第三話「獄」
◆ 登 場 人 物 ◆
影月 十太郎
本作の主人公 少々いいかげんな性格でありながらも、自称「やる時に、たまにはやる男」元締に頼まれた仕事を引き受けたゆえに、闇の地にて闇住者に追われる
霧雨 九蔵
沈着冷静な霧消流剣術の使い手 十太郎と共に元締に仕事を頼まれたことで、事件に巻き込まれていく
六道 三右衛門
江戸の口入れ屋の元締め 旧知の知人 夢戒僧正に依頼された仕事を十太郎に任す
夢戒僧正
『丑寅の関』向こうの地にある旧寺の住職
鷹田 康三郎
鳳凰藩士 主君の密命を帯び、十太郎と接触する
菊川 保知
鳳凰藩家臣 『朝露』の里より、忍びの者『草』を率いる。獄につながれた鷹田の救出を主君から命じられる
月草
『朝露』の一草 年長の少女 数え十五
銭巻
『朝露』の一草 二番目の少年 数え十四
田菜
『朝露』の一草 三番目の少女 数え十三
茅
『朝露』の一草 四番目の少年 数え十
堅香子
朝露』の一草 一番年若の少女 数え九つ
明石右近
青葉の赤鬼と恐れられる青葉藩家臣随一の剣豪 『丑寅の関』の関守に命じられる。
川田 長兵衛
青葉藩家臣 明石の重臣
支倉 兼嗣
青葉藩筆頭家老 『丑寅の関』の事変に深くかかわりをもつ
大谷古四郎
青葉藩随一の豪商
丹羽 勘兵衛
鷹田と同じ獄の囚人
鳳凰 崇宗
鳳凰藩主 爽やかな風貌で家臣の信頼も厚い 人前で声を発さず二人の小姓を使って家臣を動かす
葦毛 坊丸
崇宗の小姓 右目が蒼い 感情を表に出すことなく崇宗の言葉を家臣に伝える
栗毛 峰丸
崇宗の小姓 左目が赤い 感情を表に出すことなく崇宗の言葉を家臣に伝える
闇住者
詳細不明
(一)
東海地方の一角を担う鳳凰藩は、小藩でありながらも古くからご三家の一つ尾張藩と婚姻関係による深いつながりがあり、鰯や浅蜊などの海産物をはじめ、温暖な気候がもたらす石高以上の農産物の恩恵により、潤っていた。
今の藩主、鳳凰崇宗は、下女上がりの側室腹の子であったが、幼少の頃より聡明で、家中の者からも一目置かれる存在であった。一部、それを快く思わない古い勢力もあった。正妻に子ができなかったことから、はじめに尾張藩から迎えた養子の隆信を跡継ぎとしていたのだが、先代の鳳凰隆康は血のつながりがある崇宗を早くから跡継ぎにしたいと密かに考えていた。
十五年前、崇宗が元服を迎えた年に、この鳳凰藩で不幸な出来事が起きた。藩主の隆康と隆信が乱心した一人の家臣により惨殺されたのである。藩では多額の金銀を各方面につかい、藩主とその跡継ぎは流行病の疱瘡で逝去したということで何とかおさめることができた。その後、若い家臣を中心とした新しい勢力が押す崇宗派と旧勢力の争いが真の原因ではないかと当然のように噂されたが、表だってそのことを口にする者は誰もいない。
それから奇妙なことが起こった。
その事件の後、崇宗は自分から家臣に直接話すことはせず、小姓の者を使って様々なことを命じるようになった。気の病かもしれないという家臣の心配をよそに、崇宗は盛んに城下の細々としたことにも口をはさみ、全て実行させた。不誠実な態度で命に従わなかった者や賄賂に手を染める者などは、上の者でも容赦なく斬首を申しつけるなど、一時は城内が騒然となった。
だが、それはすぐに収まりをみせた。
未来でも分かるかのように崇宗は天候や世情の出来事を言い当て、米をはじめとした各種の相場で莫大な利益を藩にもたらせ、それを貯め込むことなく治水や城下の整備にあて、村々の年貢の率を大幅に下げた。
「おおとりの若鷹(崇)の巣に生まるれば胸(宗)なでおろし食うに困らず」と戯れ唄にも歌われるほど、ご城下をはじめとした村々はいつも祭りでも行われているかのように活気がみなぎっていた。そのため、多くの人々が自然と集まり、また、それが新しい富を増やしていた。
成り上がりのような若い藩主を嫌っていた旧勢力の者たちも、いつしか、眉目秀麗な崇宗のカリスマ性に心酔した。
「すべての者が戻ってこないのは真かと仰せです」
崇宗の横に控える太刀持ちの二人の美しい小姓は、表情一つ変えずに、そう言葉を投げかけ、平伏する家臣の者たちを見据えている。
藩の差し向けた者たちが、消息不明になったことを告げる家臣の報告に、広間の一段高い座所にいる崇宗は驚く風でもなく、ただうすら笑いを浮かべ、小姓に口元を扇で隠しながらそっと耳打ちをした。
崇宗の左右の小姓は、双子のような同じ様相をしているが、右の小姓は右目の瞳が蒼く、左の小姓は左目の瞳が赤い。その瞳はまるで宝石が埋め込まれているかのように家臣には輝いて見えていた。
冷や汗を流したまま平伏する家臣をそのままに、小姓は話を続けた。
「山猿侍どものやること、昨今の軍備揃えたる青葉の所業、将軍家ももう黙ってはおるまいとの仰せです」
「恐れ入ります、その件ですが……」
