切り開かれた先に
翌朝、シュワームの言った通りに雨が降った。夜警備をしていた者はヒュバルの用意した雨具のお陰で雨をしのぐことができた。
そしてその日、雨は一日中降り続き、夜になってもやむ気配はなかった。
「明日お帰りになるというのにこれでは山道がぬかるんで危険ですね。なんとか止んでくれると良いのですが」
夜の晩餐会でジュランが言った。
昼間、無事に約定を結んだ。中身はイスファターナ帝が、望んだことに加えて、ジュランが一項目加えたものとなった。
『帝国とイスファターナの商業発展のため、徐々に貿易をはじめることを、この約定の目的の一つとする』
イスファターナ帝が示したのはあくまで両国の親交を深めたいという内容だった。しかし、そこに何かしらの目的を設けなくては、約定はすぐに塵と化してしまいかねない。シュワームは喜んでそれに同意した。そして、締結の祝いの晩餐会が大広間で行われている。
「確かに馬車で帰るとなるといささか不安ですね。途中の渓谷で車輪を取られかねませんから」
シュワームはふと、窓の外に目をやった。すると、雨のなかを走るヒュバルの姿が見えたので、思わず「あっ!」と声をあげた。
「どうかなされましたか」
「あっ…いえ、あなたの側近と言っていた少年が、この雨のなか、外を走っていたのでつい…」
ジュランも外に目をやると、確かにヒュバルの姿があった。
「よく働いてくれるんです。私の唯一信頼できる部下、というか家族ですね。弟のような存在です」
「唯一とは…あなたは人望もありそうな方だが」
そう言ってシュワームは後悔した。昨日のヒュバルの言葉のなかにも、大変な苦労があったと言っていたのに、不覚にも口走ってしまった。
「フフッ、あなたにも感情を顔に出されることがお有りなのですね。そんなに世界の終わりのような顔をなさらないでください。帝国は現皇帝陛下が即位されるまでに内乱があり、末の弟であった私は、昔から宮殿の外で暮らしていました。その分、苦労もあったというだけです。その時に出会ったあの子は私の生きる希望となってくれました」
「それはご苦労を…」
「ええ。ですが、あの子に出会って私は生きていく力をもらいました。これは親馬鹿と言いますか、思うにあの子は生まれが貴族であればそれこそ宰相にもなれるほどに賢く、器量もあるのです。私のような日陰の人間に仕えるのは惜しいと勝手ながら思っているので、どうにかしてあの子の道を開いてやりたいとも思うのです」
シュワームはそれを聞いて昨夜のヒュバルを思い出した。
「仲がよろしいのですね。昨夜、彼もあなたを大絶賛していましたよ」
「それはまた…お恥ずかしいことで」
「共に互いを高め合える存在だということでしょう。そのような関係は、簡単には生まれません」
「そうですね。あの子との出会いは私にとってかけがえのない宝物です。これまでも、これからも」
その時だった。庭園に続く広間の大きな窓ガラスが割れた。雨の音が急に大きくなったかと思うと、そこからたくさんの全身を黒で覆った服装の人間が現れる。
「シュワーム殿を守れ!」
ジュランは叫んだ。その声に近衛兵が答える。
「帝国近衛兵に告ぐ!この先いかなることがあってもシュワーム殿だけはお守りせよ!私のことは無視してよい!肝に命じよ!」
「キフィルニア殿、何を…」
近衛兵に厚く守られたシュワームが尋ねる。この時、ジュランは黒づくめで現れた人間達を前にして、心の奥の何かを失った気持ちでいた。シュワームを守らねばならないという判断は、彼の心の限界の措置でもあった。
黒づくめの人間達は誰か、言うまでもない。
(つまり、兄上……私は!)
