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元カノの紗季ちゃんに初めて出会ったのは2年ほど前だった。とはいえ、初めて話しかける数週間前から既に彼女の存在に漠然と気づいていた。純一郎は昔から電車の中で他人を見るのがいやだし、見られるのもいやだった。だが、やはり目というものがある限り見ずにはいられない時もあるだろう。なぜなら、純一郎はそれなりに人に興味を持っている。「この人はいくつだろう」とか「職業は何だろう」。しかも最も考えてしまうのは「なぜ、そもそもここにいるだろう」。考えたくなくても、うっかりと考えてしまう。人を分析するのが好きとも言えるかもしれない。でも、バレると気まずいので、もう一つの世界を窓口として見ている場合は多い。もう一つの世界というのはもちろん、深淵の闇に包まれ、違和感を微かに感じるほど掠れて歪んでいること以外、我々人間の日常世界のまっさらな反影であるもう一つの異世界のことだ。つまり、電車の窓に映った人の姿を見てしまう。
しかし、こういう手法を活かしても、相手が同じタイミングで窓を見てしまうとまだバレるケースがある。だからこそ、携帯や読書で夢中になっている相手が一番安全だ。2年前に地下鉄の暗い窓の中に映っていた隣に立つ若い女性の姿をチラッと見た時に、純一郎はまさにそう思っていた。純一郎がちょうど大学院に入学して通い始めた頃で、大体毎朝同じ電車に乗る人を見覚え始めていた。
明らかに疲れた中年のサラリーマン。瞳の中の、老化と無意味さの恐怖に毅然と立ち向かう微かな決意が、その目を囲んでいた濃い紫色の隈に裏切られていた。
この人生で残っている時間を楽しむために、周りにしっかりとどいてもらう、誰にも邪魔をさせないお婆さん。
そして、ほぼ毎日、隣や隣の隣に立っていて、『マリアビートル』や、『サピエンス全史』のような作品に夢中になっていた20代の女性。
最初は窓の中に、読書していることに気づいて、興味が微かに湧いてきた。何を読んでいるだろうとちょっと気になるが、今回カバーが付いているので見えないな。顔をチラッと見る。
ショートボブに割と整った薄めの顔。黒縁の、でかくて丸い眼鏡をかけていた。
(可愛い。や、別に、そんなことない。ってか、何を言ってるのお前?何も言っていないよ、考えてるよ。当たり前だろう?ってか何も考えてないし。本の方が気になる。あ、やばいバレちゃった。えええ、めっちゃこっち見てるじゃん!笑っている?ニコニコ笑っている、まずい。携帯、や、自分も小説持ってるだろう?早くそいつをだせ)
幸いなことに、彼はこれ以上気まずい思いをすることなく、電車を降りることができた。だが、すごく奇遇なことに、同じ日に、同じ女性に、その頃によく行っていたレトロ感のある本屋さんで、たまたま出会った。