再会
窓の外のつまらない光景も、前の席のくだらない噺も、放課後の喧騒と共に時間が流し、入学初日の全過程を終えようという頃。
「翡翠君、呼ばれてるよ」
クラスの女生徒の一人がそう言う。嫌そうな顔はしていない。
言われて憑傷は扉の方に目をやる。そこには廊下の壁に背をあずけて外を見る騙裏の姿があった。
無視する理由も無く、帰り支度をさっさと整えて席を立つ。憑傷はこの時初めて置き勉を経験した。
「また明日な」
耳に入ってきた調子の良い駿の声に、「ああ」と声だけで返事をして、教室の入り口に向かう。
その足取りに、友達との楽しいお喋りが終わってしまうことへの憂いは無い。
駿、望、両名の話を聞いていた休み時間とは全くもって違う心情で騙裏の元へ行った。
「楽しい時間に水を差してしまったか」
「そんな時間は無かった」
「じゃあ、これから私と過ごす放課後は楽しそうか?」
「何も聞いていないし期待もしていない」
「それは残念だ」
そんな会話は早々に切り上げて、憑傷は要件を聞く旨の質問をした。
「何かあったのか?」
神妙な顔でそう問う憑傷だが、並び立つ騙裏の答えは拍子が抜ける程普通のものだった。
「ちょっと掃除に付き合ってほしいだけだ」
「掃除?」
学校の廊下でする会話としてそれは本当に平凡なものだ。
よく知らないながら、憑傷もそれには気づいていた。故に変な勘ぐりもなく、素直な会話が続く。
「手伝いを頼まれてしまってな、中等部の体育館裏だ」
「そうか。早く済ませよう」
それだけ言い、嫌な顔をすることもなく(通して同じ表情)さっさと騙裏と連れ立ち、目的地に向かった。
『なんの疑問もなく』とはいかなかったが。
ーーーーー
「手伝いを頼まれたというのは、押し付けられたということだったのか?」
誰の姿もなく、手も付けられていない目的地を見て、たいして意味もない確認をする憑傷。
「悪く言ってしまえばその通りだな。
まあお前と二人きりなのだから、当人達と一緒にやるよりは気分が良い」
そう嘯く騙裏を見て、交友関係の心配を少しでもしていたことが杞憂だったと憑傷は知った。
「やる気も出て一石二鳥だ」なんて続ける騙裏から目線を動かし、さっさと終わらせるべく、手を動かす。
それからは何を言うこともなく作業が開始された。
「しかし、悪魔様が学校で掃除とはな」
開始してから五分も経たない頃。
騙裏が発した、唐突と言って尤もなその発言は、憑傷にとって手を止めるほどのものでは無かったが、聞き場がしても面白くないものであった。
「文句なら桐乃さんに言ってくれ」
UCS患者の蔑称とされている『悪魔』、この学園では発言が許されていないその言葉を、自らに用する騙裏は、ヘラヘラと随分楽しそうだ。
彼女はもちろん、聞いている憑傷にも憤慨の様子は無い。
もはや形骸化された校則は、UCS患者本人達が認めるものである。
「いや、おかげで毎日楽しいよ」
「...あまり楽しんでもいられないだろう」
対照的といっても良い返答を受けた騙裏は、ヘラヘラと薄く浮かべていた笑顔を隠す。
「なあ、憑傷。お前が今回のメンバーに選ばれた理由は桐乃から聞いているのか?」
質問の唐突さは、憑傷にとってもはや気にするところでは無かったが、何か意味のありそうなその質問の意図が分からず眉を顰めた。
逡巡はあったのだろうが、素直に、当然の事だと言わんばかりに、冷たさを含む声で答える。
「聞いていないし聞く必要もない」
騙裏の相好が変わらない様子を見るに、彼女が望んだような回答では無かったのだろう。
それだけに、向けられる質問は数を増した。
「お前自身はなぜだと考える?」
「選ばれたのなら求められている結果を出す。
それだけだ」
暗に、自分はこの選抜になんの疑問も抱いていないと示す憑傷。
その後彼が騙裏の表情をちらと伺ったのは、帰ってきたのが沈黙だったからだ。
そんな答えは求めていないと騙裏が訴えているのを直ぐに理解し、訂正するように答えを改める。
「難しいからだろう。
面倒なもの、難易度の高いものは大体この二人が選ばれてきた」
