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世界の果てまで

作者: 来生ナオ

「この世界の果てが見たい」


 彼女は唐突にそう言った。


「果てって? 北極とか南極のこと?」


 僕は何の気なしにそう返した。彼女がよくわからないことを言い出すのはこれが初めてじゃない。


「うーん、そういうんじゃなくてさ…………もっとこう、なんていうか……果て、だよ」

「全然わからないよ」

「そっか」


 彼女はからりと笑って、「ところでさー」とまた話題を変えた。これもいつものことだ。


 僕たちは、これでも付き合っていたりする。堤防から釣れもしない釣り糸を垂らして、取り止めのない話をする。それは今日の夕飯の話だったり、最近見たドラマの話だったり、色々だ。


「……そうだ、次の土曜、出掛けたいんだけど」


 僕はふと思い出してそう言った。


「りょーかい、いってらっしゃい」


 彼女は当然のようにそう返した。


「うん」


 僕たちは、これでも同棲していたりする。毎週土曜はこうして一緒に堤防釣りをする。2人で何かすることといえば、これくらいだ。



 次の土曜、僕は早朝一人でアパートの一室を出た。彼女はまだ寝ているだろう。寝室が別だから知る由はない。駅まで少し歩いて、数駅分電車に揺られて、改札を出たところでこちらに手を振る女性が見えた。


「ごめん、待たせて」

「ううん、私が早く来過ぎちゃった。行こ」


 当然のように差し出された手を、当たり前に握り返す。恋人繋ぎで向かう先は、駅前にあるショッピングモールだ。

 彼女のお目当ての服飾店をまわる。時折意見を求められるのに答えて、値段に迷っていればお金を出す。途中でご飯も食べて、満足いくまで買い物を済ませると、時刻はちょうど夕刻だ。


「レストラン予約してあるんだ」

「わーっ、やった! 楽しみ」


 嬉しそうにはしゃぐ彼女の手を取って、エスコートした先はホテルの最上階にある、ちょっとオシャレなレストラン。

 美味しい食事とワインに舌鼓を打った僕たちはそのままホテルの一室へ向かった。



☆☆☆☆



 今ごろ彼は、浮気相手の彼女とホテルでお楽しみだろうか。私は一人、部屋で発泡酒のプルタブを開ける。少しも寂しくないと言えば嘘になる。けれど、別に怒る気はない。


「んー、今日は……何を、見よう、か、な…………」


 彼がいないと独り言も増える。配信サービスでドラマやアニメのタイトルを流す。どれもこれもビビッと来ない。この気だるげな時間は、嫌いじゃない。

 きっと人が見れば冷めた関係だと言うだろう。けれどこれが私たちの日常で、少なくとも私は、この生活に満足している。



☆☆☆☆



「ただいま」


 翌日、昼前に帰宅すると奥から物音が聞こえた。バタンと扉を閉めて、物音が聞こえたキッチンに向かうとエプロンをつけた彼女が立ち働いている。


「珍しい。何してるんだ?」


 背中に声をかけると、クルリと振り向いた。


「あ、おかえりー。ホットケーキ焼いてる。お昼まだなら食べる?」

「うん、食べる」

「りょーかいっ、すぐ焼けるからちょっと待っててー」

「先食べてていいよ。シャワー浴びてから自分で焼くからそのまま置いといて」

「ん、わかった」


 「何して来たの?」も「どこ行ってたの?」も聞かれることはない。僕が浮気してることを、きっと彼女も察している。


 シャワーを浴びて出てくると、もうリビングに彼女の姿はない。部屋に戻ったのだろう。ホットケーキを食べて、食器を食洗機にかけてから部屋へ戻った。夕飯の時にでも声をかけてみようか、と考えつつパソコンを立ち上げる。

 日曜日。同棲していても、僕たちは別々に過ごす。寂しくないと言えば嘘になる。けれど、これが彼女の提示した距離だ。


「肉体関係はナシ、浮気はアリ、踏み込み厳禁……」


 自分に言い聞かせるように呟く。呑んだのは自分だ。本当は彼女は僕のことなんて好きじゃないのかもしれない。それでこんな無理難題を提示したのかもしれない。それでも僕は言った。「それで構わない」と。

