(2-16)第三章 予定にない嵐(1)
【瑠璃】
「見えたよ!」
向日葵ちゃんの声が、車中に弾けました。
「わあっ!」
彼方で陽の光を反射する水平線に、誰ともなく歓声が上がりました。
本当です、確かに見えました。
「海です!」
私も、思わず弾んだ声を上げてしまいました。
向日葵ちゃんだけでなく、ここにいる留学生――地平世界から王位継承試験のために地球世界に来ている全員が、海を見るのは初めてなのです。
夏休みが始まって二回目の土曜日。今日は、待ちに待った、みんなで海に行く日なのです。
綾乃さんが用意してくれたマイクロバスは快適で、みんなでお喋りなどしているうちに、もう海が見える場所まで移動して来てしまいました。
「瑠璃までそんなに喜ぶとは思っていなかった。海は初めて、と言うのは本当だったんだな」
隣に座る玖郎くんが、苦笑ぎみにそう言いました。
いつもであれば、うう恥ずかしいです、とでも思うところです。でも、今日は全然気になりません。
「そうなのです。初めて見ました!」
地平世界にも海はあります。それどころか、フラッタース王国は四方を海に囲まれています。
女王様がおさめる領土だけでなく、全ての宰相が統治する領土が海と接しているのです。
とは言え、海は領土の辺境――漁業で生活する一部の人を除いて、特別な目的でもない限り訪れることはないのです。
話に聞く海――水平線まで見渡す限り水、という作り話のような壮大な景色を実際に見ることができるのです。
これが、冷静でいられますか。
いいえ、いられないのです!
「到着前からこれだけ嬉しそうなら、企画した香苗さんも満足だろう。肝心の当日に不参加なのは残念だが」
「あ……。そう、ですね」
玖郎くんの言葉に、ちょっとだけ冷静さが戻ってきました。
そうなのです。
この出井浜海岸行きを発案してくれた香苗さんは、急遽、参加できなくなってしまったのです。
お休みをお願いしていたアルバイト先で、店員さんが交通事故で入院してしまい、どうしても代役をしないといけないとか。
お仕事の、しかも、そういう事情ならば仕方がありません。それでも、残念でなりません。
「それに、朝美ちゃんも……」
加えて、朝美ちゃんも不参加なのです。昨日から夏風邪でダウンしてしまったと連絡がありました。
一緒に海に行くことを、とっても楽しみにしていたのに。水着だって、あんなに一生懸命に選んでいたのに……。
二人の欠席のため、参加者は見事に王位継承試験の参加者だけになってしまいました。
茜と珊瑚くん、向日葵ちゃんと翔さん、常盤さんと綾乃さんと運転手の滝沢さん――そして、玖郎くんと私です。
「確かに、香苗さんも委員長も残念だが、瑠璃が暗くなっても仕方ない。欠席組の分まで楽しめば良い」
私の表情が分かりやすく暗くなったのでしょう。
玖郎くんがそう言ってくれました。
そうですね。
確かにその通りです。
「はい。ありがとうございます」
私の言葉に、玖郎くんが頷いてくれました。
気持ちを切り替えて、ちゃんと楽しまないと。
そうです。
そう言えば、事前に気になる情報を手に入れていたのです。
情報元は向日葵ちゃんで、そのまま聞き過ごすことができない情報でした。その内容が内容なだけに、これまで確認するタイミングがなかったのですが。
今日のこの雰囲気なら、勢いで聞ける気がします。
それでは。
こ、こほん。
「玖郎くん、少し小耳に挟んだのですが。今日の海行き、最初は嫌がっていた珊瑚くんを説得したのは玖郎くんだそうですね」
私は、そう言って話を切り出しました。
みんなで海に行くために、珊瑚くんを説得する。
それ自体はとっても良いことで、なんの問題もありません。
問題なのは、その方法で……。
つまり、向日葵ちゃん情報によると。
玖郎くんは、み、水着が――。
「ああ。その話か」
にやり、と。
玖郎くんはいつもの悪い笑顔を見せました。
琴子さん――玖郎くんのお母さんに禁止されている、黒い笑いです。完全にクセになっているらしく、何かを企んでいる時、玖郎くんは間違いなくこの表情になってしまうのです。
「玖郎くんは、つまり、水着姿の女の子が好――」
「珊瑚を誘った理由についてだな。普段の僕の行動とは違うと感じても無理はない。瑠璃も、会ってすぐの頃と比較して、格段に鋭い思考をするようになった。僕も見習わないといけないな」
玖郎くんは、私の言葉を全然聞かずにそう言って、満足そうに頷きました。
え?