「まあお前は便利だからな」
「私達はだろ」
そう付け加えた憑傷は、「やっぱりわかっていないようだな」と付け加えた騙裏の心の内を見抜けはしない。
二人の会話はここで終わり、口ではなく手が動くようになった騙裏は、「少し席を外すぞ」と言い残し、中等部の校舎がある方へ消えていった。
手伝えと言われて一人取り残された憑傷は、面倒くさいなどという様子をおくびにも出さず、黙々と作業を続ける。
文句の一つもこぼす事なく、与えられた仕事を完了する。それは長所であり、真面目である証拠なのかもしれない。
ーーーーー
「あの!」
汗の一つも流さず、アンドロイドさながらの仕事ぶりを見せる憑傷の耳に、呼びかけるような声が入ってくる。
騙裏がこの場を離れてから数分後、憑傷が確認する限りでは、人の気配は感じられなかった。呼びかける張本人以外は。
自分に向けられているものだろうと確信して、憑傷は応じるべく体の向きを変える。
そこで彼の眼に映ったのは、予想外だった。
「おにぃ......兄さん!ですよね...」
躊躇いがちに発せられたそのセリフは、憑傷の思考に驚愕の色を残すようなものでは無かったが、少女が『翠の眼』を持つことへの違和感は、全く解消されるものであった。
その一言を口に出すのに、かなりの勇気を要したのだろう。少女の頬には小粒の汗が流れている。
自分の兄であるか。そんな質問をこの場面でするのだから、何か確信を持ってのものだろう。
それを受けた男の反応は、はいでもいいえでも無かったが、間違っていないことを、自分の思いやりと共に伝えた。
「久しぶり、悲無」
微笑みながら、自分と似た相好を持つ少女、翡翠悲無の名前を呼んだ。
名前を呼ばれた少女、悲無は、胸に置いていた手を、風に揺れるロングヘアーにあてがい、安心したように口角を上げる。
「覚えていてくれてよかった...」
そんな安堵感を口に出してくれた妹に、兄として、忘れたことはないよと言ってあげるのが道理だろうか?
事実、憑傷は妹のことを忘れたことは無かった。
「元気にしてたか?」
なぜ言わなかったか。
「正直...この暑さでうんざりしてる」
それは、微笑みを絶やさない両者、共に理解している既知である。
「明日はもっと暑くなるそうだよ」
つい一週間程前まで忘れていた妹は、そんな事実を悟られないようにか、笑顔を絶やすはずもなく。
「アイスは特に美味しく感じられるかも」
つい一週間程前まで忘れさせていた兄は、道理を曲げて仮面を被る。
そんな意識が全く投影されない二人の切れ者の日常会話は、一見変哲無く続いていく。
「そうだな。今度おすすめのアイスでも紹介してくれないか?」
「それはもちろんいいけど...そろそろ手も動かした方がいいかもね」
そう言われて、やはり悲無も騙裏の呼びかけで来たのだろうと、憑傷は一人納得する。
作為的な再会に、長話は付いてこなかった。
積もる話もあるのだろうに、掃除という頼まれごとの方を優先させた妹に対し、兄はただ感心していた。
ーーーーー
「兄さん、寮のことごめんね。
式見がワガママ言ってるって聞いたよ」
時間にして先程の会話から数分後。
元々騙裏と進めていた掃除は、放課後の喧騒がまだ止まない頃にすでに完了し、二人並んで掃除用具を体育館横のロッカーにしまっていた。
折に発せられた発言は、閉められたロッカーと同じように、パタンと小さく二人の心に反響する。
重い話を振られたわけでもなし、その空間に、夏日の気持ち悪い熱気以外が介入することはない。
「悲無が謝る必要はないだろう。
俺としてはそこまで困った状況になっていないから、心配しなくてもいいよ」
「そう...」
憑傷は実は式見という名前を全く知らないのだが、話の流れで大体の事情は察せられる。
依然申し訳なさそうな顔を浮かべる悲無に、彼の言葉の意図は今ひとつ伝わっていないようだ。
妹に心労をかけることを嫌った憑傷は、一応念押しするように続けた。
「突然の環境変化に驚くのは当然のことだからね。
悲無も何か不満があるのなら遠慮なく言うといいよ」