「キフィルニア殿!」
シュワームの声がジュランの思考を一時停止させた。
「貴殿とて下がられるべきだ。あの者達は尋常な様子ではない」
「…」
ジュランはシュワームを振り返って言う。
「シュワーム殿、よくその目で確認なさることだ。これからあなたが目にするのは、帝国というかつての威光の陰にすっかり腐敗しきった現在の帝国皇帝の意思だ」
「…」
「あの子となら何か変えれるかもしれないと期待したこともある。だが、これが私の運命だ」
ジュランは着ていたきらびやかな服を脱ぎ捨て、いつも暗殺に着ている服を露にした。
「兄さん!」
ジュランはその声の主が駆け寄ってくるのを見て、笑顔を見せた。
「兄さん…大丈夫ですか?」
心配そうな面持ちでやって来たヒュバルを全力で抱きしめる。あまりの力強さに、ヒュバルは身動きすら取れなかった。
「…っ」
ヒュバルを腕から離して、息をつく。
「大丈夫だよ。私にはまだやることが残ってる。そう思ううちには気落ちなんてしてられないさ。それで?やはり、相手はあいつらか」
「…飛燕です。白蘭が飛燕のすべてを率いています」
「笑えない冗談だ。青蘭にでもなったつもりか?あいつは」
「…本当に笑えません。先程ちらりと白蘭を青蘭様と呼ぶ声を聞きました」
ジュランは苦笑いした。白蘭が青蘭に。つまりは皇帝の御心を叶える者となった。ここに来ているなら、皇帝は自分と邪魔なイスファターナの使者を消したいのだろう。
「ジュラン!さっさと出てきたらどうだ!」
白蘭―いや、青蘭が言う。
ジュランはその声ににこやかに応じた。
「久しぶりだなぁ、白蘭。今は青蘭になったのか。おめでと、ニール」
新青蘭ことニールはそんなジュランの態度に苛立ちを見せる。
「大人しく投降しろ、ジュラン。それとも、皇弟殿下とお呼びした方がいいか?」
皮肉を言ってみせたつもりかもしれないが、それに反応するのは新青蘭の勢力だけだった。
「どちらでもいいよ、ニール。どちらであろうと、俺に変わりはないだろ?」
ジュランの背をヒュバルは熱く見守った。ニールがジュランをずっと敵視していたのは知っていた。しかし、ジュランはその事を特に取り上げることもなく、自由にさせていた。
昔、ヒュバルはジュランに「なぜか?」と聞いたことがある。ジュランはその時、こう答えたのだ。
「あいつはこの時代の犠牲者だからな」
そう言われて、ヒュバルもニールを個人的に調べあげた。
ニールは元々、貴族だった。貴族といっても下位の貴族だ。そしてそういう立場の人間こそ、この時代の政局に大きく左右される。
かつて、帝位を巡って内乱があったとき、ニールの家は第二王子に仕えた陣営にいたらしい。結果、第二王子は死に、主を失ったニールの家は、没落するしかなかった。内乱で家族を失い、やがてニールがたどり着いたのが飛燕だったという。
そして、同時期にジュランが飛燕に入った。ニールは何度か宮殿を訪れていたので、ジュランが皇帝家の人間であることがわかっていた。ジュランも見たことがある程度であれ、貴族であることは知っていた。
出会った日から、それぞれは皇帝家への何かしらの恨みを持つ同士であったと同時に、皇帝に忠実な僕でもあった。二人は互いの身分を決して他人に明かすことはなかった。はじめからニールのジュランへの思いは、家を失った原因である皇帝家の人間だという恨みと、そして青蘭として自らの上に立たれるという嫉妬と不快で満ちていたものだった。
もし二人の出会いが飛燕でなく、それ以前であったとしたらなどと考えたが、やがて無意味であるように思われた。叶えば同じ皇帝家を嫌う者同士、心を通わせることもできたかもしれない。でも、それは推測であって実際は今、目の前のこの状態が物語っている。心を通わせるなどという以前に、出会った頃はジュランもニールも互いの悲しみが深く、生きていくのに必死だったのだ。
「皇帝陛下はお前を殺すことをお望みだ。兄に殺される気分はどうだ?」
ニールは言った。ニールが知るのは皇弟のジュラン。実際は帝位に最も近い存在だとまでは知らないのだろう。
「お前こそ、なぜこの仕事を受けた?皇帝家を誰よりも嫌っていたはずだろう」
「ああ、嫌いだ!己の欲のために血を流し続け、俺の家族を殺したお前らは嫌いだよ!…そんな俺の家族は今どこにいると思う?内乱の戦死者の共同墓地だ。下位の貴族であったとはいえ、帝国の全盛期以前から血を残してきた家だ!平民らと一緒に埋葬されるなんてあっていいはずがない!陛下は、お前と代償に家名を存続させてくださると約束された。…お前を、殺す」
