最終章 第十四節 絆(11)
「どうしよう、このままじゃ」
無我夢中のまま部屋を飛び出したフェイトは行く当ても無く逃げていた。最初の攻防で彼我の戦力差は痛いほど分かっている、捕まればどうなるか分かったものではない。
「どこに行けば……」
例の声は聞こえないが、その代わりに建物内の構造ははっきりと分かるまでに視界はクリアになっている。が、いかんせん彼女には広すぎた。単純な広さを把握してみようとしても、何時になってもその境界が見えてこない。何階建てなのか、そもそもどれだけの敷地の上に立っているのか全く分からない。既に索敵範囲は百階以上を超えていたが、それでもまだ入り口も屋上も見えてこない。
「無駄だぞ」
「え!?」
突然、彼女の前に先ほどの人物が現れる。先程と違うのはその背から翼が生えていることだが、そんな事を考える余裕なの今の彼女には無い。
「誰、なんですか?」
フェイトが足を止め彼と向き合うも、その足は恐怖で震えていた。ただ素早いのかテレポートでもできるのか知った事ではないが、少なくとも一つ分かった。このままでは勝ち目は万に一つも無い。
「あのなあ、いきなり蹴りを入れられた挙句逃げられてみろ。お兄さんとしてはかなりショックなんだぞ」
「はい?」
いきなり説教されたフェイトが無意識に言葉を返す。攻撃されるのかと身構えた体から力が抜け、まじまじと相手の顔を見つめる。
「まあいいや。何でこんな所に迷い込んだ?」
「え、ええと」
「別にとって食うわけじゃないから」
両手を挙げて白々しく降参のポーズを取っているが、何をされるか溜まったものではない。が、帰れないのもまた事実だった。
「えっと、声がしてついていったらここでした」
我ながら情けない説明に、フェイトはばつが悪いのか声が小さくなる。やれやれといった様子で降参のポーズを解いた彼は、翼を引っ込め頭を掻いた。
「どうやら他にもお客さんはいるみたいだしなあ」
「他にって?」
仲間だろうか。もしかしたら自分は時間稼ぎをされているのではといった疑問が頭に湧くが、それならさっさと捕まえてしまえばいいだけの話だ。堂々巡りになる思考に終止符を打つべく頭を振る彼女を微笑ましく見つめながら、彼は二つの気配を追っていく。確かに『遠い』が、それは彼には何の関係も無い。彼に空間の概念などないのだから。
「二つ気配があるな。まあ、お前を追っかけてきた可能性が大きいんだろうけど」
「どこにですか?」
というより、フェイトが全く感知出来ていない気配を何故この男は把握しているのか。問いかけようとした矢先、彼の手がフェイトの顔を覆った。
「目つぶって」
「はい?」
突然視界が真っ暗になり体の自由が効かなくなったのも束の間、すぐに視界が元に戻る。
「はい、着いた」
「はあ」
もはや彼女の常識すら通用する世界ではないらしい。一見、先ほどいた場所と何も違いは無いように見えるが、今度は二つの気配が彼女にもしっかりと感じられる。どうやら先ほどもこうやって彼は追ってきたらしい。
「分かるか?」
「あ、はい」
距離はかなり遠いが、彼の移動方法ならそれも問題ないだろう。
「いきますか?」
「まあ、行くしかないんだけど」
問い掛けた彼女に、彼は打って変わって渋い表情を見せる。何が不味い事でもあるのか、移動を躊躇しているように見える。
「何か?」
「いや、都合がいいんだか悪いんだか」
そう何かを諦めたように言葉を吐きながら、彼は再びフェイトの目を覆った。
「では、行こうか」
「どこまで行くのさ!!」
「行ける所まで!!」
一方、部屋から出たひかりはアルスを引っ張りながら、フルスロットルで廊下を文字通り飛び回っていた。互いに大声になるのはひかりがそれだけのスピードを出している証明だが、アルスは生きた心地がしない。
