10 逃走
「ああああああああああああああああああ!」
「痛いだろ? この痛みをイースは味わったんだ」
「俺は、俺は何もしていない、本当だ……助けてくれ」
痛みがクズの思考を鈍らせる。しかしクズは涙と鼻水を流しながらも、懇願するような弱々しい声で嘘をついた。
「そうか、それは悪かったな。おい妖精、あの女と交わした契約書を作れ、そして見せろ。嘘をついたらわかるな?」
「はいなの! はいなの!」
フェアが作った契約書はまったく同じだった。それをすべてセイギは読んでいた。
腕が、俺の腕が。……でも生きてやる! 生き残ってやる。しかしまさか俺は契約を交わさせられるのか? あの奴隷契約を交わしたりなんかしたら。
「おいクズ、契約を交わせ」
「いやだ! 誰がそんな契約なん――」
セイギはなんのためらいもなく、容赦もなくクズの目玉をくり抜く。
「ああああああああああああああああああ!」
「はやくしろ、次は耳だ、聞こえなくなる前に決めるんだな」
言いながらもクズの耳を引きちぎる。
あああああああああああ! 痛い痛い痛い痛い。無理だ耐えられない。
「ぐぅがぁががが、わかった! わかったからやめてくれ!」
クズが契約を交わしたのを見るとセイギは冷淡な声で命令する。
「……逃げろ、捕まらないようにな」
「は?」
こいつは今なんて言ったんだ? 俺は助かるのか?
いきなりこの拷問から解放されたクズは、考えがまとまる前に窓から放り投げられた。体が宙に浮き、視線の先には地面。二階の宿、顔から落ちたら、当たり所が悪ければ死んでしまう。咄嗟に両手で顔を守る。着地は成功したのだろう。左半身から地面に落ちた。
「痛い……痛い……クソックソックソッ!」
引きちぎられた左手から鈍い音がした、地面には血が滝のように流れ落ちる。クズは立ち上がった、しかし左足に鈍い痛みが走る、おそらく捻挫でもしたのだろう。しかしクズはそれでも走る、森に向かって。
逃げてやる逃げ切ってやる、逃げて逃げてあいつの命令が届かいなところまで!
本来逃げるなんて行為は反逆に相等するだろう、しかしこれは逃げると言う命令だ。故にクズは契約違反をしたわけではない。
クズは腰に下げている道具袋の中から止血薬と痛み止めを取り出し飲み込んだ、それと同時にナイフが取られていないことにも確認する。止血薬はこの世界で優秀な道具だ、血小板がすぐに固まり出血多量で死ぬことは少ない、もちろん飲めたらの話だが。
村から抜け出す前に男の子が一人歩いていた。友達の家からの帰りか、はたまた親のおつかいか。その子の手を無理やり引っ張り森の方角へ駆ける。
「ママー!」
「うるせぇ黙ってろ!」
クズが手を離しナイフを突きつける。子供でも理解できるだろう、片方の目も耳も手もない血だらけの人物が自分にナイフを突きつけ黙っていろと言うのだ、従わないと殺されると。涙を流す暇さえなく男の子は連れて行かれる。森の中へと。
しばらく走ると声が聞こえる、笑い声だ。
「にゃはははは」
クズが首だけで後ろを振り返ると猫耳の幼女が迫ってきている。クズは自分の奴隷、イースが言った言葉を思い出した。
狼男には勝てない、あれじゃないよな? 狼男とは違うよな?
狼男はこの辺りでもっとも強く危険なモンスター、襲われれば死は免れないと。続けていっていた。そして同時に思い出す、セイギの言っていた言葉、『逃げろ、捕まらないように』
あの化物が飼っているモンスターなのか!? そうだ、きっとそうだ、ブルファイターを一瞬で消し飛ばした奴と一緒に居る奴がまともな訳はない!
クズは足を止め、完全にモンスターに向かって立つ。
「それ以上近づいたらこのガキを殺すぞ!」
クズは子供の首にナイフを突きつけモンスターに言い放った。
このまま逃げても絶対に追いつかれる、子供を手放して速度を上げたとしても絶対にだ。
それはモンスターの走っている速度から容易に想像できた。これは賭けだったモンスターがこんな言葉で止まることなんてない、本心ではわかっていたが生き残るにはこれしかなかった。
頼む、止まってくれ、とクズは祈っていた、最後の希望に賭けて。
「にゃ? ん~、わかったにゃ」
モンスターの足は止まった。そして木の裏側、草の茂みに姿を隠し消えた。モンスターは優しかった、クズよりも人間らしい行動をする。と思った。
助かったのか?
