入寮
回覧板を置いてからの二人の足は多少急ぐ形になっていた。
生徒達がいない五限の間に、校内の案内は終わらせてしまいたいらしい。
「この無駄にでかい学園を案内しろと言われても、私は就任から2ヶ月程度しか経ってない新米教師だぞ。
それに任せるのはあまりに酷だと思わないか?あと眠い」
学園の体制への愚痴と私情を器用に零す駄教師。
彼女が言うとおり美徳学園は、かなりの敷地面積を誇っている。
マンモス高というわけではない。一クラス約三十人の四クラス、一学年約百二十人、全生徒数約三百五十人と、その規模は中程度。
広大な敷地のうち、校舎が占める割合はほんの少し程だ。
生徒会室、職員室といった特別教室、生徒達の教室、文化系クラブの部室がある本校舎と、中庭の見える渡り廊下を経由した第二校舎。そこには十分な広さの体育館と、変哲ない野外プールが設置されている。その横に運動系クラブの部室として使われている準備棟。少し先に食堂、購買がある特別棟。
ここまでを一般的としたとき、この学園は多く変わっている。
理事が趣味で大金を費やしているというだけならまだ良いが、この学園はどうやらそれだけではない。
「最初から思っていたことだが、その性格で上手くやっていけるものなのか?」
桐乃に向けられたその言葉には、既に容赦がなくなっていた。敬意ある言葉使いと共に。
「敬語を忘れているぞ、編入生」
質問の回答は望めなかった。
「誰に聞かれているわけでもあるまい」
憑傷からこの駄教師を敬う心は既に消え去っている。そのうえ面倒臭いとも思っていた。
その腹の内を隠すように、簡単な建前で片付けた。
「それもそうだな。少し残念だが」
「残念?」
「会って間もない頃のお前を見ているようで面白かったぞ」
「...」
この沈黙も話を終わらせるためのものだが、今回の彼には恐れがあった。
昔の話をされるのがどうやら苦手なようだ。
「それで、行きたいところなんかがあれば案内してやるが、あるか?
なければ私は、とり忘れていた昼食を食べに食堂へ行く」
『なければ』の部分を強調して言う桐乃の魂胆はすぐに見抜くことができる。
そんな桐乃をこのまま行かせるのも癪だと憑傷は思ったが、他の人間に遭遇しても面倒だと思い直し、この場は収めた。
「今度奢ってくれ」
代わりに、今までのからかいの腹いせをするように、少年は少し意地汚くそう言った。
「たまにはな」と言って、とくに渋ることもなく桐乃は了承してみせた。
そのやりとりは、教師と生徒といった様子ではなく、二人の長い付き合いを感じさせた。
同時に、憑傷の返答を『なし』と捉えた桐乃は、彼に背を向ける形で、特別棟がある方向へ歩き出した。
「後は携帯に送った学園の見取り図を見てくれ」
白衣のポケットに手を入れ、去り際にそう残した彼女は、建物の影に隠れた。
それを確認した憑傷は、手元の液晶に映し出された見取り図に眼を落とし、それをもとに、本日の最終目的地であろう場所へと歩みを進めた。
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美徳学園の良いところを教えろと問われて、すぐに決に至る者は、学園内外共に少ないだろう。
理由としては、創立から三年しか経っていないこと、卒業生の実績がないこと、特別なカリキュラムなどが存在しないことなど様々挙げられる。
だが、何があるかと問われたら、一様に思い浮かべる物がはっきりとある。
何よりも先に、嫌でも目に付くほどの高層マンションだ。
美徳学園の在学生は、正当な理由、理事長の許可なく学園の敷地内から出ることが禁止されている。そのため、先のような生徒達が暮らす居住施設が建てられた。つまり高層マンションは、学生寮の代わりだというのだ。
その異常っぷりは、学内外問わず全ての人の驚嘆の声を生んだ。
それでも、翠の眼を持つ少年からは、感嘆の心も、喜悦の声も表れない。
彼独自の感性が生んだ結果ではない。今彼に起こっている状況は、それほど一般的ではないということだ。
明日から授業に参加する憑傷は、英気を養うため、用意されているであろう自室に足を運ぼうと歩を進めていた。
その風景はごく一般的だ。彼の背が高層マンションに向いていなければ。
学園から送られた自室のデータが、手に持つ携帯の画面にしっかりと映し出されていた。
それが手違いではないのなら、部屋は、一般寮の正反対に位置する『特別寮』ということになる。
罪の意識がない人間は、ここで不満の意を表すのが普通だろう。
実際、憑傷は、隔離じみたことをされるような問題を学園で起こしたことはない。入学初日なのだから当然の話だ。
それでも、進める足に躊躇がなく、一つの疑問も浮かべることがないのは、理由を理解し、日常だと受け入れ、変わらないと諦めている故なのだ。
いつしかその歩く足を、一つの障害が止めてみせた。
その正体は、プレハブ工法の二階建ての建物。
表口と思われる場所に掛けられている『特別寮』と書かれた表札を見て、憑傷は自分が目的地に終着したのだと自覚した。
(溶け込めなかった異端の溜まり場か...)
