廻夜
目が覚めたらそこには知らない天井があった。
憑傷の身体は昨日から美徳学園の理科準備室にある。
上体を起こすと、授業で使う備品が並ぶ棚と、机の上にポツンと置かれた何の本かもわからない天使と悪魔が表紙の本が眼に入った。
体の節々に痛みを感じる。頭がよく回らない。
それは、ソファで寝たこと、一日何も口にしていないことが原因だろう。
憑傷は寝覚めは良いほうだと自負しているが、今日の彼のコンディションは良くないようだ。
時刻は六時を過ぎた頃。朝日がカーテン越しに主張をしてくる。
季節、気候、共に夏。茹だる暖気が床を焼く。愚痴をこぼせる友も無く、嘲る如く鳥が鳴く。
そんな彼には、邪魔するものが何も無い。気兼ねなく、日課であるランニングに向かう事ができた。
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学園に来て二日目を迎えた朝。決まったランニングコースなどあるはずもないため憑傷は、地形構造把握も兼ねて学園周辺を適当に走ることにした。
距離は十キロを目安に、ペース、呼吸、他、全て整えられたランニングが始まった。
スタート地点から五キロ、目安の半分を走り終えた憑傷は、学園付属の病院の前に居た。
一度立ち止まり、ルーティーン通り休憩時間に入った。
「君、この学園の生徒だよね」
そんな彼に話しかけてきたのは、入院着を着た若い女性だった。
身長は百六十に満たない程度で、体は細身と言って良いだろう。その容姿的に、女性よりも女子と言うのが妥当な感じだ。
「そうですが、あなたは?」
容姿から年齢を察することが苦手な憑傷は、年上である可能性を考慮、初対面ということもあり敬語を使った。
「いきなり話しかけてごめんね。私は廻夜命良。一応学園の二年生だよ。」
廻夜命良と名乗った少女は、入院しているわりには軽い足取りで近くのベンチに座った。
先ほどからの遠慮ない言葉遣いから年下に見られていることは察していたため、憑傷の考慮が杞憂になることはなかった。
「先輩、ということになりますね。昨日編入してきた翡翠です」
「昨日か、そうだよね。君のその眼、見たことないもの」
憑傷の翠の眼は、確かに一際存在感を放っているだろう。
それでもここで、顔ではなく眼と言ったのは、一般的ではない。それは表現だけではなく、彼女自身もだ。
一つの編み込まれた髪を肩に下げ、水のようなその鮮やかな色は、太陽がさらに強く印象付ける。病人ということもあってか、ベンチに座るその様子は儚さを覚えさせた。
「それで、初対面の自分に入院患者である先輩が何か御用ですか?」
「さっきから顔と言い方が冷たいよ。新しい学園生活二日目にしてホームシックでも起こしているの?」
憑傷のさっきからの発言をイライラしていると解釈したのだろう。もっとも、帰ってきたのはそれを増長させるようなジョークだったが。
どう反応したらよいか迷った憑傷は、寄りかかっていた木から背を剥がし、命良が座っているベンチと並んで設置されたもう一方のベンチに腰掛けた(要するに無視した)
すると察してか、すぐに質問の回答が続いた。
「用ということはなくて、入院してると寂しいんだ。
だから話し相手を毎日募集中」
憑傷はその言葉を聞いて、心持ちを少し変えた。
「長話をするつもりはありませんが、病人を軽んじるつもりもありません。」
ややこしい言い方をする憑傷だが、無下にしないのは必要がないからか、優しさからなのか、それは本人も自覚するところではない。
「うん。気遣いは大切だよね、お互いに」
そう言って命良は、声をかけてきた時から今まで、憑傷に見えないよう後ろ手に持っていた一本の缶ジュースを投げ渡した。
そして自分の分の缶を手に取り、少し笑って掲げて見せた。
「乾杯」
憑傷は黙って合わせた。その様子に満足いったのか、なかなかに勢いよく命良は中身の液体を飲み下した。
「ぬるいね」
「はい」
夏真っ盛りと表現するのが正確な気温の高さが、そのぬるいジュースと相まって、二人をうんざりさせる。
会話に間が空いてしまうのは、喋ることも嫌にさせる暖気のせいか、種の無い二人のコミュニケーション能力のせいか。
どちらもこの場面では相応しくない。
命良は、少し上がった口角を隠すことはなく、憑傷との会話の一つ一つを噛み締めていた。
「他愛のない会話って、こんなに心地が良いものなんだね」
いきなりそんなことを言い出す高校二年生は、おそらく珍しいだろう。
それでも憑傷は、一つも変わらぬ表情で、否定的とも言える会話を続けていった。
