(1-10)第一章 天才少年(7)
【瑠璃】
私が、空を飛んでいます。
これまでどれだけ努力しても、必死に魔力を集中させても、動かずにただ宙に浮かぶことすらできなかった、そんな私が。浮かぶだけでなく――空を、風を切って飛んでいます。
こんな〈操作〉の使い方、想像もしませんでした。
足の下の水球で、自分の体を空中に支える――それは、全然難しいことではありませんでした。今は、少し工夫して、水を球の形から私の靴底と同じ形へと変形させていました。これならもっと簡単にバランスが取れます。その上、イメージしやすいので、魔力もほとんど消耗しません。
それでも、そんな工夫ができるのは、最初の発想を玖郎くんからもらったからです。
やっぱり玖郎くんはすごいです。
私を、空に連れてきてくれました。
彼となら――。
叩きつけてくる風に、目を細めます。負けないように、気持ちを引き締めます。
すぐ目前に、フーセンクラゲと朝美ちゃんが見えました。 朝美ちゃんは気絶したままなのでしょう、ぐったりと力が抜けてしまっています。
待っていて下さい。今、助けますから――。
「あっ!」
フーセンクラゲが、こちらに気付いたのでしょう。
急いで高度をとろうと――私から遠ざかろうと、丸い風船に見える頭の傘を動かして、ふわりふわりとさらに高く昇って行きます。
「待って下さい! 朝美ちゃんを返して下さい!」
魔法に集中して、私もさらに加速します。
あと少しです。
もうすぐ、フーセンクラゲの触手に、手が届きます。
――触手。
そうです、最初に私に攻撃してきたのは、ムチのようにしなる、その触手でした。
その予感とも呼べるようなイメージが、私を反射的に動かしてくれました。
一瞬前までただ脱力して垂れ下がっていただけの触手が、一斉に意思を取り戻したかのように伸びて、私につかみかかって来ました。
それを、かろうじて全て避けることができました。
「――っ!」
空振りを気にする様子もなく、次々と襲い掛かってくる触手。
それを、私は次々と避けます。
動けます。
これなら、行けます。
ぬるりとした動きの触手なんかに、捕まったりしません。
この飛行方法なら、足の下から魔力で加速しているから、両足の向きと〈操作〉の強さを調節することで、色々な方向に瞬時に方向転換できます。
背中やお尻を支える方法では、こうは行きません。魔法使いに対して誰もがイメージするように、箒に座って、その箒の毛先から推進力を出して空を飛んでいたのなら、こんなことはできませんでした。
もしかして玖郎くんは、ここまで考えていたのでしょうか。
本当にすごいです、玖郎くん。
全ての触手を回避すると――視界が開けました。
フーセンクラゲの上に出たのです。
「このっ――!」
私自身の速度を回転力に変えて、私は縦方向に一回転すると――右足の踵を、フーセンクラゲの頭の頂点へと叩き込みました。
ぐにゅ、と変な手ごたえが返ってきます。
あ。
これって。
私は、思わず緊張が緩むのを感じました。
これなら、フーセンクラゲを捕まえられます。はじめての〈試練〉の課題を、無事にクリアできるかもしれません。
だから――。
私の死角――フーセンクラゲの傘が邪魔で見えない位置で、朝美ちゃんが落下を始めたことに気付きませんでした。私の踵落としで、フーセンクラゲが触手に持った彼女を手放したことに、気付かなかったのです。
そして、その瞬間が――。
――十五分ちょうど、でした。
白い魔法の光が、空中に弾けました。