 マッチングアプリで知り合った浮気相手の彼女も、似たような境遇だ。何でも彼氏が滅多に抱いてくれないらしい。挙げ句の果てに、「そんなにヤりたきゃ他にも男つくれば」と言われたそうだ。

 指先はダラダラとネットサーフィンを続ける。『本命のサイン』『彼女が感じるトコロ』『おすすめデートスポット』。並ぶタイトルは下世話な話ばかりで、けれど引かれるようにクリックして、大したことは書いていなくてブラウザを閉じる。その繰り返し。その時ブーッとスマホが着信を知らせた。発信者の名前を一瞥して、通話ボタンをタップする。


「もしもし」

「私。ね、次の土曜も会えない?」

「唐突だな……」


 かけてきたのは浮気相手だ。


「ねぇ、聞いてよ! 彼がね、『俺とヤるより気持ち良いんだろ? 乗り換えれば?』って言うのよ。酷くない!?」

「はは……」

「好きな人との方が……気持ち良いに決まってんじゃん……ねぇ?」


 彼女の声が涙を堪えるように震えた。


「……やっぱり、そうなんだ」

「あぁ、そっか。彼女サン、やってくれないんだっけ……」

「うん」


 冷めた彼氏と、冷めた彼女、きっとその2人が付き合っていれば上手くいっていたんじゃないだろうか。いや、冷め過ぎてて付き合うまでいかないか。それでも、彼女に惚れたのは僕で、彼氏に惚れたのは彼女だ。


「もうさ、私たち付き合っちゃう?」

「……その気もないこと、言うもんじゃないぞ」

「………………そう……だよね。ほんと、そう……ありがと! 話せて少しスッキリした」


 そう言う声はあまりスッキリしている感じはしなかった。


「お互い、苦労するな」

「だね、本当、勝手なんだから……って、押し掛け女房してる私たちが言えたことじゃないけど」


 こうしてよく愚痴りながら、彼女が別れる様子はない。


「そうだな……いつか……」


 何かと、期待してしまうのだ。同棲を拒否されなかったことだとか、条件付きでも「付き合おう」と言ってくれたことだとか、奇妙な関係でも、確かな恋情だってあるのかもしれない、と。「いつか」の先が消えたそれを、けれどわかっているように彼女が頷く気配がした。


「ん……いつか、ね」


 いつか、彼女からの愛を受けられるんじゃないか、なんて。


「…………それで、土曜、会いたいの?」

「……んーん、いいや! 話聞いてくれてありがと! 彼にアタックしてみる!」


 から元気は気づかないふりだ。


「ふっ……そっか、頑張れよ」

「うん! じゃあね! デートプランも考えておく」

「ん、またな」


 電話を切って、視線をパソコンの画面に戻す。交代で相手をエスコートして、その見返りに体の関係を持つ、それが僕たちの浮気だ。結局、惚れた方が負けなのだろう。これだけ適当にあしらわれながら、それでも構わないくらいに僕は彼女に惚れ込んでしまっている。

 ブラウザをスクロールする手を止めて、棚を見上げた。そこには数少ない彼女との思い出の品が並んでいる。仲良くなろうと張り切って、プレゼントしたお揃いのミサンガ。それを付けて取ってくれた写真。初めて貰ったプレゼントのパッケージ。こんなもの、彼女には見せられない。散々張り切って、空回って、何年もかけて、ようやく手に入れたのがこの関係。


「はーーっ、本当……」


 惚れる相手間違えたな、なんて、言おうとした言葉は声にはできない。

 ネットサーフィンにも飽きて、リビングへ戻ると食洗機の食器は片付けられていた。彼女が来たのだろう。彼女の部屋の扉をコンコンとノックすると、しばしの間の後で「なーに?」と声が返る。


