船長の恋した精霊と精霊が愛したペン
始まりは金がなかったからだ。
二つの大国が精霊をめぐって争っていてくれたおかげで、成り立っていた海賊稼業が平和の到来とともに終焉に向かい始め、斜陽になるなか始めたのが伝記ともおとぎ話ともいえない文筆業だった。現実を知らない人間たちは海賊稼業を自由で気楽で冒険にあふれたものだと思っているらしく俺――ゼアン・セキタクスの書いた事実と嘘を混ぜた物語を喜んだ。
これには俺自身が驚かされた。
古の預言者が残した聖杖をめぐる海賊同士の争い。
忽然と姿を消した商船が数年後にいきなり幽霊船として姿を現し、その船の中で起きた不可思議な体験。
海賊に捕らわれた貴族のお嬢様を救い、共に貴族の先祖が隠したという秘宝を発見する冒険譚。
それらは驚くほどに売れた。
セキタクス海賊団と言いながらも黙々とまっとうな交易にいそしんでいた俺たちにとって本が売れることは金銭的以外にも良い効果があった。冒険譚を真実のように思った人々から英雄のようにもてはやされたり、人によっては後援したいと金が入るようになったからだ。
海賊業を行っていたときには部下たちに成果に応じて与えられた褒美も真っ当な交易をしている間はなかなか出すこともできなかったが、いまではそこそこの金額与えられるようになった。船というのは人々が思うよりも危険なものだ。海賊の危険性はもとより、巨大な海獣に襲われることもあれば、天気にだって左右される。船で病が流行ったときなどはもっと悲惨だ。だから、船員には金の心配くらいはさせないようにと思っている。金銭的に満たされていれば船員は面倒ごとを起こさないし、操船も不思議と安定する。
簡単に言えば俺自身の安全に金を払っているのである。
それが分からない船長の中には海の上で船員に見放され、小さな舟で海に捨てられたり、陸に上がってからすべての船員が逃げ去ったりした。この辺りを知っていると自由で気楽な海賊稼業など一言たりとも言えやしない。だが、物語の中でのセキタクス海賊団はどこまでもお気楽で魚の跳ねた方に舵を切るようなアホぞろいである。だが、それが読者の望む海賊像だ。
「御頭に文才があるとは船にいる間にはちぃっとも知りませんでしたが、御頭はわが社の黄金を生む鵞鳥ですなぁ」
そう言って胡散臭い顔をニヤニヤさせるのは、二十年前、海賊に憧れながら現実に打ちのめされ一年も持たずに陸に帰ったサルディンである。サルディンは活版印刷という新しい技術に目をつけていち早く出版社とそれを各地に卸す方法を考案して財産を蓄えた。海賊など早々に辞めてよかったと言える。
「御頭はやめろと言ってるだろ。今じゃお前さんが俺の雇い主だ」
「あたしは御頭のような作家の方のおかげで食っていけるのであって雇い主とは困りますな」
「そうかい。最近ではそちらの業界は盛況だというじゃないか」
大国同士の戦争は変化もたらした。一つは魔法使いの時代が終わったことだ。火薬は魔力を持たない者が持つ者を倒す術を生み出した。銃や大砲がそうだ。海賊はそういう技術の上で成り立っている。破壊力のある砲弾を打ち出し、遠距離から相手を狙撃する。二つは蒸気機関だ。陸ではすでに蒸気で動く汽車が物流を制しつつある。三つが活版印刷である。早く正確に大量に刷れる印刷技術は新聞社やサルディンのような出版社を生み出した。
「いいとこ半分、悪いところ半分ですよ。いまだに西の方じゃ教会が強くて発禁、禁書が我が物顔で幅を利かせてますし、精霊をダシに民衆を煽るところもあります。それが売れるあたりがご時世なのかもしれませんけどね」
精霊は万物に宿るとされる大いなる力だが、人を嫌い世に姿を現すことは稀だ。魔法使いが銃と砲で殺せるようになった現在でも精霊に人間は勝てない。教会のような古い組織では精霊を神のみ使いとして崇め、銃や砲、蒸気機関のような技術を悪魔の御業と批判することもある。
「俺としては本が売れりゃどっちでもいいがね。これが次の原稿だ」
机の上に紙束を叩きつけるとサルディンが気色を露わにして文章を目で追い始める。
「セキタクス海賊団の冒険。新大陸の黄金郷と虹色の悪魔。これはまた大ぼらですなぁ」
「その大ぼらが好きなんだろ?」
「まったくその通り」
サルディンはにやけた顔のまま頷くと懐から一片の紙を取り出して「これもそんな方ですな」と俺の手元に押し付けた。紙を開くと綿々とした細かい文字でセキタクス海賊団の冒険がどれだけ素晴らしい作品か。どれだけ面白いかを語り掛ける言葉が羅列されていた。
「これは?」
「読者からの作品への恋文と言ったものでしょうな」
「四十を超えたおじさんがこんなもので喜ぶかよ」
「とはいえ熱烈な読者がいるということは知っておいてよろしいでしょう」
「こんな現実と幻想の区別もつかない物語を好きだという奴はまともじゃないさ。じゃ、俺はそろそろ行くぞ。原稿料は入れといてくれよ」
