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松賀騒動異聞 第十二章

第十二章


 「ここに、僕が福山大学の吉永昭さんの論文を参考にさせて戴いて現代語訳にした松賀治逆記があります。拙い訳ですが、木幡さん、一度読んでみて下さい」

と、言いながら、小泉さんはワープロ印刷された文書を私に手渡した。


 松賀治逆記:安政四年(一八五七年)四月 小林竹造友成の写文

      いわき史料集成刊行会編「いわき史料集成 第四冊」(平成二年発行)より

 ここに書かれていることは、松賀族之助、その子・正元、正元の養子・伊織の三代、五十年の長きにわたり、筆頭家老として磐城平藩に権勢を誇ってきた松賀一族を藩主の実父の権威の下に打倒した、一種のクーデター絡みの政争事件である。

 歴史は常に勝者の歴史であり、敗者の歴史は抹殺される。敗者=悪人、勧善懲悪説に立った捏造された史書が罷り通ることも珍しくは無いのである。

 以下、出来るだけ原文に即して、現代語訳を試みた。拙いところはご容赦願う。

 筆者は不明であるが、松賀騒動からは離れていた人物が騒動の時期からあまり離れていない時期に見聞したこと、或いは、当時喧伝されていた噂などを集録したものと思われる。

 また、文中、意味が判らないところもあり、これを読まれる諸兄からのご教示を待つ次第である。

 文中の(※・・・)は、私、小泉正一郎が付けた脚注であり、原文には無い記述である。


享保二酉年(一七一七年)

 内藤右京亮義稠よししげ公が磐城平藩七万石・第五代藩主として家督相続後、初めて磐城の地を踏んだ。

(※父の義孝が四十四歳で卒去し、家督を継いだのが、五年前の正徳二年(一七一二年)

  十三歳の時であり、以来、江戸藩邸で暮らしていたものと思われる。)

 七月五日に江戸を駕籠で発ち、九日に到着した。

(※参勤交代での隔年国帰りを今回から始めたものである。国元磐城までは二百キロあり、

通常の大名行列で歩く水戸街道、浜街道の旅程は四泊五日であったと云われている。)

 家中の者は全て途中の道までお迎えにあがった。

 お城に着くと、全員が登城して義稠公を喜び、お迎え申し上げたのである。

 随行した江戸家老は松賀伊織である。

(※この時の義稠は十八歳、松賀伊織は三十歳前後と思われるが生年は不詳。)

 八月五日、松賀伊織が領内を検分した。

(※このことをわざわざ記載した意味が判らない。領内をつぶさに検分することにより、現状を把握しようとしたのであろうか。それならば、江戸家老としての伊織の熱意を評価しようという、大分伊織に好意的な記述となるが。)

 十二月二十八日、江戸屋敷が類焼で焼けた。

 火元は牛込台細工町の作事方の諸星清左衛門宅で、午前四時より火が出て、芝の海岸まで焼けた。

 この屋敷類焼によって、お屋敷再建のための御用金が発生した。

(※当然、必要となった御用金は藩士、領民から調達しなければならなくなる。磐城平藩 

  は表向きの石高は七万石であったが、新田開発による増収、商業も盛んであったし、領内には小名浜、 四倉という良港を抱え、そこから貢納される上納金もあり、実質的には石高換算で言えば、二十二万石ほどの内福な藩であった。但し、この当時は、貨幣経済の浸透に伴う米の買い叩きによる価格下落での年貢米収入減、代々の藩主及び藩重役以下の濫費癖による支出増等の要因により、借財が嵩んでいたと云われている。言わば、藩の台所は火の車といった有様で藩全体の抜本的な経済立て直しが求められていた、という史家の見解もある。)


享保三戌年(一七一八年)

 正月十四日、安藤三郎兵衛(※当時、四百石取りの重臣で、江戸藩邸の側用人を勤めていた)が江戸から磐城に下って来た。

 五月一日、殿様が領内の国境(くにざかい)を検分するために駕籠に乗って出掛けられた。

 五月六日、お城に帰られた。

 殿様は春から体調が優れず、内々に殿様お付きの医者、中村順庵がお薬を差し上げていたということだが、このことは内密にされており、外には流れていなかった。今回の国境検分で、さらに体調を崩されたようだ。

(※中村順庵はこの騒動で、俸禄を取り上げられ、「永の御暇」、つまり解雇されている。

  義稠は松賀の策謀により、毒殺されたと云う疑惑も後年囁かされており、疑惑を持た

れたものか? それとも、単なる松賀贔屓の者という理由での処分か?)

 五月九日、殿様の体調不良の報が流された。

 五月十七日、片寄敬元が呼び出され、ご容態を診察され、お薬が調合された。

 杉山嘉兵衛がこの様子を伺った。

 五月十八日、夜七時、遠山芳仙が江戸から到着した。

 五月十九日、遠山芳仙が殿様の容態を診察した。

 五月二十日、お薬が差し上げられたが、殿様の容態は芳しくないということで、御典医(御殿医)をお願いした方がよい、ということになり、大島半兵衛(※四百五十石取りの番頭クラスと思われる重臣である)に江戸行きの命が下り、大島が夜八時に江戸に向け出立することとなった。そして、(※万一の場合に備え、)跡目相続の件も然るべき筋にお願いすることともなった。

(※義稠には子供が居なかった。つまり、嫡子が居ないまま、彼が死ぬことになると、御家は断絶という憂き目を見ることとなる。この場合、家臣は全員路頭に迷うこととなり、家臣にとっては死活問題となる。)

 五月二十一日、(※参勤交代で、)二十六日に江戸に向け出立することがお供の方々には以前から連絡されていたが、殿様の体調が悪化したことにより、二十六日出立は延期される旨、連絡がなされた。

 五月二十二日、下野守しもつけのかみ様(※殿様の伯父の従五位下・内藤下野守義英、六十四歳、露沾という俳号を持つ名高い俳人で松尾芭蕉死去までパトロン的存在だった。世子であったが、父の義概によって廃嫡され、江戸の六本木の藩邸で隠居生活を送っていたが、芭蕉の死後、磐城の高月に移り、屋敷を構えていた。この人物がこのクーデターの仕掛け人か、或いは黒幕と思われる)がお城に登られ、殿様のご容態をご覧あそばされた。同日、家中の者が登城し、昨日のご容態書が広間に貼りだされ、全員が承知した上でお城から下がった。

 五月二十三日、夜、下村因庵(※江戸の藩医)が江戸から到着し、お薬を差し上げた。家中の者は登城して、広間に貼りだされたご容態書を拝見した。同日、豊松様(※義英の子で、義稠の養子となり、第六代藩主となる。当時、十三歳)がお袖留(※江戸時代、男子元服の時などに、振袖を普通の袖丈に縮めたこと。腋ふさぎ)のため、昼過ぎにお城に入られて、その後、すぐに高月(※義英の居館があった所で現在は磐城高校が建っている。高月台に住んでいたことから、義英は高月様と通常は呼ばれていた。実子が藩主となり、絶大な権力を持つこととなる)へお帰りになられた。

 五月二十六日、ご容態を伺うために家中の者が登城すると、用人の加藤左中が広間に出て来られ、昨日一日並びに今朝までのご容態を詳しく語られ、全員が承知し、お城から下がった。

 五月二十七日、内藤頼母たのも様(※義稠の兄、義覚[よしあきら]。第四代藩主・義孝の長男であったが、生来病弱で、第五代藩主は義孝次男の弟、義稠が相続した。当時、二十一歳であったが、この年の年末、卒去する)の使者・有竹幸右衛門、光安院様(※義孝夫人、義稠の母)の使者・平沢善兵衛(二十三日夜、江戸を発ってきたとのこと)が江戸から到着した。同日、ご容態伺いのため、家中の者がいつものように登城し、大広間に貼りだされているご容態書を拝見した。

 五月二十八日、正午、御典薬・細川桃庵老(※公儀御典薬)が江戸から到着した。渡辺彦四郎(※大目付)が同伴し、植田まで半田新右衛門(※使番)がお迎えに出た。早速、桃庵老が登城し、書院で内藤治部左衛門(※国家老)と松賀伊織と会った上で、殿様のご容態を伺った。その後、治部左衛門と伊織に、もはや回復の見込みは持てないと言ったが、両人のたっての願いで、お薬を調合しようということになり、宿舎に戻った。宿舎は平一町目の五郎右衛門宅であり、ご馳走役として稲垣穂左衛門がもてなしていたが、まもなく、下村因庵も来て、お薬を受け取り、お城に戻った。

 この日、土屋左京様(※従五位下・土屋左京亮陳直[のぶなお]。常陸土浦藩第三代藩主で、義孝夫人・光安院は実の姉)、松平紀伊守様(※従五位下・松平紀伊守信岑[のぶみね]。丹波篠山藩第五代藩主で、正室は義孝の娘・政姫、且つ、正室亡き後の継室も義英の娘・初姫という関係になるが、当時は政姫と婚約していた)、内藤主殿頭とのものかみ様(※分家、湯長谷藩第三代藩主の政貞。三十四歳)、岡部美濃守様(※従四位下・岡部美濃守長泰。和泉岸和田藩第三代藩主で、正室は内藤第三代・義概の娘)、その他、ご一門様方からの使者が続々と到着した。そして、いつものように、家中の者もご容態を伺うために、登城した。

(※この内藤治部左衛門の子が、後年の元文百姓一揆では殿様の政樹に苛税を敷かせた張本人となり、一揆を起こさせ、ひいては、藩としての責任を問われ、九州・延岡に藩替えさせられた事件の責任者となる。ここに登場する治部左衛門は当時かなりの老齢で、この騒動落着の四年後、亨保八年に隠居し、翌年九年に病死している。)

 五月二十九日、細川桃庵老が駕籠に乗って江戸に帰られ、大野団右衛門(※使番)が植田までお見送りした。同日、番頭・物頭が召集され、書状を以て告げられたことは、ご嫡子が居ない大名の場合、国元に滞在する時は万一のことを想定して、幕閣の老中宛に養子のことを記した書状を出すこととなっており、昨年六月(※七月の誤記)にこちらに帰国した際、豊松様のことを仮養子として書いてお出しになっていた、ということであった。

 この度の殿様のご重篤で、豊松様を養子に迎えるお願いの書状を御用番の老中、井上河内守様(※常陸笠間藩六万石の藩主、従四位下・井上河内守正岑)宛に丹波守様(※分家の泉藩第三代藩主の政森。当時は安中藩に移封されていた。三十六歳)・主殿頭様(※前出。分家の湯長谷藩第三代藩主の政貞)が書かれておられたので、大島半兵衛・原田伊兵衛がこの御連状(※連名の文書)を持参して二十六日に提出したところ、首尾よく受理されたので、おって、公儀からの御奉書が渡されるということを江戸藩邸から連絡があったということであった。家中一同、安堵した。追々、然るべき筋から正式な連絡もなされるとのことで、家中の者は承知した。同日、夕方頃から殿様危篤ということで城内が騒がしくなり、夜十時に義稠公がお亡くなりになったということが伝えられた。勘定頭・福島杢左衛門が使者となって、殿様卒去のことを善昌寺に伝えに行った。また、加藤又左衛門(※藩重役で、家老に次ぐ家格である組頭を勤めていた)が江戸藩邸に向けて夜半出発した。

 六月一日、鳴り物の類と殺生、五十日間禁止と普請関係は十九日まで停止と云う御触れが出た。同日、明日は午前十時に全員登城せよとの御用連絡が家中一同になされた。

 そして、その夜、七時頃お庭より出棺、田町通りの善昌寺へ殿様の棺が運び込まれた。

 六月二日、家中の者が午前十時に登城したところ、家中一同、御家を大切に思い、義稠様跡目を相続されるお方に忠節を尽くすようにという申し渡しがなされた。

 同日、善昌寺におけるお焼香の次第が申し渡された。番頭・物頭・取次・使番・普請奉行・吟味役・勘定頭・賄方までは六月三日の暮れから四日までの間で、残りの家中の役人と家臣の嫡子は三日の日に、そして、五日にはお焼香をする資格のない者や、お目見え資格がある者は順番にお焼香はせず、拝礼だけを行う旨、申し渡された。

 また、同日、御用の趣は知らないが、急の御用ということで、原田喜多右衛門が昼の二時に江戸に向け磐城を発った。

 六月三日・四日、善昌寺において家中の者がお焼香・拝礼を行った。

 六月五日、明日六日は御葬礼に就き、軍使役以上の家臣は出席し、その他の家臣は在宅し、火の元に十分注意するようにとの御触れがあった。

 ご香典に関しては、左記の通りとし、明後日の七日、善昌寺で献上すること。

 五十石から百石までの家臣は鳥目十疋(※鳥目は銅銭のことで、疋は銭十文のことである。鳥目十疋は、銭百文ということで、一文を十円とすれば、鳥目十疋は千円に相当する。)

