第八章 第十一節 誰も知らない世界
「で、連れてこれなかったんですか?」
帰ってきた、と聞いたときには華やかに広がった笑顔が急速に萎んでいくのを見て、白谷は申し訳ないやら目を合わせ辛いやらで、苦笑いするしかない。
「忙しいのは事実だ。すまんな、終われば会いに来ると言っていたよ」
実際、今も部屋に篭って莫大なデータと戦闘中のはずだ。一般人である彼女や、白谷にすら見せられないデータもある以上、仕方の無い面もあるにはるが思う一方、せめて一分でも時間が取れないのかとシンを恨めしく思わずにはいられない。
「白谷さんも、忙しいんですか?」
「まあ、な。新しく覚えることだらけだよ」
突然の指揮者の交代に、概ねハムレスは好意的に受け止めていた。元々この世界出身者しかいなくなってしまった事もあっての彼の判断なのだろうが、こんな事になるとは彼で無くとも苦笑してくなる。
「敵、だったんだがね」
立場が逆転するならまだしも相手方のトップに上り詰めるとは、あの時誰が思っていたことだろう。黒部が知ったら一体あの男はどんな顔をするであろうか。
「ふぇも、はいほうふですよね?」
「とりあえずそのハンバーグを飲み込もうか」
「でも、大丈夫ですよね?」
「ん?」
「それが終われば、戻ってきますよね」
「ああ、そうだろうね」
実際のところ、本当に彼女の希望通りになるかどうか、白谷には判断が付かなかった。シンが何かを隠しているのは明白だし、ロイヤルナイツやメイル、ルーデがどう動くかも、またアルスやひかりが狭間とやらに入れるかどうかも分からない今、何を言ってもそれは憶測にしか過ぎない。
「沙耶香は?」
「多分、誰もいない頃に来るんだと思います。私がいたら、多分ずっと来ない」
本当に一晩中彼女が待っていた事を彼は知っていたが、それには触れずに食堂の入り口へと視線を向けた。少し夕食には遅いこの時間でも、食堂内は隊員で埋まっていた。見た事ある顔から見覚えの無い顔まで様々な人物が過ごすこの世界を、どうにかしたい、と彼は改めて思った。
「さて、子供が起きるには遅い時間だ」
彼に取ってみれば寝るにはまだまだ早い時間だが、普通の子供はとっくの昔に夢の中だろう。現に今も綾香の口は欠伸をかみ殺しているのが丸見えだ。
「部屋まで送ってくれますか?」
「ああ、と、いや、私より適任がいるよ」
勿論、と答えようとした矢先、視界にうってつけの人物が目に入り白谷は彼女を振り向かせた。
「あ……」
気づいたのだろう。入り口につったまま、どうしようかと悩んでいるシンに、白谷は盆を返し、今まさに出ようとしている風を装って、彼女に視線を向けている彼に歩み寄り、彼の様子に目を見開いた。
「大丈夫か!?」
「ええ」
目に隅ができ、見るからに憔悴し切った表情は、忙しさから来る物だけではないだろう。
「すみません。色々と」
「構わんが、お前」
肩を掴んでも特に抵抗も無く為すがままだ。疲れている、というよりは心が疲弊しているようなそんな頼りなさが見えて、白谷は息を呑んだ。
「じゃ、帰りますね」
「送るぞ」
そんな二人の横をすり抜けて、綾香が通り過ぎようとするのを白谷が声を掛けるも、遠慮してか、彼女はかぶりを振る。
「いいです、邪魔しちゃ悪いし」
「邪魔じゃない」
「シン?」
気にしてない、と笑顔を向けた彼女にシンは真剣な、それでいて悲しさを滲ませた声で彼女を見据えた。
「それに、言わなきゃいけないことがある」
少し外の空気を吸わないか、と誘われて出てきた屋上にはヘリも人も存在しなかった。本当に忙しいのか、それともシンがどけてしまったのか彼女には判断が付かなかったが、ただ何となく、ああ、やっぱり彼は夜が似合うな。と思った。
「シン?」
会えた喜びや、会話できる楽しさなどどこに行ってしまったのか、綾香の胸にあるのは心配だけだ。どうしてこんな顔をしているのだろう、何かまた自分が心配掛けたのだろうか、そんな事が心をよぎる中、彼は柵に手をかけ力無くそれに体を預けた。
