第一章 第十節 鏡
「そろそろなんじゃないですか?」
「後少し」
シンの言葉に沙耶香は時計を見て緊張の面持ちで答える。この家にいることが場違いな事は重々承知しているが、他人の家に入る機会もこれまで滅多に無かったため、ついつい辺りを見回してしまう。当初はそれを綾香に、
「お前はデリカシーが無いのか!?」
と怒られもしたが、そもそも世界の常識を彼は知識としてしか知らないのだ。話し始めて段々彼女達も分かってきたのか、かなり逸脱した行動をとらない限り、一々注意する事も無くなっていった。
玄関先では両親が挨拶に来た島の有力者達の応対に追われていた。最初シンを見た時は驚いた顔をしたものだが、すぐに事情を理解し歓迎した辺り、心の広さが窺えた。
「綾香は将来しないのか?」
「何、見たい?」
「別に」
シンにとって、この姉妹は身長と年の差から来る雰囲気の違いからしか判別できないほど良く似ていた。ならば、将来姉のように彼女もなるなら似合うのでは、と思っただけなのだが、それを言うと負けのような気がして彼はそっぽを向いた。
「三年後にはみせてあげようか?」
実際は、余程の事情が無い限り基本的に巫女は長女が務める。ただ姉妹というケースは過去四世代前まで遡らなければ存在しないため、有形無実化させて本人の意思に任せようかという話も出てきている為、不可能というわけでもない。
「さあ、その頃ここにいるか分からないし」
来ようと思えば来れるかもしれないが、そんな先の事は彼には分からなかった。何せ今日の夜の予定もさっぱりなのだから。
「こればいいじゃない。歓迎してあげる」
「どんな歓迎だよ」
「グーがいい? パーがいい?」
「……できれば何も無い方向で」
眼前に点き出された綾香の拳にシンは何も言うまいと誓った。
「そろそろ行くよ」
「はい」
玄関から母の声が響き、沙耶香は立ち上がる。
「具体的には何するんだ?」
「家の前で神官さんから鏡を受け取って、それを胸に抱えながら島の高台の神社に納めるだけ歩いてもここから二十分暗いかな」
「へえ、それならお前にもできそうだ」
どうやら儀式といっても彼女達の言ったとおり大層なものでも無いらしい。思わず出た素直な感想に綾香が反応し、シンは今日何度とも知れぬ後悔をまたすることになった。
「どういう意味?」
「な、何でも無い」
「ふん」
どうにも付き合い方が分からなかった。実の所綾香にとって同年代の子供は初めてで接し方が良く分からない、という事情はあったもののそんな事はシンが知る由も無い。
「では」
夜七時、月明かりが周りを照らす中、神官が鏡が納められた箱を車のトランクから取り出す。丁寧に結ばれた紐を解き、沙耶香に手渡す。島の住民のほとんどは高台にある神社で巫女の到着を心待ちにしているはずだった。
「出発」
神官の合図と共にゆっくりと巫女は歩き出す。同行するのは神官と、巫女の血縁者のみ。のはずだったが、何故かシンもそこにいた。流石にここまで場を見出すつもりなど無かった彼は辞退したのだが、何故か彼女の父から、
「いいかな?」
と爽やかな笑顔で懇願されれば勝てるわけも無かった。元々家にまで招かれている事からしてイレギュラーだ。毒も食らわば皿までというし、と彼は強引に自分の心の中で納得して同行する事にしたのだ。
静かに時が流れる中、着々と巫女はその歩を進めていく。この島の何処かにルーク達がいるはずだが、よほど遠くにいるのか消しているのか、気配を感じ取る事はできなかった。
「もうすぐ」
隣で綾香が囁く。この坂を上りきった先に小さな神社があり、そこに併設されている祠に鏡を納めれば終了との事だった。指定された時間が迫りつつある中、シンはほっとする。どうやら急がなくても間に合いそうだった。
坂の上にはたくさんの島の住人がいた。その数ざっと数百。狭い神社の敷地の中に所狭しと並んでいるのを見てシンは面食らう。その中を緊張しているとは思えない冷静な顔つきで巫女は用意してある道をそのまま進んでいく。
あらかじめ覚えていた口上を唱え、神官が祠の扉を開ける。誰もがその荘厳な雰囲気に包まれ、またその巫女の美しさに心奪われている空間に乱入者が現れたのは、その次の瞬間だった。
「え?」
最初に異変に気づいたのは沙耶香水だった。持っていたはずの鏡がいつのまにか消えている。
