第二話「丑寅峠」
◆ 登 場 人 物 ◆
影月 十太郎
本作の主人公 少々いいかげんな性格でありながらも、自称「やる時に、たまにはやる男」。元締に頼まれた仕事を引き受けたゆえに、闇住者に追われる
霧雨 九蔵
沈着冷静な霧消流剣術の使い手 十太郎と共に元締に仕事を頼まれたことで、事件に巻き込まれていく
六道 三右衛門
江戸の口入れ屋の元締め 旧知の知人 夢戒僧正に依頼された仕事を十太郎に任す
明石右近
青葉藩家臣 『丑寅の関』の関守に命じられる。
川田長兵衛
青葉藩家臣 明石の重臣
鷹田康三郎
鳳凰藩士 主君の密命を帯び、十太郎と接触する
闇住者
詳細不明
(一)
鳥のさえずりが、その日の長い夜の終わりを鳳凰藩の鷹田康三郎に告げた。
彼は手負いながらも、一晩中、道なき道を伝って、青葉藩の領外へと何とか逃げ延びることができた。朝のほの柔らかな光が東の空から差し込むと、緊張がゆるんだその反動で、今で感じたことのないほどの疲労感に包まれ、杖代わりの枝をつきながら、数歩すすむたびに長い息をついた。ただし、彼は再び青葉藩の領地へ戻ろうとしている。
一昨晩、十太郎らが心配していた通り、神社を出てすぐ半刻も経たずに、見張りの一味と思われる青葉藩士が彼らに寄ってきた。捕縛寸前で二人の従者と追っ手の青葉藩士が斬り合いとなった。藩で指折りの剣術つかいでもあった二人の従者の必死な抵抗が功を奏し、鷹田だけが、かろうじて闇の中に紛れ込むことができた。
この場から逃げるようにうながす従者の言葉を断り続けた鷹田であったが、結果的に従者の身体を盾にした行動で難を逃れたことになる。
朦朧とした意識の中で、何度も腹を切ろうと鷹田は考えた。
しかし、少しでも藩士らの末路について仲間に一言でも伝えてからという怨に近い執念こそが、彼一人をここまで歩かせてきたといってよい。
転げるように笹藪から抜け出た所は田の畦であった。
よろよろと歩くたび、殿様蛙が鳴くのを止め、深く張られた田の水の中に次々と飛び込んでいく。
後悔の念を無理矢理押さえ込む彼は、鬼面と違わぬ表情をしていた。
(死なぬ……このようなところでは、まだ死なぬ)
街道筋に戻るのは危険だと分かってはいた鷹田であったが、早く知らせたい気持ちが先に立ち、足が自然とそちらに向いた。
向かいの畦を歩く一人の年老いた農夫が異様な風体の鷹田に気付いた。
農夫は、はじめこそその場に立ちすくみじっと観察していたが、鷹田がじりじりと距離をつめてくるのを見て、一目散に遠くに見える村の方へ逃げ出した。
(いつもであれば、切ってでも黙らせたものを)
ここは青葉藩の領地でないとしても、関抜けをしてきた他藩である。
(浮浪の者のふりをしたところで、仕置きを逃れることはできまい……無念である)
畦を外れた雑木の側まで来たところで、糸が切れた傀儡のように、鷹田はどっと地面に伏した。
大きく息をひとつ吐いた。
伸びた稲の葉の中に潜んでいた蛙たちは、自分のなわばりを主張すべく、また、にぎやかに鳴きだした。
鷹田がようやく気付いたのは暗い牢の中であった。
後ろ手に縛られていた両腕こそ自由になっていたが、湿気の含んだ床上に仰向けのまま放置されていた。
「ううむ……」
我に返るとともに、縛られていた痛みが全身から伝わってきた。
「気が付かれたようですな」
向かいの陽が一番差し込まない牢の奥から、男の声が聞こえた。
鷹田が目をこらすと、黄ばんだ白い着物に、髭をたくわえた若い男が正座をし、じっと自分の方を見ていることに気付いた。
「すでに傷もふさがっているように見える、運の良いお方だ」
