第一章 第九節 儀式の前に
「綾香、ほら早く歩かないと」
「待ってよ、もう」
いつもと変わらない朝、その二人の姉妹はいつもの様に学校への道を歩いていた。人口が千人にも満たない島で、義務教育を受けなければならない子供の数はそう多くない。高校は本土の学校に通うのが普通だったし、今年卒業する沙耶香も勿論その予定だった。後ろからついてくる綾香も今年で小学校は終わり、来年からは中学生だ。とはいっても、全生徒数は十人にも満たない。不況の煽りを食らって、若い者は次々と稼ぎを求めて島から出て行く。残っているの者の大多数は老人だった。
「おはよう」
「おはよ」
教室に入ると既に登校していた子供たちから次々と挨拶が飛んでくる。それに丁寧に返しながら彼女たちはそれぞれの席に着く。小中と分かれているとはいっても、教室の数は一つしかなく、一人の先生が九年分の授業を一手に引き受けていた。
授業はそれぞれに配られた学習教材を各自がそれぞれ解いていく形式を取る。高学年の者は低学年のまだ幼い子供たちの面倒を見ながら、自分たちの勉強もこなさなくてはならないため、中々ハードな一日となっていた。
「ここはこの公式を使って、それから出たこの数字をここに代入」
「お姉ちゃんここは?」
「はいはい、ちょっと待っててね」
その中でも最年長の沙耶香は引っ張りだこだった。自身も受験を控える中この多忙ぶりは先生だけではなく妹でさえも自重して欲しくなるような状態だったが、本人はそれを厭うことなく自ら率先して行っていた。
「だって普段からお世話になってるし」
「だからって」
放課後の帰り道、彼女たちは揃って歩いていた。いつもの学校の帰り道、途中途中で声をかけてくる住人達に挨拶を返しながら夏の日差しの中を進んでいく。
「一応巫女さんなんだから、しゃきっとしないと」
「いつもそれ、責任感が強いというか、生真面目なんだか」
この島の中には独特の風習がある。どの地方にも一つはある言い伝えの一つで、とある理由から彼女達はこの住人の信仰の対象となっていた。
「おやおや、今日も二人揃って元気そうだねえ」
「新島さん」
ただでさえ若い者の少なさも相まって彼女達はその事情を除いても人気だった。顔は双子のように似たもの同士だったが、姉の方が段々と大人の空気を醸し出し始めてはいた。この島で巫女と呼ばれる者のすべき事はただ一つ。年に一回神器として崇められている鏡を島の高台にある神社に奉納する事。一旦奉納された鏡は、半年後に再び島の代表者によってこの島の施設に戻される。もはや詳細な由来も分からない行事だったが、島の人たちはこの唯一にして最大のイベントを待ち望んでいた。
「今年は沙耶香ちゃんが巫女さんなんだもんねえ」
「上手くできるか分かりませんけど」
「大丈夫だよ、お母さんはそりゃあ立派に務めたからねえ」
この島の巫女は代々彼女達の家系が引き継いでいた。昔はそれこそ厳格な行事として、数々のしきたりもあったが、今では廃れ、簡略化されていた。ただ、伝統として十五歳以上、というのが暗黙の了解となっていた。そして、今年は晴れてその年を迎えた沙耶香がその務めを母から引き継ぐ事になる。
「お姉ちゃん、早く帰らないとお母さん怒るよ」
あくまでマイペースに立ち話に興じる姉をせきたてるように綾香が後ろから背中を押す。
「あ、そうだった」
「見に行くよ。楽しみにしてるからね」
「はい!」
すぐに頭を下げてその場から走り出す。家まで十分ほどの距離をその半分で駆け抜け彼女はすぐに準備にとりかかる。
衣装は白と紺を基調としている。小袖に袴を着用とするこの世界では一般的な姿だったが、その袴は一般的にに見られる緋色では無く紺である。その由来もまた不明ではあったが、すらっとした顔立ちをした彼女にはそれが良く似合っていた。
「もう少し胸を張って」
「うう……少しきつい」
「わがまま言わない、ほら」
母によりてきぱきと着付けされていく。いつもより少しだけ大人びて見える顔は化粧だけのせいではなかった。
「わあ……」
現れた姉を見て綾香は感嘆の声を漏らす。過去の巫女の姿も写真で見ていたし、母の姿も知っていたが、今まで見た中で一番きれいだ、と彼女は思った。
「まあまあかな。ま、慣れれば貫禄もついてくるでしょ」
後ろで母親が自慢げに胸を張る。今年で三十五を迎えるはずだったが、マイナス十才には見えるほどの若さを保っている。
「まだ時間はある。ゆっくりしていなさい」
ソファで新聞に目を通していた父が現れた娘の晴れ姿に目を細める。この島の家は強風対策のため平屋が多く、この家も例外ではなかった。他の家と少し違うのは儀式用の装束が保管されていることだけで、特に何か特別な物があるわけではなかった。
「うん、何時からだっけ」
「夜八時から。もう、何度も言ったのに」
「こらこら。お姉ちゃんも緊張してるんだから」
そう言って母は外に出て行く。これから儀式の段取りの打ち合わせがあるのだ。
「少し外の空気を吸ってくるといい。日が沈むまでには帰ってくることが条件だが」
父が自分の腕時計を確認しながら緊張気味の沙耶香に提案する。まだ日は高く、少々遠出しても問題ない時間帯ではあった。挨拶に来る住人ももう少し遅くなってから出ないと来る事も無い。