 百五十石から二百五十石までは鳥目二十疋、

 三百石から四百五十石までは鳥目三十疋、

 五百石から九百五十石までは鳥目五十疋、

 千石以上は鳥目百疋、

 三百石から四百石までの家臣の嫡子は鳥目二十疋、

 御扶持切米の家臣は右に準じてご香典を献上するように心得ること、と云う御触れであった。

 六月六日、正午に御葬礼が悟真院奥で滞りなく済まされた。

 同日より、善昌寺において御法事が始まった。

 初七日しょなぬかの御法事は六日の晩から十二日朝まで別事御念仏、十二日朝に読経、

 二七日ふたなぬかの御法事は十四日から十六日までの三日間、御念仏があり、十六日朝には施餓鬼せがきと云う法会が取り行われ、

 三七日みなぬかの御法事は十七日から十九日までの二夜三日の御念仏となり、十九日の午前八時には読経がなされ、

 四七日よなぬかの御法事は二十日から二十一日までの一夜別事御念仏となり、

 五七日いつなぬかの御法事は二十二日から二十四日までの二夜三日の御念仏があり、二十四日午前八時からは頓写(※追善供養のため、大勢が集まって一部の経を一日で写す写経のこと)があり、

 六七日むなぬかの御法事は二十四日から二十六日までの二夜三日の御念仏となり、

 七々なななぬかの御法事は二十六日から二十八日までの二夜三日の別事御念仏が行われ、二十八日の午前八時に読経が行われると共に、同時刻に別事御念仏もなされ、全員が回向した。

 そして、百ヶ日法要も(九月)十七日に別事御念仏としてなされ、施餓鬼法会も善昌寺において恙無く済んだ。

 御法名は、廓寥院殿 故従五位下右京兆少尹真誉中棠円山大居士

(※義稠の享年は享年十九歳。二十歳或いは二十一歳とする史書もあるが、いずれにして

も嫡子は無く、伯父の下野守義英の子供、十三歳の豊松を養子に迎えることとなった。

この豊松は元服して民部・政樹まさたつと改名し、後日叙任され、従五位下・備後守政樹となる。)

 四十九日までの御法事料は、金三十五両(※一両を四万円とすれば、百四十万円となる。)、籾四十七俵(※当時、一俵は籾三斗七升であり、一石は十斗で、二・七俵となる。従って、籾四十七俵は一七・四石となり、当時の物価は一石五斗が一両に相当していたので、金額で換算すれば、十一両二分の値打ちとなる)であり、一方、集まったご香典は、銀二十枚(※丁銀二十枚ということであり、丁銀一枚は四十三匁[百六十一グラム]で、二十枚で八百六十匁となる。当時、銀は六十匁で金一両と等価であるとされていたから、八百六十匁の銀は十四両一分程度となる。)、金二両二分、鳥目七十五貫(※一両は銭四貫[四千文]であるから、七十五貫は十八両三分となる。)、包銀百四十五包(※包銀は、つつみぎん、と発音され、豆板銀と呼ばれた小粒銀を丁銀の重量四十三匁に合わせて秤量し、所定の紙で密封したものである。従って、百四十五包は銀六千二百三十五匁となり、小判換算で言えば、百四両程度となる。)

(※従って、小判換算で言えば、ご香典として集まった金額は、百三十九両二分となる。)

 六月十八日朝までの経緯は右の通りである。

 六月八日、御側役勤務の任免が行われた。

 その者たちの氏名は以下である。

 御側用人は変わらず、松賀忠七(※松賀という姓で松賀伊織の一族ではあるが、血族では無い。)

 御近習役      永尾左太夫

 御納戸役 変わらず、入江沢右衛門

 御納戸役      永田孫助

 御納戸役      長谷川秀七

 御納戸役      長谷川理七

 御納戸役      武田伝左衛門

 御櫛役       長瀬平右衛門

 御櫛役       山本新助

 御納戸役      斎藤苫右衛門

 御側中小姓     加藤助之烝

 御側中小姓     加藤半助

 御納戸役      茂野伸八

 前児小姓元服    糟谷隼太

 前小姓元服     三松幸之助

 児小姓       加藤友之烝

 児小姓       沼田善蔵

 御坊主頭      大久保光次郎

 御役御免となり、善昌寺に籠居した方々(※義稠卒去に伴い、喪に服した家臣たち)

 御側用人で落髪   加藤六郎兵衛

 前御近習      久世与兵衛

 御近習       内藤丹下(※後日、舎人と改名。元文一揆の際は家老となっており、百姓苛めの元                 凶として悪役を演じている。)

 前御櫛役で落髪   小田辺七右衛門

 前御膳番      渡辺利兵衛

 御側中小姓で落髪  月岡与八

       但し、月岡与八は善昌寺で喪に服していたが、江戸藩邸へ召され、光安院の付人となった。

 同日夕方、江戸藩邸から飛脚が着き、養子相続が認められた旨、連絡が入った。

 六月九日、豊松様の養子相続の件はかねてからお願いしていた通り、幕府からお許しが出た、但し、定められた忌服(※喪服)はお受けすることになったと、昨晩の江戸藩邸からの手紙には書いてあった、家中一同そのように心得よ、との連絡がなされた。

 同日、佐々三郎右衛門が江戸から到着し、養子相続のお願いは無事済んだことの連絡と、定式の忌服を受け取るようにとの幕府からの御奉書がもたらされるという連絡がなされた。

 同日、城中の広間で御祝儀などが披露された。

 同日、お城において、松賀伊織が番頭たちを集めて申し渡したことは、明後日に豊松様がお城に入られる、そして、お支度が出来次第、江戸へお上りあそばされるので、ご機嫌伺いのため、十二日に総登城し、ご祝儀の言葉を申し上げるよう、それぞれの組の者に申し伝えよ、とのことであった。

 六月十一日、豊松様が本丸へ移られるということで、松賀伊織がお迎えのため、高月に参上して、豊松様のお供をして登城した。

 同日、奉書を受理するための使者として、大野団右衛門が午前八時に江戸に発った。

 六月十二日、各組に、明日十三日から月代さかやきを剃ってもよい、と云う趣旨の廻状が廻された。支配方(町方支配、郷方支配)へも同様の廻状が廻された。

 六月十六日、午前八時、豊松様が駕籠に乗って江戸に向かった。道中は一本道具で片挟み箱であった。松賀伊織がお供をしたが、高月からも近習の遠山軍八、池内善兵衛の二人を同行させておられた。池内弾次郎がお見送りのために登城した。

 六月二十一日、道中滞り無く、江戸上屋敷へ到着された。

 江戸藩邸での御役替えは以下の通り。

 勤務実績無いままに、側用人更迭  松賀忠七

 書方役              平野惣左衛門

 側用人 五十石加増で四百五十石に 安藤三郎兵衛

 用人  五十石加増で三百五十石に 長坂平左衛門

 近習役 五十石加増で二百石に   磯江勝兵衛

 御詰衆組 御納戸役 兼務御使番格 永田孫助

 右 同役             長谷川秀七

 勘定頭 新知百石         新井孫左衛門

 遠山軍八・池内善兵衛は高月様の命で、豊松様の付人として江戸に出てきた次第であるが、藩邸端の長屋に置かれたままで、豊松様に伺候させて貰えず、時たま御機嫌伺いに参上するに止まっており、御用を仰せつかることも無い状況に置かれている。

(※このことが、後日、高月様による伊織糾弾の理由の一つになった。)

 豊松様が民部・政樹まさたつと改名したことに起因して、内藤治部左衛門は名前を政種と名乗っているが、その「政」の字は遠慮すべきではないか、と丹波守様の内意があった。治部左衛門は、第二代藩主・忠興様の弟、右馬様(※初代藩主・政長の三男・右馬助政重のことで父の命により臣下に下った)の孫にあたる関係で「政」の字を使っている次第であり、この度の遠慮という仰せは納得し難いと、家中でも心ある者は不審に感じている。

(※この件は現代人の我々には判りづらい話であるが、武士の世界では、殿様の名前の一

  字を拝領することは大変な名誉であった。逆に言えば、拝領したわけでも無いのに、

殿様の名前の一字を自分の名前としているのは感心しないという話になった。そして、

このことも、後日、高月様による伊織糾弾の理由の一つになる。つまり、丹波守様の

名前を借りて、治部左衛門の名前に言い掛かりを付けたのであろう、と)

 月代さかやきを剃ることに関しては、江戸藩邸に勤務する者は六月十八日からということでお許しが出ており、その他の者は二十日から宜しいということになった。

 七月六日、精進落としが行われた。また、この日から磐城でも月代剃りが許された。

 七月二十三日に御忌明け(※喪があけること)となるので、老中への挨拶回りを行うという知らせが江戸から二十三日に飛脚によりもたらされ、また、二十一日に家督相続も問題なくなされたという知らせも午後四時に着いた。内藤治部左衛門に出来るだけ早く江戸に参上せよという催促ももたらされ、早速磐城を出立したところ、道中でまた飛脚による連絡が入り、二十六日に家督相続のお礼をするので、間に合うように参上せよということであったので、承知した旨を道中から江戸藩邸に知らせ、急いで、二十五日に江戸藩邸に着いたが、お祝は延期されたとのことであった。

 七月二十四日、家督相続のご祝儀が家中の者が登城して行われた。

 七月二十八日、江戸において、ご老中様への殿様の家督相続お礼が首尾よく仰せあげられて、内藤治部左衛門・松賀伊織のお目見えもなされ、治部左衛門はすぐに磐城に戻っていった。

 それ以後、松賀正元は万事につけやりたい放題となり、主君を欺き、軽んじるようになり、奢り高ぶりが甚だしいものになっていった。

(※内藤治部左衛門と松賀正元・伊織の対立という図式の中で、伊織の父の正元が黒幕となり、養子の伊織を通して悪行を働いたとの見解に立っている。以下、この論調で文意は統一されている。)

 お礼が恙無くなされた旨の連絡が入り、家中の者がお祝のために登城した。

 八月十一日、江戸藩邸の大目付・船木清左衛門が国元に戻った。これは、表向きは高月様への家督相続ご祝儀の使者ということであったが、実は、国元の家老・用人へ神文を提出せよとの仰せ付けであった。

 同日、井出弥三郎・小川半左衛門へ御用があり、父親の正倫が六月二十四日に死去し、井出は、今は忌中にあるが、家督相続前の忌は取り止めて江戸に上るように、とのことであった。小川半左衛門は昨年八月二十日に加藤文右衛門の後任の大目付に新役として任ぜられており、八月十四日に両目付が江戸に向い、国元を発った。

 江戸藩邸での御役替えの方々は以下である。

 郡代 百石加増で三百石へ 島田理助 昨年十一月二十八日に国元を発ち、それ以後は

              江戸に滞在して、松賀正元から御用を言いつかっていた。

(※松賀正元の腹心であるとしている。)

 江戸・磐城の総元締吟味役 上山左助

 吟味役          平沢林右衛門

 政姫様重役        糟谷助右衛門

 御勝手向け世話大儀であるとして、役料五百俵  松賀正元

(※松賀伊織の養父で、松賀族之助の実子。当時は既に隠居していたが、藩からの要請で

御勝手向きを預かっていた。御勝手向きというのは、今の財務省といった部門。

四年前、四十六歳で隠居しており、当時、五十歳であった)

 御普請などで骨折り大儀として、腰物(刀)拝領 松賀伊織(江戸家老)

 同 右                    三松仁右衛門

 遠山軍八・池内善兵衛の両人は江戸藩邸では御用が無いとされて、国元に帰された。

 江戸勘定頭・小浜清右衛門は勤務振りが良くないということで、御役を召し上げ、国元へ帰るよう命じられたが、その罪科に関しては誰も知る者が居なかった。遠慮という処分が下された。

 九月一日、井出弥三郎・小川半左衛門の両人が江戸での御用を済ませ、昨夜国元に帰って来ており、本日二人とも御用部屋に出て来た。

 且つ、弥三郎においては、江戸藩邸で家督相続が問題なく許され、その上、新たに郡奉行を仰せつかって国元へ帰って来た。

 同日、今西弥五左衛門が思し召しにより、御役御免で御役料を召し上げとなり、遠慮という処分が仰せつけられた。三使(正使・副使・監察)として、近藤八郎右衛門・林田新五兵衛・小川半左衛門が赴いた。但し、その罪科を知る者は無く、その後の詮議も無かった。

 噂では、昨年の秋に江戸吟味役の平井金左衛門が国元に来た時に、弥五左衛門が聞いたことには、磐城御用金銭勘定は年々申し付けられているが、江戸での御用金銭勘定は一度も行われていない、先年七ヶ年にわたる家臣俸禄半減措置の際の金銭勘定も含め、その他一切行われてはおらず、実にけしからぬことだと言いきっていた、ということだ。

 これも、松賀正元のけしからぬところであり、金銭勘定を困難にしているのだ、ということであり、弥五左衛門は罪無くして御役を取りあげられ、江戸勘定頭の小浜清右衛門も役儀を罷免され、国元に帰された。金銭勘定も元のままとなり、勘定方役人も交替し、新規に自分が贔屓する者を任命した次第となった。