台詞は悲しみを想起させるが、そう思いはしない光景だった。
相応の待遇を覚悟していた彼にとって、その十分に整備された外装は、緊張や不安といったあらゆる硬さを身体から逃がした。
異端を社会から隔絶し続けているこの世界は彼らにとって、怯えて過さなければならない生き地獄のようなものだ。
それをその身で深く知る憑傷には、厚遇にさえ思えた。
同時に、この学園への関心を少しでも持った。
色々と考えるべきことはあるのだろうが、七月に差す陽の光はまともな思考を鈍らせていた。
半ば避難するような彼によって、その扉が開く。
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寮母の存在は知らされていない為、誰も居るはずがないであろう無人の建物に断りを入れて入るのも滑稽だと思った憑傷は、図々しく玄関からリビングへ足を踏み入れる。
しかしその進行を阻止するものがあらわれた。
「にゃーお」
職務を全うするその警備員は、姿勢の良い四足歩行で、侵入者の眼前を右往左往し、発色の良い紫色の瞳で、値踏みをする様に注意深く睨みつけてくる。
かわいいと喜んだり、猫がいるのになぜアレルギーの確認をしなかったんだと憤ったり、どこから入って来たんだと疑問に思ったり。それが普通の反応だろう。
だが侵入者の興味は、『紫の瞳』ただ一点に集まった。
「人間以外の症例は、一匹の猫を除いて他にいない。
お前の名前はシアナか?」
猫は人間の言葉を解さない。それでも憑傷の語り口は、返答を望んだものだった。
「私をそう呼ぶのは、あの村の人間だけです」
明達な声が彼には聞こえた。
『超常』そう表現して全くの差し支えが無い状況だ。
時刻は、二と六を超えて少しの頃。閑散とした特別寮に、何者の気配も無い。
目前の猫が異端である事を、空気が知らせた。
頭の中に直接響く声に、憑傷も少しは驚いた表情を見せた。
それでも動揺が後に続かないのは、彼の忍耐力が成せる技だろう。
「一部では神格化された存在である貴方がなぜここに?」
正体がわかった途端憑傷は、あからさまに呼び方を改めた。
「いつの間にか、一般人にまで存在を認知される程になっていましたか」
嘆くような声が、頭に響く。
「まあもっとも、あなたが一般人で無いことは分かっていますが」
語気を少し潜めてそう言う。
ここで眼を逸らすことは悪手だと思った憑傷は、探るようなその眼をしっかりと見据えながら、強くでた。
「質問の回答をいただきたい」
「猫という種の平均寿命は十年と少しばかり。野良ともなればたったの数年程度です。
いつまでも放浪をしていてはいけないと思いこの地に身を置いた。
それだけのことです」
動機までペラペラと話したが、話すことでもないだろうと言いたげなほど退屈そうな声色だった。
「なるほど」
あまり長話をするのは、お互い好ましくないだろうと思った憑傷は、知っておくべき必要事項を選択し、手短に済ませようと試みた。
「ここではなんと呼ばれているのですか?
共同生活になると思われるので、知っておきたい」
「先に名乗るのが礼儀ですよ」
「失礼。翡翠憑傷です。
呼び方は好きなように」
名前を聞いた猫は、垂れ下がっていた尻尾を少し立たせて反応した。
「ほう...翡翠ですか。面白い名前が聞けましたね」
彼女は怪しい声色を出した。
(この猫...随分と俗世に詳しいようだ。
これ以上探られるのは危険か)
これ以降の会話は、極力注意深く接しようと身構えた。
「この寮で私はシオと呼ばれています。
漢字で書くと白い尾です」
名前を聞いてから、声に少しの優しさが宿った気がした。
それを聞いて憑傷は、なるほど確かにと思った。
全身を包んだ黒い体毛にひとつのワンポイント、尻尾の先が白色をしていた。
「この寮は無礼講なのですから。あなたも敬語など使わず、気楽に居てください」
じゃあさっき名乗らせたのはなんなのだと言いたくはなったが彼の自制心がそれを押し留めた。
「意外と気さくなんだな」
「あなたの名前と容姿を知って、警戒が薄れたのですよ」
その意味は分かりかねたが、どうやら歓迎されているようだ。
居候猫にだが。
「やはりここは、トラブルに事欠きませんね」
不穏なことを幾らか楽しそうに言う目の前の猫を見て憑傷は、そんな奴ばっかりかと、幸先の悪さを覚えた。
受験生の身故、投稿は不定期となります。何卒。