(1-02)序章 2番目の魔法少女(2)
『――よし、キャンプ場に到着した』
それは男の子の声でした。
こんな状況でも冷静で落ち着いた、無感情にすら感じてしまうような声色です。
その声が聞こえた瞬間に、私の緊張がすっ、と軽くなりました。もしかしたら、彼はそれを狙って冷静でいてくれるのかもしれません。
そう、無感情という第一印象は間違いです。隠しきれずにイヤホンから伝わる、彼の荒い息遣い。息を切らせたその様子からも分かります――彼は、決して無感情などではなく、必死の疾走の後にその場に走り着いたのです。
「小屋はまだ燃えています。だんだん火の勢いが強くなっています」
私はイヤホンに向かってそう伝えました。
私が高い木の枝に立っているのは、意味のない行動ではありません。そこから周囲の状況を把握して、変化があればスマートフォンを使って彼に報告するためでした。
そして、ちょうどそのタイミングで状況が変化したようです。
「あ。――今、男の子が三人、小屋の前まで走って来ました。何か叫んだり、慌てたりしてるようです」
離れた場所にいる彼に伝わるように、言葉で状況を説明する必要があります。意識して、少しでも多くの情報を彼に伝えるように喋ります。
「小屋の周りを確認しています。中に入れないか様子を見ているみたいです。大切な物でも置いてあったのかもしれません。早く火を消さないと。彼らを助けないと」
私の胸の中に、それまでとは別の種類の焦りが浮かびました。
このままでは、彼らは無理に炎へと飛び込んでしまうかもしれません。
『キャンプ場の入り口に子ども用の自転車が三台停めてある。彼らの物で間違いないな。その小屋は、彼らの秘密基地といったところか』
イヤホンの向こうで、声が応えました。
『キャンプ場はシーズンオフで人はいない。もう夜だから煙は目立たない。春といってもまだ寒いから、空を見上げている人も少ないだろう。もし発見されたとしても、こんな場所だ、通報から消防車の到着までに相当時間がかかる。――僕達がここで『魔法の特訓』をしていなかったら一体どうなってたことか』
彼の声は、冷静な口調を崩しません。落ち着いた様子のまま、それでも彼は必死で走っています。イヤホンから伝わってくる、彼の荒い息と、必死に地面を蹴る音からそれがわかります。
『どこかに調理場があるはずだ。そこなら、水道があるはず』
彼の声が、まだ少しの待ち時間を要することを伝えてきます。
それに釣られるように、私の中で不安と焦燥が大きくなります。
「では、やはり私が――」
『だめだ。落ち着け、瑠璃。瑠璃は〈魔法少女〉だろ?』
私の声を、電波の向こうの声が遮りました。
『〈女王候補〉なら、目の前の状況だけに流されるな。もっと全体を見て、大局的に考えて、目的を見失わずに判断しろ』
「しかし――」
言い募る私の声を再度遮って、彼が続けます。
『すぐに動きたい――彼らを助けたい気持ちは分かる。だが、瑠璃は〈生成〉が苦手だ。瑠璃の魔力を全部かき集めても、コップ一杯の水を作るのが精一杯だ。それでは火は消せない。それは、悔しくても事実として認める必要がある』
「……はい」
イヤホンから聞こえる声に、私は応えて頷きました。
『僕が大量の水を用意して、瑠璃の得意な〈操作〉で水を移動させ、火を消し止めるのが最善だ。必ず水を用意する――信じて待て』
「……分かりました。玖郎くんを信じます。待っています」
もう一度頷いて、私はそう言いました。
イヤホンの向こうで、それを聞いた彼――玖郎くんがふっと笑った気がしました。
『暇なら〈開門〉で変身しておくと良い。状況によっては、彼らの目の前に出て行くかもしれない』
「変身なら終わっています。もう、とっくの昔に〈魔法少女〉の衣装になっています」
私の答えに、今度は玖郎くんが頷いたようでした。
『そうか。じゃあ、残ってるのは水だけだな――っ!』
その声に合わせて、ガン! と大きな音がイヤホンの向こうで響きました。
びっくりしてしまって、私は声を上げて身をすくめてしまいました。
【玖郎】
ガン! と大きい音こそ響いたが、水道管の表面に小さなキズが付いただけだった。
『きゃっ! い、今の音は何ですか?』
「問題ない」
僕は、イヤホンを通して聞こえる少女――瑠璃の声にそう返事をした。全力で走ったせいで荒くなった息を整えている暇もない。