 九月三日、井出弥三郎の後任の大目付に曽根忠左衛門(※四百石取り)が任命された。

 九月九日、穂鷹刑部(※組頭・城代の重役。当時、七十一歳の老人。六年後、七十七歳で死去している)、御勝手方御用となっていたところ、罷免された。

 同日、堀主馬(※組頭をしていた藩の重役。これから七年後には隠居しており、当時かなりの年齢であったと思われる)に御用が下され、夜、江戸に向け国元を発った。

 同日、今村新兵衛、勤務振りが宜しくないということで、郡奉行役を罷免された。三使として、三友伊左衛門・半田新右衛門・曽根忠左衛門が勤めた。

 九月十三日、山室五太夫、勤務振りが宜しくないということで、海老沢役を罷免された。

 御使として、三友伊左衛門が赴いた。遠慮処分となった。

 堀主馬、江戸で穂鷹刑部の後任として、御勝手方御用を勤めるよう命ぜられ、役料として百俵下された。万事、島田理助と相談して勤めるように命ぜられた。勘定頭・景山四郎右衛門、御用にて江戸へ発った。この者は御勝手向けの御用であり、勘定人の小松治左衛門の後任であった。

 江戸大目付の井上平兵衛は御留守居役に役替えとなり、五十俵下されることとなった。

 国元の御使番の大野団右衛門は江戸勤務となり江戸に滞在していたが、この度、井上平兵衛の後任として大目付に任ぜられ、家族を国元から呼び寄せることとなった。

 御内證金支配役の中村喜兵衛、御金奉行の大竹杢右衛門並びに勘定人の中村長蔵が各役所の帳面を江戸藩邸に持参した。

(※藩経済に関する現状把握のための予備調査と思われる。)

 江戸御勝手向きは島田理助が頭取となって、全て簡略化(※簡素化か?)された。

 従来の法(古法)は悉く新法に改まった。

(※藩経済の見直し是正のための改革案と思われる)

 例えば、厩舎から渡される藁は、真ん中から二つに切断された上で渡される、といった具合で、まあその細かいことは筆舌にも記し難いほどである。

(※現状を細かく見直し、緊縮経済化を図ったものと思われる)

 十月十五日、景山四郎右衛門、江戸での御用が済み、国元に帰ることになったが、その際、江戸で三十石の加増となり、御吟味方兼務を命ぜられた。

 閏十月一日、川路九太夫、百俵与えられ、田町会所の吟味目付役に任じられた。これは、御使番の格式である。

 閏十月二十五日、堀主馬・島田理助が国元に戻って来た。

 理助は御用職格(御用人格)となり、これ以後、御用は全て、堀主馬・島田理助の二人で取り扱うこととなり、他の御用席衆は出席しているだけという形だけの存在になった。(※藩政の具体的実施担当者が堀主馬・島田理助に限定されていたということを物語って

いる。)

 国元の吟味役の石川太左衛門、退役願いを出した。物覚えが悪くなったとの理由であった。

 十一月十四日、松賀伊織が突然国元に来た。

 堀主馬・島田理助の二人が伊織宅を訪れ、数時間にわたって筆談(※書いたり、話したり、ということ)を交わした。遠方に出ている役人たちを明朝早々に藩邸に集めよということで、夜中ではあったが、飛脚を遣わせて連絡した。その騒々しかったことは言うまでもなく、人々も不安に駆られたほどであった。

 十一月十五日、役替えが行われた。

(※新法実施の人事体制を信頼できる者で固めようとしたものと思われる。)

 吟味役を罷免         石川太左衛門(先般から退役願いが出ていた。)

 下郡を罷免          遠藤嘉左衛門

 御代官から下郡へ 二十俵加増 赤坂金兵衛

 下吟味方 勤務良好に付き、十俵加増で七十俵 横田喜右衛門

 下吟味         二十俵加増で七十俵 赤坂十蔵

 御城内外役所目付    二十俵加増で九十俵 中村喜兵衛 理助妻の従弟婿である

                平川庄七 伊織賄人の平川伊右衛門の伜である

 勘定人 籾五俵で、この度は二人扶持加増   中村長蔵 中村喜兵衛の嫡子である

 勘定人頭取から御代官へ 加増されて五十俵  小松治左衛門

 勘定人から勘定人頭取へ 二人扶持十五俵   猪狩平六

 山奉行から富岡御代官へ           服部利右衛門

 山奉行            丹羽太右衛門 理助妻の甥、騒動後、吉羽と名乗る

 御代官を罷免、隠居を命じられる       芳賀弥兵衛

 御代官役を罷免               小林七右衛門、小林友右衛門

 御代官を罷免、隠居を命じられる       菅波杢兵衛

 御酒部屋から御城内残物改めへ        佐藤孫蔵、丹野喜三右衛門

 御荷物方                  山下庄七

 下吟味 勤務不良により遠慮処分       山下伴右衛門

 御厩糠藁奉行から小蔵へ           佐々弥左衛門

 小蔵を罷免し、在役勘定へ          平野嘉左衛門

 この外の役替えは割愛する

(※一人扶持と言うのは、一人の人間が一年間に食べる米を与えるということで、一人は

一日、四合九勺の米を食べるとしていた。従って、一年換算で、一石七斗七升となる。

一俵は三斗七升であるから、この量は四・八俵となる。大体、米を五俵、与えるとい

うことになろうか。当時の物価で換算すると、一石五斗が一両であったと云われてい

るので、一人扶持は一両から一両一分程度となる。米五俵は大体三百キロとなり、キ

ロを三百円とすれば、米五俵は九万円となり、これが一両の値打ちであろうか。)

 同日、午前十時に役人たちが杉平屋敷に参上し、堀主馬・島田理助が皆の前に出て、その場に居た役人たちに申し渡したことは、この度松賀伊織殿がこちらに来られたのは、皆に神文の提出を求めるためである、そのように心得よと申して、それぞれに役所勤方前書を一通ずつ渡した。各人が神文血判を押すのを大目付の曽根忠左衛門がしっかりと見届けた。終わりに、松賀伊織が皆の前に出て、全役人たちと対面したが、その様子は奢り高ぶった態度であり、尋常なものでは無かった。そして、理助は書付並びに各役所の勤務振り明細を取り出し、隠し目付が指摘したところを帳面記載に基づいて一つずつ読み上げていった。その有様はまさに傍若無人といったものであった。

(※松賀伊織・島田理助たちが藩経済立て直しを徹底的に行おうとする、その緊迫した様子が窺われる。)

 十一月十六日、各役所に張り紙掲示がなされる。全てのことは島田理助に伺いを立て、指図を受けるように、との文言であった。江戸藩邸においても、同じ張り紙掲示がなされた。これも、目付立合の上での役所改めであり、その騒がしきことはまるで闕所騒ぎのようであった。つまりは、全ての役所の従来の勤務振りを全く新しい勤務振りにするということで、全役人の困窮は甚だしいものとなり、現在の状況はまさに薄氷を踏むにも似た危機的な状況になっている。

(※新法の具体的施行により、藩役人が右往左往している様子が窺われる。)

 十一月十七日、伊織が高月様(※下野守義英)へご機嫌伺いを行い、翌十八日江戸へ発った。

 十一月二十三日夜、江戸において、殿様がいつも使っている御椀が紛失した。この紛失により、御膳番二人と番人二人が押し込め処分となった。この時、小袖も一枚紛失したとの話もあった。これらの品々は呪詛に使われるものであり、誰かが逆心を抱き、密かに殿様を呪詛している仕業であろうかと、人々は不安に駆られた。但し、御椀の蓋は一つ残っていたので、内々でご祈祷なぞしてもらったところ、祈祷した僧侶が言うには、蓋が残っていたので、例え悪人が呪詛し奉ったとしても、その災いは速やかにその者に降りかかってくるだろうということであった。

(※松賀正元・伊織父子の失脚を暗示しているのか?)

 十一月二十五日、内藤頼母様(※義覚)が卒去された。七月中旬からご病気に罹られていたということだった。

 十二月十一日、江戸本所の御屋敷が類焼し、光安院様、政姫様は翌十二日御上屋敷へ入られた。光安院様用には御用部屋に仕切りを設けて御座所とし、政姫様は治部左衛門の長屋に入られた。

(※この時の対応が悪い、主君の身内に対して礼を失している、ということも松賀糾弾の理由の一つとなった。)

 十二月十六日、藩主・政樹様に御叙爵が下され、備後守様となられた。

 江戸において加増並びに役料を下された方々は以下。(※信賞必罰を期したものか?)

 百俵 並びに 役料三人扶持  永田孫助

 役料三十俵、三十石      平林林右衛門

 役料四人扶持         長尾左太夫

 役料四人扶持         磯江勝兵衛

 役料四人扶持         片山安右衛門

 小浜奉行を依頼により罷免   新井久左衛門

 小浜奉行仮役         喜多新左衛門

 御役を罷免          林小左衛門

 十二月二十二日、野田彦助が逼塞処分となる。三使として、稲垣穂、古谷、小川半左衛門が赴いた。

 同日、山沢半右衛門が閉門処分となる。三使として、三浦隼人、奥村出ママ兵衛、曽根忠左衛門が赴いた。

 領内十二組を十組に改めた。好間組の内、小川組へ入った。好間組の内で、合戸を矢田組と名を改めて湯本組へ入れた。玉山組を神谷組へ入れた。領内の全ての百姓の身代、家業並びに新法を数ヶ条、島田理助が書いて一冊と為し、それを十組へ各一冊ずつ渡し、理助がさらに百姓たちへ新法を申し付けた。民家の石居役、半戸役、鉄漿役などの税が決められた。

(※隗より始めよ、ということで、藩士から始め、次に百姓たちにも新法の徹底を図った

ものと思われる。)


享保四亥年(一七一九年)

正月十六日、高月様のお屋敷で恒例となっているお能が演じられた。例年と同じく、家老・用人並びに藩役人が拝見した。

(※この日から、クーデター劇は始まった。)

 その折、佐伯団右衛門が俄かに御用と称して江戸へ発ち、松平斎宮様(※義英の次男で、松平上野介信周の養子となった人物)へ隠密の事柄を仰せつかったということらしい。

(※何やら、きな臭い匂いを漂わせている。)

 正月十七日、荻野金兵衛が御用により、江名へ出かけた。但し、誰も知らなかったし、妻へも湯本あたりに出かけてくるとだけ言って出かけた。しかし、後で判ったことだが、金兵衛は明日十八日に江戸へ向かう者たちの宿泊とか人足、馬といった旅の割り当てを内密にするためであった。

(※いよいよ、松賀・島田追い落としの策謀が始まった。)

 同日、内藤治部左衛門から、番頭・松井茂兵衛と使番・今村宮内右衛門へ、隠密の用事があるので、明朝未明に治部左衛門宅へお越し願いたいという連絡が書面を以てなされた。

 正月十八日、治部左衛門の屋敷に二人が参上して、御用の内容を承った。

 その内容というのは、島田理助父子を閉門にするようはからえ、という高月様の命であった。この命を受けて、松井茂兵衛と今村宮内右衛門の二人は曽根忠左衛門を同行させ、理助屋敷の表門・裏門・山手の方を朝から手配して来させた足軽八人で一日中警固させた。

 その上、屋敷の前後には夜中も見張りの者を忍ばせ、出入りする者を見届けさせた。

 また、方々の交通の要所を固めるために、津留番所へ番人を増員して派遣し、通行する者を確認して逐次連絡をよこすように命じた。この措置は、松賀への内通があるかも知れないと恐れたからである。このようなことに関しては、御賄・藁谷太兵衛は内々に承知しており、十七日夜中、足軽どもを呼び寄せ、太兵衛宅でその者たちに神文を書かせた上で各所に配置する人員の手配をした次第であった。当然、その人員の中には、松賀・島田と懇意の者は含めてはいない。

(※事前に、入念な準備、計画をしていたものと思われる。高月様と内藤国家老がその黒

幕・首謀者と思われる。)

 同日の朝、内藤治部左衛門・穂鷹刑部・堀主馬・内藤玄蕃・上田外記という組頭たち及び用人たちが高月様屋敷に召集され、一同が揃って参上した。

(※ここで、堀主馬が高月様派として登場したことには驚かされる。堀主馬は松賀伊織・

島田理助の新法に協力する同志では無かったのか。いつの間にか、松賀・島田を裏切り、高月様・内藤治部左衛門派に付いたものと思われる。当時の堀主馬の石高は七百石組頭で、藩の重役であり、この騒動の後で、出世して家老になっている。当時、かなりの年齢でもあり、当初は「藩政改革派」であっても、いざ新法実施の段階となると、総論賛成・各論反対というように、「保守・守旧派」に変身してしまったのであろうか。それとも、当初から高月様含め藩上層部の意向を汲んで、松賀・島田派に潜り込んだ、いわば「獅子身中の虫」的存在であったのであろうか。いずれにしても、この人物に関しては、暗い印象を持つ。)

 今西弥五左衛門が召されて、以前の通り、御年寄に復帰し、今迄通り勤めるようにとの仰せがあった。

 同日の朝、国元の松賀伊織組の番頭は全員、高月様の屋敷に召され、松賀正元・伊織父子は不義を働いた旨の申し渡しがあり、それぞれ配下の者たちを自宅に呼び、神文を書かせるように命じられた。

