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小さな村の小さな学校に向かう道すがら。移っていく景色に入り込んでくるいくつものツチノコたち。ツチノコのオブジェ、像、椅子、シール、絵、柱、建物......。
全て廃れ、錆び、剥がれて哀愁漂う姿をしている。
何十年か前のツチノコブームにあやかって村興しのために建てられたものたちらしい。
土古村という村の名前の語感がツチノコに似ていたから、なんて理由だった気がする。
一様に茶色のそれらは狭い村の景色をより一層閉鎖的にしていた。
でもずっとこうだし、死にかけたようなオブジェたちが、俺の目には木々や家々と同じくらい馴染み、とるに足らないものになっていた。
「お前英語得意だっけ」
隣を歩いていた郁が言った。
「残念苦手。どうしたの?」
郁は鞄を振り回しながら不機嫌な声を出した。
「和訳の課題が出たんだけど全然解んねんだよ」
「ごしゅーしょーさまー」
郁が鼻を鳴らす。
「じゃあ辞書貸してくれ」
「ないの?」
「イライラして破っちまった」
「あららー」
前方に分かれ道があった。
右の道を行けばあと数分で学校だ。
しかし俺たちは連れ立って左に進んでいく。
少し狭くなった道幅を並んで歩く。
先から涼しい気配がやって来た。清涼感のある風が俺たちを包む。
空気がいつもより瑞々しい気がする。
いい天気だからだろうか。
俺たちの前に小さな橋が現れた。
俺たちはツチノコ橋と呼んでいる。この村唯一の小さな池に架かる小さな鉄橋。この村のオアシスだ。
俺たちは朝少し遠回りをして橋を綿って登校していた。
欄干にツチノコがあしらわれ、装飾が剥げて悲しそうな顔が一列に並んでいる様がどこか可愛らしくて......あれ。
なにか。違和感。
やはりいつもと空気が違う。視界も明るい。
何だこれ。何だ。
俺はすぐ横でこちらを向いているツチノコを凝視した。
あ......。
やっぱり、違う。
そのツチノコは剥げていなかったのだ。
そのツチノコどころか並んでいるツチノコ、いやこの橋全体がまるで新品のように綺麗になっていた。
隠れていた眉が現れ、ツチノコはキリっと俺を見据えている。
錆のない鉄橋は様々な光を反射してキラキラと光っていた。
「ねえ何かキレイくない?」
平然と渡る郁に言う。が、郁はピンときていないようだ。
「そうか?」
んー、と橋を見渡す。
「役場が直したんだろ。一応観光地だし」
と言って鼻で笑った。
「村の外から人が来たとこなんて見たことねえけどな」
「うーん、でも昨日までこうじゃなかったような」
先に進んでいた郁が叫ぶ。
「おーい先行くぞ」
「うーん」
俺は池を覗く。
小さいくせに深い池の底には、大きく尖った岩がごろごろ転がっていた。
薄緑色の水面に写る自分の顔がぐにゃりと曲がった。渦を巻くように歪んでいく。
吸い込まれる!
そんな恐怖を感じて俺は逃げるようにその場を離れた。
橋の終わりで待っていた郁の元に走り寄る。
そこからもう一度、橋を振り返った。
「はじまりの橋」
「何だって?」
俺は一番端の親柱に顔を近づける。そこに書かれていたのだ。
『はじまりノ橋』
この橋そんな名前だったんだ。
石に彫られた名前の下に輪っかのようなものが彫られていた。
なんだこれ。
俺は輪っかを指でなぞった。
”いかないで”
頭に声が響いた。
俺は郁を振り返る。
「何か言った?」
「は?言ってねえよ早くしろよ」
”ひとりにしないで”
「ひとりにしないで?」
「はあ?俺まで遅刻させる気か?も、行くぞ」
「うん」
もやもやしたが、痺れをきらして歩き出した郁を俺は追った。
縁側におばあちゃんと並んで座る。
おばあちゃんが茶の入った湯飲みを差し出す。
ズズズー。
「おばあちゃん、ツチノコ橋っていつからあったか知ってる?」
ズズズー。
「さあねえ。私が生まれた頃にはあったよ」
おばあちゃんはもうすぐ80歳になる。
そんな前からあったのか。
おばあちゃんが湯飲みを置いた。
「あの池には面白い話があったね」
「面白い話?」
俺は遠くを見据えるおばあちゃんの顔を見つめる。
「あの池は『はじまりノ泉』って名前なんじゃ」
また、はじまり。
「この世界はあの池から始まったって逸話があるんじゃ。全ての始まりを司る場所。新たな命が生まれる泉」
新たな命が生まれる泉……。
俺は日の光を反射し、通る風を清々しく見送るツチノコ橋を思い出した。
あの声はツチノコ橋の声だったのだろうか。
あんなに綺麗な外観にそぐわないとても悲しそうな声だった。
俺はなんだか居ても立っても居られなくなって家を飛び出した。
”独りにしないで”
あの言葉が頭から離れない。悲痛な気持ちが抑えきれずに溢れ出てくるような。
俺の心に沁みついていく。
ツチノコ橋は何も変わらずそこにあった。
なぜかホッとして息を吐いた。
俺はツチノコ橋の欄干に飛び乗って座る。
もうすぐ日が暮れる。
衝動的に家を出てきてしまったから帰らないと。
そう思うのに俺はその場から動くことが出来なかった。
俺は水に写る夕焼けが消えていく様を眺めていた。
「おい発見」
池に吸い込まれていた意識が現実に引き戻される。
俺の後ろに郁が立っていた。
「あれ郁どうしたの?」
郁はわざとらしく大きなため息をついた。
「辞書貸せって言っただろ。明日までなんだよ」
「ああ。そっかごめん」
しかし俺はここを動く気がおきない。
心から伸びた根が橋に根付いてしまったように。ここにいるべきだと強く感じた。
「おい」
「郁」
俺を催促しようとした郁の言葉を遮る。
「おばあちゃんがさあ、この池ははじまりの泉って名前って言っててさあ」
「山田さんが?へえ。名前あったのか」
「うん。それで、ここからは新しい命が生まれるんだって」
「……何の話だ?」
いつのまにか月光が水の上に道を作っていた。
この光の橋はどこへ繋がっているのだろう。
目で追っていく。
しかし水平線で道は途切れてしまった。少し寂しく思った。
境界線で不気味に揺らぐ橋の終わりは、池の底に真っ逆さま落ちているようにも見えた。
ぞぞぞぞ。
全身に悪寒が走る。
また、恐怖がやってきた。
すっかり暗くなった辺りの空気が先を急いで池の中に押し寄せていく。その波に自分も巻き込まれていく感覚。
落ちる!