そこは、キャンプ場に設けられた屋外の調理コーナー。
調理台には蛇口がいくつも並んでいるが、どれだけ捻っても水滴一つ落ちなかった。無理もない、キャンプ場はシーズンオフだ。水道が元で閉められているのだ。
僕は、夜闇に目をこらしながら水道管をたどる。すぐに、水道管に直接取り付けられた元栓を見つける。しかし、駄目だ。これは専用の工具がなければ開けることができない形状のものだ。
それでも――と、淡い期待とともに振り下ろした石は、大きい音こそ響かせたものの、やはり金属製の水道管に弾かれただけ、という訳だった。予想通りの結果に、手にした拳大の石を放り捨てる。
やっぱり、僕の――小学五年生の力では無理か。
思考を切り替えて、辺りを素早く見回す。
朝は洗面台としても使用するのだろう、調理台に取り付けられている鏡に、僕自身の姿が映った。
膝丈のズボンとシンプルなシャツの上に、明らかにサイズの合っていない大人物のウィンドブレーカーを身に着けている。その色は、ほとんど黒にみえるような濃紺だ。
瑠璃とは違って、髪の色も瞳の色も日本人らしい黒色だ。表情だけは不相応に落ち着いてはいるが――サイズの合わない濃紺の上着を除けば――どこにでもいる普通の小学生に見えた。
その内ポケットから、スマートフォンに接続されたマイク付イヤホンが左耳まで伸びている。
そこから聞こえた、瑠璃の言葉が脳裏をよぎる――『玖郎くんを信じます。待っています』。
信頼を裏切りたくない。
彼女の――瑠璃の期待に応えたい。
そんな気持ちが熱となって、胸の辺りから送り出されて全身をめぐる気がした。そして、その熱に反比例するように、思考を冷たく鋭く研ぎ澄ます。
僕には小学五年生の子どもの力しかない。それを、大きく作用させるには……。
まず思いつくのは、てこの原理。必要なのは、長い棒と動かない支点だ。
しかし、そう都合よく鉄パイプや鉄骨などは落ちていないようだった。常識的に考えても、キャンプ場にそのような物は不要だろう。たとえ常備されているとしても、保管場所は鍵のかかった倉庫の奥深くだろう。
ん? あれは――?
僕の目が、調理スペースの隣にある管理棟で止まる。正確には、その建物の壁だ。不用品を仮置きしたまま忘れられたのか、雑多な物品が立てかけられたまま放置されている。
そこまで急いで走り、置かれた物を手早く確認する。
やはり、ここにもてこに使えそうな棒などはない。
それでも。
割れたガラスビン。ビニールシート。作業用のロープ。大量の砂袋。それに、空のドラム缶。あとは――調理スペースの向こうが、下の駐車場まで崖になっていたはず。
僕の脳内で、目的達成への道が瞬間的に組み立てられる。そして、弾き出された答えが、自信に満ちあふれた言葉となる。
「条件は整った。あとは思考通りに実行するだけだ」
【瑠璃】
『条件は整った。あとは思考通りに実行するだけだ』
待ち望んだ声がイヤホンから聞こえました。
その玖郎くんの声を聞き、私は改めて気を引き締めました。
これから使う魔法に、意識を集中させます。
魔法に必要なものは、強いイメージです。
手足を動かす時とは違って、強く、正確なイメージが必要です。イメージの強さが、そのまま魔法の強度になるのです。イメージの正確さが、魔法によって物理法則を捻じ曲げ、現実世界に実現させる現象の精度となるのです。
〈生成〉ならば、物質が――私の場合なら『水』が――湧き出るイメージ。
〈操作〉ならば、その物質が意のままに動くイメージ。
〈開門〉ならば、物質を通して別の場所に繋がるイメージ。
そう、イメージが必要なのです。
私にとって魔法とは、物心ついた頃から操ってきた力です。私がこの世界で頼ることのできる唯一の――私自身が持つ力。
私にとって魔法とは、ともすれば無意識で操れるほど馴染んだ力です。でも、だからこそ、ここ一番の場面では、意識してイメージを高めます。
それは、戦いの前の儀式に似ているかもしれません。
高めるのは、戦いへと向かう決意。
そして、未来に向けた祈りに似ているかもしれません。
確かめるのは、未来を掴むための意志。
ええ。――大丈夫です。
これから使う魔法は、私が最も得意な〈操作〉です。失敗はしません。大丈夫です。できます。やってみせます。
自分に言い聞かせて、信じます。
この想いすら、魔法の力に変えるのです。
