマンドラを魔法世界へと返す〈開門〉を作り出すことです。
〈開門〉が苦手な茜と、魔力が足りない珊瑚くんが協力して――珊瑚くんが作った〈開門〉を、茜の魔力で開くのです。
一番難しく、一番時間がかかると予想されるため、茜と珊瑚くんは、最も後方で、この魔法に集中する必要があります。
そして――。
「他の姫達は、その提案を――」
「私は了承だ」
「私も、やる!」
ジャッ爺の確認を遮るように、常盤さんと向日葵ちゃんが了承の声を返します。
もちろん――。
「私も了承です。ジャッ爺!」
ここまでは、完全に打ち合わせ通りです。
それを受け、ジャッ爺は――。
「協力型の〈試練〉を開始しますぞ。目的は、プライベートビーチ内のサラマンドラを無効化すること。ビーチの出入りは禁止。それでは――」
手早く説明を済ませて――。
「はじめっ!」
〈試練〉の開始を宣言します!
第一段階、完了です!
【玖郎】
〈試練〉の開始が宣言された。第一段階は完了だ。
この〈試練〉――サラマンドラの無効化を目的とした協力型の〈試練〉には二つの狙いがある。
一つは、せっかくの戦闘を、王位継承試験のポイントにしてしまおうというものだ。
そして二つ目――真の狙いは、〈試練〉の行動範囲をこのプライベートビーチに限定すること。
つまり。
サラマンドラではなく、クロミの逃走を防ぐこと。
「小泉、行くよ! 〈操作〉っ!」
常磐の声が、魔法の発動を告げる。
そう、これが第二段階開始の合図だ。
常磐の〈操作〉が、円柱型に風を起こす。その範囲は、僕と、砂浜に巨体を横たえたままのサラマンドラを内側とする領域だ。
「さあ、どうした? それが、火の〈精霊〉の中で、最も恐れられている者の姿か? 小さな人間の不意打ちに翻弄され、無様に砂浜に倒れて起き上がれない――」
僕の挑発が効を奏したかどうかは不明だが、サラマンドラはムクリと巨体を起こした。
長い首が獲物を探し、瞬時に僕を見つける。
背にある翼を羽ばたかせ、態勢を立て直したサラマンドラの瞳にあるのは、先程まではなかった怒りの色だ。
ふん。
僕は、すっ、と右手をあげた。
「行くよ、小泉ちゃん! 〈操作〉!」
僕の合図を見逃さず、向日葵が魔法を唱える。
応じて、足元――常磐の風が作り出した円柱の内側で――細かい砂が、ふわりと持ち上がった。
向日葵への指示は、砂浜にある砂をさらに細かい粒子へと砕くこと。
その微細な粒子は、常磐に指示した風に巻き上げられ、風の円柱の中を漂う。
次々と、足元から吹き上がる。
すぐに、視界が煙って視界を悪くする程の密度になる。円柱の内側に、充満する。
「――?」
クロミの口が、何かを言った。おそらく、何をするのか分からないといった疑問の類いだろう。
ふん。
決まっている。
サラマンドラを無効化するための、最初の一手だ。
それでも。
敢えて願うとすれば。
この一手で、倒れたりするなよ――。
「さあ、サラマンドラ。さっきの一撃で、僕に物理攻撃が効かないことは分かっただろう? 次は、当然、お前が得意とする――」
僕の挑発は、最後まで続ける必要はないようだ。
サラマンドラの巨大な牙の間から、高温を示す陽炎が立ち上っている。
そうだ。
お前が最も得意とする、その炎の息吹を放って見せろ。
僕の、狙い通りに――。
ドラゴンが、息を吸い。
そして、その巨大な口を開くと同時に――。
【瑠璃】
――ッ!