鷹田はこの場に似つかわしくない物腰の柔らかな声の持ち主が、普通の罪人ではないことをすぐに見抜いた。
「貴殿は?」
「ただの浮浪の者……お主と同様」
彼は大きな目玉に笑みを含ませそう言った。
もしこの男が大藩のそれなりの身分の者だとしても、藩に迷惑の及ばないように黙っている、そのことは鷹田にも十分理解できた。
「この土牢にいると季節さえも忘れてしまいそうになる、もう、どのくらいになるのかひと月を越えたところで分からなくなり申した」
「そんなに……」
鷹田は同じ状況に自分がおかれていることを認識していたが、思わず同情の声をあげた。
「他のお仲間は?」
「仲間はおらぬ……だが、同じ境遇の者は隣にも、その隣にもいるはずだが、何日も声がしない、貴殿が入れられた時にはまだ息があったようだが、もう蝿の羽音のみ」
湿気と古い腐った木の臭いではじめこそ分からなかった鷹田であったが、男の言うとおり確かにかすかな死臭が周囲に漂っている。
「拙者も同じ運命となるか、石を抱かされたまま刑場で死ぬかのどちらかであろう、それよりも外の話を聞かせていただきたい、もう田の稲はいかほどに伸びたのか、川で鮎は捕れ申すか」
その男は、何日も話していなかった分を、このほんの短い時間の中で取り戻しているかのようであった。
鷹田はそれ以上に焦っていた。
「よい、石を抱かされようが、首を切られようが、だが、私は諦められぬ……」
「誰もが、ここに来たらはじめはそう言う、だが、そういう者ほど、ここでは早く死ぬ」
「それでもやらねばならぬのが我らの生き方なのだ」
悔しそうに地面を叩く鷹田の姿に、囚人となっているもう一人の男は両腕を組んだまま哀れな者でも見るような目をして沈黙した。
(二)
今宵新月の墨を流した闇の中、影月十太郎は、草の間からひょっこりと顔だけ覗かせ、辺りの気配を一つも漏らさぬよう、神経を針のように尖らせた。
脇に控える九蔵は、すでに愛刀『時雨丸』の鯉口を切り、周囲に広がる禍々しい気の流れを読んでいる。
「囲まれたか……」
死臭と草いきれが充満する中、十太郎の頬に冷たい汗が一筋流れた。
「それをお主は楽しみに来たのだろう」
「ありがたい褒め言葉だねぇ、九蔵さん、そういうお前も」
「否定はせぬ」
十太郎は九蔵の返事を聞き苦笑した。その性格通り、堅物のように見える異国の片眼鏡をかけたこの侍の剣の腕は鮮やかかつ信頼できるものであった。
十太郎も草を踏み分ける音が、徐々に近付くにつれ、腰に差した兜割と呼ばれる小刀『十六夜』の柄に手をかけた。
「相手はひぃ、ふぅ、おっと、どいつも具足もんだ、命までとるこたぁねぇ、ここから逃げることが先決よ」
「御意、向こうは十一だな」
「へ?」
具足のぶつかり合う音が次第に大きくなり、距離を詰めてきたその時、二人の背後に殺気が立った。いつ近付いたのか、顔は見えなかったが、いかつい鎧を着た男が大刀を振りかぶっていた。
九蔵は、振り向きざま、愛刀を音も無く引き抜いた。
かち合う刀身から蒼い火花がほとばしった。
「ほう」
刀を打ち払った九蔵は、感心したような声を上げた。その隙に十太郎の兜割が相手の刀をたたき落とした。
「お手当上げてもらわねぇと、こりゃ割に合わねぇ」
「うむ」
二人はそう言うがはやいか、正面を避けるようにして下草をかき分け、左の山の斜面を駆け下りた。
滝の落ちる轟音が十太郎の耳に飛び込んできた。それまで土の柔らかい足裏の感触が岩のゴツゴツとした感触へと変わった。
