怖気
佐伯秀太という名の男が、ある日を境に姿を消していた。彼の足取りを追うべく、今年の春から探偵業を開いた内藤敦は、吉田寮にある彼の部屋を訪ねていた。
彼は佐伯の中学時代の友人であった。在学中もそれほど親しかったというわけでもないが、それでも友人は友人である。
京都の夏は眩暈がするほど暑いと専らの噂であったが、彼が寮に到着する頃には既に日が傾きかけており、気温もすこし落ち着いていた。
「先輩の部屋はこちらになります」
内藤を部屋まで案内したのは、佐伯の後輩だという学生だった。彼は、内藤に彼の捜索を依頼した張本人でもある。佐伯の失踪を不審に思い、残された電話帳を片端からかけた結果、旧友である内藤に繋がった------とのことだ。
新米探偵である内藤にとっては、この幸運が初依頼となった。開業祝の黒電話が、はやくも役に立ったというわけだ。
「丁寧にありがとう。えっと……」
「大島です。大島歩」
「そう、大島君」
内藤よりひとまわり小柄な彼はぴょこんとお辞儀すると、内藤に部屋に入るよう促す。南向きの窓は開いており、橙の日差しと柔らかな風が部屋中に差し込んでいた。どこからかカナカナカナと、ヒグラシの鳴く声も聞こえてくる。内藤はぐるりと部屋を見回した後、机に備え付けられた椅子に腰かけた。それを確認すると、大島もベッドに腰を下ろす。
「それじゃあ大島君。あらためて状況を確認させてもらえるかな。まず、佐伯は農学部だったね?」
内藤の呼びかけにはい、と緊張気味に頷いた彼は、ぽつりぽつりと口を開きはじめた。
「佐伯先輩の姿を見かけなくなったのは、今年の春ごろからです。この部屋もその頃から使われていないようですし、僕らの集会にも顔を出していません」
「集会…………ああ、成程」
内藤は大島の顔色を伺いながら、メモを取る手を止めた。佐伯は近頃、或る思想団体に身を寄せているという噂があったが、どうやらそれは本当のようだ。話の本筋では無いようなので、くわしく追及するのは控えておいた。
「ですが驚いたことに、先輩の姿を見たという人間はちらほらといるのです。やれ鞍馬山の参道で見かけただの、やれ鴨川の河原で見かけただの、そういう話は今でも時折耳にします。ですが誰も、面と向かって佐伯先輩と会話した人間はいません」
「それは…………なんとも奇妙な話だね。それならやはり、彼の姿を見つけたら追いかけて、襟首をとっ捕まえればいいのかい?」
「いえ。それは既に、僕も試しています。試したからこそ、いったい何が起きているか知りたいのです」
大島の目は怯えているようだった。内藤はメモ帳をペンで叩きながら、彼に続きを促す。ここからが本題である。
「実は僕、つい先週に先輩の姿を見たんです。それで捕まえようと、ひっそりと後をつけました」
「隠れ家を探そうとしたんだね」
「ええ。あの日はバケツをひっくり返したみたいな豪雨だったんですが……」
大島は突然周りの視線を気にし、声を落として語りだした。
「見たんですよ。先輩が、傘も刺さずに植物園に入っていくのを」
大島がそこを通りかかったのはまったくの偶然だったという。最初は雨を避けようともせず、ただ濡れるままになっている男に奇異の目を向けていた彼であったが、男の姿に佐伯の面影を感じた大島は、彼の後を追って植物園に入った。不審な男は大學指定の制服に将校マントという出で立ち。
それは、佐伯がとても好んでいた服装であった。
「……佐伯先輩、ですか?」
植物園に入った大島は、すぐに男に追いついた。彼は植物園の入り口付近で、雨を浴びたまま立ち尽くしていたのだ。おそるおそる声をかけると、ずぶ濡れの男はゆっくりと振り向く。
なんと奇怪なことであろうか------彼は拾い集めた落ち葉を、口いっぱいに頬張っていたというのだ! そしてあろうことか、その顔は佐伯のものに間違いなかった------のだという。
「正直言って、怖かったですよ。たしかに男は佐伯先輩の顔をしているのに、挙動のすべてがヒトとは思えないんです。ぎこちなくて、まるで、そうまるで何かがヒトの物まねをしているみたいで。それに……」