サルディンは「分かっておりますとも」と答えて原稿を手に抱いて、部下らしい男に「新作だ。版を組め!」と叫んでいた。出版社を出てもう一度手紙に目を通す。目を見張るような綺麗な文章でもないのに素直に作品を褒めてくる言葉がなぜか気持ちよかった。
こういう手紙を貰ったことはある。だが、こんなにも心を動かされたのは初めてだった。差出人の名前を見ると『フィアセレス』という名前だけが書かれいる。返事を返す気はなかったのに少しだけ残念な気持ちになって俺は驚いた。
四十を超えて称賛に心が揺れ動くようではいよいよ歳だと思わざるを得ない。苦笑いを嚙みつぶしながら表向きの貿易会社に戻ると船員が「御頭、おかえりなさい。お客さんが来てますよ」と伝えてきた。
「誰だ?」
「いや、誰かは知りません。でも御頭に会うことにしたからって」
意味の分からないことを言って船員が首をかしげる。どうやら自分でもよく分かってないらしい。俺は先ほどまでの幸せな気持ちに反してがっかりした気持ちで応接室の扉を開いた。
まず目に入ったのは毒々しいまでの鮮やかな緑の服装。次に古臭い魔法使いが持ちそうな月を模した黄金の杖とその先端にはめ込まれた紫色の巨大な宝玉だった。最後に映ったのが少女の端正な顔だった。今どきの魔法使いはこんな格好をしない。
魔法使いのような少女は待つことにひどく飽きているかひどく冷淡な紫の瞳で俺を捉えた。
「あなたは?」
ひどく突き放した口調だった。侮蔑。傲慢。冷笑。そんな感情を混ぜ合わせた声だ。
「あんたが会いたいと言っていたセキタクス海賊団のゼアン・セキタクスだよ」
「あなたが――」
俺が名乗ると少女はまくし立てるように『セキタクス海賊団の冒険』がどれほど素晴らしいかについて半時ほど一方的に語り続けた。それは聞いているこちらが恥ずかしくなるほどの賛美の連続だった。最後に少女は言った。
「あなただけよ。こんな最高の物語を書けるのは」
熱っぽく語る彼女からは最初に感じた冷たい感情はまったく感じなかった。むしろ、自分の書いた物を好いてくれる人がいるのかとさえ感動した。自分がひどく特別な人間になったようで嬉しかった。
「……ありがとう。それで君は?」
「フィアセレス」
「じゃこれは君が」
預かった手紙を見せるとフィアセレスは頷いた。
「次の物語も楽しみにしているわ」
彼女は去っていった。俺は年甲斐もなく浮かれてその夜、俺は再び原稿を書いていた。本当ならあと数ヶ月は書く気もなかったし、船に乗りたかった。それにもかかわらず書いているというのは褒められたのが嬉しかったからだ。自分の半分も生きていない少女の言葉に浮かれているというのはどうしょうもない単純さだった。
俺が新作を書くとフィアセレスはいつもどこからかやってきて褒めてくれた。俺はそのたびに言い知れない高揚を感じた。いい女に言い寄られたり、深い関係になったときもここまでは熱されなかった。不思議なくらいに俺はフィアセレスに入れ込んでいた。
手を出すことさえないのに、彼女に褒められるたび。讃えられるたびに脳のどこかが蕩けていく。このままとけきることができればどれほど幸せだろうか。部下の一部は俺が執筆業にのめり込むことを批判的な奴もいた。海賊が陸で少女に入れ込んで文字ばかり書いている。自分でも焼きが回っていると思う。だが、やめられないのだ。
フィアセレスの声を聞くたびに。仕草を、瞳を、感じるたびに俺は物語を書くしかできなくなっていた。
物語の数が二十を超えたあたりだっただろうか。俺の筆はぴたりと止まった。当然だ。事実と空想を混ぜて話を作っていた俺はもう持ち合わせの事実をすべて書き切っていた。
書けない日が続いたときにフィアセレスがやって来た。
「もう、書けないんだ。俺の中にあった経験という事実がもうない」
素直に言うと彼女は古びた道具を愛でるような仕草で俺の頬に触れた。その柔らかな感触とは裏腹に冷たい体温に驚いた。
「枯渇しちゃったんだ。大丈夫。精霊である私は知っている。人間より多くの事実を」
その言葉と同時に多くの情報が俺の中に流れ込んでくる。意味など分からない。場景や知識。出来事。痛みに匂いに触覚。そんなものが乱雑に俺の中に入ってくる。それは不快であるのに彼女に触れられているという感触だけがやけに気持ちいい。視界が歪む。これは涙かもしれないし、脳が蕩けだしているのかもしれない。
言葉が口から出ている。それが何を意味しているのか理解ができない。押し込まれる知識に俺が圧迫される。つぶれる。それなのに気持ちいい。ああ、意味が分からない。
「あっ」
フィアセレスの手が離れる。俺というものの境界が分からない。分かるのは彼女が俺を見下ろしているということだけだった。
「良い物語を書くペンだったのに壊れちゃった」
彼女の表情は恋人の死を悼むような悲痛なものではない。気に入っていた服が汚れた。嫌だけど仕方ない。そんなものだった。