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天獄の子ら  作者: 小鳥遊春輝
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静寂

読書を始めて数百ページをめくった、時刻にして十六の頃。

耽っている耳に、一つの足音が入り込んできた。

放課後を賑やかす、生徒達の喧騒は聞こえない。

周辺に一般生徒は滅多に立ち入らないから当然だ。

そうにしても、放課後すぐに帰宅する足音というものは、独特な寂しさを醸し出していた。

憑傷は、自分から話しかけようと思ったが、どうやら相手は消極的なようで、ナンパ師と間違えられても困ると思い直し、機会を伺う事にした。

足音の正体は寮の扉を開き、脱いだ靴を二足綺麗に靴棚に納めると、自室の鍵を取り、リビング部に足を踏み入れた。

そのまま直行しようとした足は、こちらに視線を向けたところで一旦は動きを止めた。

それからは、こちらを注意深く見つめ、恐る恐るといった様子で、目的地であろう階段に向かっていた。

知らない男が、悠々自適に居住スペースでパーソナルゾーンを展開しているのだ。

怯えるような、警戒するようなその態度は、この場合失礼にあたらないだろう。

しかし、そこを好機と見た憑傷は、多少強引にでもコミュニケーションを図ろうと、向かう足を諫めてみせた。

「そんなに見つめられたら、気になるんだが」

「ご、ごめんなさい......」

そう言って、手に持っていた学園指定のカバンを徐に持ち上げ、顔を隠した。

実際、そんなことで捲る手を止めるほど彼は神経質じゃない。

では、目の前の少女の怯えたような表情を覆い隠してしまうほどのおおらかさがあるかと言われれば、ない。

相手には期待できなかったため、憑傷から歩み寄ろうと、物理的な距離を少し縮めた。

「連絡がきているとは思うが、今日から入寮する翡翠憑傷だ」

結果、少年の落ち着き払った声は、知らない男という印象を変えることはできなかった。

得体は知れたのだから警戒をといても良いものだが、彼女が低く掲げたカバンがその位置から下ろされることはなかった。

「どうした?」

気になるほどの間が生まれていた。そのため、これは真意を確認する問いかけだ。

「連絡は来ていませんが...」

隠れていてわからないが、困惑した顔を浮かべているのだろう。

顔を拝めないのは恥ずかしさなどではなく、証拠不十分のためだ。

予想外の返答に、憑傷は心中で困ってみせた。

そうなると状況はかなり悪い。

一応学園指定の制服を着用してはいるが、それ以外に身の潔白を証明する要素がないのだ。

つまり心からの誠意と、有る事無い事の使い分けが必要になる。

それにしてもいい加減な学園だと、少年は心の中で一人ごちる。

「信用を裏付ける証拠はないということか。

怖がらせてしまってすまないな」

取り繕うことを一切しない、素直な言葉だった。

それは信用を得ることを諦めたようにも見えるが、この潔さがここでは一番の信用を得る行為だということを憑傷は知っている。

「いえ、そんな...」

相手の心身を慮る言葉の甲斐あってか、持ち上げられた腕は、腰の位置まで落ちていた。

そして必然、今まで合わなかった視線が、初めて回合した。

すると少女は一瞬、驚いたような、何か気づきを得たような顔を見せた。

すぐに視線は外されたが、目を伏せ、次に放たれた一言は、憑傷にとって都合の良いものだった。

「信じますよ」

その声には、今までには無かった安心感のようなものが少しでも混ざっていた。

唐突な信用は、驚きと喜びを生むものだったが、向けられた主である少年の意識に現れることはなかった。

翠の眼を見て信用したこと。そうだと分かって安心したこと。そのどちらもが、彼女は異端であると物語っている。

極めて露出したのは今であったが、一目見てそうと判るような特徴があった。

決して深くはない紫色の髪と眼は、その色素とは裏腹に、見たものを釘付けにしてしまうほど深い美しさを持っているように思える。

憑傷には、そう思えた。

それと同時に深い悲しみまで感じてしまったのは、彼女の左眼に付けられた眼帯のせいなのか、その隠された奥まで感じ取れてしまうからなのか。

いずれにしても、口ほどに物を言うその瞳から、憑傷は様々なものを受け取ってしまえた。

「それはありがたいな」

あくまで穏やかな口調。刺激しないために彼は、纏う雰囲気を作り出している。

「・・・・・・」

それでも場の雰囲気は固まってしまった。

相手が内向的であることを分かっていて会話が続かないのは、口下手な少女よりも、憑傷側に問題があるようにも思える。

「それじゃあ私はこれで...」

自分が作り上げた空間だが、流石に居心地が悪いのだろう。

逃げるように、当初の目的地である階段へ体を向けた。

「名前くらいは聞いておきたいんだが」

逃がさない、というほど迫る言い方ではないが、その言葉は確かに彼女の肩を掴んだ。

「あっ...!」と言って慌てて振り返る様子を見るに、顔合わせという場面において大事な項目にチェックが付いていないことを今に気づいたようだ。

紫乃静寂(しのしじま)です」

「よろしく、紫乃さん」

「はい、よろしくお願いします」

最低限の自己紹介に最低限の挨拶。それだけ交わし、それじゃあと言い去って行った。

彼女との会話は最低限だった。故に拗れも何も生まれなかったし、かかった時間も長くない。

コミュニケーション能力の低さを、そう良いように言い放ってしまうこともできるが、内向的な者は皆おそらくそれを美徳だとは思っていない。

先程の静寂もそうなのだろうと、言葉を交わした憑傷が感じていた。

喋りたいけど上手くいかない。根本としては話したいのだ。苦手なだけ。

皆そう思っているだろう。

それを一般的とするなら、憑傷が静寂に感じた印象はおかしなものだ。


喋りたくない。話すのが嫌いだ。


普通はそう思わないだろうし、それが正解であることもないだろう。

それでもそう思ってしまい、それが正解になってしまうのが、あの()なのだ。

憑傷は、震えることで通知を知らせた電子機器に目を落としながら、その印象が全くの見当違いであることを、少しでも願った。

連絡手段として利用している携帯機器の中、憑傷は通知が届いたアプリケーションを開いて新着の欄に眼をやった。

桐乃から届いたそのメール文は、理由をよく理解できないものだった。

『お前が今日寮にいると面倒くさいことになりそうなので今から職員室に来い。

問題の先送りにしかならないんだが、今日は理科準備室で過ごしてくれ。飯は用意する。

あと明日から授業だから教科書、制服等持ってくるように以上』

憑傷が拒否のメールを送っても彼女は、憑傷が職員室に来るまで携帯機器を再度見ることはないだろう。

それをよく理解している彼は、さっさと部屋にある学園指定のカバンを持って、寮を出て行った。



話の切りが良い為今話は短いです。

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