そうですか?
玖郎くんに誉められてしまいました、えへへ――って、微妙に論点が変わっています。
「ただし、ここでは説明し辛い。バスを降りた後でも良いか?」
「は、はい」
私は、その秘密めかした玖郎くんの言葉に、思わず頷いてしまっていました。
なんでしょう? 珊瑚くんを海に誘うというだけで、何かが隠されているのでしょうか。
と、そのタイミングで。
前の座席の上から、常盤さんがひょいと顔をのぞかせました。
「小泉、ちょっと天才少年の頭脳を借りたいんだけど。自由課題のテーマ、相談にのってくれない?」
気軽な調子で、常盤さんがそう言いました。
ふむ、と玖郎くんが息をつきました。
「制約や、興味のあるテーマがありますか?」
「制約――課題の決まりごとですね。わたくしたちの中学は、自由課題は本当に自由なのです。分野もジャンルもまとめ方も、制約は特にありませんわ。自分の興味のあることを、好きなようにやりなさい――良く言えば自主性と発想力を鍛えている、ということですが。悪く言えば放任と適当、ですわね」
常盤さんの隣に座っているはずの、綾乃さんの声が聞こえました。
なるほど。
自由課題というのは、自由研究に似ているんですね。
「本当は、A県かB市の発展をテーマに選びたかったんだ。それで、ちょっと調べてみたんだけど、そのテーマだと範囲が広すぎて上手くまとめられなくて」
ふむ、と玖郎くんが頷きました。
瞳には結構真剣な光が宿っています。
そういえば、以前はちょっとした頼み事でも報酬だ代償だと言っていた玖郎くんですが、最近はあまり聞きませんね。
「確かにA県では範囲が広すぎるので、B市に絞った方が良いですね。常盤さんの興味を考えると、明治時代以降のライフラインの発達を中心に、上下水道、電気、余裕があれば通信。それから、輸送と都市計画。それぞれについて、年表にまとめて、発展の順序や、関連性を考察してみてはどうでしょう。事実の確認だけなら、インターネットで市政の歴史が公開されていますし、図書館に郷土史をまとめた文献があります。僕の個人的な推薦でよければ、二・三冊資料を紹介できますよ?」
スラスラと玖郎くんが答えました。
「えっと、B市に絞って……水道、電気と?」
一方、肝心の常盤さんがついて来ていません。
「後日、時間をとってきちんとレクチャしますよ。ご要望があればですが」
「うん、ぜひお願いするよ」
中学生の自由課題についてレクチャできる小学五年生。うーん、さすがは玖郎くんです。
「小泉くん、本当に頭良いんだね。珊瑚も自由研究のテーマ悩んでいたよね。相談してみれば良いんじゃない?」
「ん? ああ、そうだな。えーと、小泉」
後ろの方から、茜と珊瑚くんの会話が聞こえます。
なんだか、即席の『玖郎くん夏休みの課題相談コーナー』になってしまっています。
「聞こえていますよ。珊瑚先輩は、好きなジャンルや気になるテーマがありますか?」
「そうだな。俺も、せっかくだから椎名町とかB市について調べたいな」
珊瑚くんのその言葉を受けて――。
「俺は、小学生の頃、椎名の化け狐退治の話を調べたぞ?」
先に口を開いたのは翔さんでした。
「椎名の化け狐ですか。悪くはありませんが、昔話――民間伝承ですからね。確度の高い研究をした文献もありませんし、民俗学のレベルまで掘り下げないと調べるだけになってしまいます」
「うっ。相変わらず小泉少年は厳しいな。確かに、俺の自由研究も調べるだけだったけど。それでも、結構立派な出来映えだったんだぞ……」
自信満々で話し始めた翔さんは、何やら次第にぶつぶつと勢いを失ってしまいました。
「きちんと資料が残っていて、小学校六年生の自由研究向き、さらには椎名関連とすると――江戸時代の椎名の乱でしょう。鎖国時代の信仰の意義を考察して、島原の乱と比較しながら分析すれば、面白いものになりますよ」
「おお、なんだかすごいな。俺にもできるかどうか、調べてみる」