「どうした?」
神官が驚いたように声をあげた沙耶香の方を振り向いた。事情を説明しようと口を開いたところで彼女は固まった。
「な、あ、あああああああああああああ」
叫びにならない叫び声をあげ神官は地面に倒れた。突然の異変にざわめく住人だったが、その場にいる人間は一人を除いて誰も正確な事態を把握できていなかった。
「下がれ!」
その事態を見ていたシンが沙耶香に向かって叫ぶ。
「え?」
呆然とした顔で振り返った巫女の後ろで鎌が光った。
「くそ!」
シンはすぐさま力を展開。掌に鎖を出現させ彼女に巻きつけ力任せに引っ張る。
「シン!?」
「全員にこの坂を下りるよう伝えろ! あいつは俺が引き受ける」
目の前には写真でしか見た事の無いカノンの姿があった。恐ろしいほどのスピードは恐らく自分より上だろう。もしかしたらと思うまでも無く組織の人間が一枚絡んでいることは容易に想像が付いたが、何故か体は勝手に動いていた。
そういっている間にも次々と人々の体は切り刻まれていく。飛び散る鮮血の中シンは懸命に二人の手を引いて走る。飛ぼうにも二人を抱えてはまず無理だったし、見つかれば逃げ切れない。
「どこ行くの?」
手を引かれるがままになっている綾香がシンに叫ぶ。両親がどこにいるかも分からず、後ろの状況も分からない。
「仲間がいるはずだ!」
彼らの場所は頭に入っていた。ただ問題はここからかなり距離が遠いことだ。
「確か一番近いのはあいつ……」
彼の脳裏に黒き翼が浮かぶ。先ほども自分の考えをいち早く汲み取る頭の鋭さと、豊富な戦闘経験を持つ彼のことだ。ひょっとしたら、もうこちらに向かってきているのかも知れなかった。
「あ…」
沙耶香が声をあげて立ち止まった。何事か、と振り返るとその目は恐怖であふれ返っていた。
「どうした!?」
「シン…」
彼の隣で立ち止まった綾香が彼の袖を引っ張った。そのまま前を振り返った彼の目に、白き翼が舞った。
「カノン」
彼は目の前に立つ者の名を呟いた。その手には例の鏡が一枚、後ろへ逃げても元の場所に戻るだけ、とはいえ二人を守りながら戦えるとは思えなかった。
「どんな命令を受けてる?」
問いかけに帰ってきたのは沈黙のみ。黙秘するように言われているのか、それとも最初から話す気が無いのか。あるいは感情そのものが無いのかもしれなかった。
「シン…」
すがりつく綾香にちらと目をやりつつも頭の仲はどうすれば彼女を助けられるかで一杯だった。純粋な一対一ならともかくこちらにはハンデが多すぎる。
「シン君」
「え?」
突然沙耶香がこちらの耳に囁くように声をかけてくる。考えに没頭していた彼は思わず間抜けな声で返事を返した。
「綾香だけなら守りきれる?」
「お姉ちゃん!?」
綾香が驚いて声をあげる。が、そちらの方は見ようともせずにあくまで真剣な目でこちらを見つめてくる彼女にシンは事実だけを冷静に告げる。
「必ず」
彼女だけなら飛行も可能だったし、何よりいい加減そろそろ彼らが気づく頃だった。カインの能力の詳細は知っているし、ルークやルナが揃えばまず負ける事は無いだろう。ここに三人残れば恐らく自分を含めて殺されるだけだ。ならばもう、他に選択肢は無かった。
「任せたからね」
「はい」
「嫌だ! お姉ちゃん嫌だよ!」
「行くぞ」
泣き叫ぶ綾香の手を持って、彼は翼を羽ばたかせる。
「ごめんね」
あえてシンは沙耶香の顔を見はしなかった。生き延びる事、それだけを考えて彼は上空へと飛び立つ。
「こっち見なさい。死神」
シンを追おうと空を見上げたカノンの顔に小石が当たった。その一瞬の隙でシンは遥かに彼方に消え去り、その姿はもうどこにも見えなかった。
ゆっくりとこちらの方に視線を定めた彼がこちらの方にゆっくりと歩いてくる。足は震えたが、これだけ時間を稼げればもう十分だった。振り上げられた鎌がこちらに振り下ろされるのを覚悟した彼女が目を閉じた瞬間、カノンは思わぬ行動に出た。
「え?」
鏡を自分に手渡してきたのだ。本人は彼女の前に立ったまま動こうともしない。目の前に差し出された鏡を手に取った瞬間、その場が光り輝いた。
「え!?」
手の中で光る鏡に目を開けず、混乱する彼女の前でカノンの体がゆっくりと浮かび上がった。そのままその光は彼に収束し、ゆっくりと消えていった。