巨大な轟音が炸裂しました。
それが予め分かっていなければ、音だけで倒れてしまいそうな轟音。
それは。
玖郎くんとサラマンドラのいる、常磐さんの風の柱の内側で生じた、大爆発が立てた音でした。
粉塵爆発。
玖郎くんは、作戦を説明する時、そう言いました。
密閉された空間に漂う粒子が、次々と連鎖的に燃焼し、激しい爆発を起こす現象。
生物であれば――。
それが、例え地平世界の〈精霊〉であれ――。
苛烈な爆発に晒されれば、ダメージを受けます。
燃焼による熱。
爆発による圧力。
音を聞くなら鼓膜が破れ。
呼吸をするなら肺を内側から焼き焦がします。
サラマンドラのような火の〈精霊〉であっても、そこから逃れることはできません。
風の〈操作〉により空間を作り出し、土の〈操作〉により粉塵を作り出す。その上で、サラマンドラ自身の炎を火種とした粉塵爆発を起こす。
それが、玖郎くんの作戦の第二段階でした。
「――」
爆発の閃光のせいで、玖郎くんの姿が確認できません。
作戦通り、無事であれば良いのですが――。
風の柱の内側にいれば、当然、作戦の発案者であろうと爆発に巻き込まれてしまいます。
唯一の例外が、今回の状況です。
つまり、この爆発は全て魔法により引き起こされた現象であり――玖郎くんは、あらゆる魔法から〈保護魔法〉により守られています。
「――は」
私は、思わず息をつきました。
玖郎くんが、無事に立っていたからです。
そして。
――っ。
サラマンドラも、爆発を意に介してすらいないように、首を立ててそこにいました。
やはり。
火の〈精霊〉に、爆発では相性が悪かったのでしょうか。それとも、攻撃力が足りなかったのでしょうか。
私は――。
「っ――」
――私は、覚悟を決めました。
【玖郎】
〈保護魔法〉で守られた僕同様、サラマンドラも粉塵爆発を受けきったようだ。
ふふ。
思わず、僕は自分の表情が笑みの形になってしまうのを感じた。
そう。
ここまで、完全に僕の作戦通りに進んでいる。
風の魔法と土の魔法を結集した粉塵爆発。常磐と向日葵の複合魔法を持ってしても、倒せなかった――その事実が重要なのだ。
現実問題として切り分ければ、爆発と火の〈精霊〉という相性の問題になる訳だが。
そんな目標を、瑠璃が一人で倒せるとなれば――瑠璃に入るポイントは大きい。
それこそが最大の狙いなのだ。
この戦況を――この勝利を、最大限、僕たちの成果として活用させてもらう。
作戦を説明する段階では、粉塵爆発により気絶したサラマンドラを、瑠璃の魔法で火の〈開門〉へ運ぶと説明していた。
万が一、粉塵爆発で倒せなかった場合の保険として――そう言って説明した、第三段階。
実は、その第三段階こそが、これからが僕の――僕達の作戦の真骨頂だ。
さあ――。
「ははっ! あははっ!」
耳障りな笑い声が、僕の思考を邪魔した。
クロミ、か。
「せっかく考えた作戦だったみたいだけどね! ムダムダ! 全然効果ないよ。さあ、サラマンドラ! 今度こそ――」
最後まで、言わせない。
僕は。
用意しておいた、約束の一言を放つ。
「瑠璃――」
【瑠璃】
「〈操作〉」
玖郎くんの声に、私は用意しておいた呪文を唱えました。
粉塵爆発が不発とわかった瞬間から、私は移動を開始していました。
玖郎くんの隣へと。
ここなら。
絶対に、彼の言葉を聞き逃したりしないから。
「――はははっ!」
クロミの笑い声にも邪魔されることはありません。
――普段なら、こんな魔法の使いかたはできないけれど。
ここには。
大量の、海の水があるから――。
「まずは、水の弾丸。千発を波状攻撃」
「はい」
上空から――無数の、水の弾丸が降り注ぎました。
バケツ一杯の水を、握り拳サイズまで圧縮した、水の弾丸です。
それが、千発単位で、何度も何度もサラマンドラに降り注ぎます。
弾丸は、いくつかは固い鱗に覆われた体表に弾かれますが、さらに多くの数が、サラマンドラの体にダメージを蓄積させます。
たまらず、その翼を羽ばたかせるサラマンドラ――。
「飛行を許すな。右の翼を氷結」
「はい。――〈操作〉っ!」
――パシンっ!
