(1-11)第二章 悪い魔女(1)
【瑠璃】
「今、瑠璃が一人暮らしだ、と言ったか?」
唐突に、玖郎くんが、朝美ちゃんと私の会話に割り込んできました。
フーセンクラゲ捕獲の〈試練〉の翌日のことです。
昨日の帰り道ではどこかぼーっとしていた朝美ちゃんは、今日は完全に復活して元気一杯でした。
お昼休みもほとんど終わり、他のクラスメート達も自分の席に着き始めています。それでも、前後の席に座っている私と朝美ちゃんは、授業開始のギリギリまでお喋りを続けられます。
その時の話題は、小学校五年生らしくはないものですが、近所のお得なスーパーのタイムセールについてでした。それが、通りかかった玖郎くんに聞こえたみたいです。
そうして、最初の一言になったのでした。
「わ。――ええ、そうです。私、一人暮らしをしているんですよ。留学生ですから」
目を白黒させながらも、私はそう応えました。
一人暮らしの件については、王位継承試験に参加している〈女王候補〉は、歴代そうするのが習わしです。もちろん、時々は例外もありますが。
炊事洗濯から始まり、学校に遅刻しないように一人で起きたり、ちゃんと体調を管理したり、そういう一人前が女王には求められている、ということでしょう。
「そうか。とすると、その問題にも対処すべきだな。――ん。その方が話をスムーズに持って行くことができるか。いや、重要なのはやはり報酬か――」
何事かぶつぶつ呟きながら、玖郎くんは考え込んでしまいました。
「そう言えば。昨日言っていた瑠璃ちゃんの頼みごとって、小泉に聞いてもらえたの?」
話題が中断されたことも気にせず、朝美ちゃんがそう聞いて来ました。
「うん。助けてくれるって。朝美ちゃんの言うとおり、玖郎くんってとっても頼りになるんだよ」
「ふーん……。『瑠璃』に『玖郎くん』、ね」
微妙な表情で、朝美ちゃんがこっちを見ています。なんだか、半分閉じた目でじーっと見詰めてきて――ちょっと怖いです。
「な、何ですか?」
そこで、ふむ、と玖郎くんが頷いた。
「委員長、呼び方が気になるなら対処できるぞ」
自分の考えごとが終わったのか、玖郎君が朝美ちゃんにそう言いました。
「や、あたしは別に気になるとは一言も。二人がどう呼び合っていようと私には関係な――」
「委員長も僕のことは『玖郎』と呼べば良い。要望があれば、僕も『朝美』と呼び捨てにする」
「え、対処って――わ、私の方?」
そう言った後、なぜか少しの間を開けてから、朝美ちゃんが続けました。
「……ちょ、ちょっと試してみて良い? えーと、ごほんごほん。その、玖郎、くん」
「なんだ? 朝美。何か用か?」
玖郎くんが、顔色一つ変えずに『試し』の返事をしました。
朝美ちゃんはというと、無言で両頬を抑え、俯いてしまいました。
少しの時間の後。
「やっぱり、私のことは今まで通り『委員長』で良いから。こっちは――まあ、適当に呼ぶからよろしく。瑠璃ちゃん、ちょっとごめんね」
俯いたまま早口でそう言うと、それから朝美ちゃんは席を立って、廊下へと出て行ってしまいました。もうすぐ授業が始まるのですが。
お手洗いかな? と思うようなところですが、急ぎその場を離れる彼女の頬が視界に入ってしまいました。その色は、耳まで――。それに、今の反応は――。
「何だ? 委員長、どうかしたのか?」
「……私、分かってしまいました……」
疑問の表情で眉を寄せて見せる玖郎くんに。
「でも秘密です。ごめんなさい」
私はそう言いました。
「ん? いや、そんなことより――」
玖郎くんは気を取り直して私に向き直りました。
「今日の授業が終わった後だが、時間はあるか?」
もちろん、予定はありません。昨日のように突発的に〈試練〉でも始まらない限り、基本的には〈仕事〉を探すくらいしかやることはありません。
私は、頷いて見せました。
「よし。一緒に来てほしい場所がある。今後の活動のための基盤作りだ」
玖郎くんは『今後の活動』と言いましたが、それは王位継承試験のことでしょう。それなら、なおさら断る理由はありません。
私はもう一度頷きました。
あ、それでも、一緒に行くのは構いませんが。
「どこに行くのですか?」
玖郎君は、意味深長な沈黙を間にはさんで、答えた。
「――『悪い魔女』のところだ」
「ただいま。母さん、仕事中?」
その日の授業が終わった後で案内されたのは、なんと、玖郎くんのお家でした。
「あの、お邪魔します」
私も、声を大きくして挨拶します。
玖郎くんのお家は、住宅地に建つ可愛らしい一軒家でした。壁のクリーム色が、両隣に建つ黒や茶色の一軒家よりも、明るい印象にしていました。駐車スペースも、玄関扉の前にある門も、綺麗に掃除してありました。私が立つ玄関も、突然の来客に関わらず、きちんと片づけられています。
とても、『悪い魔女のところ』とは思えないお家でした。
「あら珍しい、お客さんね。あと五分でケリをつけるから、手を洗ってきなさい」
リビングらしい扉の奥から、女の人の声が聞こえました。
もしかしなくても、玖郎くんのお母さんですね。
わあ、なんだか別の意味で緊張してしまいそうです。玖郎くんはどうして今日、ここへ連れて来たのでしょうか?
