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イスファターナ戦記  作者: 結月詩音
一章 暗殺集団『飛燕』
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初めての『死』

 それから四年経って十歳になったばかりのころ。

 基本の技を教えてもらったヒュバルは、いよいよジュランの仕事に同行することになった。


 「今日のところ俺の仕事見ておくんだ。言っておくが足手まといになるのは当然だ。俺からの要求をただ一つ。不用意に物を触るな。常にこれをはめておけ」


  ジュランはヒュバルに手袋を渡す。


 「いいか、俺たちの仕事は皇帝の命によるものだが皇宮近衛隊の調査を免れることはできない。一点の曇りもなく対象の人間をこの世から消す。だから不用意にものに触れてやつらの捜査の証拠をあげてはいけない。俺の言っている意味は分かるよな」

 「…はい」

 「緊張することはない。むしろしない人間はいない。お前は革袋を、それも大きめのやつな。準備しておけ」


 その日の夜帝国の貴族街を音もなく忍び寄る。いつもの月が道を奇妙に照らし出すのでヒュバルは誰かに見られているのではないかというような感覚を覚える。一方でジュランは違和感を微塵も与えない。


 紛れる―


  ジュランが教えてくれた。普段のジュランは驚くほどに静か。下位の階級の団員たちもジュランがいることに気づかず声を上げることがある。下位の階級の空気を纏う、都の人間の空気を纏う。まるで風のように立ち去っていく。


 初めの頃にジュランが自分を観察しろ、と言った意味がよくわかる。組織ではジュランだけではなく教官と呼ばれる人間からも暗殺について教わるが、言われて学んだことよりもこうして見て覚えた方が実践という時に体で動くことができる。


 これは戦術と戦術の戦いである戦争ではなく、一方的な暗殺。知恵も必要だがそれ以上に感覚と危険を察知する本能の戦い。


  ヒュバルは月明かりを含んだ空気を深く吸い込み、深く吐き出した。それを隣で見るジュランは微笑ましげに見守る。


 今回の仕事対象は帝国大臣の一人クラバー=コーセウス。 法務大臣の彼は最近権力を笠に言いたい放題なんだとか。ヒュバルにもジュランにも表社会のことは関係ない。ただ命令に従うということだけ。


 「行くぞ」


  塀を渡って広すぎる屋敷の庭を見る。


 豪華絢爛、ヒュバルのかつての生活からは想像もつかない。 ジュランは塀伝いに屋敷のバルコニーに立つと、窓ガラスの一部をものの数秒で取り外し外から鍵を開けた。 ジュランは部屋に入る直前、ヒュバルに辺りの監視を任せた。


 「…ヒュバル。俺から目を離すな。革袋を持っておけ」


 頷くと、ジュランも頷き返して静かに部屋に入る。ヒュバルは部屋の扉に鍵がかかっていることを確認すると、ジュランに無言の頷きを見せた。


 すると、ジュランは荷物から布巾を取り出し、寝台の脇に立つと、そこに眠る今回の標的の口許にすばやく押し当てて、腰につけた短剣を首にあてがう。


 「…」


 水道管が破裂したか、それくらいの衝撃があった。ヒュバルの思考はしばらく停止し、やがてヒュバルの目は短剣の血を拭うジュランを捉えた。


 「ここに用はない。帰るぞ」


 恐ろしく静かだった。まるで自分が一瞬死んだかと思うほどに、いや、あの時点のヒュバルは確かに息をしていなかった。それはこれまでのヒュバルの思考回路の何かを殺したのだ。

 何者でもなくなった自分がそこにいる。


 (俺は宙に浮いているのか?)


 まるで自分を別の目からみているかのようだ。魂というものがあるなら、すっぽりとヒュバルの体から抜けてどこか遠くへ行ってしまったのかもしれない。





 「…バル。ヒュバル!」


 地面に足がついたのは組織に戻ってからだった。ジュランに呼ばれて気づいたときには組織の入り口に来ていた。


 「ジュラン、今帰ったのか」


 入り口の前で、仮面の男が立っていた。男の名はデューズという。組織の頭だ。


 「ええ、今でした」

 「そいつはお前の秘蔵ひぞっ子か?」

 「初日にしてはいい仕事でしたよ」

 「ヒュバルだったか。教官達が優秀だと言っていた」

 「優秀かはまだわかりませんよ。実践はたった一日ですからね。まぁ、ご期待には添えるよう頑張りますよ」


  ジュランに連れられ入り口をくぐり、デューズの姿が見えなくなるとジュランはヒュバルを抱きかかえた。


 「…よくやった」


  部屋に着いたと同時にジュランは言った。 その瞬間猛烈に吐き気が襲ってくる。革袋の意味がよくわかった。


 「あの場で吐かなかっただけ、お前はすごいよ。あれか?俺が不用意にものを触るなと言ったから、あの場を汚さまいとしたのか?多分吐きたくなると思ったから持たせたんだが」


 そんな冷静な考えは持ち合わせてなかった。ただ、自分は誰なのか、地面に足がつくためにずっともがいてただけ。

 喉が胃酸でヒリヒリと焼け付く。それと同時に頭が限界を唱えて激しい頭痛をもたらした。


 その後、高熱で倒れたヒュバルは、いつのまにか寝台に寝かせられていた。

 翌朝の朝刊に、暗殺のことが取り上げられていた。事実だったと、夢ではなかったと確信したヒュバルは、布団に深く潜り込んだ。まだ、生々しい感覚が脳裏に焼き付いている。


 (あれが…人の命を絶つということ)

