第一章 第一節 目覚める翼
「お帰りなさい」
血まみれで戻ってきたカインをフェイトは笑顔で出迎えた。無機質な部屋の中、血まみれの少年と二人きりという奇異な状況の中でも彼女は微笑んでいた。一人きりよりも遥かにましと思えるからなのか、それとも他に理由があるのかは誰も知る事は無い。
「拭くね」
新しく服が支給されたため、彼女は自分の服を脱ぎそれをタオル代わりにする。支給された服も今の服と全く同じデザインだったが、それで彼女も彼も充分だった。新しい服を纏った彼を満足げにたっぷりと見た後、彼女も服を新しい服に着替えた。
「似合うよ、凄く」
「興味無い」
「それでも似合う」
珍しく返答を返した彼に彼女は明るい声で返す。電気も無い暗い室内の中、その声だけが明るかった。
彼はたっぷり五分は自分の服を見た後再び前を見て座り込んだ。正直、全てが彼の興味の範疇には無かった。隣に座る少女の声も、戦場で響き渡る銃声や悲鳴も、自分が今生きている事も、全てはどうでもいい事だった。時折少女が何かを自分に話しかけてきたり、隣に座ってきたり、自分の世話を焼くのは彼女が誰かに命令されたからだろうし、自分も、もし彼女を殺せといわれれば何の疑問も持たないままそうするだろう、という予感が彼にはあった。
だから彼らの間に流れる時間の大半は沈黙で占められていた。狭い部屋の中、時折フェイトが呼び出されて食事を部屋に運んでくる。その時は電気がつけられて、お互いの顔がはっきりと確認できた。
「美味しいね」
何の味もしない食事を黙々と口の中に入れていくカインとは対照的に、フェイトは食事中饒舌だった。やれ昔はあれが美味しかったのだの、お兄ちゃんとやらがどんな食べ物が好きだったのかとか、うるさい声に少し顔を顰めながらも彼はすぐに食事を終え、再び座りこんでじっと壁を見る。扉を開けば外の世界はすぐそこだったが、そんな事に彼は興味は無かったため、そのまま時間が過ぎていくのを彼はただ待つのみだった。
夜になるのを知らせるのは時計でも気温でもなく、フェイトだった。
「そろそろ寝る時間だよ」
一体どういう体をしているのか、彼女の体内時計は完璧だった。最初はそれに驚くこともあったが、もう慣れた彼は黙って横になり目を閉じる。
「暖かいね、カイン」
「人並みの体温だ」
「ううん、暖かいよ」
カインの背中に抱きつくようにしてフェイトは横になった。触れ合う体から伝わる体温だけが彼らの全てだった。
「また明日」
そう言って彼女は眼を閉じた。彼はそれに抵抗することもなく小さく、声には出さないまま何かを発した。聞こえないはずの声に彼女が微笑んだのは、その見えない思いが届いたからなのか、それとも。
「カイン、来い」
部屋に設置されているスピーカーから声が響く。いつもの様に朝が来て彼は呼び出される。いつもと変わらない時間の流れに従って彼は今日も羽ばたいていく。
「いってらっしゃい」
部屋から出ようとした彼にいつもの様に声がかかる。今まで反応した事の無かった彼が、フェイトにしか分からない表情の変化を見せた。
「困ってるの?」
彼は困惑していたのだ。少し申し訳無さそうな顔と共に。少し間を置いて彼はその表情の理由を言った。
「何て返せばいいのか分からない」
言われた彼女は最初は信じられないという風に目を開きそれから満面の笑みを作った。
「いってきますって言えばいいんだよ」
その笑みに何を感じたのかは知らないが、彼は無表情のまま静かに口を動かした。
「いってきます」
「はい、いってらっしゃい」
扉が閉じ、彼が出て行った。それを見送った後、フェイトは物憂げに自分の体を見た。ぼろぼろの継ぎ接ぎだらけの、醜い体を。
「七槍」
いつもの様に彼は戦場にいた。何て事は無い日常の中、ふと彼は向けられた銃口の中に、今日の彼女の笑顔を見た。
「死ねえええええええええええええええええええ!」