「はあ、今度は何?」
部屋から出た途端、突然ひらめいたのか何かに気付いたのか、彼女はアルスの腕を引っ張ると同時に上昇、そして今のこの状態だ。質問する暇もなく引っ張りあげられた彼にとっては、まさに訳が分からない。
「だって、何だか」
問い掛けるたびに返ってくるのは同じ答えで、そろそろうんざりしてきたのが正直なところだが、逆らえばここから落とされる位の事はやるだろう……十中八九。
「その何だかって、僕から考えれば本当に何が何だかだよ」
目まぐるしく周囲の気配は後方へとぶっ飛んで行くわ、引っ張れらる右腕はそろそろ悲鳴を上げそうだわで、アルスは一人ぶつぶつと愚痴を吐き続けていた。ひかりが前に注意を払っている中、これだけが彼に出来るささやかな抵抗だった。
「は?」
と、突然ひかりが宣言したかと思いきや、ひかりの体は停止し彼の体は遥か先へと吹き飛んでいく。無論、ひかりの腕で彼の体が止められるわけも無く、あっさりと彼の体は宙を舞った。
「あのさ」
痛む背中はもはやどうでもよかった。いやどうでも良くは無いのだが、それを彼女に言っても仕方がないのもまた事実で。
「えっと……大丈夫?」
「そりゃあ、まあ」
咄嗟に放った呪文は彼のダメージを軽減する事には成功したが、一歩間違えば想像したくも無い事態になっていたのは間違いない。彼が咄嗟に反応するのを見越した上で彼女も急停止をかけたのかも知れないが、そんな信頼のされ方はされたくはない。
「で、ここ?」
延々と扉が並ぶ空間の中、この扉にだけは何故か番号が示されていない。特別なのか、はたまたもう使用されていない部屋なのかは分からないが、ひかりの目は真剣そのものだった。
「うん」
「何があるのさ?」
先ほどの部屋を考えるなら、ここもまた何かしらの実験に関わっていた可能性が高い。もしかしたら先ほどとは比べ物にならないほどの凄惨な光景が待っている可能性すらある。
「何か、思い出したの」
「昔の記憶?」
意外な返答に、アルスが驚愕の眼差しを彼女に向ける。
「うん。私、ここにいた事がある」
「本当!?」
断言された言葉に、アルスはますます目を丸くする。もし本当なら、ここに来た意味が何となく彼には分かった気がした。
「よく分かんないんだけど、何となく」
「じゃあここ」
自信無さ気に返ってきた答えだったが、そうかもしれない。と彼は信じ始めていた。何から何まで彼女に関しては謎ばかり、……何が答えでも不思議ではない。
「私の部屋、かも」
「じゃあさっき扉が開いたのも」
ひかりの力に影響された可能性はある。いや、そもそもフェイトといいひかりといい様子がおかしいのは確かだ。彼の想像を超える何かが、ここにはあるのだろうか。
「開くよ」
「誰かいる」
入った矢先、ひかりが立ち止まり振り返った。彼女自身困惑した表情をしている辺り、記憶が戻ってくる感覚に戸惑っているのかもしれない。
「人? 僕が入るよ、外を見ててくれる?」
「あ、うん」
一転して今度は殊勝な態度となったひかりがすぐに彼の為にスペースを開ける。この部屋の影響かもしれないな、と様々な推論を頭に浮かべながら、彼は部屋に足を踏み入れる。
「どう?」
「待って、まだ何も見えな……ああ、あった」
部屋に明かりが点き、そのまま踏み込もうとするアルスの足は数歩で止まる。
「この人……」
大規模な部屋の中に、未だに作動を続けている装置がウンウンと低い音を立てている。扉の外からは想像できないほど大きな部屋の中央に、彼はいた。
「あの人だ」
透明な液体の中、マスクを付けた男が浮いている。生きているのか、それともただ保管されているのかは分からないが、一つ先ほどの絵と共通点があった。