 治部左衛門・刑部・主馬・玄蕃・内記の組も、城内外の役人は除き、それぞれの自宅で配下の者に神文を書かせるように申し付けられた。

 それで、それぞれの支配頭から廻状が廻されて、夜の十時前にそれぞれの組頭の屋敷に参上するように連絡され、全員が所属する組頭宅に参上したところで、高月様からの松賀正元・伊織父子の罪科を咎める糾弾書を拝見した上で、全員神文を書くように命じられた。

 全員がこの糾弾書を拝見した上で、神文を書き、血判を押したのであった。

(※神に誓う形で、神文を書き、血判を押す、という形は当時はありふれたことであったのだろう。松賀・島田も新法実施に際しては有無を言わさず、この手法を取っているし、後年の元文百姓一揆の際も、決起に際しては百姓同士、一揆収束時は藩からの要求で一揆方が神文・血判を取り交わしている。今と違って、昔の人は神に対する信仰心が篤く、血判付きの神文は絶対的に遵守すべきものであったのであろう。全国民が注視している国会中継の参考人招致の際の宣誓で、いくら宣誓をしても、嘘も方便とばかり、平気で大嘘を吐く現今のご時世とは異なるものであったのだろう。)

 高月様の糾弾書の内容は以下のようなものであった。

・風山様(※三代藩主・義概[よしむね]、高月様の実父)、義山(※四代藩主・義孝、高月様の異母弟)以来、家老・用人、全員が和の心を大切にして、全ての事柄で唯我独尊で我意を立てるような主張を行ってはならない、という藩代々の藩法を破り、家老の治部左衛門を始めとして、組頭・用人たちとも一切相談をせず、何事においても独断で指図をしながらも、表向きは丹波守殿、主殿頭殿から申し付けられたように見せかけて、我意を通したこと、風山様以来の藩法を破ったことに対して申し開きをすることがあるか。

・風山様、義山の代が変わった折、家老・組頭・用人の神文が宛先無しに出されたのに、今回の神文は丹波守殿・主殿頭殿宛に出されたのはどういうつもりであったのか、しっかりと申し開きせよ。

・忌中ということで、備後守の相続が正式に決まらない内に、家臣らに対する加増を行ったこと、公儀の掟を憚り奉らなかったこと、不義第一である、この点に対する申し開きはあるか。

・今西弥五左衛門は義山の代、お役目大事と勤め、円山(五代藩主・義稠)の代にもその勤め振りは変わらずよく仕えてきたのに、勤務振りが悪いということで、お役を罷免し、遠慮処分を課し、これは丹波守殿も承知していることだと申していたが、どのような罪科ということで丹波守殿が申し付けたのであろうか。とどのつまり、丹波守殿の名前を借りただけではないのか、家老職にあった者としてはその詳細を存じておろう、聞かせて欲しいものだ。且つ又、今村新兵衛に関しても、勤務不良として遠慮処分を課しているが、勤務振りの不具合は無いということをこちらから申し遣わしたが、何の返答も無かった。この両人に申し付けた処分は藩主の名前を借りただけではないのか。ちゃんと、申し開きをせよ。又、備後守の馴染みの者を二人、付人として江戸へ遣わしたが、付人として留め置かず国元に送り返してきたこと、どのような存念でそのようにしたのか、これも申し開きせよ。

・治部左衛門政種が名乗っている「政」の字を遠慮し、改名するように丹波守殿が指図したということだが、治部左衛門の祖父は右馬様(※二代藩主・忠興の弟、政重のことで、政重は父・初代・政長の命により家臣に下った)でご連枝(※内藤一族)故、名乗ってきた「政」の字であるから、六代藩主・政樹に遠慮して、改名なぞする必要は無いのだ。これも、丹波守殿の名前を借りただけであろう。この点もちゃんと申し開きをせよ。また、伊織が先だってこちらに来た折、余と備後守は親子の関係であるのに、急いで高月に参上し、備後守含め、ご機嫌伺いをすべきところ、前日一回だけ参上したに止まったのは非礼であり不届き至極である。この点、申し開きせよ。

・光安院並びに政姫がお屋敷類焼で、上屋敷へ移った折、御用部屋を仕切って光安院の部屋とし、政姫については藩邸端近くの長屋を住まいとさせたのは、上に対する礼を失している。とどのつまり、上を軽く見做しているからであろう。この点、申し開きせよ。

 このような内容の書付を各人が拝見した上で、神文を作成した。

 その神文の前書きはこのようなものであった。

 松賀正元、伊織はますます奢り高ぶった振る舞いが目立つようになってきました。このままでは御家が危うくなるということを家中一同が思っていましたところ、下野守様(※高月様)が、松賀父子の罪科を糾明されました。これは、藩に対する忠義でありますので、私共家臣一同、このように連判致す次第です。以上 享保四年正月十八日

 右の通り、ご家老・お組頭宛 神文・血判を致します。

 同日、今村新兵衛の遠慮処分が高月様の命で解除され、新兵衛が登城した。

 同日、城内外の役人が昼時に御用部屋へ召集され、組頭の内藤玄蕃・上田内記、年寄の今西弥五左衛門、用人の近藤主水・加藤左中が出席した。そして、内藤玄蕃から出席者に、今朝、治部左衛門殿が高月様から呼び出され、命を受けてきた、松賀正元・伊織父子に不届きがあったので、糾明なされるということである、ここに治部左衛門が高月様から受け取ってきた糾明の書付があるので、内容を全員に読み聞かすこととすると、話があり、月番の近藤主水がその書付を示し、祐筆の舘市郎右衛門がこれを読み上げた。

 全員が畏れ奉って、お請けすることを申し上げ、神文作成も前述のように済ませた。

 同日、杉平の松賀伊織の屋敷の家族は親類預けとなり、仕えていた者、中には村々に赴いていた者も居たが、全員残らず呼び戻され、屋敷内に押し込められた。親類一同、自分遠慮とし、古谷郷太夫・荒木平太夫・荒木団右衛門・平野新六・石川甚四郎・石原平馬・長谷川大七、いずれも杉平屋敷に代わり々泊まり番をすると共に、昼も屋敷に詰めるようにしていた。

 渡部喜三右衛門・本宮戸右衛門は伊織の家来ではないが、付人となっていたため、これまた、屋敷内に押し込めとなった。

 大目付・小川半左衛門、郡奉行・井出弥三郎の二人が高月様に呼ばれ、家老・用人が同席する中で高月様が直々にお尋ねになられた。

 その内容というのは、去年の秋に二人が御用ということで江戸に赴いた際、内藤丹波守殿・内藤主殿頭殿からお尋ねがあったと聞いているが、その折に二人が答えた内容はどのようなものであったか、ということであった。

 半左衛門が申し上げるには、私の新役のことでございました、その他は存じません、と申し、これ以上申し上げることはございませんが、弥三郎は後に残り、何事か御用があったようでございました、私は先に帰りました、その後にどのような御用が仰せつかったのかは存じません、と申し上げた。

 そこで、弥三郎にお尋ねがあったが、態度が悪かったので、口上書を提出せよと仰せ付けられたが、どうにもこうにも態度が悪く要領を得なかったので、高月様はお帰りになり、弥三郎に遠慮処分を仰せ付けになられた。

 正月二十日、物頭・近藤八郎右衛門、町奉行・加藤文右衛門、寺社奉行・加藤喜右衛門、大目付・曽根忠左衛門が弥三郎宅へ赴き、お詮議があったが、受け答えが益々不埒であった。

 同日、この四人が再度お詮議を行った結果、この件は落着し、即刻三使を遣わして逼塞処分が命じられた。

 噂では、去年秋に江戸へ赴いた際、弥三郎のところへ理助が来て言うことには、貴殿の家督相続には三つの罪があるということで、御役を召し上げ、知行を減らされることになるということが国元から連絡されている。その詳細というのは、目付役でありながら、好間川で御法度とされている場所で殺生(※漁労のことか?)を行ったことが一つ、次に、父親の正倫が死んで忌中の時、敬元宅に行き遊楽したことが二つ目、次は、忌中であり、家督相続も仰せ付けられていない内に、八月十五日に在郷の踊り獅子を正門を開けて呼び入れて、庭で踊らせたことが三つ目である。この三か条が役儀にふさわしくないところであると、国元から言って来ている。この三か条に関しては、明日、殿様へ申し上げることになっているのだ。貴殿とは敬元との縁もあり(※遊び友達ということか?)、ざっくばらんに懇意にしている仲でもあるから、知っていることをこのように言うのだと理助が言うと、弥三郎は聞いて大いに驚き、何とかその罪を免れる方法は無いのだろうか、と島田理助に問うた。そこで、島田が言うことには、それは簡単なことだ、今の役儀で優れたご奉公をしていれば、大丈夫であると云うことだった。その答えに井出は大いに喜んで、それはどのようなことか、どんなことでも教えて戴きたい、と言うと、島田が近くに寄って来て、明日、丹波守様からお尋ねある時はこのように申し上げればよい、そうすれば、その功績により、貴殿が犯した罪は相殺されるに違いないから、と言い、そうでなければ、この度の今村新兵衛の後役を仰せ付けられることは難しいと付け加えれると、井出は大いに喜び、何事も貴公の言う通りするから、お頼みしますと言った。このようにして、翌日、丹波守様がお尋ねされ、磐城国元での、家老・用人たちの勤務振りの善し悪し、恣意の有り無し、及び、見聞したところを全て詳しく述べよと仰せられた時、井出は畏まって、島田に教えられたように、治部左衛門・刑部を始めとしてありとあらゆるところを申し上げたのであった。なかんずく、今西弥五左衛門の奢り高ぶった様子、郡奉行・今村新兵衛の勤務振りが良くないことなぞをべらべらと申し上げたということだ。その後、磐城へ下る折、弥三郎の家督相続は問題なく認められ、郡奉行を拝命したが、内密には、大目付役を今まで通り務め、家老・用人を始めとして全ての役人の勤め振りとか、見聞したところを伊織へ伝えるよう仰せ付かったので、先役である三松金左衛門を差し置いて、傍若無人に振舞っていたということであった。また、大目付から弥三郎に密談がある場合は、側に居た人は皆注目したということであった。

(※島田理助を人の弱みにつけ込んで策謀を巡らす狡猾な人格の持ち主としている。ここで、郡奉行の先役として記載されている三松金左衛門は、後年の元文磐城百姓一揆当時は、用人にまで出世をしている人物であり、一揆の百姓からは、苛税取り立てで異例の出世をしたと憎まれて自宅を百姓たちによって打ち毀されている人物である。治部左衛門始めとして、この松賀騒動で勝ち組となった人物或いは子は元文百姓一揆で

は百姓から憎悪の対象となっている人物が目立つ。藩官僚としては有能であったかも知れないが、百姓一揆を起こされる為政者は政治家としては落第と目さざるを得ないと考える。少なくとも、松賀族之助、松賀正元、松賀伊織と松賀一族・一派が藩政を牛耳って(?)いた時には百姓一揆は起こっていない。松賀退治をした内藤治部左衛門一族・一派が藩政を担当していた時に藩を揺るがした元文百姓大一揆は起こってい

るのだ。)

 同日、昼過ぎから夜中までの間で、江戸へ上られた方々と下賜金は左記の通り。

 二十両 家老 内藤治部左衛門(※国家老、千二百石。元文百姓一揆では、その子が同

じ治部左衛門を名乗り、二千石の城代家老として悪政を敷いている)

 十五両 組頭 堀主馬(※七百石)

 十五両 組頭 穂鷹刑部(※国元城代でもあった。八百石)

 十両  用人 加藤兵右衛門(※四百石。この人は後年、御城のお堀で溺死している)

 五両  番頭 加藤勘ヶ由左衛門(※四百石)*大番頭

 五両  番頭 伊木安右衛門(三百石)*物頭

 五両  近習 内藤丹下(※百石。後の、舎人。治部左衛門の子供で、元文百姓一揆当時は兄の治部左衛              門と同じ家老で悪名が高い)

 五両  近習 久世与兵衛(※二百五十石)

 十両  中小姓頭 穂鷹大蔵(※穂鷹刑部の嫡子、三百石)

 五両  奏者 赤井喜兵衛(※三百石。元文百姓一揆時の用人で交渉役)*取次

 五両  奏者 近藤惣右衛門(※四百石)*取次

 五両  使番 半田新右衛門(※二百五十石)

 五両  使番 谷口安右衛門(※百五十石)*谷口安左衛門

 五両  使番 塚本運平(※百石。元文百姓一揆時は軍使として登場)*塚本雲平

 五両     塚本残之(※二百石)*割元 塚本織之

 五両  平士 岡本助太夫(※百石)*一番手取 岡村宇太夫

 五両  勘定頭 福島杢左衛門(※百五十石)*大勘定 福島杢右衛門

 五両  小姓組筆頭 阿波作野右衛門(※百石)*二ノ手 阿波竹左衛門

 三両  猪狩意伯(※十人扶持)