〈強制送還魔法〉。発動と同時に、ルール違反をしたフーセンクラゲを捕えて、有無を言わせずに地平世界へと送り還してしまいます。
「――っ!?」
そして。
私の目に映ったのは。
地球の重力に捕まり、落下を始めている朝美ちゃんの姿。
手を伸ばしても、到底届かない――小さく見える程に、遠い、その姿。
悲鳴を出す暇もありませんでした。
私は、落ちて行く朝美ちゃんを追いかけて、下に向けて加速します。
『目的を見失うな』
玖郎くんの言葉が脳裏に浮かびました。
ごめんなさい。
二度と、二度と、目的を見失いませんから――。
――だから、今回だけは許して下さい。朝美ちゃんを、助けさせて下さい。
追いつきません。
追いつけません。
地面が目前に迫ります。
ああ、どうしたら――。
『思考することを止めるな。考えて、考えて、考え続けろ。目的を達成するために、自分の残った魔力で何をするべきなのか、常に考えるんだ』
玖郎くんの言葉が浮かびました。
そうです。
考えを止めてはダメです。
まずは――そうです、空気の抵抗。
私は、伸ばした両手を体の側面に持ってきます。両足もそろえて、正面からぶつかる風の抵抗を少しでも減らすようにします。
そして、足の裏をまっすぐ天へと向けて、できるだけ真下へ向かうように進行方向を調節します。この方法なら、魔法による推力だけでなく、地球の重力も加速に利用できます。
同時に、集中力も増したのかもしれません、私はさらに加速するのを感じました。
届きます。
あと、少しです。
ああ――届きました。
朝美ちゃんの手を握り、そこから引き寄せて抱きしめます。
『思考することを止めるな』
そうです。
次は、止まらないといけません。このままでは、二人で地面に激突してしまいます。
今度は、真上に向けて〈操作〉を全開にします。
朝美ちゃんを抱きしめた両腕が、突然かかった荷重に悲鳴を上げます。私は、歯を食いしばって減速を試みますが――ダメです、地面に、ぶつかってしまう。
衝撃。
暗転。
朝美ちゃん、朝美ちゃんは無事ですか?
どのくらいの速さで地面にぶつかったのでしょうか?
私、女王になる前に、死んでしまったのでしょうか……?
「瑠璃! うまく行ったぞ、大成功だ!」
玖郎くんの声。
私は、そこでようやく目を開けました。
学校の校庭に着地していました。
それに――。
私の両腕の中に、朝美ちゃんがいます。相変わらず気を失ったままですが、無事に息をしています。
生きています……!
「って、わ!」
予想以上に、玖郎くんの瞳が近くにありました。私を、後ろから覗き込んでいたみたいです。
というより、この状況は。
私と朝美ちゃんの体が、玖郎くんを下敷きにするように、押しつぶしています。
「あ。もしかして、玖郎くんが受け止めてくれたのですか?」
もしかしなくても、そういう状況でした。
冷静になって見れば一目で分ります。
「ん? ああ」
何でもないというように、いつもと変わらない口調で玖郎くんが返事をします。
「瑠璃のおかげで、みんな無事だ。落下した委員長に追いついてすぐ、全力で減速を始めていただろ? それが良かったんだ。それに、クラゲに接近した時の機動も見事だった」
玖郎くんが褒めてくれました。その言葉に、私はようやく息をつきました。
良かったです。
「さすが瑠璃姫。〈試練〉の課題も、ギリギリじゃったが合格じゃ。友達も怪我一つないようじゃし、いや、無事に一件落着じゃな」
ジャッ爺の言葉に、私は泣きそうになるのを慌てて我慢する必要がありました。
あら?