「何かいた?」
気になったのかひかりがいつの間にか横から顔を出し、その表情を凍りつかせる。彼女でも一目で分かっただろう。
「翼があるね。それも、片方だけ」
「同じ、人……?」
「だろうね」
口に手を当て、何かに必死に堪えるひかりの弱弱しい言葉に、アルスは軽く同意を示す。もしかしたら同じ種類の別固体かもしれないが、そんな事は問題ではない。
「間違いなく研究施設だ。ここは」
見事に推理が当たった形だが、うれしくも何とも無かった。先ほどから動揺を隠しきれていないひかりをその場に置いて、アルスは彼の元へと歩み寄る。周囲には見慣れぬ文字で表示されているコンピューターらしきものが数台並んでおり、机には様々な数値が並んだ資料が乱雑に置かれている。
「探し当てるとは見事なもんだ」
ふいに背後から声が掛かった途端、アルスは誰かにバランスを取られ首根っこを押さえつけられる。と同時に、彼の耳に耳慣れた声が飛んできた。
「フェイトちゃん!!」
「ひかり!?」
抱き合う音が聞こえてくるが、如何せんこの状態では身動きが取れない。ただ、もし関係者なら彼女達が無邪気に喜びあっている場合でも無いはずだ。
「やっぱり知り合いか」
「あの」
はしゃぎあう彼女達の声を横目に微笑んでいる男に、アルスが密かに力を込めながら立ち上がろうとすると、存外あっさりと彼は彼を解放した。
「ああごめん。ちょっとした悪ふざけだ」
「とんだ悪戯ですね」
服に付いた埃を払い落としながらアルスは彼の姿を見つめる。容姿は若く見えるが、その雰囲気は老成されたものを感じる。どこか浮世離れした感を受ける彼に似た人物を思い起こそうとして、彼が頭を捻る間にも彼は笑みを浮かべながら胸を張った。
「性格悪いからな」
「自分で言いますか」
何というか、言動と見た目が一致していない。仮面を被っているのがありありと分かるが、それはお互い様だ。
「ああ。でも、お前も相当だぞ。人の死体を覗き込むなんて正気の沙汰じゃない」
「死体? 別固体では無く?」
「おや? お前も関係者か?」
死体、というからにはこの人物は既に死んでいる。おまけに関係者か、と聞いてきたということは事情にも精通しているのだろう。ならば、とアルスは質問を畳み掛ける。
「ここは研究所ですか?」
「いや」
「え?」
となると、他に選択肢が出てこない。当たったと思った推論に思わぬ返しをくらい、混乱するアルスの前で、彼は翼を開く。絵と一致するその片翼の翼が出現し、更にその周囲に八本の大きな槍が現れる。
「説明しても分かんないと思うぞ、あまり時間も無いし」
「時間がない?」
力が部屋の中に満ち渡り、それに気付いたひかりとフェイトがこちらに駆け寄ってくるのが見える。何かを叫んでいるが、渦巻く風の音にそれもかき消される。
「そろそろ始まるかな。第三章が」
一つぼそっと口を開いた彼に、フェイトが何かしら懸命に声を上げる。が、それに反応することなく彼はアルスに声をかける。
「カノンって、知ってるか?」
「カノンさん?」
どうして彼の名前出てくるのか、と疑問符が頭中に浮かぶアルスを差し置いて、彼はやっぱりな、と得意げに微笑む。
「あいつに伝えとけ。今度は俺が勝つってな」
「あの!」
「お?」
ようやくフェイトの声に彼が振り向き、フェイトが懸命に声を上げる。
「誰なんですか? あなたは」
核心に迫る疑問にアルスやひかりも耳を傾ける中、彼は誰に発するでもなく答えた。
「ルシファだ。ルシファ・L・イエルズ。またどっかで会うかもな」
その瞬間、彼を除く三人の周囲に風が取り囲み、彼らの姿が世界から姿を消す。その後完全に風が静まった後、一人残った彼は彼女がいた残り香を感じながら小さく呟いた。
「会えて良かったよ。ひかり」