そう思ったけれど実際には落ちていなくて、俺はただ水面を見つめていた。
俺は視線を動かす。
郁は隣で欄干に背もたれながら携帯電話を弄っていた。
小さくて強い光が視界を明るくする。
あれ、また。違和感。
朝感じたものと同じ違和感が胸に湧いた。
どこだ。なんだ。
目を凝らす。視線をめぐらす。
「そろそろ帰るか?」
郁がこっちを見ている。
その手元。郁の顔を照らす光のはじまり……。
これだ!
俺は咄嗟に郁の手を掴む。
「うおあっ」
郁が驚いてひっくり返りそうなのも気にせずじっとそれを、郁の携帯電話を見つめた。
何かが頭に引っかかっている。
ビリビリと痺れるような細かい痛みが脳の血管を伝っていく。
何か、ここに何かある!
「郁!!」
勢いよく顔を上げるとまた驚いた郁が目を見開く。
「な、んだよ」
「このケータイいつ買ったやつ!?」
「は?えーっと中学んとき買ってもらったから……5年前か?」
「5年……」
5年間使っている携帯電話がこんなに綺麗だろうか。
傷1つ無い。今日買ったって言われる方が納得できる。
本当に、まるで使ったこのない、新品のような……。
頭に走る痛みが強くなる。
「貸して!」
郁の手からケータイをひったくろうとする。
咄嗟に反抗した郁の手からケータイが飛び出した。
「あっ」
「あ!」
弧を描いてケータイは池の中に落ちた。
ポチャっと軽い音がしたその瞬間、脳裏にフラッシュバックした。昨夜の、出来事......。
池の中をチラチラと落ちていくケータイ。最後には見えなくなった。
そして、その横からぬらぬらと赤い血が湧いてきている。
大きな衝撃の後の、激しい水面の動き。
波紋が血溜まりを中心として広がっていく。
俺はそのとき叫んだんだ。
郁―――――――――!!
池底の尖った岩たちが、俺を嘲笑うように揺らめいていた。
思い出した。
昨日、郁は死んだんだ。
昨夜、俺たちはここで空を見ていた。星を見ていた。
郁がケータイで写真を撮ろうとした時、誤ってケータイを池に落としてしまった。
郁は欄干から身を乗り出して手を伸ばしたが間に合わなかった。
そのとき、ギギギギと大気が擦り割れていくような音がして、郁が体を預けていた手すりが外側に傾いた。
そして、郁は、鉄の塊と共に池の棘に落ちていったのだ。
「郁」
「なんだよ。てかどーすんだよ」
池を覗き込む郁に声をかけた。
声が返ってきた。
俺は郁に抱きつく。
「は?」
何で忘れてたんだろう。何でか分からない。
でも、生きてる。郁が、生きてる。生きてる。
「おい!誤魔化そうとすんな!......て、何で泣いてんだ!?......いーよ別に。もう古いし、新しく買うつもりだったって。気にすんなって」
鉄橋の錆が擦れた、まるで断末魔のような唸り音、欄干の尖った剥がれ跡、恐怖に震えた心。
全てが鮮明に蘇ってくる。体が震える。
よかった。生きてて。
郁が戸惑ったようにぎこちなく背中を撫でてくれた。
「よし、帰ろう」
「お、う」
俺は歩き出す。
郁は俺にどうしたのか聞きたいのを抑えてついてきた。
「ねえ、昨日何してた?」
「あ?昨日は......あー、何してたっけ?」
郁は宙を仰いだ。
やっぱり郁は覚えていない。
俺は橋を振り返った。橋は月光を浴びてどんとそこに存在していた。
はじまりの泉......。
ビリリリ。
橋の欄干に並ぶツチノコの顔にノイズが走った。
なんだ今の。
目を擦ってもう一度見る。何も変わりはない。
見間違い?
「も、帰るぞ」
「うん」
俺は最後にツチノコ橋に頭を下げた。
郁を助けてくれてありがとう。