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家庭内暴力における弱者が暴力被害者ではない場合について

作者: 矢野祐

ゲド戦記は、愚かな子供だったゲドが、自分自身の弱さと向き合い対峙することで、大賢者になるまでの物語です。

「愛する者にたいして、止めたいのに暴力を振るってしまうといった場合、それは振るう側が弱者であるといえます。」


弁護士は、表情を変えずに淡々と話しはじめた。


「止めたい、つまり愛する者を傷つけ、自分にも不利になる可能性を自覚しながらも止められない。


愛する者が離れていき、自分の信用が失われる危険性があることを知っていながらも続けてしまう。


これはほとんど自傷行為に近い。」


まさかの展開に驚いて、僕は言い返した。


「いやでも、どんな時でも人に暴力を振るうことは悪です。」


それを無視して弁護士は続けた。


「つまり、自分の意思とは反対のことをせざるを得ない精神状態にある、と言い換えられます。


つまり弱者なんですよ。」


僕の返事を待つことなく、それでは、と弁護士は示談金について話し始めた。





初めての恋愛がよく分からないうちに終わり、ただ寂しさと休日をもてあましていた学生時代の僕は、他人を信用することに疲れきっていて、周りの心配をよそに、一人で過ごすことが多くなっていた。


初めての恋人はいつも笑顔で楽しそうで、清楚な淡い色のスカートが似合う女性だった。


僕の研究室の男の幼なじみだった。


お節介な彼は、恋人が出来たことのなかった僕と彼女の仲人をかってでた。


初めてのデート、海辺のドライブ、手を繋いだ日、キスをした夜、すべてが新鮮で、僕は彼女がどんどん好きになった。


しかし一年を過ぎた頃、終わりはあっけなく訪れた。


彼女は同郷の繋がりを大切にしていて、毎週のようにある仲間たちと遊ぶ時間が減ったことが不満だという理由だった。


今となってはそれが本当だったのか、嘘だったのかは分からないが、とにかく僕は突然ひとりになった。


毎週末の予定がぽっかりと空いてしまった。


毎朝彼女を起こす電話も必要なくなり、僕は自由になった。


きっとこの頃の僕は、元に戻っただけだと言いながらも、孤独で寂しかったのだ。


彼女に出逢ったのはそんな秋のことだった。





僕は初めての彼女にフラれた一ヶ月後、慣れない酒で飲み過ぎ、三日間の入院をすることになった。


大学の仲間は、あまりにも分かりやすい自暴自棄だとからかいながらも見舞いに来た。


それを見ていた隣のベッドの男性と、男性を見舞いに来ていた娘も笑っていた。


「騒がしくてすみません」


仲間たちが帰った後で僕はその父娘に謝った。


「いいえ、楽しそうで羨ましい」


娘が言った。


30歳近いだろうか。


スーツを着て薄めの化粧をした彼女は、父親と同じく穏やかそうで、ゆっくりと諭すような話し方が特徴的な女性だった。


影があるが、感じのいい人だなと思った。


退院直後の翌週には、僕たちは初めてのデートをしていて、その一ヶ月後には初めてのキスをして、その日には一晩を共に過ごしていた。


別れた彼女の事が頭をよぎることもあったが、早い展開に僕はついていくのに必死だった。


とはいえ、10も歳が離れた僕たちは目立ってしまっていた。


また、彼女には離婚調停中の夫がいた。


よく考えろと周りは反対をした。


ただ、それは逆に僕を彼女に夢中にさせた。


半年過ぎた頃には、暇をもてあましていた僕は夫のいない彼女の部屋で同棲していた。


彼女が仕事から帰ってくるまでに家事をし、大学に行き、退勤までには戻るという生活が一年続いた。


この半年で彼女の離婚が実は二人目であり、何か事情がありそうだと知っても、僕は幸せというより、もはや全てが満たされていた。


「あなたにはもっと色んな可能性があるのだから、私なんかより素敵な女性はたくさんいるのよ」


彼女はいつも哀しそうに笑ってそう口にした。


「そんなことない、やめてよ」


僕はいつもそう言って彼女を説き伏せなければならなかった。


そんな生活が二年続いた頃から、彼女は僕に隠し事をするようになった。


小さな嘘で、とるに足らないような事を隠すようになった。


僕と彼女は些細なことで言い争うようになった。


僕は疑心暗鬼になり、少しの不正確性も許せなくなっていた。


もうこの関係のすべてを終わらせようと思った。


でも優しくて穏やかな彼女は、そんな僕に哀しそうな顔をしていつも必死に謝ってきた。


それが毎日のように繰り返され、ある日僕は彼女を両手で押し退けてしまった。


彼女は倒れ、泣いて謝ってきた。


でももう可哀想という気持ちよりも、憎悪の方が大きくなっていた。


僕はもはや、彼女が好きなのか憎いのかさえ分別がつかなくなっていた。


泣いている彼女の頬を叩きながら、僕は涙が止まらなくなっていた。


何をしているんだろう?


僕は彼女の家を出て、交番に向かい、そこで泣きながら全てを話した。





弁護士は事務的な話とこれからの予定を一通り説明した後で、僕にゲドは知っているかと質問をしてきた。


何を言っているのか分からずに聞き返すと、どうやらゲド戦記のことを言っているらしかった。


僕が読んだことはありません、と伝えると、弁護士はじゃあこれあげるから、と3冊の本をそのまま手渡してきた。


はあ、と僕が曖昧な返事をすると、弁護士は


「ゲドはね、弱い自分自身の影と一生をかけて戦うため旅に出るんだ。


そして大賢者になる。


でも賢者になって帰って来た強いゲドを脅威と感じた、弱い周囲の人達は、賢者のゲドに暴力で対抗するんだ。


弱い者は暴力でしか戦えないんですよ。」


弁護士はそう言いきったあとで、僕の返事は待つことなく、それじゃあまた次回ということで、と話を切り上げた。


僕は弁護士事務所を出て、三冊の本だけを持って歩き始める。


ちょうど時刻は正午で、外を歩くビジネスマンが多くなってきている。


外気は冷たく、空は真っ青で雲ひとつない。


涙は乾き始めた。

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