家臣は畳に顔をすりつけたまま声を張り上げた。
崇宗は静かに頷き、もう一人の小姓が口を開いた。
「聞きましょうと仰せです」
「ははっ、既に水戸様の命により、会津、米澤など、街道近隣の大藩から小藩まで、兵に慌ただしい動きが見られているとのこと」
崇宗は思い当たることがあったのか、一人、ほくそ笑んだ。そして、家臣に問うこともせず、むしろ穏やかな表情を浮かべている。代わりに小姓が話を続けた。
「水戸?……そうですか、ようやく三つ葉葵のご家中でも『あの子』の存在に勘付いたようですね、むしろ遅いくらいです、でも、気にすることはありません、そのくらいの兵力じゃ、彼らの城は落ちないと上様は仰せです」
再び耳打ちした崇宗の言葉を小姓はすぐに家臣に伝えた。
「どうせ奴らの良い餌になるだけとのこと、それと鉄や硝石などはもっと値が上がるでしょうから、引き続き上方より多く仕入れておくように、また、忘れてはいけません、不明になった者の家々には、それ相応の金をできるだけ早く与えるよう仰せです」
「何とありがたい、上様の情け深いご配慮」
感動した面持ちの家臣に対し、崇宗の返事を小姓は一際おおきな声で伝える。
「いいえ違います、そこの子、兄弟がまた命を賭して私のために働いてくれる、私はそういう純粋な魂を求めているだけにすぎません、すぐに代わりの者たちを送りなさい、将軍家も直接出てきたとなると、より手練者でなくてはなりません、必ず『あの子』を生臭坊主より取り返すのです、いいですね、すれば母君もこのうえなく喜びましょう、他の者たちは諸国から物の手配を、一刻が十両にも二十両にもなるのです、この機会を逃してはなりませんとの仰せです」
「ははぁ!」
ひれ伏していた大勢の家臣は力強く声を張り上げ、すぐに勇んで広間から出て行った。残されたのは崇宗と、その横で表情も変えず、声だけを発する二人の小姓であった。
青灰色の翼をもつ尾長が庭の古松の枝の間を渡っているのを崇宗は愛おしそうに眺めている。崇宗のつぶやきを小姓は深く頷いた。
「保知!」
蒼の瞳をもつ小姓は庭に向かって声を上げた。
「ここにございます」
縁のすぐ前に精悍な風をもつ青年が音もなく控えていた。
目鼻立ちのしっかりとしたその顔の左半分には、せっかくの顔を隠すかのように茶色がかった布が巻かれている。
「あの鳥の声はとても醜い、醜いものだからこそ真の身の美しさが余計に際立つ、私はそういうものが好きである、保知、お前に期待していると上様は仰せです」
「ははっ、ただちに里の方に早馬を走らせましょう、逝き遅れた『朝露』の者たちもこの時を待っているに違いありません」
青年は、すくと立ち上がり、先ほどの家臣たちとは違う方向へと消えた。
崇宗は命じ終えた二人の小姓の髪を、両の手でうなじから優しくなで上げた
(二)
古くから「暴れ天竜」と呼ばれる「天竜川」沿いの山間部に、朝露の里はある。
北は信濃、西は美濃、東は甲斐と接するこの地は、戦国の世以来、戦乱を逃れてきた者や貧しさのあまり、田畑を捨ててきた者たちが流れ着く澱みのような場所でもあった。切り立った崖と急流に囲まれたこの場所は、猫の額ほどの平地しかないため、里の者は古くから狩猟や藤蔓などを利用した道具づくりを生業としていた者が多い。
沿岸の城下に居を構える者たちはそういった境遇のこの地に住む者を蔑むことをあたり前のように思っていたが、その行動力の広さや山間部を駆け回る超人的な体力に早くから目を付けていた崇宗はそれを厳しく禁じ、むしろ、他をさしおいて全ての面で優遇した。この地の多くの者たちは、他藩において重用されていた「忍びの者」の末裔であることを見抜いていたのである。戦国の世ならば、その技量と才覚でいくらでも出世の道を歩むことができたが、家柄や血筋が者を言う太平の世となっては、その道さえ選択することが出来なくなっていた。そこに崇宗は強い光で闇に途切れていた道筋を照らしたのである。
里の者たちがこぞって、崇宗の元に集まるのに、そう時間はかからなかった。
「保知様がお戻りになられた」
山間の悪路をものともせずに馬を器用に操る保知の姿を目にした里の子供たちは大はしゃぎであった。
保知は、里がまた一段と栄えたことを心から嬉しく思った。崇宗が藩主となる前は粗末な小屋の集まりであったこの地は、数年と経ずに今では門構えの許された屋敷がかしこに建てられ、子供たちの明るい声が響き渡っている。それだけでも、保知は藩主へ命を差し出すことに何のためらいもないと感じていた。
里長の屋敷の前で下馬した保知は鞍に結び付けていた菓子の入った袋を子供たちに与え、すぐに門をくぐった。
奥の間に通されると、そこには多くの男たちが、白髪の老人を囲むように座していた。
「待っておった、保知どの、先に向かった草どもが全て枯れたとは本当のことか」