ヒュバルは背中越しにジュランの表情を読めたような気がした。非公開とはいえ、皇帝は自分の父親だった。皇帝の暴挙に何かしらの責任を感じていたジュランは、必死で青蘭にまで上り詰めた。そのジュランを殺せと、皇帝は命じたのだ。
(ついに…俺は不要ということか)
そう思考がはたらいた瞬間、背後からヒュバルが叫ぶ。
「兄さんには俺がいます!俺が、絶対守ります!」
ヒュバルの声と共に、ジュラン側の陣営とニール側の陣営とで斬り合いが始まった。
「…っ!静まれ!」
ニールが叫んだ。戦いまもない今、両者の陣営はピタリと動きを止めた。
「これが、皇帝陛下のご命令とわかっているのか!皇帝陛下のご命令に背くとあれば、例え近衛であろうともお前達は…!」
「煮るなり焼くなり、好きにすればいいさ!」
ニールの言葉を遮るようにそう言ったのは近衛隊の女兵士だった。
「私の顔を忘れちまったかい、ニール。私だよ、私。あんたと同期のセシルさ!ここにいるのは青蘭様を慕う飛燕達だ!青蘭様は宮殿の近衛隊に自分の派閥を少しずつ送り込んでおられた。青蘭様はそれほどに皇帝に尽くしておられたのに、この仕打ちは何だっていうんだ!そんな皇帝に仕える価値はない!よって、私は飛燕と近衛を放棄する!」
セシルの声に、多くの近衛兵が続いた。そしてその最後には、驚くべき人物の声もあった。
「ならば、私も力を貸そうか」
イスファターナ帝の使者、シュワームである。
「イスファターナ兵、よく聞くがいい。今、帝国皇帝より刺客が放たれた。これは正式なる国と国の会談であり、ましてや私は帝の代理として来ている。その私を害そうとしたことは、ひいては帝を害そうとしたも同じ。先んじて我が盟友となったキフィルニア殿下を守り、皆でイスファターナに帰る!」
その声にイスファターナ兵は一団となって応じた。そして、斬り合いの始まりの号令ともなった。
少し遠くで剣と剣の交わる音がする。
「シュワーム殿…」
ジュランは自分より幾分も年上のシュワームを見ると、シュワームは頷いた。
「セシルさんと言ったかな」
シュワームは目の前にいたセシルに言った。
「はい」
「この中で足の速い者は誰だろう。その者にこの宮殿の前の坂を下りたところに待機させているイスファターナ兵を呼んできてもらいたい」
「よろしいのでございますか」
シュワームはクスッと笑った。
「君らの主と同じだよ。下に待たせているイスファターナ兵の多くは私の手の者だからね」
セシルは一瞬驚きを隠せず目を見開いたが、やがて一人の兵にそれを任せた。
「セシルさん、君らは主のもとへ行きなさい。私なんかより、年若い殿下の方が未来がある。私も心得はあるし、ここにいるイスファターナ兵は精鋭達だ。さあ、早く!」
「…では、お言葉に甘えてそうさせていただきます。しかし、必ず御身はイスファターナにお送りします!」
「私もまだ死ぬわけにはいかないのでね。ここは協力しよう」
セシルが幾人かの兵をシュワームの元に残して、ジュラン達のいる前へと進むと、シュワームの側近達が回りを固める。そして、一人の側近が言った。
「シュワーム様、今回の約定は…」
「残念だが破棄する事になるだろう。皇帝の考えは分からないが、私は我々の帝をこの国の皇帝に会わせたくない。考えがまるで正反対だ。 帝国が考えを変えない限り、帝国とは手が結べない。 むしろ陛下ならソウェスフィリナと同盟を結ばれる方を取るだろう」
その答えに側近は驚いたようだった。
「 しかしソウェスフィリナとは長年の因縁が…」
「因縁とは恨みで成り立たせてはいけないのだ。たとえ敵でも全てが恨めしい人間ではない必ず優しさはある。ソウェスフィリナ王は戦争をし領土を安定させたいだけだ。そして国境を明確に記すことで、ソウェスフィリナ王は次の王に平和な国を作ることを求めている、と私は思っている。そうであるなら、多くの犠牲はあったが共に平和を願う者同士、仲良くもできるだろう。帝国のキフィルニア殿下は本当に国を思っていたはずだ。血縁のことはよくわからないが、皇帝が彼の努力をこのような形で裏切ったことは実に悲しい」
それを聞いていた両国の近衛兵は シュワームの言葉を重く受け止めていた。人の心が生み出した悲しい争いを目の前に見ながら。
「青蘭様!少しお下がりください」
セシル達に後方へと下がらされたジュランは、味方の飛燕達の戦いを見ていた。できることなら、こんなことに自分を慕ってくれる者を巻き込みたくなかった。
