密会
気ままな猫シオとの邂逅を終えた憑傷は、情報の整理と疲労の回復を行うため、一人になれるであろう自室へ向かった。
部屋は一階に三つ、二階に四つの、合計七つある。
案内によると、彼の部屋は一階の一番奥、階段の手前だ。
どの部屋のドアのぶにも鍵穴があるが、玄関で確認したキーフックに憑傷の部屋の物は無かった。無人だったために作られていないのだろう。
夕飯時には、寮生との会合が必至であろうことから、彼はさっさとやるべき事を済ませておきたかった。
そうしてドアの前に立った憑傷は、急いでいるというのにすぐにそれを開くことはなかった。
それは普通ではない違和感を感じたからだ。
(誰かいる...)
それは確かに異常事態だったが、狼狽えることはない。
賢い警備員の存在からも、空き巣の線は、彼の思考の最初から排斥されていた。
が、一応の警戒を持って、ドアを開けようと手をノブに伸ばした。
「何を突っ立っている。
入って構わないぞ」
矢先に、ドアの先の人物から声がかけられた。
ドア越しに存在が認識されたことに多少の驚きはあったが、憑傷はその言葉に従い、断りを入れドアを開けた。
「失礼する」
「!...その声は」
開ける数瞬、焦ったような声が放たれた。
それは幾分遅すぎた。
スムーズに扉を開けた憑傷の眼前にあったのは......踵だった。
正確には、後ろ回し蹴りを喰らわせんとし、寸止めをした女の踵だ。
これをどけろと言わんばかりの眼光を喰らわせると、眼前の少女は、振り上げた脚を降ろした。
「なんだ憑傷か。
男の声がしたもので少し焦ったよ」
「焦ったわりには、迷い無く素早い蹴りだったな」
そう言って憑傷は、その少女から視線を外し、部屋の奥のカーテンを閉めに行った。
『男の声がして焦った』理由はすぐに理解できる。
少し屈んで、ベットの上にある服に手を掛ける彼女は、下着以外の何も着用していなかった。
腕で隠す、なんてことはしなかった。
恥じらいが無いというよりも、許容している感じを強く受けた。
今の一件を一切気にした様子の無い二人は、先程からの掛け合いもみて、知り合いで間違いないのだろう。それも長い付き合いの。
「最近見ないと思ったら、先に学園に来ていたのか」
「知らなかったのか?
てっきり桐乃に聞いているものだと」
「あの人は聞かれないと答えない放任主義者だからな」
「ということは、私と会っていない二ヶ月の間、一切この身を案ずることはなかったということだな。寂しい話だ」
少女は、黒いストレートボブヘアを耳に掛けながら、さして寂しくなさそうに妙なことを言ってみせた。
「この世界にお前を害せる存在は指の数程しかいないだろう」
「違いない」
フッと静かに笑って少女は、その脚線美にズボンを通した。
女性にしては高い身長と、均整のとれたプロポーションが生み出すその扇情的な雰囲気は、健全な男子高校生であれば、頬を朱に染め、遠慮がちにも見惚れてしまうものだろう。
布地を押し上げる胸の発育も、臀部の膨らみも、翠の眼には投影されない。
「それで、早退してまでここに居た理由はなんなんだ
桐乃さんからは何も聞いていないぞ」
「下着姿で怯えた顔をして、寝室で待っていたいたいけな乙女の心情を理解できないというのか?」
そんな、誰にでもわかるような冗談と共に発せられた悪意を、憑傷がまともに取り合うはずもなく。
「本気で意識を奪りに行った蹴りを見たんだが...まあいい。
それよりもさっきからの妙なノリをやめてくれ。
そういうのは一人いれば充分だ」
嫌そうな声でそう答えた。
嫌がる、というよりは、見るのを飽きたような、うんざりとした声だ。
それを面白がっているのか、少女の口元は少し笑んでいる。
「あいつは元気にやっているのか?」
「俺に聞くな...と言いたいところだが、あれは一日三回以上は連絡を入れてくる。
それを見る限り、元気と言っていいだろう」
「そうか、それは良いことだな」
名前が出されてもいないのに成立している会話を聞くに、二人は、共通の妙なノリの友人について話しているのだろう。
一方は全く楽しそうではないが。
「理由が無いのなら、こちらから聞きたいことがある」
話が長引かないように、早々に切り出した。
本当に理由が無いのか、彼女は何も言わず代わりに、どうぞと言う様に手を憑傷に差し向けた。
「騙裏も同じように、正規の手順を踏まずに入学させられたのか?」
「桐乃にな」
『紅の眼』を持つ少女影縫騙裏は、先ほどよりも少しばかり落ち着き払った声でそう言った。
情報の整理兼、現状の確認が始まったのだ。