「ああ、本当だ、我ら草共はもとより、お守りしていた鷹田様もお戻りになられていない」
保知の返事に老人の一番近くに座っていた男は目を丸くした。
「そのようなことが、鷹田様には影で三人もお付けしていたのだぞ……青葉の壁はそれだけ厚いもののなのか?」
「さにあらん、元は我々と同じ祖をもつ六文銭出の『草』もいる地だ、私もはじめは耳を疑ったが」
保知はそう言って首を振った。
「これで枯れた者が今年に入って十六本か、次はわしが行かねばならぬか」
「いや、わしがいこう」
男たちは先を争うように自分が行くことを望んだ。それは自分の死が無駄にならず、むしろ、家族が生きていく上で困窮しないほどの褒美がもらえることを知っているからである。
「いや、いよいよ次は私が行かなければならぬ、私に直接お命じになられた、上様は我らのさらなる力をご所望だ、里長、今日は長に更なる仕事の許しを請いにきました」
そう言って保知は黙って男たちの様子を伺っていた老人を見た。
その男は、すぐに大きく頷き保知の申し出に同意した。
「よろしい、我らの今があるのは、すべて上様のおかげ、同道の草選びも全て、お前に任せよう」
「御意」
里長の快諾の言葉に保知は頭を深く垂れた。
「誰を連れて行くのか」
男たちは自分に保知の声がかかるのを待った。
「双葉の中から五草を抜いていく」
「双葉?なぜだ?」
双葉とは年端もいかない子供たちである。男たちは使い物になるかならないかも分からない、保知の選択に首をひねった。
「子供はどこの村にもいるし、怪しまれることも少ない」
(誰の子供を連れて行くのか)
『草』とはいえ、親の情があれば自分の子供を死に追いやる可能性の高い場所につれていくのは、避けたいものであった。先程まで保知の申し出に自ら臨むつもりであった男たちは珍しく口を濁した。
「案じよ、私の拾い草だ」
『拾い草』とは、山に捨てられた子らの総称である。この村では、昔から貴重な労働力として、捨てられていた子を拾う習わしがあった。そういった場合、普通の村では一生、奴卑のごとく虐げられるのが常であるが、流れ者の集まりであったこの村の元々の発祥がそれを妨げた。特に『草』はその実力だけがものをいう世界である。
保知が若くして現在の地位を得ることができたのは、天才的なその能力を藩主崇宗に買われたことが大きな要因である。であるゆえ、保知は自分がその地位に立ってからは、藩からの禄をそういった身寄りのない子供たちを内外から集め、いわゆる藩の「犬」を育てていくことに努めていた。
「彼らが全て枯れたとて、里にはさして影響もあるまい」
その場を辞する保知の残した言葉に、男たちが集まる部屋の冷たさが一段と増した。
「保知さま、お帰りなさいませ」
保知が自分の屋敷の門をくぐると、既に子供たちが地べたに並んで頭を垂れていた。
「頭を上げて良い、みな息災である」
どの子たちも数え十四、五にも満たない一人前の大人と呼ぶには早い者たちばかりであった。その後ろにはさらに幼い子供たちが十人ばかり同じように控えていた。
「みな揃っているな、危急の話があるゆえ、近くに控えていよ」
「はっ!」
子供たちが一斉に頭を上げる様子は誰が見ても、日頃からしっかりと鍛えられていることが分かる動きであった。
保知は、屋敷の濡縁に腰を下ろし、懐から折りたたまれた和紙を取り出した。
「これより名前を言う者は、すぐに私と東街道を下る」
「ははっ!」
「月草、銭巻、田菜、茅、堅香子の五名、他の者たちは、その者たちの長旅の準備を早急に手伝うように、よいな、夜半には甲斐路より黒駒の番所を超える」
五人のうち女が三人、男が二人である。
名を呼ばれた子供たちは年の順でもあった、誰もが旅路の労苦よりも、まだ見ぬ異国へ行けることに胸を躍らせた。
(三)
保知と五人の子供たちは、通り過ぎた者たちが気付くことさえないほど、風のように街道を下っている。
「保知さま、もうじき夜が明けます、どこかに潜みましょう」
年長の月草の言葉に銭巻と茅の二人の少年はさらに足を速めて街道から外れた適当な場所を探しに行こうとした。
傘を深くかぶった旅僧姿の保知はそれをすぐに止めた。
「今はならぬ、しかし、このままだと怪しまれることも無理は無い、よい、ここからは分かれよう、銭巻は私と共に、月草は田菜と二人、茅と堅香子も二人、落ち合う先は三日後、国見の峠を超えた戸沢の宿よいな」
「へぇ、おいら、そんな所、聞いたこともないや、なんかおいしいものでもあればなぁ」
茅が笑って言った。
「ほんと、茅にいちゃんは頼りにならないのね、私はもう、宿の名前、全部おぼえちゃったよ」
「ちぇっ、生意気言ってらぁ、あとで迷ったっておいら助けてやらねぇぞ」
「それは、わっちの言葉だよ」
十を超えたばかりの茅と堅香子の二人は、誰がどう見てもその辺の辻でじゃれ合う兄妹そのものであった。