「手を洗ってきなさい、か。まったくあの人は……」
玖郎君は、なぜか面白くなさそうにつぶやいた。
そうは言いつつも、お母さんの言葉通りに洗面所に向かいました。私達は、掃除の行き届いた洗面所で、きちんと手洗いとうがいを済ませて、それからリビングへと入りました。
そこには、さっきの声の主でしょう――ゆるくウェーブをかけたロングヘアの女の人がいました。
こちらに背中を向けているから、表情や顔立ちは分かりません。というのも、その人は、リビングの壁際の机に置かれたパソコンに向かっていたのです。なぜかキーボードとディスプレイが二つずつあって、おまけにその脇でノートパソコンも使用中です。
「いらっしゃい。ごめんなさいね。あと一分と十秒待って」
そう言いながらも、両手の指を動かしてキーボードを叩いています。驚くようなすごいスピードです。まさに目にも止まらぬ速さです。それなのに、キーを打つ音がほとんどありません。
パソコンを使う人は、背中が丸まって姿勢が悪いようなイメージがありますが、体を包み込むような椅子にしっかりと全身を預けて、背筋がピンと伸びでいます。
「……」
何をしているんだろう。玖郎くんが、仕事中なのかと声をかけていたから、株の取引きとかでしょうか。
と、そんなことを思っていますと。
「はい、おしまい」
その声と同時に、最後のエンターキーを叩く音が響きました。
それから、その人は大きく背伸びをして、パソコンデスクから立ち上がりました。
そして、私を見ます。
わ、玖郎くんに顔立ちが似ています。優しく微笑む玖郎くんのお母さんは、可愛い人というよりは、ええ、綺麗な人という印象でした。
あ、そうです。挨拶――。
「こんにちは。玖郎くんの――クラスメートの、清水・セルリアン・瑠璃です。お邪魔しています」
頭を下げると、玖郎くんのお母さんはにこっと笑顔を見せてくれました。
「こんにちは、瑠璃ちゃん。私が玖郎の母親よ。『おばさん』って呼ぶのは禁止、『琴子さん』って呼んでね」
玖郎くんのお母さん――小泉琴子さんはそう言いました。
「ちょっと待ってね。今、お茶を淹れるわ」
そう言って、ダイニングと対面になっているキッチンへ向かいました。
その隙に、私は玖郎くんに小声で言います。
「玖郎くんが悪い魔女のところなんて言うから、とってもドキドキしてしまいました。お母さんに会わせてくれるつもりだったのですか? 素敵なお母さんですね」
「……悪い魔女で十分だ。まったく。いつまでたっても僕を子ども扱いする……」
玖郎君は、憮然とそう言いました。
あ、『手を洗ってきなさい』の話ですね。私はピンと直感しました。
玖郎くんの、その表情と仕草がとっても意外で――ちょっと可愛いです。
「それに、間違いなくあの人は『悪い魔女』だ。さっきまで使っていた、あのパソコンの画面、ちゃんと見えなかったのか?」
その言葉に目をやると、全部で三画面あるパソコンのディスプレイは、それぞれデフォルメされた動物が動くスクリーンセイバーを映していました。今となっては、琴子さんが何をやっていたかはわかりません。
「僕もぱっと見ただけだから正確には言えないが、おそらく、南アフリカ系のどこかの国のデータベースだ。国防上の機密情報だろう。あの人は、時々インターネットを介してセキュリティ破って不正にアクセスして、勝手に色々な情報を手に入れたりしてるんだ。何の痕跡も、足跡も残さずに。つまり、ほとんどクラッカー寄りのハッカーなんだけど……」
地平世界ではパソコン関係の技術はあまり発展していません。無理もない話で、地平世界にはインターネットが存在しないのです。パソコンの用途も、非常に偏ったものになってしまっているのです。
もちろん、お城には最新型の実物がありましたし、見たことも使ったこともありますが、深く理解はできてはいません。という訳で、玖郎くんの言葉は、良くわかりませんでした。
私の頭上にクエッションマークでも浮かんでいるのが見えたのでしょう、玖郎くんの説明は次第に勢いをなくして行きました。
「ま、分からないなら良いか」
やがて、諦めてしまったようです。うう、なんだかちょっと申し訳ないです。
「どうぞー。こっちに来てね」
琴子さんの声に呼ばれて、私達はダイニングテーブルに着きました。琴子さんの正面に二人で並ぶ席順です。
「母さん、改めて紹介する。こちらは清水・セルリアン・瑠璃。先日、五年一組に転校してきたんだ」
実際は、私が転校してきたのは昨日です。
それを玖郎くんが『先日』と言ったのは、昨日の今日で家にまで連れて来る、という不自然な状況を説明しないようにするためでしょう。
「瑠璃は、実は一人暮らしをしているんだ」
「え? 一人暮らし? 小学五年生で?」
琴子さんが驚いた顔をして、私の顔を見ました。
「はい。あの、私、留学生なので」
昨日、玖郎くんに『フラッタース王国』は怪しすぎると言われていたので、そこを省略して応えます。
琴子さんは頷く。ミドルネームのある名前に対する納得だと思います。
「僕も今日ようやく知った。それにしても、小学五年生で完全に自炊というのは厳しいと思う。瑠璃とはクラスで席が近いし、仲良くなった。――つまり、助けてあげたいと思っている」
びっくりするくらい真剣な顔で、玖郎くんはそう言いました。
「なるほどね」
琴子さんが、大きく頷きました。
「玖郎が学校の友達を連れて来るなんて、今までなかったもんね。つまり、私の助けが必要だ、ってことで良いかしら?」
え?