藪が開けた場所は崖の切っ先でもあった。眼下に広がる黒い谷底からの冷たい風が十太郎の髷髪を揺らした。
「百丈の谷……飛び込むか」
九蔵はため息をついた。
「冗談じゃねぇ、こんな真っ暗だったら、途中で頭ぁ岩にぶつけて死んじまう、俺が岩戸並みの石頭だって、限度があるってもんよ、それに暗闇の滝ってぇのもくせもんだ」
「代案は?」
「ない……が、ここなら後ろに回られることはねぇ、こういう蒸し暑い日にゃ、奴らの方こそ川遊びがお似合いってもんよ」
「拙者、七引き受けよう、残り四はお主に任す」
「九蔵さん、俺をみくびっちゃぁいけねぇよ、だが、……三でいい、今日は、お前にゆずる」
「一人につき上乗せ一両で手をうとう」
「そりゃとり過ぎだろって……うぉっ」
藪からはじめに槍先が突き出し、勢いを付けた三人の侍が二人をめがけ突進してきた。二人は素早く左右に分かれ、勢い余った侍たちの背中を蹴るようにしてどこまでも深い谷底へと落とした。
「何?」
追手の侍を始末した時、言いようのない威圧感を十太郎はもった。
「真打ち登場か」
鍬形が輝く兜をかぶり、漆黒の鎧を着た十太郎の二倍もある背丈の大男であった。その男から発する気は十太郎の全身の毛を逆立たせた。
「九蔵さん、出番だ」
「残りはお主の取り分であろう、拙者はすでに八人始末した」
「そう言いなさんな、閻魔様からの特別のご褒美でぇ」
「口の減らない奴」
下ろしていた刀を九蔵が構え直した瞬間、彼の身体は大侍のふところ近くにまで、飛び込んでいた。だが、大侍が繰り出す大刀の風圧は、九蔵の身体を崖脇のブナの大樹の幹まで紙切れのように吹き飛ばした。
九蔵は、痛みを我慢しつつ、ずれた自分の片眼鏡をゆっくりと直した。大侍の繰り出す刀は周囲の木々を草でも切るように容易くなぎ倒していく。
それでも九蔵は何本か直接受け止めながら、攻め入る隙をうかがった。
「この褒美のつづらは重すぎる、十太郎、お主にも少し分けてしんぜよう」
「ごめん被ると言いてぇところだがぁ、一人でこの仕事はこなせねぇの承知、用意はできた、さぁ、切れ!」
「うむ」
九蔵は身体の向きを変え、崖際に生えている巨木の幹を両断した。幹は音を立てて倒れ崖下へと落ちていく。
大侍は牛の鳴き声に似た声を立て、谷底へ幹に引っ張られるようにして落ちていった。その首には、いつの間に巻いていたのか十太郎のかけた針金が絡まっている。
暗闇の底から、何かが潰れたようなにぶい音が聞こえた。
「何人、殺めた?」
「分からねぇ、だがこの分じゃ、俺たちも遅いか早いかの違いだ、気にするこたぁねぇ」
十太郎も九蔵もまだ肩で息をしている。
「あの世まで闇を飛んだカラスたちゃ、どんな気分なのか聞いてみてぇもんだ……問題はこの先だ、地獄吉原見返り柳の川端筋で、行こか戻ろか戻ろか行こかってぇとこだな」
「お主は行きたくてうずうずしているようにしか見えぬが」
「そうかえ?ただ、このまま帰っても元締めから駄賃はもらえねぇ」
顔を見合わせた二人は息を整え、また静かになった森の中へと戻った。
青葉藩の追っ手は執拗であった。
死を恐れぬ統率のとれた兵の動きは、時代があと百年も早ければ間違いなくこの家が天下を握っていたのではないかと十太郎は思った。
予想していたより手こずりながらも二人は何とか難所である十段の峰を越えようとしている。
九蔵はこの仕事を依頼した元締『六道三右衛門』の表情と言葉を思い出していた。
「『桃園』に唯一残ると言われる寺より、童を一人引き取ってきていただきたい、名は『ひそむ』齢六つ」
重々しい表情をする三右衛門とは対照的に、造作もない仕事なのが九蔵にとって意外であった。