そこで一旦言葉を区切ると、大島は次の言葉を発するのを躊躇った。しきりに内藤の顔色を窺っては、舌先で言葉を転がしては音にしようとしない様子を見かねて、内藤は片眉を釣り上げた。
「それに……?」
「それに、僕と目が合った途端、先輩は黒い液体になって飛び散ったんです」
大島は口に出すのもおぞましいとでも言わんばかりに嘔吐くと、二、三呼吸を整えながら内藤の顔色を窺った。彼の予想通り、内藤の反応は芳しいものでは無かった。
「……は? 君、急に詩的な比喩表現を持ち出すのはやめてくれ給えよ。うっかりそのまま書き留めてしまった」
すかさず、大島は言い返した。
「いいえ、比喩ではないのです。先輩は文字通り黒い水になって、そのまま雨に流されていったんです」
ははは、と笑みを浮かべたまま顔を覗き込んだ内藤は、大島の目が笑っていないことに気付いて口をつぐんだ。
「いや君、酒の類に酔っていたんじゃないかね。そんなヒトが液体になるなんて……」
「信じてくれないならそれでも結構です。佐伯先輩は僕一人で探すことにします。もちろんわざわざお越しいただいた手前、往復の汽車代は僕が払わせていただきますが」
「ちょ、ちょっと待ってくれ大島君。ヒトが液体になるなんてそんな……」
非科学的な、という言葉を内藤は寸前で呑み込んだ。佐伯と同じくこの大島という男も、年下とはいえ帝国大學の一学生である。内藤よりもはるかに長い時間、科学というものに長く向き合ってきた彼が大真面目な顔をしてそう言っているのだ。ふざけた話と一蹴すべきではないのかもしれない。
「それが、依頼の動機ということかい?」
「…………はい。佐伯先輩はたしかにこの街にいます。ですが先輩の身に、何かが起きているのも事実です。僕はそれが知りたい」
探偵への依頼にしては、少々怪奇が過ぎるように内藤は思う。だが彼にとって佐伯は友人である。無下に断ることも、彼にはまた出来なかった。
「……では、手紙に書いてあった『見せたいもの』というのは?」
内藤はひとまず話の追及をやめ、情報の収集作業に戻った。大島はすくりと立ち上がると、机の引き出しからノートを一冊取り出す。それは東京で売られているという大學ノートだった。よく使い込まれていて、薬品やらであちこちに染みが付いている。表紙には短く乱雑な、日記の二文字。
「佐伯先輩は几帳面な性格でしたので、毎日欠かさず日記を付けていたようです。姿を消す直前まで……」
そう言いながら彼は三月の頁を差し出した。内藤は黙って受け取る。
日記には、こう綴られていた。
『五日
贅沢をしに百貨店へ顔を出してみたが、結局いっとう高い鉛筆を一本だけ買うことにした。苦学生の懐は寒いものだ。ここぞという時に使うことにしよう。楽しみだ。
六日
鞍馬の山の豊富な自然には目を見張った。行く前は乗り気ではなかった自分がまったく憎らしい。採取した渓流の水を分析するのが楽しみでならないな。かの山からは、人智を超える如き偉大さを感じた。
七日
水質サンプルからは、概ね想定された生態系が観測できた。概ねというのは勿論例外を含んでいる。そう、あの不可思議なアメーバ状細胞のことだ。先生にご覧になって頂いたところ、地球上で進化した生物ではありえない構造をしているという。新種の可能性があると仰っていた。ひょっとすると大発見になるかもしれない。
八日
顕微鏡越しに毎日あの細胞と向き合っていると、彼が私に話しかけてきているような錯覚を覚える。否、実際になにか音を発しているのかもしれない。時折研究室の中で、テケリ、と音がするのだ。戯れに与えてみた微生物の全てを食作用で取り込む様子が観察された。獰猛な性格のようで、自分より小さいものならなんでも喰らうらしい』
十日の頁に書き込みは無かった。内藤がノートを返そうとすると、大島はまだだと言わんばかりに首を横に振り、更に数枚をめくる。確かに続きがあった。
『十四日