「となるとやはり...」
「ああ、この学園には何かある」
瞬間的に、部屋の空気が冷え込んだ気がした。
続く会話も、場を凍りつかせるものばかりだった。
「決定的なものは?」
「まだ何も」
進展のない現状を聞いて、無能だと叱咤することはない。
ここで彼が考えたのは、「こいつがいても尻尾を出さないとは、大したセキュリティーだ」ということだけ。
「この学園の生徒達を見て思ったことはあるか?」
だからここで答えやすい質問にしたのは、決して優しさなどでは無い。
「一般的な生徒達だが、不可解な事が一つだけあった」
「なんだ?」
期待通りの答えが返ってきて、憑傷のリアクションは多少食い気味になっていた。
「この学園には、生徒間でのいじめや差別がないらしい」
「......」
それは一見すると、素晴らしい校風だ。
誰もが手を叩いて、賞賛の声を送るべき偉業と言ってもいい。
それなのに、少女が『不可解』と言い、少年の顔に雲がかかるのは、彼らが生きてきた十六年の世界において、綺麗事なんてものが通用しない事を、痛感しているからだ。
福祉もない、思いやりもない、かけられる言葉に優しさがない、楽に過ごせる居場所がない。
そんな社会に捨てられて。
そうして世界を諦めた。
異端を排斥する、臆病な世界を。
「いじめがないことの何が、あなた達をそんな顔にするというのです?」
その声は、二人のものではない。
頭に響いてくる、明達な声だった。
「シオ」
名前を呼んだのは騙裏だ。
この二人にしては珍しく、不用心に開いていた扉から、一匹の猫が姿を現した。
そして、ベットに座る騙裏の膝の上に乗り、丸くなった。
部外者に居座られたことで、二人の会話は止まってしまった。
続けるか否かをアイコンタクトで図っていると。
「部外者が居ては話しづらい内容なのですか」
間を作りすぎたのか、シオが空気を読むような発言をした。
仕方がないというように、騙裏が肩をすくめてみせたことで、憑傷が、先程の質問に対する回答を口にした。
「いじめがないこと事態は問題視していない」
「では何が?」
「この学園には、いじめという行為に対する罰則だったり、取り締まる組織という、あらゆる抑止力が存在していないんだ」
「なるほど。それで、いい生徒の集まりだと納得するには、この世界は確かに汚れすぎています」
その一瞬で、ほとんどを察してしまったかのように目を伏せて言う賢い猫を見て、憑傷は末恐ろしいとさえ思った。
「それで桐乃に言われて、私たちが遣わされたというわけだ」
そう余計な事まで口走る、緩い口を持つ女の眼を、憑傷の鋭い眼光が睨んだ。
それに気づいた彼女は、許せと言うように、シオを撫でていた両の手を肩の位置まで上げてみせた。
「あなた達とあの女教師はそういう関係だったのですね」
案の定、内部事情に突っ込まれた時点で、憑傷はこれ以上の漏洩を防ぐ為、シオに少しの圧をかけた。
「これが密会という事をお忘れなく。
然しもの貴方でも、これ以上知れば容赦は出来かねます」
あくまで冷淡に、格式張って警告した。
「弁えています」
しかし彼女は、全く意に介した様子がなかった。
その余裕は年の功からか、別の所以か。
どちらにしても、警告が機能しなかった事に憑傷は、満足がいっていない様子だった。
「「「......」」」
五秒ほど場が沈黙したところで、頃合いを見たように騙裏が立ち上がった。
その流れでシオは膝の上から飛び降りた。
「そろそろ寮生達が帰ってくる頃だろう。
ここらで楽しくない密会はお開きとしないか」
良い頃合いだと、全員が思った。
故に、否定の声は上がらなかった。
「そうだな」
賛同の声一つ
「退屈なものでした」
憂鬱の声一つ
「全くだ」
賛同の声二つ
順に、憑傷、シオ、騙裏のものだ。
それぞれの個性が零れたその部屋を、内一人と一匹が退出しようと扉に向かった。
去り際に騙裏は、自分の部屋が隣だという報告と、一つの課題を残していった。
「夕飯時までに顔合わせくらいはしといてくれ。
食卓にいきなりというのも意外性があっていいが、皆がサプライズ好きということもないからな」
少しハードルが高いように感じたが、帰ってきたところに適当に挨拶をするくらいでいいかと納得して、部屋に戻る騙裏を見送り、自室のドアを閉めて、リビングに置かれたソファに腰を下ろし、その手に持ってる栞の挟まれた本を開いた。
納得したはいいが、一緒に帰ってくる程仲良し子好しという面倒臭いパターンだった場合を想定すると、憑傷の気持ちは少しばかり落ち込んだ。