「私と銭巻は国境の野獄で用を足していく、他の者は絶対に遅れるな」
保知は念を押すように五人の子供たちに伝えた。
遠河藩の獄に、藩士数人が投獄されているという情報を保知はつかんでいる。そのうち、鷹田はまだ城勤めをしたばかりの自分を引き立ててくれた恩人の一人でもある。しかし、場合によっては、彼の命を奪わなければならないことを考えると、その心情は複雑だった。
(あの方にかぎって、藩を裏切るようなことはするまい)
そう信じていたい保知であった。
陽は既に西にかたむきかけている。
村の童を装った茅と堅香子は身道の前に伸びる自分の影を追うように宿場の入り口を連れ立って歩いていた。二人は遊びながらも街道沿いにたむろする足軽の姿を観察していた。
「ねぇ、あのご紋は棚倉藩よ、さっきのは二本松、こんなにいっぱいのお侍さま見るのは初めて」
「やっぱり、おじじ様が言っていたように青葉藩を潰しちゃうのかな、そこだけじゃなくて、みんな殺しちゃってさぁ、うちのお殿様のお国になればみんな幸せになるのに」
自分の指先に止まっていたテントウムシが灯火に向かって飛ぶ先を目で追いながら茅は言った。
「そうか、みんな殺しちゃえばいいんだね」
堅香子はそう言って無邪気に笑った。
「きゃっ」
物陰に潜んでいた浮浪者の形をした男が、背後からおもむろに堅香子の小さな身体を羽交い締めにし、口を押さえた。そして,男は黒く薄汚れた指を,少女にも満たない堅香子の太ももから股間にかけて,オニ蜘蛛の足のようにゆっくりと這わせた。
「女童よ、こんなに帰りが遅くなったら怖い化け物が出るって、教わらなかったか?兄ちゃん、ちょっとこの子にお仕置きをするから黙っていろよ、じゃないと、お前もこいつも殺しちまうぞ、なぁに、痛いことなんてすぐに終わる、そこで待ってな」
息を荒げたまま下卑た笑い声を上げ、そのまま物陰に堅香子を引きずりこむ男を茅はあきれて見ていただけであった。
「堅香子、先に行ってるよ」
茅はたいして気にもせず、のんきにそう言って街道を下っていった。
五分もせずに堅香子はのんびりと先を歩く茅に追いついた。
「もう、先に行っちゃうんだから、はい、茅におみやげ」
いたずらで塗った紅のように乾いた一筋の赤い線が、息を切らせ微笑む堅香子の頬に描かれている。
彼女の投げた小さな物を、茅は右手で受け取ったが、見もせず、すぐに横の軒下に眠る野良犬の鼻先にほうり投げた。
「いらねぇ、こんな汚いの」
茅のもらした一言に堅香子は声を上げて笑った。
思わぬごちそうにありついた野良犬はガリガリと音をたて、尾を激しく降りながら上手そうにそれを食べた。
それは、堅香子を襲った男の右手の小指だった。
同じ頃、宿の裏の河にゴミを捨てにきた飯盛り女が、首を切られ血の海に横たわる浮浪者の死体を見付け悲鳴を上げていた。
(四)
鷹田は獄の中で今日も嘆願の言葉を叫び続けていた
ただ、もう声にならず、紙をすりあわせたようなかすれ声だけが、無精髭が生えた口から漏れている。
「あまりしつこいとすぐに首を切られる……お主のような実直な男が切られるのは誠に忍びない、よし、お主を信じて、私が丑寅の関で少しだけ見てきたものを話そう、だが、牢番が来たらそこで終わりだ、ここの藩の者たちも、あの関向こうの話を欲している」
もう一人の囚人の男はそう鷹田に話しかけた。
「それは……」
鷹田は、その男の思わぬ申し出に驚き、そして感謝した。
侍らしいとは普段の物腰から気付いてはいたが、この男も目的は同じだったのだと鷹田は確信した。
「私は、今でもそこで見た出来事が信じられんのだ」
その男は自分の出自こそ言わなかったが、ある密命をおびて、丑寅の関の向こうにある地に赴いたことを訥々と語り出した。
「ご用商人の伝を使い、ある商家の下男として城下に潜って二年になる、しかし、城下にいては『丑寅の関』どころか、笹場街道の一の関の向こうに行くことさえ厳しく無理であった、ましてや『桃宴』のことを少しでも話題に出した者は、酒の席の話でさえ、すぐに詮議され、素性の怪しい者は有無を言わさずに首を落とされた」
鷹田の脳裏に自分を守って獄門にかけられた家臣の顔が浮かんだ。
「そのような時、荷駄を手伝う機会が訪れた、兵糧米として『丑寅の関』まで運ぶお役目と聞き、私はすぐに名乗り出た、命の保証はできないと言われていた商家の旦那衆も困っていたところであったので渡りに舟という具合に話が進んだ」
男は目を閉じ、一言一言をゆっくりと自分の言葉を噛みしめるようにして話を続けた。