魔法と同時に、両手を打ち鳴らします。
私の体に覚え込ませた条件反射が、一発の拍手に反応させ、難しい魔法を一瞬で発動させます。
私が操った海水が、高速でサラマンドラの右翼を包み込みました。同時に、一瞬にして氷へと姿を変えます。
ズドン、と。
重い音を響かせ、浮かび上がりかけていた竜の体が、砂浜に落下しました。
「仕上げだ。激流で、電撃の壁に押し付けろ」
「はい」
海水を持ち上げ、滝をそのまま横にしたイメージで、サラマンドラに叩きつけます。
数秒だけ四本の足で耐えていましたが、すぐに激流に流されて、サラマンドラは運ばれてしまいます。
すぐに、ジャッ爺が用意した、領域を区切る電撃の壁です。
そう、すぐに――。
「グアアアアアアッ!」
これまで、一声たりとも吠えなかったサラマンドラが、身体を襲う激痛に声を上げました。
「――っ」
その痛みが。
悲しみが。
叫びが。
私の胸をわしづかみにしたように感じて、私は――。
「瑠璃」
――思わず魔法を解除しかけた私は、玖郎くんの声に、我に返りました。
そうです。
ここで、止めたら。
もっと長く苦しみを与えることになります。
もっと痛みを感じさせることになるのです。
私が――。
私が、耐えないと――。
拳を握りしめ。
歯を食い縛り。
せめて、サラマンドラが痛み苦しむ姿から目をそらすことなく――。
「ふふふ、くっくっくっ――」
サラマンドラの巨大な力を持ってしても逃げ出せない、海水の濁流。
押し付けられ、激痛を与え続ける雷撃の壁。
苦悶の声を上げる、上げ続けるサラマンドラを前に――。
玖郎くんは――。
「ふ、ふははははははっ!」
わらいました。
声を上げて。
笑っていました。
――それでは、本当に。
どちらが悪役か、わからなくなってしまいそうです。
【玖郎】
「ふははははっ!」
笑い声を上げ続ける。
嘲笑の声は、もがき苦しむサラマンドラに向けたものではない。
怒りに燃える目で、こちらを睨み付ける、クロミに向けたものだ。
勝ち誇り。
見下し。
全てを嘲笑う、そんな声を、僕は上げ続ける。
これが。
これが、結末だ。
たった一度でも、僕に敵対することになった者の。
末路だ。
「――」
僕の目の前に小さなつむじ風が生じて、くるくると宙を舞った。
それは、常磐が〈操作〉で作り出したものだった。
打ち合わせ通り。
茜と珊瑚が、〈開門〉を完成させた合図だった。
「瑠璃、完了だ」
「――っ」
僕の声を待ち望んでいたかのように、瑠璃が魔法を解除した。
瑠璃の顔色は、青色を通り越して蒼白だ。
よく耐えてくれた。
そして。
サラマンドラは、砂浜へと倒れ込んだ。
「瑠璃。最後だ。〈開門〉まで運べるな?」
「はい」
海水を器用に操り、サラマンドラの巨体を拘束すると同時に、運ぶ瑠璃。
よし。
こちらは、完了だ。
残るは――。
「ふん」
僕は、クロミに向けて、意図が伝わるように鼻で笑った。
「――何が、おかしい……」
最初から人を馬鹿にした態度をとっていたクロミは、すでにその余裕をなくしていた。
「何が、とは?」
僕は、わざわざ聞き返してやる。
「何を笑っている! お前に、何が――!」
クロミの叫びは、最後まで言葉にならなかった。
何を笑っているか、だと?
まさかこの僕が――。
無駄にクロミを嘲笑うため。
その決意を馬鹿にするため。
あるいは、自らの力に酔いしれて。
高笑いをするとでも?
心外だな。
あの無駄な笑いの目的など決まっている。
――時間稼ぎだ。
クロミを足止めし、この瞬間まで退却させないための。
「――いよいよ出番だな」
「――話は、後でゆっくり聞いてさしあげますわ」
それぞれの〈靴〉を使って、瞬間的に間合いを詰めた翔と綾乃が、クロミを拘束すべく手を伸ばす。
打ち合わせでは、初手は翔、そして綾乃がバックアップだ。
〈騎士〉二人の不意打ちであり、綾乃には貸したウィンドブレーカーの中に、結線バンドが入っていることを伝えてある。
さらに――。
「――っ!」
僕も、砂浜を駆け出す。
〈保護魔法〉による魔法無効化は、クロミ相手でも有効だ。
必要とあれば、僕が直接デコピンを叩き込む。
さらに、万が一、三人が回避されたとしても――その外側に常磐と向日葵を配置済みだ。
さらに、クロミの位置は、ジャッジメントが用意した電撃の壁をすぐ背にしている。
絶対にこの場で封殺する、布陣になっている。
「ここで終わりだ――」
僕の呟きが聞こえたかのように――。
「あーあ、つまんない。今日は帰るね」
するり、と。
予備動作も魔法の発動も感じさせない、例の挙動で翔の手をすり抜けたクロミは――。
「簡単に逃がすと――」
翔の声を置き去りにするかのように――。
電撃の壁に手をかざし――。
「またねー」
パリッ、と音が響いたかと思うと――。
雷撃の壁をすり抜けてしまった。
「――っ」
僕は、思わず足を止めてしまった。
「ばいばーい」
空中を飛び去るクロミを追うことはできない。
ジャッジメントの雷撃の壁はまだそこに存在している。
謎の方法によりすりぬけたクロミでなければ、それ以上の移動は不可能だ。
魔法をそのまま無効化できる僕は、その位置が離れすぎている。
「やられた、か」
僕の呟きを合図にしたように。
瑠璃が、〈開門〉の向こうにサラマンドラを運び――。
ジャッジメントが〈試練〉の終了を宣言した。