「もし、だけど」
彼の隣に立って、柵に腕を乗せる綾香に問いかけるような形で、シンは口を開いた。
「うん」
「今、空に飛んでるあれがさ、ここまで来たら」
一句一句、考えに考えた末に搾り出された言葉は、不思議と彼女を落ち着かせていた。
静かに吹く風が時折彼らの髪を揺らし、一時シンの言葉が止まる。都会のど真ん中に位置するハムレスではあったが、この高い建造物の頂点に位置するここに届く地上の声も光も無く、二人だけの世界がそこにはあった。
「全部終わっちゃうの?」
「いや、終わらない。そこまでは多分あの人も望んでないはずだから」
「シンは、その人どうしたいの?」
その人、が誰かなんて聞くまでも無く、それでも彼がどんな答えを出すのか、出そうとしているのか知りたくて尋ねた彼女に対して、彼の声は諦めにも似た声だった。
「止められるなら止めたいけど、俺にそんな資格無いから」
「止めなきゃ駄目だよ」
後押ししたいのか、どうして欲しいのかどうしたいのか分からないまま、口は勝手に開いていた。
「綾香、だけどそれは」
「止めないと、終わっちゃう。お姉ちゃんが」
「あや」
その言葉が何を意味するのか、説明する暇もなく核心の人物の名を出され、彼は言葉を失って立ち尽くす。
「だから、私にこんな事、話すんだよね」
もう何度とも知れない覚悟は、確実に彼女を強くする一方で、確実に彼に罪悪感を植え付けていた。
「お姉ちゃんの、せい、なのかな?」
「俺のせいだ」
「お姉ちゃん、なんとかすれば終わるの?」
責任の押し付け合いも、それ以前にこの世界の全てを誰かのせいになどしたくはなかった。必要な事は、いつだってこれからをどうするか、それだけだ。のはずなのに。
「分からない。けれど、もし全てが分かって、それしか方法が無くなったら」
けれど、彼の口から出るのは弱音ばかりで、泣きたいのはこっちの方だと泣き出したくなるのを堪えて、彼女は一つのお願いをした。
「ねえ、シン。翼、見たいな」
何だろう、と身構えた彼がきょとんとするのが可笑しくて、つい彼女は噴出してしまう。辛そうな顔をしているこの少年が、いつもこんな顔をしてくれていたらそれだけで充分なのに。困った顔をされるとこちらも困ってしまって、彼女は上目遣いに下から彼を覗き込んだ。
「駄目?」
「……いや」
彼女から目を逸らしながらも、彼はあっさりと翼を開いた。カノンの白い翼も見る人が見れば綺麗に見えるのだろうが、やはり彼女はこの翼が好きだった。
「こんなに綺麗なのにね」
「月がさ、あるだろ?」
辛そうな表情の中に、彼女の知らない顔が生まれて、彼は空を見上げて何かを懐かしむようにそっと微笑んだ。
「本当はさ、あいつの名前にそんな意味があるって知ってから、夜が好きだった。きっと、今も」
「つきさん?」
「この国の言葉なら、そうなんだろうな」
「その人、今はどこにいるの?」
「あそこにいる」
「……そっか」
知らない彼がそこにいて、知らない誰かを思い出している。そして今、彼女もまた、彼の知らない人を思い返している。
「お母さんもいるのかなあ」
「いるんじゃないか」
お互い何の根拠もなかったが、彼が、彼女が言うのならそれが真実なのだろうと自分に言い聞かせ見上げる空は、いつもより大きく見えた。
「どんな顔してると思う? その人」
「怒ってそうだ」
「何で?」
「うじうじしてる暇があったらさっさと止めろ!って」
どんな人だったのだろう、と彼女の空想は膨れ上がり、シンのその言葉でしか知らない「つきさん」のイメージは彼女の中で決定的になった。
「終わったら、一緒に食べようね。ごはん」
「白谷さんの奢りでな」
白谷がいれば本気で財布と睨めっこしそうな言葉を平気で吐いて、彼は舞い上がった。見たいのならよく見えるように、ほんのひと時でも、月よりも輝けるように。