「駄賃をもらった行商人でもできるようなそのような仕事を、裏街道専門の俺たちに頼む……珍しいことで……てっきり涅槃にかかわる裏稼業かと思っていやした、で元締、その理由を聞かせてもらえやせんか?」
用件を聞いた十太郎の顔は珍しく真剣であった。彼自身は、あえてこの簡単そうな仕事に自分たちを選んだ隠された事情に非常に興味をそそられていた。
だが、三右衛門は首を静かに横に振るだけで何も話さない。
「旦那のその答えでお上の筋の仕事ってことだけはよく分かりました」
「私が依頼主から預かったものは前金とこれだけ……」
三右衛門が袂から出したのは繊細な模様のような字が書かれた古びた短冊であった。
『なべてなき くろきほむらのくるしみは よるのおもひのむくいなるべし』
「恋歌にしちゃぁ本当によく出来ているが……」
九蔵は、その時の短冊を手に取って感心する十太郎と三右衛門のやりとりを今も覚えている。
「たしか、こいつぁ地獄の歌でやしたね……ありがたい縁起物じゃないんで、いったんお返しいたします」
「桃宴の寺はその方と縁のあるところとだけ聞いております……あえて、もう一度、確かめさせていただきたい、ご両人ともこの仕事、お引き受けいただけますな、報酬についてはお二方の『命のあずかり料』として、この他に私からも上乗せさせていただきます」
十太郎から短冊を受け取った三右衛門の声は今まで聞いたことのないほど冷たく静かだった。
あの時から、ひと月と経っていないのに、九蔵にはずいぶん昔の出来事のように感じた。今は二人、岩場の目立つ十段の峰を越え、再び、森林帯へと足を踏み入れている。
虫の奏でる音色が、シャボンのように草の海の中からわき上がっては消えていく。
叫び声とは似て非なる声が、山肌にこだまし、虫の囁きの向こうでその存在を誇示した。
「聞こえるか」
「ああ、虫が小粋な鳴り物を入れているが……そのもっと向こうで大勢の男共が泣きわめいていやがる」
九蔵に問われた十太郎は、そう答えながらその正体を考えていた。
(が、あの声……昔、どこかで聞いたことがある)
十太郎は、時にはオオカミの遠吠えのように、時には夕立の雨音のように聞こえる男たちの声の記憶を自分の過去に求めた。
(捕り物……刑場……違う……思い出せ……何だった……どんな時に……男たちはあのような声をあげる……?)
急に黙り込んだ十太郎を気にしつつ、九蔵は先頭に立ち、また徐々に深くなる藪をかき分け先に進んだ。
峠を下るにつれ徐々に霧が深くなり、下草の雫が十太郎の脚絆を濡らしていく。
着衣のまとわりつく不快感さに加え、三尋さきにある古木の幹さえも見えない視界の悪さが二人の歩みをさらに遅くした。
霧は音を知らぬ間に吸う。
森を進む十太郎たちにとってはもっけの幸いであったが、その分、追っ手の条件も同じである。ほんの一丁もいかずに鉢合わせする最悪の事態も二人は考えざるを得ない。
「この辺で小休止だ、ちょうど良い木もある」
十太郎は前を行く九蔵に小声をかけ、慣れた仕草で近くの木を猿のようにするすると登っていった。九蔵もしだる枝を伝いながら生い茂る葉の中に身を潜めた。
見下ろすと本来であれば生い茂った草木があるのだが、十太郎の目の前には白い霧が渦巻く潮の海が広がっていた。
(それにしても妙な霧だ、山間の霧といやぁ少しは肌寒くなるもんだが、ここの霧は梅雨よりもしけっていやがる)
九蔵も他所とは違う山の表情に違和感を抱いていた。
重ささえ感じる深い霧の奥から澄んだ鈴の音が一回、また一回と鳴った。
(何だ?)