 高月様からは、使番・池内団次郎(*池田国次郎、下野殿御家老、二百石)・遠山軍八(*遠山軍平、近習、百石)が同行した。

(※*印は、「岩城九代記」に記載されている氏名と役職。この外、軍方・長瀬宅右衛門(百五十石)、萩野金平(百石)(※荻野金兵衛と思われる)、目付・佐伯団右衛門(百石)という者もこの時江戸に上った者として記録されている。総勢二十四名、全員の知行高総計は六千八百五十石という錚々たる中級以上の藩士集団であった。それぞれ、お供の者を引き連れての出府であったことは言うまでも無い。)

同日、国元磐城において、城内外の全ての役所に去年の冬から貼り出されていた張り紙が全て撤去された。下目付・小藤太勘左衛門がこの作業を行った。

 正月二十二日、去る十一日(※二十日の誤記)に国元を出発した方々が今夕、千住に着き宿を取った。

 それから、治部左衛門宅へ赴き、会合を持った。江戸藩邸の絵図を使用して相談し、待機する場所の手配などの詳細を詰めた。

 正月二十三日、朝八時に全員が上屋敷に着いた。内藤治部左衛門が裏門の門番に、わけがあるので、門の出入りを一切禁止とすることとすると申し渡しをした。長瀬宅右衛門は江戸詰めとなっており、一昨日二十一日に江戸に到着していたが、既に内意を受けており、すぐに荻野金兵衛を同道して裏門に出て、出入りを厳重に禁止していた。

 治部左衛門・刑部・主馬の三人は、直ちに安藤三郎兵衛の長屋に赴き、申し合わせをしたいことがある、と告げた。安藤は大いに驚いて、早速三人に同道して御前に罷り出た。

 一説では、この時松賀・島田弾劾に賛同しない様子であったが、家中一同が承知しており、連判状まで作成して江戸に上って来たのだ、貴殿が不承知とあらば、今回の行動に従わないということであり、松賀・島田と同罪であると見なすことにすると申し付けた。

 安藤、驚いて三人に同道することになったとのことである。

(※但し、安藤は今回の措置に不満を覚え、後日慰留されたにも関わらず、藩を去ること

となる。松賀・島田弾劾に反対だったのか、隠退していた高月様が政務に口出しを始めたことが筋違いであると思い、義憤を感じたのか、或いは、藩重役の一人である自分には何も知らされていなかったことに不満を感じて、藩を去ろうとしたのか、定かではないが。)

 二十二日、内藤丹下(※後、舎人と改名した。この人物は治部左衛門の実子で、この後、家老に昇進したが、後年の元文百姓一揆では、百姓頭取が死罪に処せられる時に、悪魔舎人にせめて一太刀、と悪魔呼ばわりされている人物である。)・久世与兵衛が御前へ参上し、永田孫助・磯江勝兵衛の二人を御前から退去させるよう申し上げた。

 同日、松平斎宮様が早速上屋敷にお越しになった。

 その後、伊織宅へ使者が遣わされ、磐城で大変な事態が起こり、治部左衛門・刑部その他大勢の家臣が江戸に上って来たので、早々に藩邸に罷り出るよう、促す安藤三郎兵衛の手紙を渡した。

 伊織がすぐに参上すると、溜之間で治部左衛門が高月様の思し召しにより、使者として参上した、藩法により、腰の物(刀)をお渡し願いたい、と申し渡すと、伊織は腰の物を渡すということは武士の一分が立たなくなる、と言った。

 しかし、谷口安右衛門が伊織に近寄り、腰の物を受け取った。治部左衛門は高月様の御意を申し渡そうとしたが、歯が抜けており、言葉がはっきりとしなかった。主馬が代わって、高月様御意の内容を申し渡すと共に、高月様の書付も渡して見せた。このことに関して、何か申し開きするところがあるか、と申し渡したところ、一言も申し開きも無かった。

 そこで、谷口安右衛門・塚本運平が伊織を引き立て、以前御坊主部屋として使っていた部屋に伊織を押し込めた。そして、日が暮れた頃、長屋に移した。

(※かつての同志、堀主馬から高月様からの罪状問い質しを受けた伊織の気持はいかばか

りであったろうか。)

 正元の屋敷は新網町にあった。昨日、細作(※隠密、忍びの者といった類)を遣わして、正元の動向を調べた。昨日二十二日は昼から遊廓に行き、二十三日午前十時に帰宅するとのことであったので、二十三日は朝の帰宅を見届けた細作より御屋敷へ注進があった。

 安藤三郎兵衛が足軽に手紙を持たせて、早急に藩邸に来るように申し渡した。

 迎えのために、若くて頑健な足軽を八人選んで遣わした。袷に股引き、草鞋と随分と身軽な出で立ちで向かわせ、正元が屋敷から出たら、駕籠の前後左右を取り囲むようにして藩邸に来ること、もし、正元が用向きを尋ねたら、その時は、磐城において百姓どもが夫役金のことで訴え出て、騒動になりかねず、それで磐城から大勢の者が江戸に上って来たということにせよ、また、路次において正元殿の身にどのような仕儀が起こるか判らないので、用心のためにこのように大勢がお迎えに遣わされたのだと申すことにせよ、それでも、ぐずぐずしているようであれば、召し取って駕籠に押し込んでも構わないと命じた。

 磐城から来た者も後から鎗を持って、三島町あたりに居たところ、正元は別に不審にも思わず、手紙を見て大いに驚き、早速駕籠に乗り込んだ。足軽八人が駕籠を取り囲むように歩き始めたので、磐城から来た者たちは安堵して、目立たないように駕籠の後から付いてきた。正元が御屋敷に参上したところ、御台笥之間において、治部左衛門が高月様から仰せつかったことを申し渡そうとしたが、歯が抜けた発音で曖昧であったため、主馬が代わりに伊織の時と同じように申し渡した。

 正元は高月様の糾明書に対して存念を申し立てたが、一つとして尤もだと思われるところは無かった。

 正元が言うには、私は風山様の御意に従って、冬玄院様・御弟分(※冬玄院様は四代藩主の義孝の法号、義孝は高月様の異母弟にあたる)が仰せ付けられたように、家督相続後の藩政は存念の通りに致すべしと仰せられましたのでそのように行いました、そして冬玄院様が亡くなられる折に言い残されたことは、自分が死んだら、早々に隠居して安楽に暮らせとの仰せでありましたので、早速隠居して見持ちを町人同然のようにして暮らしております、町人同然の暮らし振りでございますので、日頃の行跡の善し悪し云々に関してはご容赦あるべきかと思います、またその上、今は隠居の身であり、近年の藩政お仕置きに関して関わることは一切ございませんでしたが、去年の冬の半ば頃、藩財政がどうにも立ち行かなくなっているようだ、との相模守様(※老中の土屋政直。土屋左京亮陳直の父。娘が内藤義孝の正室で光安院)からの断ってのお頼みがございましたので、御意に叶うよう、考えられる方策全てを伊織に指図を致しましたまででございます、不忠の覚えは一切ございません、と言うので、高月様の御意にかなうべく、御不審の書付を示し、一項目ずつ申し開きをせよと申したところ、畏れ入り奉りますとのことであったので、半田新右衛門・岡村宇太夫が引き立てて、表長屋の大島半兵衛宅を空けさせて、正元を押し込めた。

(※伊織も正元も、現在の藩の最高権力者である高月様の意向であれば、もはや何を抗弁

  しても無駄と観念したのであろう。)

 正元が町人たちと出会って話していたことは、磐城平藩は私が相続すべきである、殿様はご妾腹であるから相続の資格は無い、従って、七万石は私の心次第である、と常々語っていたということだ。

(※正元の言葉は注目に値する。正元が言うには、義孝卒去の際、自分が死んだら、隠居

してのんびりと暮らせ、という義孝の言葉を守って(四十六歳で)隠居して、町人同様の気楽な暮らしを楽しんでいたところ、老中の土屋相模守政直から藩財政が困窮を極めているようだ、一つ御苦労だが藩財政の立て直しをやってみたらどうだ、と云う断ってのお頼みがあったので、いろいろと考えられる方策を伊織に示して財政立て直しに協力したまでで、高月様から糾弾されるようなことは一切していない、ということである。この観点から、高月様の弾劾書を読めば、表面上は、糾弾の対象となるところは現役家老の伊織であり、隠居の正元は普通は蚊帳の外となるはずである。但し、高月様派の真の狙いが藩財政改革を旗印に掲げた新法潰しということならば、伊織の黒幕となった正元も当然憎らしい存在であり、処罰の対象となる。高月様(本来ならば、第四代藩主となるはずだった下野守義英)にとって、伊織の祖父であり、正元の父である松賀族之助は自分の藩主就任を阻害した(?)憎悪すべき人物であり、怨念の対象であった。そして、族之助は十五、六年前に死んでいるが、藩主の父となり、大いに権勢を振るえる時期となって、松賀族之助の子孫を滅ぼすという機会が到来したのだ。そして、新法により、家中の藩士たちは困っている。この絶好の機会を見逃す手は無いだろう。こうして、松尾芭蕉の有力なパトロンであり、当代きっての優れた風雅な俳人・内藤露沾(義英の俳号)の怨念に満ちた復讐劇は自分の子供が藩主となる機会を得た時期から始まり、このように段々と完結に近付いていったのである。)

 伊織は表長屋にしつらえた部屋に夕暮れ時に押し込められた。伊織妻子並びに家来たちは、荒木内蔵助・平野惣左衛門・松賀忠七・大野団右衛門、とそれぞれ四人の親類をお預けとなり、普請奉行・今村八郎兵衛が早速大工を連れてやってきて、伊織の長屋の戸に釘を打ちつけて、出入りを禁止し、新網町の正元屋敷には大目付・渡部彦四郎が赴き、正元の妻と対面して火の用心をするよう、且つまた、家財道具に関しては持ち出さないように、そして、家来たちは謹慎して居るように言い渡した。

 伊織の実父・旗本杉田五左衛門の屋敷へは使者・相木市兵衛が遣わされ、松賀正元・伊織父子が不行跡を働いたこと、その上、藩政まで乱したことに対して、在所(磐城平)へ送られ蟄居処分という断が下された、という趣旨で口上を告げたが、当主の五左衛門はあいにく留守をしていて何の返答も無く、追って使いを以て返答しますとのことであった。

 閉門を仰せ付けられた者たちは左の通り。

 磯江勝兵衛

 永田孫助

 三田左介

 平沢林右衛門

 新井孫左衛門

 永尾左太夫は不審を持たれていたが、申し開きがお聞き届けられ、処分無し

 広中源左衛門 伊織が贔屓した新参者

 浅田武助   同右

 遠慮を仰せ付けられた者は左の通り

 平野惣右衛門 正元母方の従弟

 松賀忠七   正元父方の従弟

 荒木内蔵助  正元父方の従弟

 大野団右衛門 松賀族之助の苗字を貰った、正元の伯父分

 重野仲八   正元の妻の従弟

 白土源之助  磯野勝兵衛の従弟

 松本庄蔵   同右

 この外は略

 山本久左衛門という者が居た。伊織が面倒を見て、新知百五十石を与えられ、正月十五日に召し出され、勘定頭に命じられたが、この騒動の際は役所に居たが、騒動を聞いて取るものも取り合えず、御門まで出てみたものの、通行を許されず、追い返され、あたりをうろうろと歩いていたが、ようやく御門が開いたのを見計らって素早く走り出て町にある家へ帰り着いたということだ。翌日、免職となった。この者は杉田氏(伊織の実父)に出入りしていた浄瑠璃語りの者であったということだった。

 鈴木八郎・鈴木此右衛門の二人は伊織の付人で、伊織の表長屋に来て伊織の妻子の面倒とか、火の元用心、諸道具等の管理を命じられていたが、遠慮処分となった。

 同日(正月二十三日)、番頭・加藤勘ヶ由左衛門、使番・長谷川治兵衛、大目付・船木清左衛門の三人が御使として、正元・伊織父子が幽閉されている長屋に遣わされ、左の書付に基づいて仰せ渡しがなされた。

 松賀正元へ

 其の方は、隠居する前から甚だしく奢り高ぶり勤務振りも悪かったが、隠居してからも我儘で不埒である。御家のためにならないことを国元の家中一同が血判して申し立てたところ、下野守様においても思し召しに叶わない者であると仰せられた。

 従って、隠居料を召し上げて、国元で蟄居するよう仰せ付けるものとする

 松賀伊織へ

 其の方は、御用向きの件を藩重役と相談せず、独断で行ってきた。依って、家老のままにしておいたのでは御家のためにならず、且つまた、養父正元は家老であった時から段々と奢り高ぶり、勤務振りも悪くなり、隠居後も不埒なことを行っており、御家のためにならないことを国元の家中一同が血判を以て申し立てたところ、下野守様においても思し召しに叶わない者であると仰せられた。

従って、役儀知行を召し放ち、蟄居を仰せ付けるものである。

 右のことを申し渡したところ、正元が言うのには、妻子も不便でございます、私の親の族之助は御奉公大切に勤めてまいりました、そのことを宜しく思し召し戴き、何卒、妻子一緒に居させて下さいますようお願い致します、とのことであったと云う。