聞こえてきた声はいつも聞いている悲鳴と何ら変わらないはずなのに、彼の反応は一瞬遅れる。
腕を掠めるようにして飛んでいった銃弾に目を向ける事も無く、次の瞬間銃口を向けていた少年の意識は消滅した。いつもの様に殺しているはずの時間が妙に長く感じて、彼は目を閉じた。
もう少しで全てが終わる時、雨が降り出した。恐怖で逃げ出そうとした一人の少女の足がもつれ、持っていたライフルが地面に投げ出される。その音を聞いた彼はライフルの方へと歩いていき、それを持ち上げ銃口を突き付けた。
「さっきのは何?」
「え?」
無機質な声に彼女の頭はパニックに陥っていた。足が震え、目は閉じようにも開きっぱなしで、目の前の悪魔から目を逸らすこともできない。
「何で見えたんだろう?」
自問しながら彼は引き金を引いた。弾丸がマガジンから無くなるまで放たれ、彼女はその原型すら無くすほどに四散した。飛び散る血しぶきがかからない様に撃ったのは何故かも分からず、彼はそこに立ち尽くしていた。
「今日、カイン怪我してたな」
「珍しいですね、私が知る限り初めてです」
「俺の知る限りでも初めてだな」
彼らは今日のカインの戦果を報告書で受け取り眉を顰めた。軽症ではあったが、今まで数百の戦場を飛び交い戦い続けてきた彼にとってそれはありえない事のはずだった。
「相手が余程の手練だったのか、それとも何かを躊躇したのか」
「後者はありえません。そういう存在なんですから」
疑問点をつらつらと並べていく白谷に、麻衣は断定的に結論を前者に決める。
「どうだかねえ」
「どうい意味です?」
疑問符を付けて発せられた言葉に彼女が噛みつく。そんな彼女を面白がるように彼はつい先日知った事実を述べていく。
「フェイト、ルシファの妹やってたんだって? 用済みになってこっちに来たっていう話らしいな」
「ええ、ですがカインには関係無い話です」
ルシファとカインの繋がりを彼女が知っているわけも無かった。
「カインには関係なくても、フェイトにとってはそれは関係無い話じゃあない」
「何が言いたいんです?」
先ほどから意味ありげに発せられる言葉に彼女はとうとう堪忍袋の緒が切れた。机を思い切り叩いたため、幾枚かの書類が宙を舞った。それをゆっくりと拾い上げてから机にそれらを戻した。
「もしかしたら、心動かされるかもしれないよ、お互い」
「馬鹿げた妄想は止めてください」
にやりと笑う声を無視して彼女は立ち上がった。
「フェイトの様子を見に行くなら、今は止めておいた方がいい」
「何故です?」
図星を突かれた彼女は不機嫌な顔のまま彼に問う。今はカインもいないのだし、何より彼女自体のメンテナンスの問題もあった。
「ここは一体何のための施設か知っているだろう?」
当たり前の質問に彼女は興味もなく答える。
「死刑囚の墓場ですよ。ある程度囚人の自由は保障されている変わった所ではありますが」
「そう、どうせ死ぬのだから、という馬鹿なお偉いさんの考えだよ。まあ、俺達に実験動物として送ってくれてるんだから文句は言えないが」
「それとさっきの忠告とどう関係あるんです?」
確かにここでは何をやっても自由。おまけに実験材料には事欠か無いばかりか、その人数は毎日増えていくのだ。文句の言える立場でも無かった。万が一死刑囚と出くわしても彼らがこちらを襲ってくることは無い。手を出せば最後、問答無用で撃ち抜かれるのが落ちだった。
「まあ分かんないよなあ」
「何がですか?」
彼は溜息をついて彼女の体を見る。ヒントのつもりだったが、彼女はそんな事を一切気にすること無く答えを早急に求める。彼は諦めてネタ晴らしを始めた。
「ここの看守達の仕事は結構ハードだ。死刑囚達の管理に手一杯だし、こんな奥地に娯楽施設の一つも無い」
「それが?」