「一の関を超えたところに寺があり、そこに炭や米俵を半分納めることになっていたので立ち寄った……はじめに目についたのは多くの傷付いた足軽の姿であった、広い本堂には死臭が立ちこめ、蝿が黒く流れる雲のように天井を飛び回っていた。たまに動く者たちの失った腕や脚に巻かれた布からは、米粒のように蛆がこぼれていた、私はいったい何があったのか、寺の下男共に聞いたが、誰一人として、そのことを口に出さない、他の兵の目もあったので、私はそれ以上、なにも聞くことができなかった、だが、傷付いた者たちのうめきや叫び声をとどめることはできない……私はそこで『骸』という言葉をはじめて聞いた、私は怯える風を装いながらも関の向こうでの出来事をさらに知りたくなった、私は残った荷駄と共に丑寅峠に続く道を進んだ、始めは戯れ言を口にしていた足軽たちも、あの寺を出た頃にはもう誰一人として話をする者はいなかった、当然だろう、あそこでうめいた者は自らの明日の姿になるかもしれないのだから……関に近付くにつれ道沿いはもちろん、藪原の中にまで槍をもった兵が所狭しと並んでいた、私はその兵たちが醸し出す異様な雰囲気に驚愕した、私は間違いなく戦がここで繰り広げられていると実感した……しかし、どこの藩と?……疑問に思っていたちょうどその矢先に、関の向こうから負傷した兵の一団が逃げるようにして戻ってきた……混乱する兵を尻目に私は、兵糧米を粗末な小屋に運ぶ隙を見て関を抜けた、ようやく本来のお勤めが果たせる、私は今までの苦労を振り返りながら、心の底から嬉しく思った……だが、浮かれた私の気持ちもひと時であった、藪向こうのすぐ側で斬り合いが始まった」
話しているうちに、男の息は荒くなってきた。
「私は見付からないように、慎重に藪の中を進んだ……で、出会ったのだ」
「何に?何に出会ったのだ」
我慢できずに鷹田は急く言葉を口に出した。
「私を遮るように目前に立っていたのは……」
怒声と共に牢の入り口から外の光が差し込んだ。
牢番二人と、縄を手にしたみすぼらしい服を着た雑役が慌ただしく入ってきた。
「無宿人、悟作!出よ」
話を遮られた囚人の男は、残念そうにつぶやいた。
「どうやら、私の切られる順が回ってきたようだ」
「まっ、待ってくれ」
鷹田の必死に止める声を聞いた牢番は何やら大声で叫び、格子越しに長棒で鷹田の腹を強く突いた。
鷹田は痛みをこらえながら、格子にぶら下がるようにしてしがみ付いた。
雑役に荒々しく縛られた囚人は、ゆっくりと立ち上がった。
囚人は鷹田の前を通り過ぎる時、彼の顔を見て一言だけ残した。
「子供だ……首のない子供に注意しろ」
暗く腐臭の漂う牢の中は、男の残した謎の言葉に苦悶する鷹田ただ一人となった。
(五)
笹の葉城下の武家屋敷の一室で藩士が集まり騒がしく声を上げている。
屋敷の主でもある藩士の川田長兵衛が右手に持った脇差しを正に自分の腹に突き立てんとするのを、他の藩士が必死になって止めていた。
「待たれよ、川田殿、お主だけが悪いのではない」
止める方も必死だが、長兵衛もそれ以上に、血管の浮き出る細い身体を震わせながら自らの恥を削ぐべく柄を握る手に力を込めた。
「私のいたらぬ所業が、明石様を死に追いやったのだ、こうせずしてその責をどうして負うというのか」
「間が悪すぎたのじゃ、待て、待て」
そのうちの一人の藩士は、長兵衛の刃先で傷を負ったのか、手を血で滲ませた。
いつまでも押し問答が続くかと思われた。
「長兵衛、控えよ」
その場を静めたのは家老『支倉兼嗣』であった。支倉はふすまを蹴倒すように開け、抵抗して暴れる長兵衛を見下ろした。
「控えよ長兵衛、上様より切腹は決してまかりならんとのお言葉だ、お主はそれさえも無視するか!」
「ははぁ」
さすがの長兵衛も主君の命と聞き、がくりとうなだれ、握り締めていた脇差しを畳の上に落とし平伏した。
「勘違いするな長兵衛、畳の上で死ぬなど許さぬ、死ぬのなら関向こうで討ち死にせよ、それが上様の真意だ、周りにいる者たちも者たちだ、このような臆病者にかかわる時間があるのなら矢先の一本でも研いでおけ、長兵衛、残された組を束ね、明朝に発て」
あごいっぱいに黒々とした濃い髭を蓄える兼嗣は、そう荒々しく言い放ち、すぐにその場から立ち去った。
長兵衛の周りにいた藩士たちも、着衣を正し、そそくさと立ち上がると一礼をし、なにも言わずに兼嗣を追うようにして部屋を後にした。
上半身の諸肌を見せたままの姿の長兵衛の耳に、柱の陰にいる彼の奥方のむせび泣く声だけが響いていた。
(六)
「長兵衛は臆病者よ……わしだったら,負けと思えばその場で腹をかっ切っておるわ」
長兵衛の屋敷を後にした兼嗣は、従者の引く馬上でそう呟いた。
関向こうの件が起きて以来、城下の街からは活気が消え、人々は皆、おびえるような眼差しをしている。これにもし、冷えた夏が重なれば、間違いなく多くの餓死者を出すことになると兼嗣は思いながらも、今の彼には次にうつ手立てがなかった。