「会話、というには内容がなさすぎるのでは?」
「あはは、確かにその通りだね。
これじゃあ君を退屈させちゃうかな」
「自分はただの聞き手です。話したいことがつまらないことでも、黙って聞いていることが役目でしょう」
「素晴らしい義務感だけど、私がしたいのはピッチング練習じゃなくてキャッチボールだよ。
今回君は、ちょっと頑張って聞き上手になるべき」
「苦手分野ですね」
「だと思った。君は口も回るけど、頭の方がよく回りそうだもの。
日常会話においてそれは、上手と言えない」
「慧眼です」
至らないところを注意するような言葉だったのなら、憑傷が返した言葉は間違いになるのだが、病人の少女は楽しそうな様子を崩すことも無く、からかうように続ける。
「でも私からすれば君は上手だよ」
その言葉の意味を、少年は理解できていなかった。故に答えであろう次の言葉を興味深く待った。
「今の少しの会話だけでも、私は十分楽しめてるから」
彼女の表情に、夏の陽気と揺れる木々達が、グラデーションを生み出していた。
十分に整った彼女の顔は、見るものの多くを虜にするだろう。
しかし憑傷は、少しのことで幸福感を感じる目の前の少女の様子を見て、抱いていた儚いという印象を変えることはなく、むしろ危うさをその中に感じた。
「それは...よかったです」
自分の心象が邪魔をして、流石の憑傷にも、素直に言葉を紡ぐことはできなかった。
『嫌な予感』というものを確かに感じてる憑傷は、聞くべきではないのかもしれないという胸中での葛藤を繰り返したのち、ある種タブーであった質問を口にした。
「先輩はどうして入院を?」
命良の上がっていた口角は、一瞬驚いたような様子になり、そして平行になった。
質問にすぐに答えることはなかった。空を見上げるその様子が憑傷には、決意を固めているように見えた。
「地縛霊って知ってるよね」
怪談でも始まりそうなその問いに、少年は冷静に、答えた。
「浅く」
「地縛霊がその未練を自分の力だけで晴らすことってあると思う?」
「少なくとも自分はそういった話を聞いたことはありません。創作の中での話にはなりますが」
「まあ現実的に無理なんじゃないかな。死んだその場に縛られて動けないだろうし、未練が向こう側からよって来ることだって難しそうだし」
「同意見ですね」
「でもそれは、とても悲しいことだと思わない?」
「......縛られているんですか?」
どんどん悪い方向に進んでいるかもしれない。それでも憑傷は、廻夜命良という少女を知ろうとした。
「今の私はこの場を離れることができるし、まだ生きているんだろうけど、地縛霊の話には嫌に共感しちゃうんだ」
「共感...ですか」
それは病人によくある、弱気になってしまう現象のせいなのか、それとも...。
「うん。未練が残るっていうところと、ずっとひとりぼっちってところ。生にしがみつくところもかな」
彼女の様子に悲壮感は一切感じられない。紡ぐ言葉に、一切の迷いも無い。
「私達悪魔憑きには、そんな孤独が一生ついてまわってる」
命良はその眼を伏せ、水色の髪を軽く撫でた。
彼女もまた、憑傷と同じ。
納得して、諦めて、苦しむ心に蓋をして、物事の外側にいつもいる。
周りがよく見れて、信頼されて、下を向いて、いつも歩く。
そんな性質の似た二人だからこそ、生まれる言葉に慰めが混じらない。
黙って聞く憑傷の眼に、意外は映らない。
「この学園では、先輩のような問題児でも孤独にならない、救済措置があるはずです」
無論それは特別寮のことだ。
単純に、一人だけ隔絶された異端を不思議がっただけの発言かもしれない。だがそこに一滴程でも優しさを感じた命良は、察しの良い頭とは裏腹に、穏やかな表情で答えを話す。
「考えたことはあるよ。それも一度じゃなく。話相手を探していた現状が、何より私の心を表してるよね」
自嘲気味に軽く笑みをこぼす。
「でもさ...」
その笑みは、決して楽しさから生まれたものではない。
次に放たれた一言に、憑傷が抱いていた印象をそのまま与えてしまうものだった。
「もうすぐ死んじゃう人が身近にいるのは、嫌でしょ?」
いつの間にか組まれていた両の手を、少年は強く握りしめた。
遅筆なため、作者本人、物語を忘れている場合があります。これから話数が多くなる上で、それは増していくと思われます。同じ表現や同じセリフ等、気づけない場合が多々あるでしょう。
ご指摘など広く受け付けておりますので、不備などがあれば遠慮なく。