 

 いつの間にか恐れるものだった『死』。死を恐れることは命が動き出すとき、つまり生まれるときにあらかじめ感情として組み込まれていたことなのだろうか。

 会ったこともない生母の死はもちろん祖父の死でさえ、ヒュバルの短い人生では、どこか感情になるには情報が足りない、欠落したものだった。

 昨日の事件。見ず知らずの人間の命があの一瞬のうちにこの世界から消え去った。


 「ヒュバル、調子はどうだ?」


 ジュランは朝食を運んできたようで、部屋のなかに卵粥の平和な香りが満ちていく。 ヒュバルの深く沈んでいった思考を現実へと引き戻す。不思議と、冷え切っていた手に血が通ったように感じた。


 (こちらが現実なのか)


 ヒュバルは微笑む。


 「もう大丈夫です。心配をおかけしました」

 「…そうか。お前、今日は休んでいろ。教官にも伝えてある。お前はよくやったよ」


 寝台に寝てばかりいるのも退屈だろうからと、ジュランは昔話をしてくれた。


 「俺の教育官は前の青蘭だった。酷い人だと思ったよ。すべてを圧倒的実力で解決する。そこに、何の躊躇いもない。 俺がはじめてその人と仕事に向かったとき、俺はいきなりナイフを渡された。渡されただけだったが、恐怖を知るには十分だった。俺はその場で吐いていたよ。その人からはみっちり怒られたけどな」


 その人がどうなったのかは聞くことはしなかった。ここにいないってことは、つまりはそういうことなのだろうから。


  「お前はその点、俺より優秀だな。お前は賢いよ。生まれが貴族とかだったらいずれ宰相とかになっていたかもしれないな」

 「じゃあ、僕は兄さんの頭脳になります。僕はこれからも兄さんとずっと一緒にいたいから」


 そう言うとジュランは少し驚いたようで、やがてにこりと笑って俺の髪をくしゃくしゃとかき回した。


 「そうか、それは楽しみだ」


 ヒュバルにとってジュランに出会えたのは運命だった。それはジュランにとっても同じことだっただが、おそらくヒュバルは気づいていないだろう。そう思うと、一層笑みがこぼれてしまうジュランだった。





 ヒュバルは程なくして初めての仕事を任された。ジュランも同行しているが、あくまで側にいるだけ。計画から実行までをすべて自分でしなくてはいけない。その日は一日が恐ろしいほど早く過ぎ去った。


 「気分は大丈夫か、ヒュバル」


 仕事を終えて、外の森の木の上で星を眺めているとジュランが酒を持ってきた。


 「…兄さん、俺はまだ酒は飲めません」

 「そうか。そうだったな。忘れていたよ」


ジュランは恥ずかしそうに頭をかく。


 「…やっぱりいただきます。飲んでみてもいいですか」

  「ああ。無理はするなよ」


 甘酸っぱい香りとほんのりとした苦味。不思議と心の傷を癒してくれる。 人の命を絶っておいて、傷を癒やす権利があるのかはわからないが。


 「…兄さん」

 「おう」

 「俺達は何者ですか」


  夜風が二人の間を通り抜ける。


 「人を… 殺して生きていくことに何か意味があるのでしょうか。その人達にも家族はいて、悲しむ人がいる。兄さんの仕事をバカにしているに聞こえたらすみません。いくらでも殴って欲しい。でも、兄さんの仕事に同行して『死ぬ』恐ろしさを知った。そして今日、僕はとうとうこの手で命を絶った。肉や魚をを食べたりする感覚とは別のものだ!僕は…だんだんと人じゃなくなっていくようなこの感覚が…俺は…怖い」


 すると、ジュランはしばらく何も言わずにヒュバルを見つめていたが、やがて自分の方に寄せてぎゅっと抱きしめた。


 「…お前は人間だ。人間なんだよ、ヒュバル。人間だから、同じ人に殺されることを恐れる。俺はとっくに感情を失くした獣に成り果ててしまったらしいが、お前はまだ人間だ。こんなことを言ったら俺も処罰の対象になるかな、ハハッ」


 ジュランはヒュバルを離すとじっと目を見ていた。


  「安心しろ、ヒュバル。安心できるかは知らないが、こんな組織が存在していいはずがないんだよ。人を人とも思わず道具のように扱う世界があってはいけない。俺も元々好き好んで暗殺しているわけじゃないからな。今だって…。ただ一つだけ言えることは、この組織がなかったら俺はお前に出会えなかった。そこだけはこの組織に感謝しているよ」


 そう言ったジュランの表情はどこか美しく、悲しかった。


 「星はいいな。いつか…」


 (この組織を抜けたいと俺が思っていると知ったら、お前はどうする、ヒュバル)

 

 突然、座っていた木の枝が揺れるくらい大きな風が吹いた。


 「兄さん、何か仰いましたか」

 「…何でもないよ。さあ、もう部屋に戻るぞ。風邪を引く」


 風だけがジュランの声を聴いていた。それは夜の闇に溶けるように消え去っていった。

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