「え? この格好で?」
そんな事を微塵も考えていなかった本人は顔を赤らめる。ただでさえ学校でも散々冷やかされた後なのだ。誰かに見られたらそれこそ恥ずかしいなんて物ではなかった。
「どうせ後で皆に見られるんだから。それに十分綺麗だよ」
「でも……」
父のフォローにもまだ渋る彼女に妹がその背中を押す。
「裏の海岸に出るだけだよ」
この季節、本来なら海には大勢とはいかないまでもそれなりの数が海水浴を楽しんでいても可笑しくは無い時間帯だったが、この日だけは住人達もこの家には安易には近づかないため、恐らくは誰もいないはずだった。
「まあ、少しだけなら」
それを考慮にいれた沙耶香がたっぷり一分は考えた挙句、渋々と言った様子で了承した。どの道このまま家にいても緊張するだけだ。それ位なら外の新鮮な空気を吸ってリラックスしたほうがいい。
「ああ、今は普通の靴でいいよ」
玄関に向かう彼女達を見送るために出てきた父が彼女に声をかける。
「分かってる。こけたら大変だし」
当然のように普段のスニーカーを履いて彼女は父に手を振る。綾香も同じように手を振り返し、扉を開ける。
「気をつけて」
「いってきまーす」
綾香の元気な声と共に彼女達は外に出た。家の横の細道を抜ければすぐに海が見えるはずだった。
「いつもはマイペースなのに、こんな時だけ緊張しちゃって」
「だったら綾香も同じ立場になってみなさい。気持ちが分かるから」
「いつかね」
「卑怯者」
「何とでも」
交互に口撃の交わしながら海岸に出る。海からの心地よい風が二人の髪を揺らし、ひと時彼女達は目を閉じ、この島全体を感じた。
「ねえ、あれ」
「え?」
突然驚いたように綾香が声をあげ指を指す。その指の向こうを彼女が見ると、一人の子供が海岸から海を見ていた。
「あの……」
遠慮がちに綾香が声をかける。この島では見た事も無い子供だった。
「え? 何?」
声をかけられた当人は困惑気に答える。黒いつんつんした髪に真っ赤な瞳、今はその瞳をぱちくりさせて突然現れた人物を凝視する。
「ここ、今日は入らないで欲しいんだけど」
対する綾香は当然ながら警戒気味だった。突然現れた素性不明の侵入者に対し、まるで掴みかからんとばかりにくってかかる。
「……ここ?」
「そう、こ、こ!」
「何で?」
シンは何で自分がこんな目にあっていうるのか分からない。久々に砂浜に降り立てたのが嬉しかっただけなのだが、何故こんな所でからまれるのか? と理不尽な状況に陥っていた。
「知らないの?」
「あ、えと、その」
本当の事を言うわけにもいかないが、彼は嘘をつくのが元来上手く無かった。こんな時にルークがいてくれたら、と彼は思うが後の祭り。結局口から出てきたのはしどろもどろな言葉ばかりだった。
「何!? はっきりと言わないと分からない」
「引っ越してきたんだ!」
窮地に追い詰められたシンはとうとう観念して適当に作り上げた嘘をついた。どうせいるのは今日だけだ。別にばれる事も無いだろう。
「何だ。なら早く言いなさいよ」
「ああ、ごめん」
「君、いくつ?」
「十二歳」
「両親は?」
「家で荷物の整理。俺は面倒くさいから逃げてきた」
すらすらと言葉が出てくるのはルークのお陰だった。後で何かしてやろう、そう内心思いながら彼はさっさとこの事態から脱出するべく耐え続ける。
「いつから学校に通うの?」
「明日から。お前達も生徒なのか?」
「お前!?」
「いえ、貴方達は?」
最早いろんな意味でシンはこの人物から逃げ出したかった。ルナやルークとは全く違う雰囲気を持つこの少女に彼は圧倒されていた。
「そう、先輩なんだから」
「こらこら、いじめないの」
「巫女?」
さきほどから後ろで微笑ましい光景を見るかの様に穏やかな顔をして立っている女性がフォローを入れ、ようやく事態は収まりを見せた。シンはその事に心から感謝しながらその衣装に目を止めた。
「分かる? 今日儀式だから」
少し照れながら彼女は言い訳めいた口調で説明する。実際に見た事は無かったが、その衣装が何を意味するかは大体彼は理解していた。そして、最初に非難された理由にようやく思い当たった。
「あの、ごめんなさい! 何か清めの途中だったとか?」
いきなり慌てて頭を下げる彼に意外に感じながら綾香がそっけなく告げる。
「安心しなさい。そんな大層な儀式でもないから」
それを聞いて安心したシンは改めてその巫女の姿を目に入れた。初めて見るその姿が少し眩しくて、彼は数秒見とれた。
「綺麗でしょ」
その様子を見ていた綾香が胸を張る。何となく照れ臭くなった彼はお得意の皮肉を彼女に向かって浴びせかける。
「貴方とは違って」
「何!?」
「事実だからな」
「ありがとう。そうだ!」
彼らのやり取りに沙耶香が割って入った。何かを思いついたように自分の手を叩いた彼女に一抹の不安を覚えながらシンは一応尋ねた。
「何ですか?」
「家に来ない? 特等席で儀式見せてあげる」
「え? でも」
悪い予感は的中するもので、シンはうろたえた。断りたいのは山々だったが、横からの視線が痛い。時間を聞けば儀式の終了時刻と指定された時間との間に大した差は無かったが、場所も大して離れてはいない。どうせ暇だった事と、その視線の圧力に負け、シンはその首を縦に振った。