もう一度、あの山に赴こうと思う。あの山にはきっと何かがいる。この細胞は文字通り欠片なのだとしたら、その本体ともいうべき生物がいるような気がしてならないのだ。私はきっとそれに呼ばれている。あれは待っているのだ。何年も何年も前から。きっと私の夢の中の光景の通り、六百五十万年も前からずっと』
十四日の走り書きを最後に、日記は終わりを迎えていた。読み終わった内藤がゆっくりと顔を上げると、大島はノートを受け取り、元の位置にそっと戻した。
「筆跡は確かに彼のものだ。昔から特徴的な文字をしたためるのは変わらないよう」
「先輩は確かに、十五日ごろを区切りに姿を消しています。不審な行動を取る佐伯先輩が目撃されるようになったのはそれ以降。この日記は、なにか重大な秘密を握っているように思うのですが…………」
「この日記は他の人間には見せたのかい? 研究室の同輩だとか、大學の先生様だったりには」
「見せました。ですが誰も彼も研究が忙しいの一点張りで、まったくと言っていいほど相手にしてくれないのです。判ったことといえば、いつのまにやら、先輩が研究していた細胞を入れたシャーレが消えていることくらい」
「…………佐伯が鞍馬山に持って行ったのか」
「僕はそう考えています」
陽が沈みかけていた。すっかり暗いですね、と呟いて白熱灯を点けた大島の顔は煌々と照らされたが、その表情は内藤を品定めするようであった。それはおそらく、彼もまた大島の話を戯言の類だと一蹴する人物か否か、見極めんとするものだろう。夏の夜風は湿気を多分に含み、二人の間の空気をいっそうに混濁にする。
内藤が返事に詰まってしばし思案していると、見かねた大島はこんなことを言った。
「今日はお疲れでしょうし、この部屋に泊まって頂いても構いませんよ。連泊も許可が下りています。詳しい話は明日また改めて、ということで……」
**
夜が明けた。
かつての知人とはいえ、失踪した人間の部屋というのはなんとも気味が悪く、内藤は結局一睡もできずに朝を迎えた。失踪する前日、佐伯はこの部屋でどのようなことを考えていたのだろうか、といったことを漠然と考えながら、本棚に並んだ背表紙をぼうっと眺めているうちに、カラスがかあかあと騒ぎ立てる朝を迎えた。
大島は午前中に研究室に用事があるらしい。約束の時間まで時間を潰すことになった内藤だったが、評判の活動写真を見物したり(ロン・チェイニーという男が主演だった)、丸善を覗いてみたりしているうちに約束の時間となった。旧世紀の良き懐かしさと文明の色が心地よく入り混じった京都の町の空気の、なんと清々しいことか!
待ち合わせ場所も、そんな空気をまとったところであった。ポオという名前のカフェーである。
「ああ、お待たせして申し訳ありません内藤さん。用事が少しばかり手間取りまして」
カフェーは学生や女学生で賑わっていた。大島も内藤と同じくレモン水を注文する。
「ああそれと君、あのレコードを止めてはくれないか。僕はあのクラシックという奴が苦手なんだ」
呼び止められた女給はむすっとした表情を見せると、さっさと店の奥に入ってしまった。一応彼の言う通りレコードはかけなおしてくれたようで、店内には昨年あたりに流行ったジャズが流れはじめる。
「それでは早速本題に入りましょうか、内藤さん。一晩考えて、僕の話を信じる気になって頂きましたか?」
「ああ………うん、そうだね」
正直に言えば、彼がこの待ち合わせ場所に律義に足を運んだ時点で、もう答えは決まったようなものだった。だがそれを一旦誤魔化すように、彼はレモン水を飲み干す。
「でもね大島君。昨日見せてくれた佐伯の日記。あすこに書かれていた細胞の記録が、彼の失踪と直接つながっている保証は無いのだろう」
「ええ。だからこそ調べていただきたいのです」
「何も判らないかもしれない。彼はひょっとすると、今ごろ支那かどこかでひっそりと畑を耕しているのかも」
「内藤さんが調べて判らなければ、僕も諦めます」
大島の喰いつきぶりは相当なものだった。そうなれば内藤も折れざるを得ない。