頼みの綱であった勇将明石右近率いる兵も、そのほとんどが三日ともたず多くの者たちが討ち死にした。目付筋の話からも奥州青葉仕置きの話が現実的になってきていることに、城中も穏やかでなく、だからといって、そこに対抗できるだけの兵力も残っていない。
兼嗣の胸中は穏やかでなく、顔にも疲労の色が浮かんでいる。
(しかし、この藩が滅びるときは、この世も終わりだ)
彼はこう吐き捨てたい欲求をのみ込んだ。
「ここで待て」
大きな商家の前にさしかかった時、兼嗣は馬を止めるよう従者へ告げた。他の家臣にもひと時の間、その場で待つように命じた。
藩随一の豪商『大谷古四郎』の屋敷は、商家でありながらも武家屋敷の建ち並ぶ街並みからほんの二丁ほど隔てた街の中心地にある。
近江商人の地を引く先代の三代目大谷古三郎は木綿卸から薬卸へと商いを変えた、熊胆を原料とした『長命胆』が奥州に名薬ありと言われるほどの評判を得、たった一代で先代を遙かに上回る大きな富を築いた。
兼嗣の顔を見た番頭は、思いもよらぬ時間に家老自らが訪れたことにたいへん驚き、すぐに奉公人へ奥の間にいる主人を呼ぶよう指図した。
「これは支倉様、このようなむさ苦しい所に、ささっ、どうぞお上がりくださいませ」
番頭をはじめ、店の中にいる者たちは全て土間に下りその場で平伏した。
奉公人の知らせに廊下の先から転げるようにして出てきた主人も同じように土間に下り、深々と頭を下げた。
恰幅の良いその全身から、緊張によるものなのか大量の汗が噴き出していた。
「よい、おもてを上げよ古四郎、危急の用だ、お主に話がある、もてなしは不要、すぐに部屋に案内せよ」
「恐れ入ります」
兼嗣は履き物脱ぎ、緊張する主人に導かれるまま、屋敷の奥の部屋に向かった。
部屋に入ると、上座に敷かれた座布団の上に座るか座らぬうちに主人に命じた。
「あの者らを呼べ」
「支倉様、少々、お待ちを」
返事をした主人はその場を辞し、自ら屋敷の離れ家の方に太った身体を揺らしながら小走りで向かった。
「お待たせいたしました」
主人に連れられてきたのは紫色の頭巾を頭からすっぽりとかぶった一人の女性と、同じように頭巾で顔を隠す少女であった。
兼嗣は主人に礼を言い、その場から下がるように言った。
事情を察している主人は、言われるまま、また、部屋から出て行った。
「その頭巾を取って良い、お主たちには、この長い間、ずいぶんと迷惑をかけた、やはり、お主たちの言っていたように、我らは、あ奴らを甘く見ていたようだ」
「イエス、彼らは悪魔です、サムライといえども、人の力だけでは彼らにかなうものではありません」
頭巾を取った女性は亜麻色の髪に青い瞳の、もう一人の少女は、黒い髪に栗色の瞳を持つ異国人であった。
「お主らの力を貸して欲しい、もう我らに打つ手はないのだ」
支倉はそう言って,二人の女性に両の手を畳につけ深々と頭を下げた。
「断る理由がどこにあるのでしょうか、私たちはそのために『パードレ』よりこの異国の地に使わされた者です」
「かたじけない」
「神のみのまに」
頭を下げる兼嗣の上で、西洋人の若い女性は静かに十字を切った。
(七)
国境の番所は雉川堤沿いの一段小高い丘に設けられ、その裏手に広がる湿地に一棟の獄舎がある。
今は夜の雨に濡れるこの獄は国の者から恐れられ『涅槃獄』(ねはんごく)と陰では呼ばれていた。ここに送られた時点で、囚人たちは名ばかりの裁きを受けた後、河原の刑場で首を刎ねられることが決まっている。
今朝、切られたばかりの梟首台に載せられた男の首から、赤い血の糸が伸び、雨粒のつくる細い水の流れに混じっている。
保知と銭巻はその草むした刑場横に立てられた石仏の陰に潜んでいる。
物見から戻ってきたばかりの銭巻のささやき声は雨音にまぎれながら、獄卒の配置や建物のつくりを正確に保知に伝えた。
「間違いはあるまいな」
「はい、おやつれになってはいますが、あのお姿は間違いなく鷹田様です、私が獄卒の注意を引き付けます、その間に街からご用意した馬で茅たちがお迎えにまいります」
そう言って銭巻は屋敷に火をかける段取りと自らの身を隠すところ、その先から領地へと戻る道筋などを手短に話した。
「うむ、」
保知は銭巻の落ち着きはらう姿に、親が自らの子に抱くような成長の喜びをわずかに感じた。
「では、先に参ります」
二人がそれぞれの場に潜もうと足を踏み出した時、雨音に混じりに荷車のきしむ音に気付いた。
「待て」
保知はすぐに銭巻を制止した。
激しい雨筋の向こう側に黒々とした小山のような荷をつんだ車が十頭の馬に引かれながら近付いてきた。
獄の門前で、侍らは馬の足を止め、幾重にも絡んだ荷台の麻縄をほどいていく。保知と銭巻はその様子に固唾をのんで暗闇から観察していた。
「うっ」
年若な銭巻は剥がされた筵の下にあった物を見て声を上げそうになった。絡み合う毛髪、潰れた眼球、赤黒い中にそこだけ白く浮かび上がる骨、まさしく、それは腐乱した死体でつくられた肉塊であった。きれいに隙間なく固められた肉団子から侍たちは棒や鉈などを使いながら首や腕などを少しずつ引きはがしていた。
