最終章 第十二節 絆(9)
何も見えない。
ただ、体がふわふわと浮いている感覚だけはあり、どこか遠くまでこのまま連れ去られてしまうのではないか、と妙に冷静に考えている最中、彼女の体はどこかへと降り立った。まだ目も開かない為どんな所かは分からないが、何かが頭に触れている。何だろう、と手を伸ばそうとした所で彼女の手は動かない。
このまま目覚めないままなのだろうか、と依然どこか現実味の無いこの時間の中、どこからか声が響く。
――来てくれたんだ――
あの声だ。彼女を呼んだあの声。遠くから聞こえてくるその声は、徐々にこちらに近づいてくる。
――お願いがあるの――
お願い? 何だろう? と彼女を疑う事も無く、フェイトはただ彼女の声に身を預ける。
それがこの世界で取るべき唯一の正しき姿勢だと言わんばかりの態度が彼女を安心させたのか、その口調は女の子らしいものへと変化していく。
――あのね、会って欲しい人がいるの。とっても優しくて、強い人――
耳元で囁かれているのかもしれない、と思うほど彼女の声は近く、優しい。
どこにいるの? と心の中で尋ねた彼女の言葉が届いたのか、再び彼女の声が耳に響く。
――眠ってるの。でもすぐ起きるよ。あの子と約束したから――
「あの子って?」
言葉を発した瞬間、フェイトは異変に気付き目を開けた。
「あれ?」
口が動く、手も動く。視界も問題ないし、現実感もばっちりだ。
「大丈夫、だよね」
特に体に異常は見られず、先ほどまでの感覚が嘘の様だ。ひとしきり体を点検した後、彼女は改めて周囲を見渡した。
「やっぱり、違う」
目に映るのは廊下だが、先ほどの廊下を学校に例えるのなら、この廊下は研究所だ。清潔感のある白い床が続いている。ハムレスの研究フロアの様な空間のあちこちに扉があるものの、人の気配がまるでしない。
「あ」
フェイトの頭に触れていた物を拾い上げ軽く表裏をチェックすると、数字が記入されていた。部屋の番号だろうか、203と記入されているそのカードを手に、彼女は周囲を見渡す。
「210。近いのかな」
廊下は一直線状に伸びており、今回は目的地も明白だ。迷うことなく進み始めた彼女の目に、部屋の番号が映し出されていく。
「209、208……207、206……ここだ」
二部屋ごとに向かい合う形で並ぶ扉に部屋番号を読み上げていく内に、彼女は目的の場所へと辿り着いた。あえてゆっくり歩いてきたのは、高揚する自身の気持ちを抑える為でもあり、まだ見ぬ誰かがこの部屋の中にいるかもしれない、という不安と期待があったから。
「これで、最後の扉にしたいな」
カードキーを差し込むと、短い電子音の後に開錠される音が聞こえてきた。簡素な作りの扉だが触れてみるとやけに重い。長いこと使われていなかったのか、扉を開くと床に溜まっていた埃が歩くごとに舞う。そんな廊下の清潔感とは正反対の部屋の様子にフェイトの動きが更に慎重なものとなる。
「スイッチは、あった」
暗いがフェイトにかかれば大抵の暗さは問題ではない。あっさりと壁に手を伸ばしスイッチを押した瞬間、その場で彼女は凍りついた。
「な……に……こ……」
言葉が続かず、彼女は腰から崩れ落ちた。見たくも無い物が目の前にあるはずなのに、その目は更に見開かれ、彼女は残酷な現実を打ちのめされた。
腕、足、目、骨、内臓。破片、というよりはパーツと言った方が正しく思える、そんな物が部屋のあちこちに散乱していた。工場だったのか、機械のような物がパーツと同じように散らばっており、その数は奥にいくほど多くなっている。
「何で……?」
少しだけ落着いた心を強引に奮い立たせ、フェイトは部屋の奥へと目指す。この世に出てきてから今まで、確かに自覚はあったものの、こんな現実を彼女は知らなかった。そして、どうして今こんなにも心が動揺しているかも分からぬまま、ついに彼女は『フェイト』を見つけた。
「やっぱり……」
金の髪に瞳の一部分しか残っていないものの、彼女にはそれが自分の頭だとはっきり分かった。今この部屋に散乱している物もまた、『フェイト』なのだろうか。そう考えるのは簡単だが、その現実から必死に目を背けようとしている『フェイト』もまたそこにいた。
「何で、私を呼んだの?」
か細い声が彼女の口から漏れる。理由など聞かずとも分かっている。これをフェイトに見せるためだ、それ以外の理由があるだろうか。安易な言葉に易々と乗った自分に憤りを感じながら、それでも彼女は八つ当たりを止められない。
「何で!! 私を!!」
その時、ドアが鳴った。
「え?」
すぐに動きを止めるも、ドアは鳴り止まない。間違いない、誰かがノックしている。
「どうしよう」
焦りが焦りを生み、フェイトは必死に周囲を見渡す。誰かは知らないが、ノックしている以上中に誰かがいる事は把握しているのだろう。いつ扉が開くとも限らない状況下で必死に頭を巡らす内に、扉は開いた。
「ここ、どこ?」
遅れて出てきたアルスとひかりは、周囲の変化に息を呑む。何度も先ほどから移動して来ているが、どれほどの力の持ち主ならばこんな施設を作り上げられるのだろうか。
「もう元の世界に帰れるかどうかも不安になってきたよ」
周囲を見渡しながらアルスが頭を掻く。先ほどからやけに扉が多いが、設計者の趣味なのだろうかと勘ぐりたくなる。
「いるかな」
「いるとは、思う」