 これを聞いた人は皆、嘲笑したということである。

 同日の夕方、丹波守様・主殿頭様が駕籠で御屋敷に来られ、今回の経緯を聞いて驚いておっしゃるには、我等は備後守殿の後見をしているので、事の大小にかかわらず、早々に聞くこととしているが、特に、このようなことは尚更早々と知らされなければならないし、我等から指図を受けるべきことである。また、刑部は城代役であり、国元に居り、御城を大切に守るべきはずであるのに、その役目を放棄して江戸に上ったのは如何なものか、とおっしゃったので、刑部は、我等が江戸に上っても、国元には大勢の家中の者が残って居り、且つ一同の心は纏まっておりますので、国元磐城に関しては少しも気遣う必要はございません、と申し上げたので、主殿頭様は、まことに刑部の申す通りで、丹波守殿とか私の身上とは違い、磐城平藩の家中には侍が大勢居るので、刑部が江戸に来ても何の心配も無いものだな、と仰せられ、又、丹波守様もそれではもう、こちらの方は片付いたので、刑部・兵右衛門は明日早々に国元に帰り、国元の混乱を収めよ、と仰せられたので、刑部・兵右衛門の二人は畏まり、それでは、この件はお聞き届け戴けました上は、お二人の御墨付きを戴き、それを持参して帰国すれば家中の者も安堵致します、と申し上げたので、丹波守様もそれは尤もであると思し召して、早速左記のような御墨付きを自筆でしたためた。

 松賀正元・伊織父子は不届き者であり、今までのようであれば御家のためにならないので、家臣一同、血判を以て申し立てれば、備後守殿がお聞き届けなされる。我等も承知している。家中一同が御家の御為と考えているところは正当なところであるし、我等もそれには同意している。家中一同それぞれの持ち場を守り、備後守殿へも申し立てを行うように。そのように心得よ。以上

 享保四亥年正月二十三日 内藤丹波守(※政森、三十七歳、この時は安中藩主)

             内藤主殿頭(※政貞、三十五歳、湯長谷藩主)

 このような書付を刑部・兵右衛門に与えた。

 正月二十四日、二人は朝未明に江戸を発って、磐城へ下った。

 正月二十六日、江戸表、滞りなく一件落着した旨、飛脚便で国元に届いた。

 同日、島田理助宅へ、御使・松井茂兵衛、今村宮内右衛門、大目付・曽根忠左衛門が赴いた。先日、理助の親類、島田惣三郎、理助の妻の親類、丹羽太右衛門の二人に理助宅に来るよう、連絡があった。理助の聟、山本権左衛門は病気ということで、伯父の新五兵衛が御城に呼ばれ、妻への申し渡しを聞き、承知した。

 松井・今村・曽根の三使が赴き、惣三郎・太右衛門を同道して、島田父子を呼び、仰せ渡しを行った。その趣旨は、お尋ねがあるので、田町会所へ出頭せよ、と申し渡したところ、父子は畏まってその仰せを受け、藩法により脇差を取り上げ、網掛け駕籠に乗せて会所に護送した。道中、路次路次で見物人が夥しかった。そして、会所に到着し、父子は別々に座敷牢に入れられた。

 理助の家来、義兵衛は足軽が引き立てて、会所に連行し、理助の妻は聟の山本権左衛門へお預けとなり、丹羽太右衛門が同道して引き渡した。

 理助の男女奉公人に関しては、それぞれの主人が会所に呼び寄せられ、引き渡された。

 屋敷、家財道具は闕所(没収)となり、中根喜八・原田平次右衛門がこれを承った。

 理助は御用掛であったので、印判を取り上げようとして、鼻紙袋詮議(※意味不明)したが一切見当たらず、理助に尋ねたが知らないとのことだった。穿鑿が段々厳しくなっていったところ、若党の仙右衛門が隠していたことを白状し、二町目の牢舎に入牢を仰せ遣った。

 遠慮処分となった者たちは以下。

 磯江勝兵衛従弟  白土源兵衛

 磯江勝兵衛従弟  白土安兵衛

 同人姉の子で甥  渡部文内

 文内と同じ    近藤十右衛門

 同人姉の聟    松本三太夫

 孫右衛門のこと  新井音右衛門

 正月二十八日、暮れ時前、刑部・兵右衛門・大蔵が国元に帰って来た。

 正月二十九日、番頭・物頭が召集され、丹波守様・主殿頭様が下された書付を拝見し、家中一同安堵するようということで、その書付を披露され、全員が拝見した。

 正月三十日、夜の十時に正元父子が江戸から護送された。警固の者としては、近藤惣左衛門・半田新右衛門・塚本運平・阿波作野右衛門、そして伊織・付人として赤井杢助・谷口安右衛門が付き、全ての支配は福島杢左衛門が行った。徒士は八人で、二つの駕籠(網を被せた網掛駕籠であったと云う)に四人ずつ付き、高島友八・中沢半蔵・勢山武六・佐枝勝七・岩崎祐八・大脇林八、足軽小頭・小林八野右衛門、道中賄付並びに足軽十六人、使番二人、給人三十二人が正元父子の座敷牢の勤番を仰せ付けられ、昼夜十二人ずつ三交替で勤番を務め、夕方の四時に交替、足軽は昼夜十八人ずつ出た。

(※人数の明細がよく判らない。)

 二月四日、夕方四時に正元父子が磐城に着き、前もって拵えておいた桜町の御長屋の座敷牢に父子をすぐ入牢させた。

 理助下女の白状により、理助居宅の炉の七尺下から江戸と国元で取り交わした手紙及び帳面類が沢山出て来た。これらを御用部屋で調べた結果、今回の謀り事で随身した者が悉く判明した。

 一説では、江戸において正月二十三日に伊織長屋へ政樹公が入られる(※押し込められる、ということか?)ことになっていたとのことで、そのようになった場合はとても筆舌には尽くし難いことになっていた。そして、二十八日には伊織が国元に下り、その際、全ての役人を悉く罷免し、伊織父子に随身する者だけで固めるつもりであったとか、なお且つ、家中の方々を始め、昔からの役人の中で、正元父子並びに理助に日頃からおべっかを使っていない者たちを四十人以上浪人を申し付ける所存であったとか、且つまた、江戸において伊織父子の家財が闕所となったので調べたところ、御納戸とか御土蔵からの大切な物が伊織父子の家財の内に有ったという話もある。これは、上山左助、永田孫助、御土蔵奉行・芝田伝兵衛といった者がごまをするためにこっそりと横流しをしたのであろう。また、闕所の際、正元の妻が平野惣右衛門に申したことは、闕所になされ難い品物がございます、それは殿様がお召しになられていた御小袖一枚でございます、と。惣右衛門がそのことを御用部屋へ申し立て伺ったので、殿様へ申し上げたところ、正元自筆の墨絵の竹書ということで与えたものであり、持参してきたので、なるほどこのようなことであったのかと殿様はおっしゃっておられた。墨絵の竹と申した下心ははかり難きものであったと人は皆そのように評していた。

(※意味不明。竹書とは何か?)

 江戸において役替えとなった者たちは左記の通り。

 勘定頭吟味兼務  川名藤兵衛

 勘定頭米払い兼務 和田勘右衛門

 御賄役      飯野兵左衛門

 御土蔵奉行・芝田伝兵衛は御役召し上げの上、逼塞を仰せ付かる。この者は本来、正元が在役の時、若党として奉公をしていた者で段々と出世していった者である。

 その弟の松本理左衛門も御中間小頭として勤めていたが、これまた、遠慮処分となった。

 二月九日、野田彦助、先日逼塞を仰せ付かっていたが、処分解除となり、元の役に返り咲いた。山室五太夫・小浜清左衛門も遠慮処分が解除された。

 二月十四日の朝、今西弥五左衛門の中間、岩右衛門が自害した。薬王寺村の者であった。

 一説では、島田方から間人(※スパイ)として入っていた者と云う。どのようなことを言い付けられていたのかは知らないが、下女が白状して理助宅の炉の中から帳面書付等が出てきたということを聞いて、自殺したものであろう、ということであった。

 二月十七日、片山安右衛門が御役儀を召し放ちとなり、逼塞を仰せ付かれた。三使として、藁科太郎左衛門・加藤伊兵衛・曽根忠左衛門が赴いた。同人の親類も遠慮を仰せ付かった。片山紋右衛門・片山平蔵・片山喜惣兵衛といった者たちであった。

 同日、家中一同が登城した。今年の寸志金が免除となった旨、大書院において仰せ渡しになった。また、郷方・町方支配の奉行たちにも仰せ渡しがあり、この知らせは早速御触れとなって駆け巡り、人々は万歳を唱えて喜んだ。

 二月晦日、松賀正元父子に対して、御使・三友伊左衛門を以て、仰せ渡しがあった。

 その内容は、田町会所への蟄居という仰せ付きであり、罷り越すように、という仰せであったので、午後三時に会所へ入牢となった。これ以後、侍の勤番は無くなり、足軽が昼は常時四人、食事交代もあるので計八人で、夜中は八人ずつで勤番することとなった。小頭が一人ずつ付くので計二人となる。

 三月六日、大目付・小川半左衛門が正元父子の罪科を記した書付一通を杉平屋敷に持参し、伊織の家族共々家来たちにも読み聞かせ、松賀の家は断絶、家財は闕所(没収)となる旨の申し渡しがなされた。家族へは闕所役人から家屋敷・家財を引き渡して出ていく旨、また、家来たちにはそれぞれの道具は下されるので、屋敷から早々に退散せよとの申し渡しがなされた。

 家財闕所の役人は、福島杢左衛門・原田平次右衛門・中根喜八・大平勘右衛門であり、田町会所の役人は、秋山平七・高橋荘七で、下目付は鈴木藤蔵・小藤田勘右衛門等であった。家屋敷改めに関しては御普請方に仰せ付けがあり、小田源六がこれを承り、絵図に写した。間数は六十以上で、その綺麗なることは、万石以上の大名屋敷であると言っても言い過ぎではないほどであり、家財道具もまた然りで、その中には藩の御土蔵にあるべき御道具と思しきものも数多く見受けられたということである。器物・掛け物・屏風等、結構な品々が数限りなくあり、松賀族之助が家老の時、風山様(※三代藩主・義概のこと。高月様及び四代藩主・義孝の父で、風虎と云う俳号を有する風流人であった)の御寵愛に任せ、横領した品々である。その他、家中で媚び諂う輩より献上された道具も数限りなくあり、とても筆舌にも尽くし難いほどであったと喧伝されている。

 漸く、家財改めが終わり、藩財産として引き取られることとなったが、それは、十万石以上の大名の御道具と申しても言い過ぎではない、というほどであった。

 一説では、風山様ご生前の折は、春はお花見と称し、杉平屋敷の馬場に市場を拵えて、藩の御土蔵から結構な御道具を取り出してきて、市の店拵えを飾り立て、お花見が済んでもそのまま返さず、留め置き、風山様が卒去された時、御納戸役人から帳面を取り寄せると共に、御納戸金も悉く引き取り、その他、帳面の中で珍しい器物があれば、その器物を私物として帳面を書き改めたということである。又、義山様(※四代藩主・義孝)が卒去された時も、今度は正元が父の族之助と同じようなことをしたということであり、全てが万事、そのようであったという風評があった。今回の道具改めにより、人々はそれらの噂は本当であった、存じ当りがあると話していた。族之助の石高ではなかなか入手出来ない品々があったのである。族之助の妻の兄の平野治部が生前語っていたことには、前のご主君・松平大和守様十五万石の御道具よりも族之助が持っている道具の方が多い、ということであり、人々もそのように聞いたことは隠れも無いことであった。

(※お花見の時に疑似市場を拵えたという話は、徳川綱吉に仕えた柳沢吉保の逸話を思い出させる。柳沢吉保も綱吉の母の桂昌院を自宅にお迎えした時に、庭に賑やかな露店を幾つも設営し、桂昌院附きの女中たちが喜びそうな品々を一杯並べて、格安で販売したのか、無料で与えたのかは知らないが、歓待したという話が伝わっている。お附きの女中たちの喜びは主人である桂昌院の喜びとなり、母である桂昌院の喜びは、孝

行息子である綱吉の喜びとなる。柳沢吉保の株は益々上がり、愛いやつよ、となるのだ。義概に仕える族之助は、綱吉に仕える吉保と何やら似ている。そう言えば、吉保の子供の吉里は綱吉のご落胤ではないか、という俗説もあるやに聞いている。実は、義概と族之助の間にも同じような話が伝わっている。義概は長かった世子時代、小姓以来の寵臣である族之助の屋敷を頻繁に訪れたと云われており、その訪問の際、お泊

りすることも多く、接待に出た族之助の妻とつい、男女の関係になってしまい、どっちの子供か微妙なところであるが、出来た子供は内藤大蔵(大象という呼び名もあり)として内藤姓を与えられ、藩では最高の俸禄、二千五百石を与えられ、組頭に抜擢されたと云う話である。内藤大象という名前は藩士録にも記載されており、高録の組頭で実在したのは確実と思われるが、その正体は一切不明である。族之助はこの大蔵を

義概の嫡子として御家簒奪を図った悪家老として書かれている史書もあるが、一切は闇の中にある。内藤大蔵が若くして死んだことは確実であるが、その没年すら知られていない。義概の子供とするならば、義邦、高月様(義英)、大蔵、義孝(四代藩主)の順になる。義邦は生来病弱であり、四代藩主となる嗣子としては義英であったが、大蔵を嫡子としたい族之助はいろいろと画策、義概に讒言を重ねて、義英を中傷し、

藩主嗣子を失格させた。義英は廃嫡されたが、大蔵が夭折したので、結果的に、義概五十歳過ぎに生まれた孫のような義稠が四代藩主となった、という族之助悪人説で凝り固まった史書もある。正元・伊織父子がこの騒動で失脚し、松賀の家が断絶の憂き目に遭って、歴史上の敗者となった時に、族之助、大蔵に関する史料は故意に抹殺されたとしか思えない。後には、敗者=悪人、勧善懲悪説に基づいた捏造された悪評し

か残されていないのである。二千石の組頭・家老を務めた族之助、或いは、二千五百石の組頭筆頭を務めた内藤大蔵に関する史料は見事に抹消されている。誰が抹消させたのであろうか?)