玖郎くんがこれから用意してくれる水を、あそこで燃えている小屋――少年達の秘密基地まで運び、消火するのです。
彼らを、助けるのです。
『瑠璃、消火に必要なイメージを予習するぞ。ただ水をかけるだけではダメだ。雨のイメージも、バケツのイメージも、火を消すためにはムダが多い』
「はい」
水を操り、秘密基地の炎を消火し、少年達を助けるためには――。
玖郎くんと出会って間もない頃、彼からもらったアドバイスを思い出します。
目的を見失ってはいけない。その目的を達成するために、一番良い方法を考えろ。思考を止めず、考えることが重要だ。
『そもそも、燃えるということは、物質が発光と発熱を伴って酸素と結合することだ。そのために必要なものは、物質と温度と酸素』
そうです。
消火のためには、この物質と温度と酸素をどうにかすれば良いはずです。
物質を取り除く――そのためには、水を高速で衝突させて、秘密基地自体を吹き飛ばせば良いはずです。しかし、この方法では少年達を幸せにはできません。彼らの大切な何かが、秘密基地の中に残っているのですから。
温度を下げる――そのためには、ただ水をかければ良いですね。水の温度上昇と蒸発に熱が奪われるので、自然に温度が下がるはずです。この方法なら、可能な限り秘密基地を残して消火できます。でも、ここで思考を止めてはだめです。
酸素を遮断する――そのためには、水を隙間なく張り巡らせます。燃焼に必要な新しい酸素が供給されないように、空気ごと閉じ込めるように密閉するのです。
ええ。この形が一番ですね。
「温度降下と酸素遮断のために、水を球形の膜状に展開して、押し付けるように、押し包むように〈操作〉します。どうですか?」
『悪くない。できるか?』
玖郎くんの声に、私は強く頷きます。
「いつでも、行けます」
それは偶然にも、玖郎くんが準備に要した時間と同じでした。
『ナイスタイミングだ。こっちも準備完了だ』
イヤホンの向こうから彼の頼もしい声が返ってきました。その声は、何やら肉体労働でもしたのか、キャンプ場に到着した時よりさらに息が上がっていました。
『まずは、空のドラム缶に砂を満タンに詰める。最初から砂袋に入っているから、ガラスの破片で袋を切るだけで良い。簡単だ――』
玖郎くんの得意気な声が、イヤホンの向こうから聞こえてきます。
その声を心地よく聞きながら、私は魔法のためにイメージを高めます。
『――次だ。ドラム缶に、ビニールシートとロープで蓋を作る。強度に若干の不満はあるが、少しの距離を運ぶ間だけ保てば良い。これを崖まで運ぶ。箱の形なら到底無理だが、ドラム缶の形は円柱だ。倒して転がせば小学生でも運べる――』
玖郎くんの言葉は続いています。
それを聞きながら魔法のためのイメージ――強さと正確さを意識して、イメージを創り上げます。
『――崖のギリギリまで運んだら、次はドラム缶にしっかりロープを結びつける。ロープの長さは、崖の高さと同じくらいだ。多少短くても良いけど、長いのはダメだ。そして、ロープの反対側は、しっかりと水道管の元栓へと結びつける――』
玖郎くんの言葉は、いよいよ調子を上げながら続いています。
イメージ――まずは、玖郎くんが用意する水を一滴残らず受け止めるのです。
『――最後に、ドラム缶をここから蹴り落とせば完了だ。ドラム缶は、地球の重力に引かれて自由落下で加速される。そして、地面に到達する寸前に、ピンと張り詰めたロープを通して、その運動エネルギーを全部、水道管の元栓に叩きつける。その衝撃の大きさは、速度の二乗と質量に比例する――』
玖郎くんの言葉は、クライマックスです。
私は思わず笑顔を浮かべてしまいます。
そして、その瞬間を待ちます。
私の準備はできています。
いつでも、行けます――。
『――一般的な水道圧は、約0.5メガパスカル。キャンプ場は街から離れているから、途中で圧力を上げているはず。そう、水道管にわずかでも亀裂が入れば、間違いなく――』
イヤホンを通じて、ガン、と何かを蹴飛ばす音が聞こえました。――玖郎くんが、ロープで水道管に結びつけた砂が一杯の缶を、崖の下へ向けて蹴り落した音です。
瞬間の間。
『――水が吹き出す。瑠璃っ!』
玖郎くんの声。
そして、ぶしっ、と水が吹き出す音が同時でした。
私は、彼のすぐ近くで大量の水が――待ち望んだ水があふれ出すのを感じました。
「はいっ!」
私は、声を上げて魔法を発動させます。
「〈操作〉っ――!」