第一章 第十一節 始動
飛んでいる間泣き叫び続ける綾香を無視し続けて、シンは自分がいた施設に降り立った。空から見ると互いの位置関係が良く分かる。施設からさほど離れていない南西の方向に島が見える。諸島となっているため、今まで特別彼は意識していなかったのだが、これなら地価にトンネルを掘って渡ることも可能だろう。
「ここで待ってて」
「え?」
慌てて戻ろうとするシンの腕を彼女は掴んだ。今にも泣き出しそうな声、きっと泣き出したいのだろうが、それではシンが困ってしまうから。何より、ここで挫けたら沙耶香の行動が無駄になってしまうから。だから彼女は問いかける。
「何?」
何でも無い事のように彼は尋ねる。ルークやルナにしか見せた事の無い、穏やかな笑みで。
「……戻って、くるよね?」
「……分からない」
少しの間を置いてから彼は答える。こんな所で気休めの嘘をついても仕方が無い。自分も過去に自らの手でを血に染めた事もある。こんな所で一人助けてもそれは偽善と言われても仕方が無かった。
「シン!」
そっとその腕を掴み、少しの間彼女の体温を感じてから彼は飛び立つ。
「ごめんな、こんな事になって」
誤って許される問題では無い事は分かりきっていたが、それでも言わずにはいられなかった。あの状況ではおそらく誰も助かってはいないだろう。自分が今戻ったところで意味は無いかもしれない。その上もしこれが組織の行動なら、自分の今からする事は裏切り行為だ。
「けれど、こんなことしても平和にはならない」
苦々しげにシンは吐き捨てた。前方にはあの島が見える。
「ルークやルナはどこだ?」
あの状況になっても中々彼らは現れなかった。今どこにいるのか、それだけが気がかりで彼は上空を飛び回る。一回りしてから、上からでは無理かと思い、彼は神社の前に舞い降りた。
「どうなってるんだ?」
彼は眼前の光景に目を見張る。確かに先ほどまで血の海だった場所は、その痕跡すらも無かった。幾多の死体が転がっていそうなものだったが、何も無い。
「どうして?」
一人呟いてからすぐに思い当たり、拳を握り締める。こんな事、組織の仕業に決まっていた。他にこんな事をすぐにできる者が他に思いつかない。
「こんな所にいた」
「ルーク」
神社の後ろから人の気配がして思わず飛びずさると、そこからルークが姿を見せた。
「何だよ、いきなりあらわ―」
安心していつもの口調に戻ったシンだったが、月明かりが彼らを照らした瞬間、シンは凍りついた。血まみれの服と手、いつもと変わらないその微笑が、何故か今はたまらなく怖かった。
「ルーク」
「どうしたの? そんな驚いた顔して」
「何してるんだよ! 相手は無抵抗の人間だろ!?」
「何言ってるんだよシン、命令されたら従わないと。当然だろ?」
今までとは何もかもが違うように感じた。変わったのはルークか、それとも自分なのか。いや、元から違っていたのかもしれない。どうしてもシンは彼のように妄信的に上の人間を信用できなかった。相手が自分に銃を向けてさえこれば、何の躊躇も無く力を振るえるのに。
「殺したのか? 全部!」
シンの凄みに怪訝な顔をしながら彼は無念そうに首を振る。
「それがカインとフェイトに邪魔されちゃってて。どうしたんだろうね、彼ら」
「邪魔?」
安堵と疑念が織り交ぜになった声でシンは聞き返す。何故あの二人が反抗するのか、さっぱり分からない。カインの戦闘記録を見る限り、自分達より遥かに戦闘経験が多い事を除けば自分達とさほど変わらない生活をしてきたはずだ。同じような生活をしているならルークやルナのように何の疑念もなしに従いそうなものだが。
「うん、お陰で苦労してる。折角カノンが大半を殺してくれたのに、それ以外はどこかに逃げちゃった。地元民しか知らない場所があったら厄介だよねえ」
「ここにあった死体は?」
「焼却処分中、証拠残すわけ無いよ。どうしたの? いつもしてきたことじゃないか?」
「目的も分からないのに、か?」
「え?」
「殺して何の得があるんだよ! 俺達は―」
熱くなるシンに対しあくまでルークはいつもと同じ態度。その差が、どうしようもなくシンは辛かった。
「待ってよシン、本当にどうしたの?」
可笑しそうに笑い声をあげる彼に絶望しそうになりながらも彼は叫ぶ。ありったけの思いを込めて。
「お前はこれで本当にいいのかよ!」
「だから何度も言わせないでよ」
「止めろ! こんな事したって!」
「ふうん、裏切るんだ。シン」
初めてルークの声が変わった。シンは最後の願いを込めて、自分の思いを語る。これは戦争でも鎮圧でも何でも無い、ただの虐殺だ。
「裏切るんじゃない。正すんだ」
「最近何悩んでるのかと思えば、こういうことだったんだね」
二つの視線がぶつかりあった。シンの目の前でゆっくりと水色の翼がはためく。
「逆らうなら、手加減しないよ」
「止めてやる! 全部!」
自身の掌に鎖を召還し、ルークに標的を定める。
「無駄だよ」
もはや激突は不可避だった。いつからだろう、何故だろう、いつから俺達は違う場所にたっていたのだろう、その全ての問いの答えは出せないまま、彼らは戦いの火蓋を切って落とした。
「何だ?」