 三月十一日、井上平兵衛が御留守居役を召し上げ、逼塞、御手判が出次第、早々に国元に下るべしとの仰せ付けがなされた。松賀・島田に随身した事が、炉中の文書にあったということだが、その内容に関しては知る者は居なかった。

 三月十八日、磐城において、荒木内蔵之助へ、松賀一族の親類につき、知行は召し上げとするが、伜の団右衛門へは新知百五十石を与えるという仰せ渡しがなされた。苗字を改姓すべしとの命により、樋口源右衛門と名を改めたが、後に、左衛門と改名した。

 同日、荒木平太夫へ、内蔵之助と同じ仰せ渡しがあった。伜の太郎助(※大之進という史料もあり)へは新知百五十石を下され、同時に、苗字を改姓すべしとの申し渡しもあり、加藤新右衛門と名を改めた。その後、小藤次と改名した。また、平太夫も六右衛門と名を改め、隠居を仰せ付けられた。

 内蔵之助一同への遠慮処分は解除された。古谷郷太夫・石川勘四郎・石原平馬・長谷川大七も同様の処分となった。平野新六には遠慮処分が仰せ付けられ、三使として、伊木安左衛門・加藤伊兵衛・曽根忠左衛門が赴いた。


 同日、逼塞を仰せ付けられた者たちは、左記。

 川路九太夫 松賀に随身により逼塞

   三使は、藁科太郎左衛門、長谷川治兵衛、小川半左衛門

 中村喜兵衛 島田に荷担により逼塞 (※中根喜兵衛とする史書もあり)

   三使は、南与次右衛門、稲垣穂左衛門、曽根忠左衛門

 渡部喜祖右衛門 松賀付人で、川路九太夫と同じく逼塞 (※喜三右衛門の説もあり)

 遠慮を仰せ付けられた者たちは、左記。

 丹羽太右衛門 島田に随身により御役召し上げの上、遠慮

   三使は、今村仁兵衛、谷川安右衛門、小川半左衛門

 猪狩半六 理助と懇意にして立身した者 逼塞 (※鈴木半六という説もあり)

 福島金助 九太夫の付人で会所の下目付 逼塞 (※福島合助という説もあり)

 鈴木類右衛門 理助の付人で物書き 遠慮

 中村長蔵 喜兵衛の伜 遠慮


 右の者たちはいずれも伊織の箪笥の中から出てきた手紙、且つまた、理助の炉中の書付で、隠し目付の一味の品々が表面に出て判明した。お手当があったとか。

 同日、山沢番(伴)右衛門、御証文の月日了簡に書き改めるといった不調法を以て、昨年の冬から閉門を仰せ付かっていたが、御役儀は召し上げとなったが、閉門は解かれた。

 片寄伝五右衛門も伴右衛門が月日を書き改めたことを知りながらそのままにしていたということで閉門になっていたが、気の毒に思し召されて、御役御免となっていたのを元の役儀に戻された。

 同日、小名浜奉行・喜多新左衛門、先だってより病気にかかり勤務できないで居たので、下郡役から仮役として赤坂金兵衛が勤めていたが、今日山室五太夫を小名奉行代官にして勤めるよう、仰せ付けがあった。中根喜八に下郡役、仰せ付けあり。

 三月二十六日朝、江戸から飛脚が着いた。昼頃、物頭・南与次右衛門・近藤八郎右衛門・佐久間藤右衛門、軍使・長谷川大七・塚本運平・加藤伊兵衛が召されて、御用部屋において、仰せ渡しがあったが、その内容と言うのは、左の通りであった。

 明日二十七日、島田理助父子に切腹、同人若党・義兵衛・仙右衛門に打首を仰せ付けられるので、各検使を仰せ付けられる。

 三月二十七日早朝、若党・仙右衛門が曲田川原で打首・三日曝しとなった。検使は南与次右衛門・長谷川大七、立会は小川半左衛門。

 同日、午後四時過ぎ、島田理助が切腹、介錯は荻野金兵衛、検使は近藤八郎右衛門・塚本運平・小川半左衛門。

 同刻、島田源五右衛門切腹、介錯は勝島十右衛門、検使は佐久間藤右衛門・加藤伊兵衛・小川半左衛門。

検使、介錯の者たちは午後四時前に赴いた。時刻がきたので、八郎右衛門が書付を以て、理助へ仰せ渡しの内容を申し渡した。理助が思うところを言いたい様子であると見受けられたが、八郎右衛門がそこを退くと、その後へ荻野金兵衛が罷り出て、介錯を仰せ付かりましたと言うと、理助が申すには、日頃心安くしているので、介錯を仰せ付かったとのこと、大慶に存じております、私は年寄りですので十分思うようには出来ないと思いますが、宜しくお頼み申し上げますと荻野金兵衛に一礼した。それから、勝島十右衛門に向い、伜の介錯を仰せ付かり、御大儀に存じております、伜は若輩者でございますので、万事宜しくお頼みしますと申した。場所は土蔵の前で、畳を敷き、その上に蒲団を敷いていたのであるが、理助は蒲団を引き外して、畳の上に座り、検使の者たちに一礼し、思うところを声高に申した。その言葉ははっきりとしており、顔色は平生であり特に変わったところは無かった。誠に、松賀随一の頭取であり、悪逆無双の曲者なり。検使の者たちが、ご自分は重い御役儀を勤めた身であるから、この場に至ってはとやかく申し上げることは無いことと存ずる、また、この度のことは重い罪であるから、打首もありうるところであったが、御慈悲を以て士法(切腹)を仰せ付けられたのだ、と申すと、理助は有り難いことと思っております、ということであった。そして、有り難く存じ奉り候と申しながら、三方さんぼうに手を掛けるべく、手を伸ばしたところを金兵衛が首を打ち落とした。当然のことながら、理助と源五右衛門の切腹の場は芝垣で仕切ってあった。源五右衛門の切腹も検使へ一礼した上で、勝島に向き直り、御大儀でございます、と申して切腹した。その後で、理助の若党・義兵衛が引き立てられて打首となった。中根喜八・横田平次右衛門が死骸の始末をした。

 かねてから、島田惣三郎・山本権左衛門から願いが出ていたので、理助父子の死骸は二人に下され、中間に大館まで運ばせ、長興寺に二人を葬った。

(※この時、島田理助父子に言い渡された罪状文は以下の内容であった。

  松賀正元・伊織は自分だけの考えを他の者に押し付けて振る舞った結果、御家を危う

くした。このままではいけないと思い、家中一同が下野守様にこの旨を訴えたところ、お聞き届けされた。この件はご公儀にも届けて了解を得ている。松賀父子は牢入りを命ぜられ、その他の者に関しては罪の軽重に応じた処分を仰せ付けられるものである。

 その方は松賀父子を唆した張本人であり、その罪は軽いものでは無い。また、闕所となった住居の囲炉裏の底に隠した物置の中から見つかった文書でも、正元父子宛にいろいろと手紙を出していたことが判明した。士道にもとる極めて重い罪であり、打首にも価する罪であるが、ご容赦をもって、切腹を仰せ付けるものである。伜の源五右衛門も親の罪は免れるものではなく同様に切腹を仰せ付ける。)

 三月二十八日、井出弥三郎に島田理助一味の者どもに関してお尋ねの時、返答が不届きであったとして先般逼塞を仰せ付けられていたが、この上の急度(※急度慎、きっとつつしみ。重い謹慎のこと)の仰せ付けもあり得たが、御容赦されて、奉公一円御構(※おかまえ。所払いで領内立ち入り禁止処分)・永の御暇を下されることとなり、他領と雖も、御領内近くに住むこと禁止、という申し渡しになった。伜の織右衛門も同様の処分となり、三使として、土方与十郎・村田新五兵衛・小川半左衛門が赴いた。但し、弥三郎の弟の井出伴右衛門は遠慮を仰せ付かっていたが、本日解除され、苗字を改姓せよと仰せ付かり、浅利伴右衛門と名を改めた。片山喜右衛門には島田理助に随身し、その上、伊織とも通じており、不届き至極であるとして、急度を仰せ付かるところ、御容赦を以て、奉公一円御構、永の御暇を下され、他領と雖も御領内近くに住むこと禁止、という仰せ付けになった。三使として、藁科太郎左衛門・加藤伊兵衛・小川半左衛門が赴いた。

 同日、川路九太夫に、松賀伊織・島田理助へ随身していたことにより、先般逼塞を仰せ付けられていたが、伊織へ出した神文は不届きであると思し召されて、永の御暇を下され、奉公は御三家・御老中・御役人、こちらの御一門様方へ御構となされて、他領と雖も、御領内近くへ住むこと禁止という仰せ付けになった。三使としては、片山喜右衛門と同じ。

 同日、右に書いた者の外に有罪となった者は、猪狩半六・鈴木類右衛門・福島郷助で、この三人は島田荷担により、永の御暇を下され、早速立ち退くよう命ぜられ、他領と雖も、御領内近くに住むことを禁止するという仰せ付けが下された。

 同日、島田惣三郎へ、同姓の理助は極悪の罪を免れず切腹を申し付けられた、その方は理助の本家ではあるが、数代の長きにわたって御奉公をしているので、その点を考慮して、苗字を変えれば、今まで通り、遠慮処分のままとする、と仰せ付けがあったが、後日、五十石減じて、二百石とし、名も小曽戸七右衛門と改めた。

 中村茂(喜)兵衛は、島田理助へ荷担していたことにより、先般逼塞を仰せ付飼っていたが、御容赦を以て、切米を減じて、五十俵とし、伜の長蔵へ下されていた御宛介を召し上げとなったが、今まで通り、勘定所へは長蔵に罷り出るよう仰せがあった。

 丹波太右衛門は、島田へ随身していたので、先般遠慮を仰せ付かっていたが、御容赦を以て、二十石減じて、五十石下されることとなったが、自分遠慮はそのままとなった。

 西田権右衛門は、島田荷担ということで、去年下された加増の十俵は召し上げとし、御代官役も罷免され、謹慎するよう仰せ付けがなされた。

 小松治左衛門は、去年の秋に島田理助一同が江戸へ上り、その後加増、御役儀を仰せ付かっていたが、理助の贔屓によるものであり、加増の七俵は召し上げ、御代官も罷免され、勤めの件は後日の仰せ付けとし、それまでは自分遠慮で居よという仰せであった。

 景山四郎右衛門は御用部屋へ召され、去年の秋半ばに島田理助と知り合い、江戸へ一同揃って上りはしたが、理助には随身しなかったと聞いている、そして、逼塞中は御用の頭取というわけでも無いし、末端の御用であるにもかかわらず、帳面等を記帳し続けたということは、役儀を重く考えているということであり、帳面仕立て方もかくあるべきか、この度は御容赦とするので、今後は御役儀を入念万端に心を込めて勤めるよう、にと仰せ付けられた。

 国元の諸士の内で、血判誓詞を以て、御家老まで一筆書いて差し上げた者は左の通り。


 松賀正元・伊織が、自分だけの考えを押し付け、御厚恩を忘れ、不忠不行跡を尽くし、御家を危うくしたことを私たちが嘆いておりましたところ、下野守様がお聞き届けになり、松賀父子の横暴を取り鎮められましたことを、私たちはありがたいものと思っております。 

 それで、この度私たち家臣一同は、これ以後不義不行跡によって御厚恩を忘れるようなことがございましたならば、ほんのささいなことであろうとも重く考え、どのような罪であろうとも受ける覚悟でございます。そのことを、家臣一同この誓詞に書き、子孫に伝え、志を不変のものとし、忠義に励む所存でおります。もし、今回署名した私たちの中で、不忠の者が居れば、必ず言上することと致し、御威光を以て取り鎮めるようにして戴きたく、右の通り、申し合わせを致しました以上は、この国の八百万の神々に誓って違反することはございません。以上