彼が言葉を失い、口を閉じてしまっている間も、カフェーは依然賑わっていた。どの席も人で埋め尽くされていて、がやがやと話声やら笑声が飛び交う。
「……興味はある。佐伯が鞍馬山で採取した細胞とは一体何であったのか。そして日記の最後の日、そこで何を見たのか」
絞り出されたその言葉の内に肯定の意を汲み取った大島は、顔に安堵ともとれる笑みを浮かべた。
「ああ、よかった。実はそう言っていただけると思って、ここに友人を呼んでいるのです。彼は同じ大学で、鞍馬山を対象に民俗学の研究している男でして」
「民俗学? いったいそれがどうやったらこの件の足しになるというんですか」
「学問の領域こそ違えど、あの男があの山に詳しいのは事実です。少々変わり者ですが、何かの参考になればと思いまして………ああ、噂をすれば、その彼が来ましたよ」
大島が手招きする。振り向くと、カフェーのドアベルをからんからんと鳴らす男の姿があった。彼が帽子を取ると、その長髪がはらりと揺れる。男は大島を見ても一切の表情を変えぬまま、大股で歩いてその隣の席に座り込んだ。彼は内藤の方をまっすぐと見て、矢継ぎ早に話し始めた。
「……はじめまして、貴方がくだんの探偵さんですね。文学部の柳川です。横にいる大島君から、既に大まかな事情は聞いています。小生はこの後用事があるので、手短に用件を済ませたく思います…………が。鞍馬山で人が消えた、のですか」
「いや、まだそうと決まったわけでは……」
「そう、ですか。でも可能性がないというわけではないのでしょう。ならば必ず、向かうべきです」
自信なさげな内藤とは反して、強い口調を崩さない柳川。彼は畳み掛けるように続ける。
「わざわざ大阪から京都くんだりまで来るくらいだ。貴方は近頃流行りの小説みたく、安楽椅子探偵を気取っているようでもなさそうです」
「ええ、まあ」
「では小生が声をかけなくても、いずれ山にも足を運ぶ予定だったのでは?」
「まあ、いずれは。でもどうしてそこまで?」
「実は小生、大島君より事情を聞いた際、ひとつ引っかかるものがありまして……」
そこで彼は一旦辺りを見回して様子を伺うと、そっと声を潜める。
「まあ、詳しくは実際に山へ向かったときにお話しします。これは推測の域ですが、彼が採取したという細胞は、単なる生物学的な発見だけには留まらない。その発見はむしろ、民俗学の領域とも密接に絡むとさえ言っていいように思うのです」
柳川の声量は抑えられていたが、その内に秘めたる興奮は隠しきれてはいなかった。そう、彼は何かに気付いた様子であった。その熱意に圧された内藤は、提案に従って明日の朝、山に赴くことにしたのであった。
**
「あ、あとどれくらい階段があるんだ……」
「はは、まだ半分ほどですよ」
翌日。今年で一番暑い日なのではないかと疑うほど強い日差しの中、三人は鞍馬山を訪れていた。柳川を先頭にして、一行は鞍馬寺を目指す。
「鞍馬といえば天狗が有名と聞くね。それとあの細胞に、一体何の関係が?」
何か喋っておかないと参ってしまう。そう言わんばかりに口を開いた内藤に、柳川は嬉々として返事した。
「いや、今回の件に鞍馬天狗は一切登場しない。佐伯という男の手記に、こんな一節があったのを覚えているだろうか。『あれは待っているのだ。何年も何年も前から。きっと聞こえてくる声の言う通り、六百五十万年前から』、というものだ」
彼は自分の手帳にメモしていた文章を読み上げる。内藤にも聞き覚えがある一節であった。日記の最終日、その締めくくりの言葉だ。
「そして彼は、地球上ではそれまで観測されていない、未知の細胞を発見したと言ったね。小生はこの話をはじめて聞いた時、真っ先に思いついたのはこの鞍馬山だった。順を追って説明しよう」
長い階段を登りきると、一行は本殿金堂に辿り着いた。だが目的地はそこではない。わき道に入ると、さらに山深くへ入っていく。
「この先に魔王殿という施設がある。この寺そのものは毘沙門天を祀る寺社ではあるが、以前ある男がその魔王殿について、酒一杯と交換に非常に面白い話をしてくれた。彼曰く鞍馬の魔王とは、六百五十万年前に金星より招来した、人智を超えた存在…………だ、そうだ」