「兄さん!」
駆け寄ってきたヒュバルに、ジュランは言った。
「ヒュバル。皇帝にとって俺はいよいよいらなくなったわけだ。皇族だということに振り回されて、結局のところ嫌いな皇帝をずっと支えてきたはずだった。さすがに俺でもこの状況には参ってしまう。『俺は何者だったのか』と自分を見失いそうになる」
そう言ったジュランの表情はなぜか穏やかだった。
皇帝に取り入れたかったわけでもなく、皇帝の暴挙を止めるために、ただ力になれることはないかと模索し、青蘭として、兄であり父である皇帝を支えたかった。それがジュランの何重にも蓋のされた心の奥の希望。それがズタズタに切り裂かれたのだ。
「その答えは今なら私が知っています。兄さんは、私の運命の人です。出会った日からずっと」
そう言うとジュランは少し驚いたようで目を丸くして、それからヒュバルの銀色の髪をくしゃくしゃとかき乱した。
「…俺もそう思う」
それから腰の短剣を手にした。
「行くぞ、ヒュバル!」
「はい!」
後方へと下がっていたニールは、この状況に苛立ちを吐露していた。
「まだ、仕留められんのか!人数では優勢であるはずだ!」
「やはり、ジュランとヒュバルの動きはなかなか追えないようです。それに青蘭派は精鋭が揃っておりますので…」
ニールの側近の返答に、ニールは苛立ちをより大きくさせて、やがて自分の暗器を取り出した。
「俺が出る。イスファターナの使者を先に仕留めてくる。お前達はジュラン達を足止めしろ!」
外の雨は相変わらずやむ気配がない。シュワームは外の様子を見ながらイスファターナ兵がやって来るのを待っていた。外は漆黒の闇に包まれている。その闇に稲妻が走るのが見えて、幾度か広間を照らし出した。その稲妻の音とほぼ同じタイミングで、兵の叫び声があがった。
その兵の崩れ去る先に、ニールの姿があった。気配もなく、混戦から少し離れたこの場所まで一人たりとも気づかれずやって来たその能力は、青蘭の次席である白蘭となっただけのものがある。
ニールは一歩一歩シュワームに近づいた。
「ジュラン達の前にまずはお前からだ」
シュワームも、一閃交えるつもりで剣を構える。そして、再び稲妻が闇夜を走る。それと同時にジュランがニールの背中に斬りかかった。
ニールはそれを寸前でかわし、床を転がりながら間合いをとった。
ニールは混戦の動きが一時的に無くなっているのを見た。その混戦の中に一本の道のような空間ができていて、すぐにまた混戦へと戻ったが、床にはニール側の人間が倒れている。
「追いついたというわけか、ジュラン」
「さあ、このつまらない狂宴にケリをつけようか、ニール」
混戦のなかにあったヒュバルに、ハクが言った。
「ヒュバル様…あれは」
「うん、樹燕だ。初めて見るな」
樹燕とは飛燕に伝わる奥義のことで、決闘などの際に用いる。呼吸を読み合い、一瞬で技を決める飛燕同士の雌雄を決するための儀式だった。
急に広場に静寂が訪れた。割れた窓から雨音だけが聞こえるなか、この時は誰もが、樹燕の行く末を見守る。
雷鳴が轟く。勝負は一瞬だった。
金属音が床に落ちて響く音が、歓声の蓋を開け放つ。
「勝者、ジュラン!」
セシルが高らかに言った。ニールはジュランに胴を薙がれて床に倒れ伏せる。ジュランは右腕に少し深い切り傷を負った。
「兄さん!」
「…ヒュバル」
ヒュバルは手持ちの布で傷口を縛った。
「大丈夫だ…ヒュバル。これで、終わったんだ」
すると、ジュランの元にシュワームがやって来た。
「キフィルニア殿下、よくぞおやりになりましたな」
シュワームにはジュランの考えが読めていたらしい。
「帝国の闇と呼ばれた暗殺集団。それが実在するとは今日知りましたが、ともかくあなたはそれを絶やすことができる」
ジュランは頷いた。
「ニールに従っていた者達に告ぐ。お前達を今より飛燕から除名する!今後はそれぞれが生き方を縛られること無く生きる自由を得る。もう一度新しい人生をはじめることを命じる」
ジュランはそう叫んだ。ニールに従っていた者達は暗器やら武器を全て捨てて宮殿を出ていく。それとほぼ同時に、イスファターナ兵が到着した。
「シュワーム様!」
「到着したね。まあ、もう終わったからいいのだけれど、君達は帝国兵に代わってこの宮殿の警備をしてくれ」
「はっ!」
ヒュバルはようやく得られた安堵に深く息をはいた。張りつめていたものが抜けていく。
「ヒュバル様!」
ハクの声だった。