「夕飯の買い物に行ってくる。何か食べたいものある?」

「魚以外」


 いつも通りの即答に苦笑が漏れた。彼女に「また食べたい」と言わせるのが当面の目標だ。


「海鮮丼にするか」

「おっ、ありがとう! よろしく!」


 彼女曰く、骨がないから魚類でも刺身は許せる、だそうだ。こんな「ありがとう」一言で、嬉しくなっている自分はつくづく単純だと思う。


「来週は頼むな」

「んーー、レトルトのカレーでいい?」


 食パンでも齧ってろと言われた当初よりは進歩している、と思いたい。


「ご飯くらい炊いて欲しいけど……それでいいよ。行ってくる」

「いってらっしゃい」



☆☆☆☆



 彼が立ち去った音を確認して、再生ボタンを押す。よくもまぁいつまでも付き合うものだ。断られると思って言った「肉体関係ナシ」を、呑まれた時にはどうしようかと思った。けれど、言った言葉は引っ込められない。


「いつまで……続けるんだろ」


 いつまでも続いて欲しい、なんて勝手な思いを抱く自分がいる。画面で流れるドラマの内容が頭に入って来ない。彼はずっと友達だった。友達だと思っていた。友達を失いたくなくて、ここまで来てしまった。別に他に好きな人がいるわけでもないし、家事を交代できるシェアハウスは割と快適で、拒絶する理由もない。

 集中できなくて、画面を停めて棚を見上げた。そこには数少ない彼との思い出の品が並んでいる。とっくに千切れたお揃いのミサンガ。初めて貰ったプレゼントの目覚まし時計。こんなもの後生大事にとっているなんて、彼には言えない。散々考えて、迷って、振り回されて、ようやく落ち着いたのがこの関係。


「はーーっ、本当……」


 なんで私だったんだ、なんて、言おうとした言葉は声にはできない。いまだにこの関係が続いていることを、嬉しく思ってしまう自分がいるから。



☆☆☆☆



 帰宅して、ご飯を炊いて、炊けるのを待つ間に汁物と付け合わせも用意する。


「ご飯できたよー」

「……ふぁーい」


 この声は寝てたな。それでも呼べば起きるのだから大したものだ。僕はよく寝過ごして、起きるとラップされたレトルト食品が用意されていたりする。


「はい、どうぞ」


 部屋を出て来た彼女のために椅子を引いてやると、見越していたようにするりと席に着く。当初こそ「その接待をやめて」と言われたものだが、しつこく続けていたら何も言われなくなった。


「いただきます。あ〜、豪華だ……」


 しみじみと言う彼女がおかしい。


「豪華って……乗せるだけだし。いただきます」


 手を合わせて自分も食べ始める。


「いやぁ、だって3品も作るのすごいよ……美味しいし」

「…………そういえばさ、世界の果てが見たい、ってこないだ言ってたじゃん」


 適当に食事も進んだところで、なんとなく話を振った。


「……言ったっけ」

「うん。アレ、どういう意味かなって。考えてもわからなくて」

「だからさ……果てだよ」


 適当な返しに、やっぱり僕も適当に返す。


「世界の終わり、みたいな?」

「まぁ、果てだし……そうなんじゃない?」

「……終わりまで、行きたいってこと?」


 そう尋ねると、彼女は黙った。どうしたんだろうと顔を上げると、箸が止まっている。


「…………行きたい、ってより、逃げたい。果てまで」

「逃げるって……社会から?」

「世界から」


 止まっていた箸が動きを再開する。


「どう違うの?」

「社会は、世界の一部だよ」

「そっか」

「そう……ごちそうさま。お風呂先いい?」

「どうぞ」


 食器を片付けて浴室へ向かう彼女を見送って、僕も残りのご飯をかき込んだ。食洗機にセットして、スイッチをオン。掃除機ロボットも、乾燥機付き洗濯機も、この手の家電は全て彼女が買ったものだ。自分が楽をするためなら金を惜しまない、が信条だそうだ。これくらい洗えよ、と思っていたが、こちらに慣れてしまうともう洗いたくない。


「……逃げたい、か」


 その逃げた先に、僕はいるんだろうか。なんとなく、いない気がした。



 彼女と入れ替わりにシャワーを浴びると、もうリビングの電気は消えていた。キッチンで紅茶を淹れて自室に戻る。本当はもっと恋人らしいことをしてみたい。肉体関係は置いておいても、手を繋いだり、同じ布団で寝たり。けれど欲張って逃げられるのも怖い。椅子に腰掛けて、パソコンをスリープモードから起こす。