柳川の話は突飛なものだった。だがかといってどう返事をしていいかもわからず、ただ登山という行為に集中することで内藤は思考から逃げた。大島も同じであった。
山はどんどんと深くなっていく。参道の整備は心もとなく、深い森が四方で大きく口を開いていた。幸い木陰により直射日光は避けられたものの、極端な湿気に不快感を煽られる。
「当然小生も酒飲みの与太話だと一蹴していたが、そこに大島君が持ってきた話がこれだ。想起せずにはいられなかったとも。六百五十万年という文字列。そして地球外から来たりし何か」
「その話、柳川は本気で信じているのかい?」
やがて大島は立ち止まり、口を開いた。先を歩いていた柳川と大島が振り返る。彼の声色に、懐疑の念が多分に含まれていたのを感じての行動であった。
「学びの徒たる君らしくもない。進化学的見地から言えば、六百五十万年前といえばまだヒトという種が発生したばかりのころ。誰がその招来とやらを記録したというんだ」
「ああ、尤もな指摘だよ大島君」
柳川は気分を害した様子もなく、優しく大島に歩み寄って背中を押した。ゆっくりと添い歩きながら、言葉を続ける。
「だからこの話は、あくまで探索の動機に過ぎない。彼がこの山を訪れたのは間違いのだから、順当に考えれば山の中で迷子になったか、川で足を滑らせたか、そのどちらかが妥当な理由だろう。登山中の暇つぶし程度に聞いてくれれば良い。小生は小生の動機で。探偵殿は探偵殿の動機でこの山を登る。それでいいじゃないですか」
大島が不服ながらも頷いたのを確認すると、柳川はまた饒舌に話を続ける。内藤はまったくの門外漢だったため話半分に聞いていたが、西欧の新興学問では、その魔王とやらの類似の存在への言及があるとかないとか。露西亜の言葉を操ることが出来るという彼は、その学問を研究題材としているという。
明治の御一新以来、世界各地から多くの知識が流入したが、その全てが日本を豊かにしたかと問われれば、内藤には些か疑問だった。たしかに日本は変わった。街の灯りは提灯からガス灯、そして電灯へ。交通の脚は徒歩から汽車へ。生活は一気に豊かになったことは疑いようもない事実が、どうも急ぎ過ぎているような気もするのだ。江戸っ子が仏蘭西の料理を片端から食べて食べて食べて食べても、腹は膨れるが食の造詣が深まることはあるまい。ましてやその付け合わせの中に毒となるものがあっても、気付くことなどできようか。
柳川はまだ疲れも知らず、ぺらぺらとよく口を回していた。鞍馬はクマラの音変化だとか、クマラは進化を統括する存在だとか。
内藤は聞き流した。大島は下を向いていた。
「ああ、ようやく魔王殿に着いたぞ」
魔王殿と聞くからには、閻魔大王の屋敷のようなものを想像していた内藤であったが、その実はごく一般的な社であるようであった。参拝を済ませた一行はしばらく辺りをうろつくが、目ぼしいものは何も見つからない。ただ見渡す限り、ただただ木々が広がるのみ。
「特段、変わったところは無いようですね」
「佐伯が細胞を採取したのは川と言ったな。近くの川を見てみよう」
そのまま山を下りた先に川が流れているという。登りと違って黙々と山道を降りる。
ふと、声が聞こえた。
内藤は足を止めた。先を行く二人には聞こえなかったようだ。空耳を疑いつつ振り返ると、矢張り誰の姿もない。
気を取り直して再び歩き出そうとする内藤だったが、なにか筒状のものを踏んでしまい、危うく転びそうになってしまう。しゃがんで靴の裏を確かめると、そこには粘着性のある黒い水にまみれた、一本の鉛筆が落ちていた。拾い上げると、それはなかなかに値の張るものであるようにも見える。
「まさか、な…………」
「どうしたんですか、内藤さん」
内藤に気付いた二人が歩み寄る。二人とも、内藤の手の中の鉛筆を見るなりその表情をみるみる変えた。佐伯の言い残したここぞという時が、この山で起こったのは想像に難くなかった。