十太郎と九蔵は、音が近付くのを知って、いっそう息を潜めた。
鈴の合間を縫うように老婆たちの悲しげな歌が絡み合い二人の耳穴を刺激した。
その歌詞の意味を聴き取ろうとした十太郎であったが、手からこぼれ落ちてしまう水のようにとらえることができなかった。
歌は木のすぐ側を通るように聞こえているが、草木や小枝、小石を踏みしめる音は全くしない。
急に見えない山々から男たちの荒々しい鬨の声があがった。
大勢の者たちが大地をかけずり回る音、刀や槍のぶつかりあう音、馬のいななきや種子島(鉄砲)の射撃音など、曼荼羅模様をそのまま音にかき換えたような奇妙な時間が過ぎていく。
十太郎と九蔵は頬に流れる汗と霧のしずくがまじった水をそのままに、逆巻く白い霧の渦を凝視した。
(いったいこいつは……何が起こっている……狐や狸に馬鹿されちまったか)
十太郎はそう思い、九蔵の方を見やると、彼も同じことを考えていたように、愛刀の鯉口を切り、今にも相手を斬り殺さんばかりに、樹上から飛び降りようとしているところであった。
十太郎は手を伸ばして九蔵の肩をそっと叩き、首を横に振り、彼の動きを制止した。
喧噪の中に、力強く経文を唱えるしわがれ声が空から降り注ぐように聞こえてきた。
いつしか耳を澄ます十太郎の周囲から激しく争う音が消え、霧が大河のように山裾の方へと一気に流れていく光景が広がった。
そして、おい茂った森と藪が何事も無かったように、再び二人の前に出現した。
「狐の宴は終わったか」
そう言って九蔵は柄から右手を離し、地面へ降り立った。
「いや、奴らは粋なみやげ物を置いていってくれたようだよ」
まだ樹上にいる十太郎は手を伸ばし、藪の向こうに見える十本ほどのブナの大樹を指さした。太い枝に絡みつくさんばかりのいくつもの大きな蓑虫のような袋がぶら下がっているのを九蔵は見た。
「蓑虫と言えば一つ、二つ、軒先や梢に揺れているなら風情があるものだけどありゃ……」
十太郎にそう言われた九蔵も正体が分かるなり一言うなった。
「……醜すぎる」
蓑虫に見えた正体は、手足や首がもぎ取られた片倉兵が袋状の網の中につめられた物であった。
(本当に鬼が住んでいるのか)
「こりゃ見てみなけりゃ分からんなぁ、こうなりゃ行くところまで行ってみましょうや」
思案する九蔵の側を通りながら先へと進もうとした十太郎は、何かの気配に足を止めた。
(熊か?)
岩かと錯覚するような大きな甲冑に身を包んだ男が大樹を背にうずくまっていた。右手の下に転がる大刀の刃は割れ、柄から刃先までべっとり桃色に染まる脂肪が切り捨てた数を物語っていた。
(蓑虫の次は脂でできた桃太郎かよ)
十太郎が顔をのぞき込むと男にはまだ息があった。
「こんなになっても生きていやがる……ここは化け物ばかりだ」
そう言いながら、十太郎は甲の紐をゆるめた。
「こ奴の紋は片倉のもの、どうする気だ」
九蔵は、鎧をとろうとする十太郎を止めた。
「今は何があったのか少しでも知りたい、こいつの両指を見てみろ、薬指も小指も落ちて使い物になりゃしない、もう刀は握れねぇよ、もし、俺の背で暴れようなら、俺の背中ごと貫いてくれてかまわねぇ、よっこらしょっと、かぁー、かたつぶりになった気分だ」
十太郎の言うとおり、男を背負った姿が大きな殻をもつ虫のように九蔵には見えた。
「江戸じゃ辰の刻といえば、おてんとうさんの下で、やいのやいの楽しんでいる時だが、この暗さは何だ、夕立前の雨雲にしても黒すぎるだろ、また、大日女さんが機嫌こじらせて天岩戸にでも隠れちまったのかな」
十太郎は、よろよろとした足取りで獣道を歩きながら、夜のとばりをひきずる周囲の暗さを見て毒づいた。
「お前の背負っている大男はタヂカラオかもしれぬぞ」
「こんな血だらけの汚れた神様なんざぁ、聞いたことねぇや、あ、もう雨が落ちてきやがった」
恨めしそうに十太郎は雨粒が落ち始めた空を見上げた。
「峠下に小さな集落があることは聞いている、そこまでは距離があるとしても、マタギ小屋のようなものならあるかもしれぬ、一足、先に見てくる」
「ああ、露払いじゃねぇや、雨払いを頼むよ九蔵さん」
藪に覆われた山道を早足で下っていく九蔵の背中を見届けた十太郎は、枝を大きく四方に張るブナの巨木の下で雨をしのいでいた。
十太郎の背負っている男の意識はまだ戻ってはきていないが、時折、小さなうめき声を上げた。
「骸は全て切れ……、一人も残してはならぬ……闇住者を……」
(闇住者?)