森の中に立っていたカインは突然空気が変わった事に驚き、周囲に注意をめぐらした。微かに混じる血の匂いは、明らかにこの島では特異のものであるはずだった。
「この島では戦争なんて無いはずなんだけどな」
その兆候も彼は今まで感じてはいない、何が起こっているのかさっぱり不明だった。
「あ、いたいた」
前方から現れたのはピンクの髪の少女。名前が一瞬出てこなかったが、何とか思い出した。
「ルナ?」
「名前覚えてたんだ? 命令聞いた?」
神妙そうな顔つきで尋ねられても、こちらはあそこから分かれてから誰にも会ってはいない。もちろん島の住民は何人も見たが、接触は当然のごとく避けていた。
「命令?」
「この島の住民、皆殺しにしろって」
「またか」
カインはあきれ果てた。全く、上の人間が誰かは知らないが他にやり方を知らないのだろうか。生きているのが邪魔なのか、それともこの島の人間に見られたくないものでもあるのか知らないが、こちらとしては目的も分からず放り出され、出される命令はいつもと同じ。労働局にでも申し出れば慰謝料でも貰えるかもしれない。
「面倒くさいけどしょうがない! 頑張れ、私!」
「じゃあ、そっちの地域任してもいいか?」
「うん、頑張って」
「了解」
二人は短く言葉を交わして分かれる。丁度彼らはこの島の北と南の境に近い場所にいた。それならお互い役割を分担したほうが早く済むだろう。
「仕方が無い」
カインは力を展開して飛び立つ。シンが予想したとおり、彼らと彼の生活に大差は無かったが、決定的に違うものが一つだけあった。『仲間』という存在の有無、守りたい物があって初めて人は人を傷つける痛みを知る。その痛みを知っているかどうかは、本人さえも知らなかった。
「あれ?」
海の高台に一人佇んでいたフェイトは、何か物音がしたのに気が付いた。
「カイン?」
呼び掛けた瞬間、それが有り得ない事に気づいて彼女は苦笑した。カインと自分の位置は遠い。こんな所にいるわけが無かった。
「誰ですか?」
「誰かいるの?」
そう言いながら出てきたのは巫女の姿をした女性だった。綺麗な黒いストレートの髪と、この地域に住む人間の特徴であるさらりとした顔。美人と言って差し支えない容貌をした女性はフェイトを確認して恐怖に震えたように後ずさる。
「どうしたんですか?」
ただならぬ雰囲気を察知したフェイトが尋ねるが、彼女はそれを全力で拒絶する。
「来ないで下さい」
丁寧な口調に込められた強い意志にフェイトは踏み出した足を引っ込める。こういう相手に強引に出てはいけない。
「何かあったんですか?」
フェイトはこの島の出来事などまだ何も知らなかった。ただ漠然と、何かあったのかな? と疑問に持つ程度だ。
「あなたも、彼の味方なの?」
「味方?」
と言われてフェイトは数々の人間の顔を多い浮かべる。
「多分、そうだと思いますけど」
ここにいる人物の中に敵がいるとは思えなかった。少なくとも立場上自分は組織の人間だ。だから命令に従って今もこんな事をしている。
「何が望み? 何で殺すの? あんな!」
その質問だけで彼女は全てを悟った。性懲りも無く、この組織は同じ事を、非戦闘員にまで始めたのだ。
「……どんな子でした?」
「死神よ」
静かに彼女は言葉を絞り出した。よほど気を強く持たないと、見ず知らずの人間を前にしてこんな態度はとれない。しかも彼女からしてみれば自分は敵同然だ。内心目の前に立つ人間に賞賛を送りながら彼女は自分の知る限りの情報を話す。
「多分、その子はカノンです。他にルーク、ルナ、カイン、シン、そして私。この五人と
組織の人間が十人前後。目的は分かりません、ですがカノンが動き出したということは、この島の人間は皆殺しでしょう」
「何よそれ」
「止められるとすればカインとシンくらいですけれど、命令が出れば彼らも従うでしょう」
「何よ!」
その気迫にフェイトは怯む。その怯みを見て取った彼女はフェイトに詰め寄る。恐怖など、完全にその目からは消し飛んでいた。
「何で殺されなきゃいけないのよ!?」
詰め寄られても、彼女はそれに対する回答を持っていなかった。
「それに! そのカノンっていう子は何なの?」
「殺戮マシーンでしょうね」
もう何の感情も彼女の中には無かった。始まったら終わりだ。彼女には申し訳ないが、全てはそういうことだ。カインも、今は血まみれだろう。
「じゃあ、何であの子は寝てるのよ!?」
「はい?」
予期していなかった言葉にフェイトは呆気に取られた。寝てる? カインが? 戦闘中に? 頭の中が疑問符で溢れ返っている彼女を引っ張って、彼女はフェイトを引っ張って連れて行く。
「ここは?」
「神社の裏の倉庫、ここなら誰にも見られないし」
森の中に隠れるようにして建てられている様にフェイトは感心する。ここまで森の影になっているのなら、少なくとも詳しい地形を知らないルナやカインは目に入らないかもしれない。
扉を開けて中に入って、フェイトは思わず短く悲鳴をあげた。周りは神社の倉庫と言ったからには奉納物か何かだろう、が整理されている。そしてその中央に、一人の少年が横たわっていた。
「カノン…」
「関係者なら、どういうことか説明して貰える?」
その顔を見紛うはずも無かった。確かにそこにはカインがいて、すやすやと穏やかな顔をして寝息を立てていた。