第拾三話 「桃宴」
丑寅の関を越え、今は廃道となった笹葉旧街道の狭隘に『桃宴』と呼ばれている地がある。かつて青葉藩による銀の採掘で栄えた『洞鉛銀山』の鉱山街として栄え、最盛期には近くの集落も合わせ五万人を超える人々が暮らしを営んでいた。だが今は見る影も無くただの廃墟と化している。
洞鉛銀山も初めから栄えていた訳ではなく、奥羽山脈の険しさに阻まれた鉛鉱がわずかに採れる地であったにすぎない。
南北朝時代からこの一帯を支配していた安倍氏の後裔と自称する笹場氏が自領としていたが、少領の地方豪族である。この山の価値にいち早く目を付けていた青葉氏が戦によりその山間一帯を手中にした。
一部の笹場氏の郎党は西に位置する束稲氏の助力を得て抗ったものの、武力に大きく勝っていた青葉氏にあえなく屈し、笹場氏はわずかな遠戚を残し滅びた。束稲氏も奥羽山脈を越えた辺境の地をさして重要とは考えておらず、助力も義理立て程度であったことは青葉氏も承知のうえであった。
江戸に幕府が開かれてまもなく、この小さな鉛鉱山から莫大な銀が産出されていることが人々の耳に伝わった。それが事実だと全国に知れ渡るとその富を求め多くの流人や商人が集まり、街という集合体が形成されていくのに時間はそうかからなかった。と同時に鉱山と青葉の城下町を繋ぐ細い山道が広く整備され笹葉街道となり、出羽国まで延長されると人々の往来がさらに激しくなっていった。
厳しい峠道をいくつも越えた先に華やいだ鉱山街が急に広がる景色に、街道を歩く誰もが一度は驚愕したと言われる。街の字も改められ『洞鉛』という暗い坑道を連想させるものから桃源郷を模した『桃宴』という字が当てられた。
銀鉱山が生み出す財力に危機感を抱いた幕府は青葉藩の国替えを画策したが、まだ国内いたるところで一揆や小規模な士族の争いが頻発していた頃である。奥羽地方一帯を治めている青葉氏と直接やり合うことだけは避けたいと幕府は手をあぐねていた。
そのような時、青葉藩三代目の当主が日頃からの不遜な所作により家臣によって強制隠居させられる事件が起こった。世に言う『青葉騒動』である。まだ五歳にも満たない幼い四代目の当主の後ろ盾となった家臣が実権を握ると、諫言する家臣や親族に無謀な言いがかりを付け断絶や処分を専制的に行った。さらにこれに不満をもつ家臣や親族の訴えを裁定した際に刃傷沙汰が生じたことから、幕府はその騒ぎに乗じ、笹場という旧領主の名を復活させ、青葉藩の反対派を中心とした家臣団による笹場藩を新たに起こした。
『洞鉛銀山』も『笹場銀山』と名を変え、鉱山街から笹場城下町へと変わった。名は笹場藩となったが藩の成立の過程からも幕府の直轄地と言ってもよいほどの傀儡的な立場にすぎなかった。
だが、幕府の目論見はあっけなく瓦解する。笹場藩が成立してまもなく、山体崩壊による大規模な山津波が街一帯を襲い、城、鉱山を含め多くの住人の命が土砂の中に呑み込まれた。
青葉街道も丑寅の関以降は寸断され、幕府は鉱山としての価値が無くなった山奥の地を召し上げ、直轄地としそのまま放置することにした。
わずかに生き残った人々は鉱毒がしみ出る水を飲み、わずかな谷間の畑地で細々と暮らしていくことしかできなかった。一人、二人と山間のこの地を捨て桃源郷のように華やいだ時の記憶は人々の心から薄れていった。
前の笹場氏時代に開山された洞鉛寺という無人の古寺に夢戒という若い僧侶が流れてきたのはちょうどその頃である。高野山で修行していた噂があるその若僧は、苦しむ桃宴の人々の心の拠り所となった。
その若僧の面妖は一風変わっていて、背も高く、瞳と睫毛、眉毛の色は鮮やかな栗色であった。彼が不思議なまじないを口にし患部に触れるとなぜか痛みが治まった。また、病に苦しむ人に対して彼が煎じた薬は、非常に良く聞くと評判であった。
人々は誰彼となくそのまじないの言葉から『ほうほう様』と呼ばれ慕われた。彼の寺には常に多くの子供たちが起居していた。この街を捨てていった家族から引き取った子供である。
この世間から見捨てられた地に逃げるように助けを求めてきた棄民の一団が訪れたのは、冬が差し掛かろうとする霜月の夜のことであった。