**
あれから四方を嗅ぎまわったが、佐伯の消息は依然として途絶えたままだった。内藤が佐伯の部屋を拠点として情報収集を始めてから、二週間ほどが経とうとしていた。
そういえば、近ごろ京の町に不審な男が出るという。憲兵やら警官やらが捜索しているが、目撃例は一向に減る気配はない。その男は夜の街をうろついては店先の野菜やら魚やら肉やらを金も払わずに齧ってまわり、声をかけると消えてしまうそうだ。興味を持った内藤はそちらの方にも首を突っ込んでみたが、同じく何も成果は無い。自身に探偵の才が無いのか、それともこの双方が難事件なのか、内藤には判らずにいた。
その日も成果らしい成果も無く、彼は失意と共に佐伯の部屋に戻る。今晩は大島は知人と飲みに、柳川はいつものごとく研究室の資料を読み漁っているそうだ。それぞれが元の日常に戻りつつ、それでも諦めきれずに捜索を続けている。それぞれの動機は多少異なっているものの、この霧の向こうに確かに何かがありそうな気配だけは全員が共有していた。
「といっても、手詰まりなのもまた事実……」
探偵は大の字になって寝転んだ。天井をぼうっと見つめながら、あと訪ねていない彼の知人は誰か残っているか、といったようなことを考える。だが彼は依然として、鞍馬の山に落ちていた鉛筆が気にかかってもいる。
「ひょっこり実家に戻ったりしていれば良いのだが……」
数分ほど布団の上であれこれ呻いていると、なにやら廊下が騒がしい。
「おい内藤さん、いるかい!」
どたどたと人が走る音。声は柳川のものだった。扉を開けると、息を切らした彼が部屋に飛び込んでくる。手には古びた紙束が握りしめられていた。
「どうしたんです?」
「例のクマラに関する露西亜国の文献だ。ぜひ耳に入れたい。よし、翻訳するぞ。『数百万年前、ないし数千年前に金星より招来したと伝えられるクマラはまさしく神、ないしは東洋のブッディズム…………つまり仏教、に連なる存在であることは間違いない。だがここで注目すべきはクマラそのものではない。宇宙からの招来の際、なにかがそれに付着していた可能性を指摘したい。それは米国にて目撃例のある、ヒトに擬態するアメーバ状の生命体なのではないだろうか。かの生命体はこう話すとされる。曰く、数百万の歳月をかけて我々は、この星の生命体すべての細胞を蒐集するのだ、と』」
やや興奮気味に柳川が資料を読み終わると、二人は顔を見合わせて息をのんだ。だが結論を導き出そうにも、どうにも突拍子もない論理にしか辿り着きそうにない。しばらく沈黙を以って、今しがた柳川が持ってきた資料を解釈しようと試みる。
「……いや、信じられない。そんな話は怪奇小説の筋書きがお似合いだ」
内藤が下した結論はこうであった。立ち上がり、引き出しの中からノートを取り出す。
「日記を見てくれ。あいつはあくまで生物学的発見をしたに過ぎない。そうだろう。そんなまさか宇宙人やら神やら、ああ馬鹿馬鹿しい。私はもっと現実的な真実を求めているんだ。そんな話、信じろと言う方が愚かじゃないか!」
「だが、あまりに偶然の一致が過ぎる。植物園で大島君が目撃したのも、近頃噂の変質者も、生物の細胞を喰らって蒐集していると考えれば……」
「偶然だ。じゃなきゃ本当に……」
内藤の口は途中で止まった。彼の手に持つ日記ノートに、妙な粘液が付着していることに気付いたからだ。昨日までは無かったそれは、真っ黒いタールのようでいて、どこか生物由来を思わせるものであった。
「柳川……君」
おそるおそるページを開く。つう、と糸を引く粘液はまだしっとりとしていた。付着したのはごく最近なのかもしれない。
「見てくれ」
「日記の……これは、続きでしょうか?」
筆跡はたどたどしく、そして異様な臭気を帯びた粘液と共にあった。
『まあまあサンプルを集めた。もうすこし欲ばってもいいのだけど、あれこれ嗅ぎまわるヒトがうるさいので、終わりにする。これをみてるんだろ もう一度きなよ』
**
二日酔いを訴える大島を引きずって、一行は再び鞍馬山に向かった。その日は朝から雨が降っており、収まる気配を知らなかった。むせかえるような湿気が肌にまとわりつく。