 享保四巳亥年三月

 塚本残之種(恒)重

 今村新兵衛安光

 原文右衛門種重

 近藤惣左衛門長俊

 伊木安右衛門常房

 塚本運平長貞

 塩川介之允勝快

 加藤文右衛門直信

 塚本志兵衛恒忠

 福島杢左衛門重種

 谷(口)安右衛門正道

 阿波作野右衛門正晴

 赤井杢助季弘

 加藤六郎兵衛友之

 村上勘助正季

 藁谷太兵衛久慶

 池内弾次郎英成

 半田新右衛門忠道

 三友太兵衛長之

 村田新五兵衛正之

 近藤八郎右衛門猛敏

 杉山次郎七知之

 杉山嘉兵衛知定

 岡村宇太夫武徳

 今西広右衛門正加

 荻野金兵衛修

 加藤勘解由左衛門正清

 谷口新蔵正信

 加藤源五右衛門員影(顕)

 久世与兵衛正昆

 久世億右衛門武延

 長瀬宅右衛門元直

 長瀬宇平元之

 加藤助之亟友秀

 内藤舎人政峯


 内藤治部左衛門殿

 穂鷹刑部殿

 堀主馬殿

 右の通り、一同本誓詞連判を差し上げますので、お取り上げ戴きたく。


 三月二十三日、江戸において、永の御暇を下された者たちは、左記の通り。

 磯江勝兵衛

 永田孫助

 上山左助

 田村権右衛門

 新井孫左衛門

 芝田伝兵衛

 中村順庵

 茂野甚七

 鈴木八郎

 鈴木此右衛門

 平沢林右衛門

 右のいずれの者も、御三家様・御老中様・御役人様方、当家・御一門様方、への御奉公は御構と致した。 右の内で、中村順庵に関しては一円奉公・御構である。


 江戸において、左記の通り、役替えがあった。

 御留守居役へ復職 宇野与太夫

 日記役を罷免し、御広間勤めへ 白土弥兵衛

 御側勤めを罷免 本谷隼太

 御側勤めを罷免 茂野仲八

 御側勤めを罷免 斎藤苫右衛門

 御側勤めを罷免 長谷川秀七

 日記役へ復職  三友団右衛門


 四月一日、国元磐城において、役替えがあった。

 御勘定頭 藁谷太兵衛

 御賄   猪狩滝右衛門

 御賄   長瀬太左衛門

 同日、井上平兵衛が家族を連れて国元に戻ってきた。

 下郡役に復職 遠藤嘉左衛門

 嘉左衛門後の御鳥部屋へ 大橋左七

 山奉行は今後、郡方支配となる。御代官に仰せ付けられた。(この所が闕文となっている。)

 四月二十三日、江戸において、大野団右衛門が永の御暇となり、御構も藩法の通りとなった。

 四月二十六日、井上平兵衛が知行召し上げとなり、新しく二十人扶持を下され、遠慮を解除された。御使としては、三友伊左衛門が赴いた。

 同日、松賀正元父子の子供四人が平野惣左衛門が同行して国元に着いた。正元の子供、弥五郎五歳、久米之助四歳、求馬三歳で、伊織の子供は造酒之允二歳であった。道中警固として、徒士・駒木根幸右衛門並びに足軽十人が付き添った。そして、平野惣右衛門へ二人ずつお預けとなった。

 四月二十七日、堀主馬が国元に戻ってきた。

 五月一日、国元において、役替えが行われた。その者たちは左記の通り。

 御旗奉行  松井茂兵衛

 御持筒頭  加藤又左衛門

 御持筒頭  鈴木安左衛門

 御持長柄頭 原文左衛門

 御長柄頭  近藤惣左衛門

 御物頭   赤井杢助

 町奉行   加藤嘉右衛門

 寺社奉行  半田新左衛門

 御使番   末永浅右衛門

 御金奉行  片山喜祖右衛門

 御代官   斎木(藤)七兵衛

 御代官   芳賀四郎次

 御代官   鵜沼甚平

 御代官   小林七右衛門

 御代官   大友勘太夫

 江戸御書役 村上弥七


 八月、安藤三郎兵衛父子が願いにより、永の御暇となった。御構は藩法の通りである。

 三郎兵衛の知行は四百五十石で、嫡子は部屋住みであったが御取次を勤めて十人扶持・金十両のお手当を、次男は四人扶持・金十両を戴き、御側中小姓を勤めていたが、正元父子への荷担の疑惑に関して申し開きが出来ず、家中の取沙汰も悪かった。また、殿様の家督相続前に百石の加増を拝領していたこともあり、役儀に関しては問題は無かったが、先般から御暇願いを出しており、今回、父子共に御暇を戴いた。

 九月九日、国元において、家老・組頭・年寄・用人が大書院に出席の上で、御條目が仰せ出された。家中の者は残らず出席する中で、穂鷹刑部が途中でこのような演説を行った。

殿様の家督相続以後で御條目の仰せ出が無かったので、今回、仰せ出があり、追加するところもあったので、御條目の主旨をしっかりと守るよう申し渡すものである、殿様御意の趣旨は江戸藩邸から申し来たっており、且つ又、去年仰せ出された御條目は、正元父子たちが差し出したものであるからこれを廃棄するように仰せ出があったことを申し渡すこととする。その後で、御祐筆の渡部六郎右衛門が新しい御條目を読み上げ、柳井孫右衛門が追加の御條目を読み上げた。家中一同、承知した。

江戸において、長坂平左衛門・久米八左衛門の二人が願いにより、昨年秋半ばに拝領した加増五十俵をそれぞれお返しした。

 九月二十六日、松賀正元が牢内で病死した。先月中旬より病気に罹り、黒川養的、その後、沢田春庵が、最後には松下養元が治療を施していた。従弟の平野新六・平野惣右衛門へ大目付・曽根忠左衛門が立ち合い、確認して引き取らせた。谷川瀬村の真浄寺に葬った。

 金二両、下された。享年五十一歳であった。

 正元父子が横領した額は左の通り。

 本知 二千石

 正元が部屋住みの頃の知行 神谷作村にあって、三百石

 伊織が部屋住みの頃の知行 三百石 但し、実高は七百石の所であった

 右の分は残らず、伊織が相続した。(※実高は三千石であったということか?)

 正元の母、清明院の知行 百五十石 (※族之助の妻と思われる)

 正元母の妹、お熊の知行 百五十石 (※どういうことであろうか?)

 この三百石は、両人の死後、正元が直ちに自分のものにした。

 外、下神谷村、(原)高野(村)に、下屋敷を拝領し、ここに新田を耕し、二百石ほどの収穫が見込める農地にした。去年、理助と相談して藩に差し上げる形にしてから、新知五百石として拝領した。

伊織は、江戸詰め役料として金二百両、江戸での扶持として五十人扶持、種貸しの利息籾として毎年九百俵を受け取っていた。

 正元は隠居料として五百石、籾五十俵受け取り、且つ江戸扶持として三十人扶持を得ていた。

 右の外、年々江戸米を三百俵・四百俵ずつ、必要だということで受け取っていたと云う。

 現金に関しては、どれほど持っていたのか見当も付かないということであった。

(※お熊の知行の件が気になる。族之助の妻の場合は、未亡人となった段階で、族之助の功績に報いる形で知行を与えるというのは判るが、妻の妹に同じ知行を与えるというのは普通の感覚では理解出来ない。しかも、百五十石というのは藩の中級武士の俸禄に匹敵する石高である。むらむらと、大胆な仮説を提起したくなる。ひょっとすると、お熊は義概の隠れた愛人だったのかも知れない。族之助の妻の実の妹であったかどうかは別にして、義概が京の公家の娘である三条氏を継室に迎えるにあたって、名門の後妻に遠慮して、それまでの愛人を族之助の屋敷に移したのではないだろうか。と、同時に、その後、族之助の屋敷に通う中で、その愛人、お熊が生んだ子供・大蔵も族之助に養育させていたのではないか。それは、秘密とされ、お熊の存在も秘密とされ、表向きは族之助の妻が大蔵を生み、族之助が殿様の子供として大事に育てていると云うきな臭い噂話に繋がっていったのではないだろうか。その後、三条氏にも入輿後、八年して子供が生まれ、四代目を継ぐ義孝となるのである。義概の長男の義邦は病身で二十九歳で亡くなるが、その時、義概は四十七歳、次男の義英は十一歳、大蔵は三歳で、義孝が生まれるのは四年後である。一方、族之助は何歳であったろうか。記録は何も残されてはいない。族之助の子供の正元だけは没年が判っており、その時の享

年も史書に記載されている。その享年から割り出して行くと、生年は義孝と同じ頃になる。義概が卒去し、義孝が四代目を襲った時は十七歳の時であった。族之助は円熟した家老であったろうし、族之助の子供・正元も同年の十七歳ということで主従の隔てはあるものの、小さい頃からの遊び友達であっただろう。族之助が死んだ時、義孝と正元は三十四歳の壮年期の男盛り、そして、義孝が四十四歳で卒去した時、何を考えたのか判然としないが、正元の話に依れば、正元に自分が死んだ後はすぐに隠居するように勧めたということだ。その義孝の忠告に従い、正元は五代藩主・義稠が十六歳となるのを待って、二年後、四十六歳で隠居した。その時まで、伊織と名乗っていたのを正元と改名し、伊織という名前は養子の織部に譲ったのである。高月様・義英は六十歳になっていた。或いは、義孝は時折、松賀族之助の話になると眉を曇らせる異母兄の義英の姿に、自分亡き後の正元の暗い運命を感じていたのかも知れない。それが、正元に早い隠居を勧めた理由の一つかも知れない。義孝の予感は的中し、正元は五十一歳という若さで牢死することとなった。)

 義稠公が卒去された後、女中(愛妾という意味か?)が江戸へ帰られる時、正元は常州の千住へ迎えの者を出して、直ちに引き取った。これには深い思惑があった。詳しく言えば、正元の次男の久米之助は三歳であるが、無紋の小袖を着せて、光安院様(義孝夫人で義稠の母)の御殿へ連れて行き、円山様(義稠の法号)の御妾腹の御子様でございます、義稠様が卒去される三年前から私の家にお預けになられ、これまで大切に御養育してまいりました、この通りご成長されました、と涙を流して申し上げたという噂もある。

(※この話も、族之助時代の内藤大蔵の話と似ている。御家騒動でよくある話である。いずれにしても、権力争いで敗れた者に関しては、勝者は好き勝手なことを言える立場になるのだ。正元が義稠を毒殺したとか、政樹に毒饅頭を献上したとか、松賀は悪で、君側の奸であり、その松賀退治をした義英は正義の味方であるといった論調で史書・噂は残ることとなる。ただ、この松賀騒動の後、十九年後に起こった元文磐城百姓一揆の事を私たちは忘れてはならない。松賀騒動で松賀父子・島田父子を退治した(?)内藤治部左衛門の二人の子はこの百姓一揆では藩主・政樹に苛税を勧めた張本人となった。また、この松賀騒動で勝ち組となった者の多くは藩官僚として苛税徴収を推進し、百姓の怨差の的となった。そして、内藤藩としては、この一揆の責任を取らされたのか、一揆の九年後、国替えとなり、九州の延岡に移封される。移封の距離としては、江戸時代を通して最長の距離だそうだ。藩を危うくしたのは、内藤治部左衛門を始めとする松賀騒動の勝ち組であったことは歴史の皮肉としか言いようが無い。或いは、歴史の必然であったのかも知れない。為政者が自らを律せず、百姓からの搾取を強化し続けた報いが稀に見る全藩大一揆を引き起こしたのであるから。但し、内藤露沾・義英は幸福であった。この一揆を見ることなく、一揆の五年前に義英は七十九歳の天寿を全うして、高月の地で、藩主の父として尊敬されながら亡くなっている。)

 正元の屋敷内には女が四十人以上居り、妻の外、妾が六人居た。踊り子の装束、白綸子の小袖が四十枚、墨白(足袋のことか?)の袋四十(本書の通り)太刀脇差二十通、三味線二十挺、鬘帽子・色小袖・今織類、全て狂言道具四座の芝居も及ばぬほどの結構な品々であったと云うことである。正元の妻へその道具は下された上で、伯父の諏訪藤太夫へ引き取らせた。妾腹の娘には金子を添えてその母に引き取らせた。


 享保九辰年(一七二四年)、松賀伊織が牢内で病死した。

 享保二酉年、右京亮義稠公が家督を相続されて、享保九辰年までの八年の治世である。

(※この文章は明らかに誤記である。義稠が第五代の家督を相続したのは正徳二年[一七一二年]であり、卒去したのは享保三年[一七一八年]である。)

(※松賀正元・伊織父子の見事な悪人振りを記述して、この松賀治逆記は終わっている。

 畢竟、勝者の歴史、ということであろうか。義英を盟主と仰ぐ「守旧派」と伊織・理助が主導した「改革派」の闘争であったと考えているが、如何なものか。しかし、それにしても、理助父子の切腹の場面の態度は見事であったとしか言いようがない。「誠に、松賀随一の頭取であり、悪逆無双の曲者なり」、と書いたこの松賀治逆記の筆者も、敵ながら天晴れ、と思っていたに違いない。)


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