互いの口調に自信が無いのは、依然としてもやもやした感じが続いているから。ただ、その原因も分からないのであれば手の施しようが無い。
「210、209」
「部屋番号かな。二階の九号室か」
最初はマンションか何かと考えたアルスも、あまりの建物の規模の大きさに考えを改めていた。何らかの組織の施設か、あるいはこの建物そのものが一つの街となっているのか。
「二十階の九号室じゃないの?」
「それはあまり想像したくない事態だね」
当ても無いため、しらみつぶしに辺りを捜索するしかない彼らにとって、建物の規模が大きいのはあまり喜ばしくは無い。隠れる場所も多いが、もし見つかった時どこに逃げればいいのやら、頭が痛くなる。
冗談交じりに会話を交わしているのも、そんな心を紛らわせるためだ。
「研究所かな? ハムレスに似てるよね」
「まあ、ここがハムレスでも驚きは無いかな。色んな世界にあるみたいだし」
「ここ、違う世界なのかな」
「そうかもしれないし、もしかしたら狭間の中にもハムレスがあるのかも」
もしここが違う世界なら、とアルスは思う。そこにはまだ知らない文化や、人や物が存在しているのだろうかと。漠然とした憧れは以前からあった。自分の体が全く別の世界へ運ばれ、世界を救ったり活躍したり。そんな誰もが一度は空想する世界に、自分は今まさに足を踏み入れているのかもしれないと思うと、少しだけ胸は躍る。
「201まで来たけど……何も無いね」
「鍵が無いと開かないしね」
その上、階段らしき物すらどこにも見当たらず、この先に何かあるのを祈るしかない。
「もう!! 開けばいいのに!!」
そう言いながらひかりが扉にもたれかかる。そんなに距離を歩いている訳ではないが、ゴールの無い旅は長く感じるものだ。ストレスも溜まるだろう。
「仕方ないよ。フェイトもどこにいるか分からないし。もう、声も聞こえないし」
そうアルスがひかりを励ました時、再び彼らに声が届いた。
――誰?――
「誰って……?」
「他にいるのかな」
先ほどもそうだったが、この声と会話しているのはアルスやひかりとではなく、他の誰かだ。それがフェイトである事を祈る気持ちでここまで来たが、どうやら辺りらしい。
――ううん。あなた達の事――
「僕?」
――うん。誰?――
どうやらいつのまにか対象は自分たちに移っていたらしい。何とか情報を仕入れようと言葉を選んでいる間に、ひかりが横から口を出した。
「金髪の女の子を知りませんか? 友達なの」
――知ってる。でも、駄目――
「どうして?」
ひかりの切実な口調に押されたのか、相手の返答が一瞬遅れる。
――して欲しい事があるから――
「それが終わったら、返してくれるの?」
――すぐ傍にいるよ?――
またもや返答は遅かったが、口調に含まれる感情は動揺ではなく困惑だ。子供に馬鹿にされているようで面白くないが、素直に聞き返すより仕方が無い。
「傍ってどこ?」
アルスが周囲を見渡すが、あるのは扉と廊下ばかり。隠し扉でもどこかにあるのかと壁を叩いてみても何の反応も無い。
「もう!! 分かんない!!」
ひかりが焦燥感からか乱暴に扉を蹴り飛ばす。やれやれ、と彼女が落着くまで待っていようかと、アルスが壁に背を預け腰を下ろそうとする前で、ひかりが信じられない行動に出た。
「あの、ひかりさん?」
何故かひかりの翼が開き、杖から目映い光がアルスの目に飛び込んでくる。何をする気なのか一目で分かったが、有無を言わせない空気がそこにはあった。
「いるかもしれないよね、ここに。傍なんだから」
「いや、でも、ほら」
どこか感情の篭もっていない目で扉を見つめるひかりに対し、何とか説得を試みようとするが、ひかりの目は真剣そのものだ。杖の光はその光度を増し、扉どころか部屋ごと吹き飛ばしてしまいそうになるほどの力を溜め込んだ彼女を止める術が、どこにあるだろう。
「待って、ほら、開くかもしれないし!」
「鍵も無いのに?」
ひかりの目が据わっている。何で僕が、と言いようもない恐怖と戦いながら、アルスは扉を庇う様にひかりの前に立ちふさがる。部屋を壊せるならともかく、反射でもされてこちらが全滅する結果だけは避けたいが、正直なところ彼には打開策が一つも思い浮かばない。どうしよう、自分がやるか? いや、威力が足りない。だからといって彼女に撃たせる訳には。
「どうするの?」
混乱する頭に追い討ちを掛けるように飛んできたひかりの言葉に、ついにアルスの心は折れた。
「あ、開けます!」
だから何で僕がこんな目に。と自身の不幸を呪いながら、彼は駄目元で扉のノブに手を掛けた。どうせ鍵でも掛かっているんだろ? と投げやりな気持ちで捻られたノブは、予想外の結果を彼にもたらした。
「あ、開いた……」
「本当だ……」
どうして今まで試そうともしなかったのか、と両者が後悔する中、目の前の扉は彼らに新たな道を示す。
「は、入る?」
アルスが恐怖と戦いながら振り向くと、既に力を解いたひかりがゆっくりと頷いてから、中の様子を探り始める。
「暗いね」
「た、多分どこかにスイッチがあるんじゃないかな?」
依然として先ほどのひかりのイメージが抜けきらないアルスの口調は、情けないほど動揺したものだった。もう少し、度胸があれば。と彼が願う一方、部屋に誰もいない事を確認したひかりは部屋に足を踏み入れた。