「一日待ってくれれば、酔いも醒めただろうに……」
「昨日の今日じゃないと意味が無いだろう。ほらしっかりし給えよ。私達はある種の、真相に迫っているかもしれないんだから」
「そんなこと言って、内藤さんも寝ぼけていたんじゃないですか? 日記が増えていたってそんな話、犬も食わない冗談としか……」
「今酔っているのは君だけだよ大島君。そもそもついてきたいと言ったのは君自身じゃないか」
「明日からはしばらく予定が詰まっているんですよ。東京の学会に出席しないといけないんで……ああ、頭が痛い。それに、雨に濡れてしまっては風邪をひきかねない」
山道でも自然と駆け足になった。日記の文字は具体的な場所を示していなかったが、おおよその検討くらいならつく。魔王殿か、ないしは鉛筆を見つけた山道だ。
でも日記に言われた通りにそこに行って、もし何かを見つけたとしても、その後どうするかについては、内藤にも柳川にも考えがあるわけでは無かった。佐伯がそこにいるのであれば、連れて帰ればいい。だがそうでなかったら? この問いに答えてくれる者はいない。
「住職さんが仰るところでは、雨が激しくなりそうだから、あんまり山に長居はするなって。急ごう」
「早く用事が済めば良いがな」
忠告は正しかった。雨はどんどんと激しさを増していく。傘を差しながら歩くにしては足元は悪すぎると判断し、汚れることを覚悟して岩や木を支えにして前に進む。結論から言って、魔王殿の周囲は拍子抜けするほど何もなかった。次に、鉛筆を見つけた山道の方に進んでいく。
「内藤さん、僕の手を見てください。これ……」
途中の岩に手をついた大島が、泥をはねながら近寄った。彼の手には、ぬめっとした黒い液体が付着していた。
「この岩、葉っぱで隠れていますが、どうやら隣の岩との間に人一人分くらいの隙間があるようです。もしかして……」
「ああ、きっとそこだ」
岩の間の隙間といっても、それは山の斜面に開いた小さな洞窟のようであった。入り口こそ狭いが、そのすぐ奥には空間が広がっている。奥行きを確認しようとしたが、とても暗い。一寸先どころか、鼻先すら闇に包まれていた。
「灯りをともそう。柳川君」
「念のため持ってきて正解でしたね。この懐中電灯、五十銭もしたんですから……」
彼が電灯の電源をつける。洞窟が明るく照らされるのと、大島が声なき悲鳴を上げるのはほぼ同時であった。彼の視線の先には、真っ黒な粘液につつまれたヒトが地面に無惨に転がっていたのだ。
「まさか……佐伯先輩?」
彼が駆け寄ると、彼の全身を包んでいたタールが、まるで意思があるかのように蠢き始める。ぎょっとして後ずさるうちに、粘液に引きずられ、その身体は洞窟のさらに奥へ引きずられていく。
なにより一行の恐怖を煽ったのは、どうやらその者は、単に気を失っているだけだったということだ。ずるずると引きずられて行きながら目を覚ましたその者は一瞬で自分の置かれている状況を察し、あらん限りの絶叫を喉から絞り出す。
その声は間違いなく、消えた佐伯のものであった。
「せ、先輩ッ!」
大島がなんとか立ち上がり、奥に向かって駆けだす。柳川と内藤も後を追う。二人はすぐに大島の背中に追いついた。洞窟は案外狭かったのだ。
そこで彼らが見たのは、洞窟の壁中にへばりつき、不規則に蠢く何かであった。
タール状の表面には眼球らしき器官があり、それがまっすぐこちらを見ている。不定形のそれはヒトの器官を形作っては消し、その他魚や、牛や、あらゆる動物の姿を浮き上がらせてはまた消してしまう。
足元まで広がってくるタールのところどころにも、手や足のような器官が生えているのに気付いたのは内藤が最初であった。そしてそれらが、彼らに向かって迫ってきていることにも。
タールさらにあろうことか、声を出した。その声は、このように聞き取れた。
「…………て、けり、り」