今まで耳にしたことのない男の言葉に、十太郎はもう一度耳を澄ましてみたが、その後の男は苦しそうにうなるばかりであった。
時を経ずに古びた蓑と傘を手にした九蔵が戻ってきた。
「南斜面に小屋がかけてある、糧はないが、こいつを借用してきた、無いよりは良いだろう」
「無いよりは良いが、限度ってもんがあらぁ」
ボロボロと藁くずが落ちる蓑を手に取る十太郎は顔を小さくしかめた。
(三)
マタギ小屋は、風雨をしのぐために十分なもので十太郎が想像していたよりも広く作られていた。山の斜面に突き出た岩を雨よけの一部として上手にいかし、床には辺りの雑木の丸太を敷き詰め、その上には破れたむしろが申し訳無い程度に敷かれていた。
九蔵は休むことも忘れたように、小屋の周囲の探索を続けていた。一方、十太郎は干し飯を口で噛みながら、男の身体を冷やすまいとたき火の火に薪をくべている。
薪に開いた小さな穴から、白い肌をしたカミキリムシの幼虫が熱さから逃れようと身もだえながら這い出し、そのまま火の中で焼かれていく。
「やめときなせぇ、その熱じゃ、ろくに歩くこともできずに、火の中で焼かれるこいつらのようになりまさぁ」
座ったまま十太郎は後ろに感じる気配に向けて語りかけた。
気配を殺しつつ上半身を起こしていた侍は、既に相手が気付いていたことに非常に驚いたものの、もう隠す必要性もなくなったと思い、殺していた息を大きく吐き出した。
「貴様は、関抜けをしてきた者だろう」
「お侍様は、よっぽど丈夫な身体をお持ちのようだ、普通でありゃ、快復したとしてもひと月は、うんうんと寝床でうなるくらいの傷じゃありやせんか?」
「黙れ、まず、わしの問いに答えよ」
十太郎は、まだ侍に背を向けて座ったまま、火に薪をくべている。生木が混じっていたのか、そのうちに白い煙がもうもうと小屋の中に広がっていく。
「ああ、煙い、高飛車なお上は陰で民から嫌われますぜ、とりあえず雨水で傷を洗って膏薬を塗りましたが、血が汚れていちゃ、益々、熱が上がってそこら中が腐り落ちてしまいやす、まずは、ここで養生していなせぇ、村の者へ良いように言付けておきやす、腰の長物はこっちに置いておきやしたが、研ぎ直さなきゃ、いくら天下のご名刀でも人脂と刃こぼれで使い物になりやせん……その前にお侍様の手は箸さえも持てないほど負傷していやす」
侍は動揺する様子をおくびにも出さない男に強い警戒心を抱いた。
「お前は何者だ」
「恐れ入りやす、ただの山道に迷っていた町人です、ようやく山を下りることができる道が見つかったところで安堵していた矢先でさぁ、そんなに怪しい者じゃございやせん、お侍様こそ、こんな狐狸の住む山奥にいったい何のご用事で?」
そう言いながら、振り向いた十太郎は積まれた薪に立てかけてあった侍の刀を彼に差し出した。侍がその刀の柄をつかもうとすると、するりと土間に滑り落ちた。
「くっ」
「この雨が止んだら、すぐにおいとまいたしやす、お侍様を助けたことに免じてお見逃し願いますか、『骸』どもに見つけられたらかないませんので」
十太郎は、先ほど聞いたばかりの言葉をわざと口に出した。
「お前は『骸』を知っているのか」
その言葉を聞いた侍は途端に憤怒の表情を浮かべた。
「いえ、単なる旅人同士の噂花でさぁ、他にも『闇住者』とか、どんなものか見たこたぁありやせん、お侍様がそのことを知っていて少しでも手前どもに教えていただけたら、ありがたいのですが……だが、そのお顔じゃ、まず無理ですね」
そのとき、小屋の周囲に異様な気配を十太郎は感じた。
侍の顔にも汗がじわりと浮かぶ。
「わしが説明しなくても、そのものたちが地獄からここまで迎えに来たようだ、貴様に拾われたわしの命もどうやら無駄になってしまったな」
見えない重苦しい重圧が小屋の周囲にのしかかっていく。
「と、するとここで『骸』に会えるという訳ですか、これは故郷の良い土産話になりまさぁ」
軽口をたたきながらも、十太郎は今までに味わったことのない気配に緊張を高めていく。
雨音はもう二人の耳には入ってこず、心の臓の音だけが鐘楼に吊された鐘のように鳴り響いた。
壁代わりの筵が引き裂かれ、黒い何かが十太郎の目の前にその姿を現した。
つづく