 ここ最近、言葉にできない焦燥のようなものを感じる。倦怠期と言うには、僕たちはずっと倦怠している。けれど、変わらない関係、淡々と過ぎる日々、それはある日唐突に終わってしまいそうな危うさをはらんでいた。これが、いや、これ以上が、この先も続く確証が欲しい。


「…………ルアーでも、買ってみようかな」


 キーボードに指を滑らせて、エンターキーを押すことなく腕を落とす。そういうことじゃない。もともと釣りなんて、どちらの趣味でもないのだ。何かがしたいと言った僕に彼女が言ったのが、「どちらの趣味でもないことがいい」だった。それが釣りだったのは、たまたまその時期釣り映画をやっていたからとか、そんな理由だ。


 チビチビと紅茶を飲みながら、夜はふけていく。パソコンゲームをやりながら、片手で情報誌を捲る。彼女と微妙に噛み合わない趣味、微妙に異なる味の好み、同じものを見ても好きになるところは違う。それが面白くもあり、もどかしくもある。


「……あ」


 いつのまにか紅茶が空になっていた。また淹れてこようか、と思案して、ひとまずキッチンに行くべく立ち上がる。部屋を出るとキッチンに明かりがついているのが見えた。一瞬消し忘れたかと思ったが、行ってみれば彼女が湯を沸かしていた。


「……こんばんは」


 なんと声をかけるか迷って、そんな言葉がこぼれた。


「こんばんは? あ、君も飲む?」

「うん。お酒じゃないんだ?」

「今日はこっちの気分」


 言いながら戸棚からティーバッグを取り出す。ここでも僕と彼女の好きなブランドは違う。

 カップにティーバッグを入れて、熱々のお湯を注ぐと柑橘系の匂いがふわりと香った。蒸らす間黙っているのも憚られて話題を探す。


「……そういえばさ、夕飯の時の話の続きだけど、果てまで逃げてどうしたいの?」

「引きずるねー、その話題」

「君の見たいっていう果てには何があるのかと思ってさ」

「さぁ、見たことないからわかんないよ」

「それはそう…………もういいか」


 ティーバッグを取るべくカップに手を伸ばす。ちゃんと淹れるなら数分おくものらしいが、別に飲めればなんでもいい。その時、彼女が思い出したように言った。


「あ、けど」

「うん?」


 ティーバッグを取り出して、軽く湯を切る。


「果てにも君はいそうだよね」


 危うくティーバッグを取り落とすところだった。なんとか落とすことなく洗濯バサミで吊る。


「……え、なにそれ。プロポーズ?」


 動揺が声に乗らないように返す。


「して欲しいの?」


 小首を傾げるな。


「して欲しいな」

「あっはは、するわけないじゃん」


 知ってた。


「だよね。おやすみ」

「ん、おやすみ」

 

 彼女と別れて、色違いのカップを持ってそれぞれの部屋へ。いつか、同じ部屋に戻れればいいのに、と頭の片隅で思う。

 部屋へ戻った僕はゲームの画面を閉じて放置していたタブを開いた。そこに並ぶのはブライダルサイトだ。


「まったく……」


 フゥッと紅茶を冷ましてズズッと啜る。爽やかな香りが鼻へ抜けて、温かい紅茶が喉を潤した。

 踏み出していいものか、焦りすぎてはいないかと迷っていた。けれど、果てにいることが許されるのなら、そう悪い手応えでもない……と、思いたい。


「……ふふ」


 「結婚しよう」なんて言ったら、彼女はどんな顔をするだろう。冗談だと笑い飛ばせないように、とびきり真面目な顔で言ってやろう。それを考えるだけでワクワクした。「メリットがわからない」とか言われても勝てるように理詰めできた方がいいだろうか、それとも感情でごり押す方がいいだろうか。


「意外とチョロいからなぁ」


 なにしろ同棲までは妥協させられたのだ。時間こそかかったけれど、加減を間違えなければ、上手いこと煽れば、アレで意外と押しに弱いところがある。なら、結婚だって似たようなものだ。


「……逃がさないよ」


 紅茶で唇を湿らせて、ニヤリと笑う。世界の果てまで逃げたって、ついて行ってやろう。


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