「私は勿論嬉しいし、不満なんて無いよ!久しぶりに顔を見れて安心もしたし...」
そんな少女の言葉は、兄である憑傷にとっては一つ、心労のおりるものだった。
「そうか」なんて顔色を変えずに言う憑傷だが、心の中では安心して見せている。
それが伝わり辛いのだから、受けて側は大変なものである。彼の短所として挙げるのならこういうところだろう。
「兄さんがいいと言うなら、私からは何もしません」
「ああ。これから同じ屋根の下で暮らそうという人に心労をかけるわけにはいかないからね。
それに...」
そこから続いた言葉は、憑傷にとってだけではなく、UCS患者にとって、とても意味のある言葉になった。
『成った』というのは、憑傷がそれに持たせた意味、悲無が受け取った意味によるもので、世間的に見ると、そこまでの意味は持たない。
だが確かに憑傷の頭の中には、過去、彼ら彼女らUCS患者が経験した凄惨さが過ぎっていた。
「特別寮は、ワガママが許されるべき場所だ」
「!...そっか」
悲無は一瞬驚いたように眼を丸くさせた後、何か懐かしいものを見るかのように、微笑んでみせた。
持たせた意図が汲み取られた結果なのだとしたら、憑傷の相好は多少崩れていたのかもしれない。
はたまた、妹だから出来得る何かなのかもしれない。
いずれにしても、悲無の嬉しそうな表情が崩れることはないだろう。
そのまま憑傷に背を向け、後ろ手を組み、歩き出した。
目的を終えたのだから、あとは荷物を回収してそれぞれ帰路に着くのみだ。
ついていくように憑傷も歩き出した。
「本当に久しぶりに会って、顔も体も当然変わってて、最初は躊躇ったんだ。話しかけるの」
数歩の距離しか進まない程度で、悲無は突然、随分とぶっちゃけた。
「こっちも、すぐに気づいたけど同じようなものだったよ」
独り言の声量では無かったために、合わせるような回答をする憑傷。
「ふふ...そっか。でも安心した」
そこまで言って顔を少し空に向けた悲無。
「昔と変わらないね!兄さん」
憑傷から見た悲無は後ろを向き、顔を見ることはできないが、今どんな表情をしているのか、憑傷はそれがとても気になった。
彼女が今発した声は、さっきまで聞いていたどんな声よりも元気があるものだったからだ。
久しぶりの兄妹水入らずの静かな空間は、放課後の喧騒に呑まれていったが、二人とも惜しむ様子は無かった。
『また会える』
久しぶりに感じることのできたその安心感を胸に抱いたまま、それぞれの現在の家に向かって道は分かれる。
別れ際に手を振る悲無。その顔は笑っていた。
一応忘れることの無かったもう一人の存在は、電子情報と共に処理して憑傷も帰路についた。
「変わらない、か...」
携帯電話の電源を落としながら、一つ思う。
『特別寮』
社会から排斥される寄る方なき者達の隠れ家。或いは、救いなき悪魔達の住処。
住む者は皆、出自も、容姿も、性格も、何もかも違う。
そんな当たり前の個性を否定された少年少女達は等しく、救いの手を求めない。
翡翠憑傷、UCS患者は二つ思う。
個性と特異性を合わせ持つ少年少女は、自ら救いを手繰るべきだと。
やはり編集さんなど見てくれる、直してくれる人がいないと大変ですね。つくづく思います。
個人制作による粗、そもそもの文章構成があっているか等、不安で仕方ありません。一応何度か筆者の私も読むのですがね。
そして私の場合超絶遅筆なもので、締め切りなどあったほうがむしろ良いのではないかとさえ思います。いや実際商業作家様達は大変な思いをされているのでしょうけれど。
何が言いたいのかというと、『最近の娯楽ってすごいですね』ということです。
そもそも私は読書と並ぶほどにゲームも好きです。作品数、傑作の多い二つですので、どうしても消費量が多くなりがちで、創作側に回れません。
一人でこんな言い訳じみた後書き書いてる作家嫌だなと自分でも思えてきます。はい、ここまで呼んでくださった方にはありがとうと言いたいです。
実におかしな後書きになりましたが、これからも執筆活動は続けていくつもりですので何卒。