内藤は生命の危険を感じ、必死に逃げた。走れるだけ走って岩の隙間を乱暴に潜り抜ける。泥で滑りやすい斜面を、危険を顧みずに一気に駆け下りる。後ろを振り返る暇は無かった。彼は一刻も早く、この山から離れることだけを考えていた。
走る。走った。
立ち止まる。どうやら、貴船神社のそばに出たようだ。家々が連なり、わずかだが道には人通りがある。恐怖の糸が切れ、そこでようやくほっと一息つくと、横にはずぶ濡れで息を切らす柳川の姿があった。その目は恐怖で染まっていたが、確かに彼は生きていた。二人は力なくその場にへたり込むと、今しがた駆け下りてきたばかりの山道に目を遣る。だが待てども待てども大島は降りてこない。
とはいえ二人には、もう一度あの洞窟に戻る勇気など残っていなかった。
**
一週間後。
呆然と、そして逃げるように大阪に戻った内藤の元へ、柳川から手紙が届いた。日記や彼の身体に付着していた黒い粘液は、やはり地球上ではじめて観測される生体物質だったそうだ。原サンプルが無いので断言はできないが、佐伯がはじめに採取した細胞と、おそらくは同一のものであるとのことだった。
「追記ですが……」
そこから先の文字は、何度も何度も書き直しが為されていた。言葉選びに苦労する様子が内藤にも伝わった。
「あの後誰も、大島君の姿を見ていないそうです。まったくの行方不明だと言わざるを得ない。大学当局には、彼が山に向かうと言っていたと伝えておいたし、あの洞窟の存在もほのめかしておいた。だというのに一向に彼が見つかる気配は無い」
こういった妖怪の類がいる、と彼は文面で続ける。ヒトを喰らい、その者に成り代わる怪異。古来より、突然性格が変わった人を指して、その理由付けに用いられてきた怪異についてだった。
「そう珍しい怪異ではない。ああ、今となってはあの怪異が単なる説明のために生み出された存在ではないと、そう言われてしまった方が納得も行こう。あれがそうだ。あの生物はおそらく、生物のその一部分でも喰らって、そうやって細胞を取り込んだ生物に擬態するのではないでしょうか。ここ数日は目撃例を聞かないですが、以前京の街に現れていた、あの変質者の説明もつくでしょう。社会に溶け込み、夜な夜な町へ繰り出し、他の生物を食べ、不定形の身体にて姿を消す怪異。ああ、恐ろしいおぞましい。小生達はおそらく、もう知り過ぎてしまった。これ以上知りたくはありません。…………それでは、内藤さんの探偵業の成功を祈っています」
手紙を読み終わった内藤は、どうしようもない閉塞感からため息をついた。彼はあの日、走って戻って大島を探しに行かなかったことを悔やんでいたのだ。内藤一人に何ができるという話ではあるが、それでも見殺しとも同義ではなかろうか。大島はあの後、おそらくあの洞窟の中で------。
どうにもおちつかなくなって、窓の外を見る。通りは人で満ちている。がやがやと群衆のざわめきが窓にまで届くほどだ。
内藤は都会が好きであった。連帯感の強い田舎と違い、隣人が誰であろうと詮索しすぎるということはない。こんなにも人間が密集しているにもかかわらず、個人個人の繋がりは薄弱だ。気楽でいい。
だが今は、そのことそのものが怖くなりつつあったのだ。ある若者が、ある日突然性格が変わったとして、街ですれ違う我々がどうやってそれを感知できようか。二十世紀を迎えて華やかに活気づくこの街に、人知れず這い寄る何かがいたとして、それにどうやって気付けるだろうか。戦争の足音すら、うまく聞き取れないというのに。
ふと、景色の中の一人の青年に、内藤は注意をひかれた。それはきっと、青年は何をするでもなく、それでも人の流れに逆らって棒立ちしているからであろう。蠢く街並みの中で、ひときわ際立つ静止。彼はただ、ぼうっと空を見上げていた。視線はこちらを向いていた。
瞬間、内藤の背筋が凍る。遠目なので断言はできないが、その顔が大島青年のものとそっくりであるように感じたのは、きっと、気のせいではない。
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雑踏の中で、青年が呻く。
「てけ、り」