「大兄さま、あれは何でありましょうか」
銭巻の問いかけにすぐに答えることができなかった保知であったが、ひと息置いて彼に命じた。
「分からぬが、さわるな、鷹田様をお救いするのだ」
保知自身ももっと確かめる必要があるとは思いながらも、予定していた行動を優先した。
雨音の中に耳鳴りに似たケラの声がかすかに鳴り続ける。
自分と同じようにつながれていたあの男の息づかいはもう聞こえない。鷹田は、血の滲む板の上で雨ざらしのままの男の首を想像した。次に切られるのは自分であると悟った今となっては、彼の絶対に死なないと信じる心も既に折れかけている。
「あまりにも恨めしい……」
誰が聞いている訳でもないことを本人が一番分かってはいたが、鷹田のもらした言葉には積もり積もった怨嗟が込められていた。
ふと人の気配を感じた鷹田は背にしていた壁板から背を離し、閉じていた目を薄く開けた。
(鷹田様……)
壁板を背に座る鷹田は、どこかで自分の名を呼ぶ声を聞いた。はじめは幻聴かと気にもとめなかったが、再び笹の葉がすれるような自分の名を呼ぶ声に鷹田は息を止めた。
「何者……」
「保知にございます」
鷹田は久方ぶりに聞く知己の声に耳を疑った。
「菊川どのか……よくぞここまで……どのようにして」
「その談は後ほど、これより外で騒ぎが起こりますがご心配なきよう願います、そこよりお救い申し上げます、しばしお待ちくだされ……」
「菊川どの……」
突然、紙袋の破裂音に似た音が屋外に轟いた。
「火事だ、火事だ!」
「どこだ!早く、日を消せ!」
獄卒たちの慌てふためく大きな声が鷹田のいる獄の中にまで聞こえてきた。
煙の臭いが鼻をつく中、鷹田は自分の身体がふわりと宙を浮くように感じた。
「ご免」
痩せこけた鷹田の身体を軽々と肩にのせた保知は、炎で赤くゆらめく場を避けながら獄舎の板壁に沿って全速で駆けた。
その頃、銭巻は板壁に自分の影をわざと映し出し番卒たちを惑わせていた。
「そっちだ!族はそっちだ!」
追いかけてくる男たちを尻目に銭巻は最後の仕上げとして、馬小屋で火薬玉を破裂させた。大きな音に驚いた三頭の馬は気が狂わんばかりに暴れだし柵を壊すと、追いかけてくる番卒の中へ勢いを付けたまま飛び込んでいった。
ここまでは保知が立てた計画通りであったが、突然あらぬ方向から男たちの悲鳴が上がった。
何か黒い物が獄舎の炎の中にうごめくのが見えた。
「!」
獄卒や侍の悲鳴は一層ひどくなったように銭巻には聞こえた。
(何があった……)
銭巻が確かめようと後ろを振り向いたとき、自分の視界に入るすべての物が横方向にゆっくりとずれていった。切断された銭巻の首が身体からごろりと落ち、胴体から血が空に向かって噴き上がった。
(あ……に……)
痛みを感じることもなく銭巻は静かにこと切れた。
保知を背負った鷹田は既に雉川堤を眼下に望む街道沿いに身を隠している。
「これに着替えてくだされ」
放心したままの鷹田はされるがままに、新しい衣を着、大雑把ではあるが髷も整えた。
鳶の鳴き声に似た口笛が馬の蹄の音と混ざり次第に大きくなっていく。
「保知様!」
茅はまだ小さな子供ではあったが、その手綱さばきは大人顔負けの腕をしていた。
「よう来た、田菜と堅香子は?
」
「先のお社で次の馬のご用意をしています、ただ、月草姉さまは国見の関から離れて城下へ一足さきに潜っています」
「うむ、後は頼む」
「保知様は?」
「もう一つ、調べなければならないものができた、お前たちはさきの通りに鷹田様をご領地へお連れしろ」
「御意」
茅の操る馬に鷹田を抱え乗せた保知はそう言って、馬の尻を強く叩いた。道の見えない不安を払拭するように馬は大きくいななき、その場から逃げ出すように駆けていく。
二人を乗せた馬が闇の中に消えると同時に保知もまたその姿を消した。
(八)
獄の屋根には、灰混じりの雨がつくったいくつもの輪が描かれては形を変えて消えていく。
そこかしこで炎を上げる獄舎の焦げた柱が、はりの重さに耐えられず大きな音を立てて崩れていく。配下の銭巻が行った揺動は成功していた。
(人がいない‥‥‥)
これだけの騒ぎであれば、既に多くの近隣に居する獄卒や武士たちもここに殺到しているはずである。
板小屋が焼け落ちる煙の中に焦げた肉と錆びた血のにおいが混じっていることに保知は既に気付いていた。
泥の上には、首を落とされ転がる獄卒たちの体が、燃える火にゆらゆらと照らされている。
(銭巻、やりすぎたか)
これだけ被害が大きいと藩の警戒はさらに厳しくなる。
まだ保知は若い銭巻がはやる気持ちを抑えられずに自分の命令を逸脱した類いのものと思っていた。
(!)