そんな事は彼女も分かっていた。だからこその高給だったし、休暇を取ればどこかへ遊びに行く事も可能である。つまり彼が何を言いたいのかまだ彼女は分かっていなかった。
「そんな施設の中に可愛い女の子が一人いたらどうなる?」
「なっ、あの子は」
いきなり思いがけない方向に話を向けられ、彼女は機密をあわや漏らしそうになる。彼は咄嗟に口に持っていき注意を促した指をそのまま彼女の方向へと向けた。
「そんな事、彼らは知らないしどうでもいい事だろう」
確かに見た目も中身も彼等からすれば普通の女の子にしか映っていないはずだった。おまけに彼女は今は何の力も持ってはいない。抵抗もできはしないし、またしようともしていないだろう。
「それが、今?」
「丁度昼食休憩中だろう。何を食べているのかは知らないが」
時計を見て彼は今の状況を皮肉る。彼女は吐き捨てるように言ってから、再び席に着いた。
「最低です」
「直接言ってくればいいだろう。彼らは無視するだろうが」
「どうせ無駄ですから」
この状況では行っても嫌な物を見るだけだ。それくらいならここでカインの次の予定を決めた方が効率的だった。
「次はお仲間サンと一緒みたいだ。彼は」
拾った書類をついでと言わんばかりに眺めながら彼は目の前のパソコンに映るモニターに目をやる。映っているのはカインと同じ位の年の少年少女の個人記録。大概が不詳となっている中、彼はカインの次の予定を確認して目を細めた。
「始めるんですね」
その言葉の意味を汲み取って彼女の目も険しくなる。
「ああ、選抜だな。誰がふさわしいか」
それは血みどろの選抜試験だった。今までのカインのやってきたことは勿論、この世界のトップに恩を売ったり報酬を得たりという意味もあったが、彼ら自体の目的はこの選抜試験を行うことにあった。
「一応カインは最有力候補なんですよね」
彼女もデータを見ながら彼に確認する。彼はその言葉に自信を持って言葉を返す。
「百パーセントと言っていいだろうな。少なくとも俺はそう思ってる」
「まさか、それも見越して?」
その先に待っている彼の運命すら見越しているのだとしたら、と思うと彼女は急に彼が違う何かに見え始めた。
「さてね」
「悪魔ですね、貴方は」
冷たく放たれた言葉に彼は気分を害するでも無く彼女に目を向ける。
「褒め言葉か? それ」
「まさか」
「それを言うなら君もだよ。麻衣」
「分かってます」
二人の悪魔はそれっきり黙って仕事に取りかかった。試験の場所や時間、内容等を決めるのは彼らの仕事だった。
「どうしたの!?」
カインが帰ってきた途端、彼女は血相を変えてカインに駆け寄った。いつもなら血みどろで帰ってくるはずの彼に帰り血は一切無く、変わりに腕に包帯が巻かれていた。
「何も、ただ当たっただけ」
「痛く無い?」
黙って首を振る彼に彼女はとりあえず安堵の溜息を漏らした。
「駄目だよ、気を付けないと」
その包帯を優しくさする彼女に彼は不思議そうに声をあげた。
「どうして?」
「私が悲しい」
怒ったように顔をこちらに向ける彼女に彼は少し考えた後、呟く様にして言った。
「分かった」
「え?」
「もう怪我しない」
「本当?」
フェイトの嬉しそうな顔に思わず彼はすぐさま頷いた。何だか、この顔を悲しみで染めるのは申し訳ないような気がしたから。そんな彼の思いを知ってか知らずか、彼女は小指をこちらに向けてきた。きょとんとした顔をする彼に彼女は自分の知識を披露していく。
「指きり」
「指きり?」
「そう、こうやって指を絡ませたらほら、絶対にカインは約束を叶えてくれる」
それで叶うのなら、と彼はそれに応じた。一通り済ませた後、彼女は満足そうな顔になり、いつもの様に彼の隣に座った。
「明日も、帰って来てね」
「分かった」
言われるがまま彼は頷いた。自分はどんな命令でも失敗無く遂行してきた。だから、こんな小さな願いくらい叶えてあげようと彼は思い、いつもと同じように壁に視線を向けた。