感心する珊瑚くん。
「向日葵はね!」
次は私の番だとばかりに、向日葵ちゃんが元気一杯に発言しました。
「自由研究は絵を描きます。椎名町の周りの綺麗な景色を、連作にします」
一番年下の向日葵ちゃんが、しっかりと課題を決めていたようです。バスの中に、おお、と感心の声が上がります。
「ちなみに、特別講師は翔ちゃんです」
「そうか。なかなか興味深いな。完成したら、僕にも見せてくれ」
「もちろんだよ!」
見せてほしい、と玖郎くんは自然に言いました。
それが、あまりにも普通で、私は不思議な感情で胸が一杯になりました。
なんというか、こういう話題の中に、玖郎くんがいること自体が、とっても特別なことのように思えてしまったのです。
「――お嬢様」
運転席から、滝沢さんが一言声をかけました。
「はい。みなさん、そろそろ到着しますわ」
綾乃さんの言葉に、窓の外へと視線をやると、すぐそこに海岸が見えます。彼方には、ずっと続く水平線が見えます。
……これが、海。
「さあ、到着ですわ。みなさん、忘れ物のないよう降りてくださいね」
私たちを載せたマイクロバスは、素敵な白い壁の建物の前に停まりました。
ここが綾乃さんの別荘ですね。
順にバスを降りると、暑い日差しと同時に、不思議な香りがを感じました。
これが、噂に聞く潮の香りというものですね。
そして、波が海岸に打ち寄せる音。何度も押しては返す白波。
わぁ。
本当に、海です――。
「瑠璃」
すっかり海に心を奪われていた私は、玖郎くんの声に我に返りました。
玖郎くんの手招きに連れられて、みんなから少し離れた場所に歩いて行きます。
「さっき保留にした、珊瑚を海にさそった理由だが――」
あ。
その話、すっかり忘れていました。
玖郎くんが女の子の――特に、年上のお姉さん達の水着姿について、熱弁を振るったという情報は、なんだかとっても重要な気がするのです。
玖郎くんが、天才少年であるだけでは飽き足らず、水着大好き少年だった場合は――場合は、どうするんでしょう?
私はどうすれば、というより、何かする必要が?
あれ、おかしいですね。
なんだか混乱して――。
「瑠璃も気づいている通り、僕の狙いは〈試練〉だ」
「――」
――え?
〈試練〉って、王位継承試験の〈試練〉ですか?
ちょっと待ってくださいね、全然理解が――。
「複数の〈魔法少女〉が居合わせれば、ジャッジメントが〈試練〉を設定する可能性が高い。夏に入ってから、その傾向が非常に高くなっている」
「ええと、言われてみれば、そうかもしれません」
私は、最近の〈試練〉を思い起こします。
ええ、確かにその通りなのです。
「場所と時間を指定して〈試練〉までに集合させる形式は、春先に数件あっただけだ。競争型式の〈試練〉は、ほとんど例外なく、たまたま一緒になったタイミングで始まっている」
つまり――。
「つまり、珊瑚を誘い、意図的に〈魔法少女〉と〈騎士〉を全員集合させたのは、ここで〈試練〉をするためだ」
「ここで、ですか」
玖郎くんが、いつもの悪い笑顔を浮かべました。
「そう。ここは海だ。瑠璃が操る『水』が、無尽蔵にある場所だ」
確かに。
ここが〈試練〉の舞台だとすれば、私は補給を一切考えずに魔法を使うことができます。
「加えて、先日の『雪の宝石』の一件で、〈試練〉こちらからを提案できることも把握した。またとないチャンスだから、茜も常盤も向日葵も、みんなまとめて叩きのめすぞ」
そ、そんな恐ろしいことを考えていたのですか。
さすがは玖郎くんです。
そして、海だ海水浴だと浮かれていた自分が恥ずかしいです。
この瞬間も――あらゆる場所、あらゆる時間を、勝利のために使うべきです。
気を緩めている暇など、一瞬足りともありません。
気を引き締めなくては。
「どうだ。楽しい一日になりそうだろ?」
玖郎くんのその一言に。
私は、力を込めて頷いたのでした。