伝い走る瓦屋根の途切れる先に、先に丸い物が付いた一本の棒が突き立てられていた。それが何者かの首であることを彼は瞬時に理解した。
ざんばら髪に舌をだらりと垂らした若い男の首。
その首がつい先ほどまで己と語っていた銭巻であることを知ると、さすがの保知も眉をひそめざるを得なかった。
一瞬、歩みを止めた彼の頬を針様の物がかすめ飛んだ。
(花ち弁?)
菊の花びらが目の前に舞い落ちる幻影の中に忍び刀を構える保知がいた。
(幻蛾粉か!)
『幻蛾粉』は保知の里では芥子や附子など、動植物の抽出物でつくる敵をかどわかす忍びの薬粉である。彼はすぐさま息を止めたものの、銭巻の首に気をとられた自分が既に何者かの術中にはまっていることに気付いた。
獄の屋根が次々と崩れ火の粉が宙に吹き上げられると、周囲が夕日に照らされたように茜色に輝いた。
その宙の先に保知は少女の姿を見とめた。
「花に染む 心のいかでのこりけむ 捨て果てきたと思ふ わがみに‥‥‥」
鈴の音のような声で歌が詠まれると、黒色の袴単衣に紅いうちぎを羽織った少女のたなびく長い髪から、いく色もの花びらの渦が吹き広がっていった。
「私を‥‥‥呼んだのはお前だな」
保知の問い掛けに姫小百合の花のような可憐なたたずまいをした少女は無言の冷たい微笑で返した。
予想のできない方向から、次々と投剣が風を切り保知を襲う。
忍びの者の間に、虫や鳥などに呼びたい者の名を聞かせ、自分のところに自然と足を向かわせる術がある。それは個人が知覚していない匂いで人心を操る性質のものであり、古くから伝えられ要人、特に武家の子どもの暗殺などに使用されていた。
(鷹田様に仕掛けられていたか)
鷹田のすえた匂いが妨げになっていたと保知は思った。と同時に少女が手練れの忍びであると確信した。
後ろから近付く気配を感じた保知は、その真中へ自分の忍び刀の切っ先に力を込めて突き立てた。
肉に食い込む手応えがかすかにあった。
(まだ命奪まではいたらず‥‥‥)
わずかな隙に頭上から斬りかかる気を察知し保知は自分のクナイを相手の喉元を狙って疾風のような勢いで投げた。少女の断末の短い悲鳴が上がり、そして静かになった。
刺客を始末した保知は倒した屋根の上に転がるその顔を見て驚愕した。
(!)
自分が倒したのは、別働でこの地に潜入していた銭巻と同じ配下である月草であった。
「なぜ、この者が‥‥‥」
年若き女が天に目を見開いたままこと切れている。
その驚く様子を美しい顔だちをした少女が、右手の人差し指を口の前に曲げ当て嬉しそうに眺めている。
「鳳凰の尻羽よ、青葉の獄で拾ったものを返そう‥‥‥この者は獄の獣どもに陵辱されながらも最後まで口を割らなかったぞよ‥‥‥わらわはこの者に頼まれたのじゃ‥‥‥このような目にあわせた奴らを殺せと、そして、死の間際にお主に会わせてほしいと‥‥‥おかげて命消えゆる前の美しき舞を楽しむことができた」
「いったいこの者に何をしたのだ」
「何も‥‥‥ただ、命と引き換えに頼みを聞いてあげたのじゃ‥‥‥そのときは既に魂であったものかどうかなど今となってはどうでもよいこと‥‥‥が、ここにお前たち黒ネズミが撒き餌に飛びつくのは分かっていたこと。これ以上、無駄に死びとを増やす前に早々に帰るがよい、そして、お主の藩主崇宗に伝えるのじゃ、からくりがどうあがいても無駄じゃと‥‥‥」
「貴様は何者‥‥‥」
保知が感情を殺しながら向き直ったとき、闇の中にかき消えていく少女は、あざけるように言った。
「ぬばたまの化生であればいかに?」
少女の気配が消えた。
雨粒がはじけ落ちる音が辺りに響き、燃えさかっていた獄の火はじゅうじゅうと音を立てて弱くなっていく。
保知は忍び刀をさやに収め、月草の遺骸にもう一度目をやると、さほど切り口から血が流れていないことに気付いた。
(二の日は経っているではないか)
硬直した月草の顔や手足には獄内の拷問で付けられた痕がはっきりと残っている。国境の国見の関を抜けた後に捕縛されたものと保知は考えた。ただ明らかなのは、あの少女が『空蝉』を使って、月草の命の抜け殻を再び陵辱したことである。
(だが、あのとき確かにこやつの気配を感じた‥‥‥)
空蝉とは字のごとく、蝉の抜け殻を意味するものであり、自分のおとりとして木や動物などを使い、対する相手を混乱させる手段である。だが、そういった術を心得ている保知にとっても死者を生者のように機敏に動かすことは全くもって不可能である。
(私はこの地を‥‥‥この地に巣くう者たちを軽んじていたのかもしれない)
自分の腕を遙かに超える少女の存在を目の当たりにした保知は、この丑寅の外れの地に、とてつもなく奥深い闇がうごめいていることを確信した。
つづく