なんだか玖郎くんが、ジャッ爺をにらんでいます。と思ったら、今度は笑顔? なんだか、ちょっと悪そうな笑いですが……なんでしょう。
いや、それよりも、玖郎くんの上からどかないと。
「ごめんなさい。それに、ありがとうございます。本当に、玖郎くんのおかげです」
立ち上がりながら口にした私の言葉に、玖郎君が頷いてくれます。
「瑠璃が頑張ったからだ」
「はい。ありがとうございます」
それから、私はジャッ爺にも頭を下げました。
「ジャッ爺もありがとうございました。本当は規則とかあるはずなのに、協力してくれましたね。本当にありがとう。ジャッ爺、大好きです」
「いや、なに……もごもご、まあ、お安い御用じゃよ」
照れているのか、もごもごと返事するジャッ爺。
なんだかその様子がおかしくて、笑ってしまいました。
ああ。
本当に。
本当に、よかった。
【玖郎】
「あれ? 私――え?」
僕の背中で、委員長が意識を取り戻したらしい。慌てた声と、動きが伝わってくる。
「待て、落ち着け。無理に動くな」
「私、空に――いや、そんな馬鹿な。って、小泉? 何で? え?」
僕の言葉も、全く効果がないようだ。委員長は、ますますじたばた暴れ出した。
瑠璃の魔法で何とか地上に帰って来た委員長は、気絶こそしていたものの、かすり傷一つない状態だった。呼吸、脈拍を確かめさせてもらったが、どちらも正常だった。
唯一、気になるとすれば――。
「委員長。重要なことだからちゃんと答えろ。手足に、動かない場所とか、妙な痺れはないか?」
「え? そんなのないよ? あの、小泉。とにかく降ろして」
それは良かった。
相手は、異世界の空飛ぶ〈精霊〉とはいえ、姿形はクラゲなのだ。触手に、正体不明の毒がないとも限らない。まあ、この様子なら大丈夫そうか。
僕は、ゆっくりと委員長を下した。
「大丈夫、朝美ちゃん?」
「瑠璃ちゃん。あれ? 私、どうしたんだっけ?」
混乱気味の委員長に、僕から言ってやる。
「委員長。瑠璃と帰る途中に、立ちくらみを起こしたんだ。倒れて、そのまま気絶した。彼女が僕を呼びに来たが、保健室はもう閉まっていた。仕方がないので、僕が家まで運ぶことにした。その途中だったんだ」
瑠璃に持ってもらっていた黒いランドセルを受け取り、僕はそれを背負う。
「そ、そうだったんだ」
委員長は、まだどこか落ち着かない様子だ。
ああ、ランドセルで、背負われていたことを連想させてしまったか。女子は、体重だのなんだの気にするから大変だ。
「瑠璃ちゃん。なんだか迷惑かけちゃったね」
「ううん。良いよ。私こそ、ごめんね」
瑠璃の返答に、委員長が笑う。
「なんで瑠璃ちゃんが謝るの。あと――」
委員長が、きちんと僕の方に向き直ると、頭を下げた。
「小泉もありがとう。ここからは自分で帰れるよ。本当にごめん、重かったよね?」
顔を上げた委員長は、少し頬を赤くしていて、やはり照れくさいのか上目使いでこちらの反応を伺っているようだった。
「いや、問題ない。それに困った時はお互い様だ。また立ちくらみを起こすようなら病院に行った方が良い」
最後にアドバイスを付け加えて言う。
「委員長、少し張り切って仕事をしすぎだ。転校生に学校を案内して回るのも良いが、自分の体調も気遣って、適当にしておけ」
そう言う僕を、なんだか形容し難い不思議な表情で、委員長が見返してくる。どことなく、顔を赤くして、ぼーっとしているように見える。
やはり触手に毒があったのだろうか。
「小泉、いつもと感じ違うね。なんか――ちょっと、優しい……かも」
「その言葉は逆に失礼だ。気絶するような状態の委員長に、背中を貸したり、言葉をかけることもしない、と。僕はそんな風に思われてるのか?」
そう言ってやる。
「あはは。思ってないよ。そうじゃなくて……。ま、とにかくありがとね。帰るから」
「私も。念のため、朝美ちゃんの家まで付いて行くからね」
瑠璃はそう言って、委員長を気遣っている。
「あ、そうだ。玖郎くん――」
少し離れてから、瑠璃がそう言って、駆け寄ってきた。
「今日は、本当にありがとうございました」
それから、小声になって続ける。
「――これからも助けてくれる、そう思って良いんですよね?」
「ああ。そのつもりだ」
僕は、その問いに頷いた。
瑠璃が微笑む。
それから、なぜか瑠璃は暗い表情を見せた。
やがて、彼女は口を開く。
「玖郎くんなら――二番目の私を、一番目に、女王にしてくれると、信じています」
その表情と声色に、とても深刻なものを感じて。
「瑠璃、それはどういう――」
「瑠璃ちゃーん。何か忘れ物ー?」
聞き返す僕の声と、委員長が呼びかける声が重なった。
その瞬間、瑠璃の表情は、いつもの笑顔に戻っていた。
「なんでもないよー」
駆けて行く瑠璃の背中と――夕焼けに染まる空の色が、やけに脳裏に焼き付いた。
夕日が、不吉に燃え盛る炎のように見えた。
その赤色が意味もなく禍々しく見える。
そんな気がした。