クズは安堵した、そしてまた走り出す、目的地など決めていないとにかく逃げ切りたかった、闇雲にただ森の中を走る。
するとまた声が聞こえてくる。
「にゃはははは」
それは左の草むらから。
「にゃはははは!」
次は斜め右後ろから。
「にゃははははははははは!」
次は右前から。声の出処はだんだんと狭まってくる気がする、子供を挟んで空いていたくらいの距離から徐々に徐々に、と。
モンスターの笑い声はひどく陽気で明るく感じられた。もしかしたら陽気な声色で子供を元気づけようと笑っているのかもしれない、先ほど言われた通りにこれ以上近づいては来ないのかもしれない、しかしだんだんと距離が詰まっている気がしてならなかった。
少しづつ自分の命が削られていく、そんな感覚がする。何処からかわからない声の出処、だんだんと縮まっていく距離。
あのモンスターは……俺で遊んでいるんだ。
クズは死への絶望を感じていた。絶望にもっとも近い恐怖かも知れない。それを必死に耐えながら逃げる。もうそれは狩りをする側と狩られる側だった。
そしてクズが木々の間を抜けたとき一匹の子犬がいた。
「うわぁあああああああああああああああああ!」
あの犬だ! あの草原で見た犬だ!
それはクズが草原で出会った子犬に似ていた。
クズは子供の手を離して全力で逃げる、自身の持てる全力でただ闇雲に走った。
残された子供の手をモンスターはニパッと笑いながら取った。
「村に帰るにゃ!」
「う、うん。ありがとう!」
子供にはモンスターが優しく感じられたのかもしれない。いや、ただのアホっぽい顔をした猫に見えたかもしれない。『にゃ?』だったり『にゃはは』だったりと明るく笑う馬鹿な猫に。
「でもなんでさっきのお兄さんは子犬なんて見て叫んだんだろう?」
「馬鹿なんじゃにゃいかにゃ?」
ネコは子供の手を引いて歩きながら笑った。この辺りには、人を襲うモンスターは絶対にいないと確信したような笑いだった。
クズは森を抜けた、
助かった、俺は助かったんだ、逃げ切ってやったぞ!
そしてそこは見覚えのある場所だった、ネコの恐怖に追われ走り回っている間に村の方角へと戻ってきたのだ。
森を抜ける前にセイギが待っていた。
「あの猫は狩りもできないのか、俺の前に連れて来いといったんだがな。そして時間だ。……予定は変わったがお前は俺に捕まったということだ」
クズが踵を返し森の中へ逃げ出そうとすると、足が吹き飛んだ。そしてセイギがゆっくりと歩きクズの肩に手を置いた。
「……な、そん……な」
クズはここで気がついた、自分を逃がす気なんてまったくなかったということを。
「なんだ、その顔は? 少し実験がしたくてな、お前の行動のおかげでネコの扱い方を決めたよ」
「助けて……下さい」
「一つ教えてやろう、人は生きている限り無数の選択肢がある。幼児の頃は親の言ったこと先生の言った事を聞いていれば間違いないのかもしれない。でも絶対じゃない。自分で何が正しくて、何をするべきか、それによって将来何が起こるか、考えて判断して後悔のない選択を選び続けるしかない。それが大人と子供の違いだ、お前はそれを間違えたんだ。体だけ成長しても意味なんてない。クソガキ、来世でいかせ。……さて、自害しろ、命令だ」
自殺しないと、永遠の苦痛、死ぬよりも恐ろしいこと……。
フェアが言っていたことを思い出した。もう逃げられない事を悟り、頭の中がグルグルと思考で埋め尽くされていった。
クズは腰につけていたナイフを抜き、一旦深呼吸した後残っている目を瞑り、意を決して自分の喉元にナイフを突き立てた。……突き立てようとしたがそのナイフをセイギ掴んでいる。血などまったく出ていない。
「死ねないなぁ、どうする?」
はやく、はやく死なないと地獄が……。
頭の中はどうやって死ぬか、地獄の苦しみを味合わないためには素早く死ぬしかない。そんな事しか考えられなかった。
クズは口を開け舌を出した、自らの意思で舌を噛みちぎろうとする。が、その口の中にセイギは手を突っ込んだ。思わずクズは歯を立ててしまう。
「おいおい、攻撃の意思があるのか? 痛いなぁ」
え、俺は、攻撃したのか? 痛い? このまま指――。
……クズは攻撃したと認識したのだろう。契約違反で死んだ。
しかしクズの心臓が鳴り止まない、だんだん鼓動が早くなっていく。ドクンドクンと繰り返し、そして心臓がクズを突き破り中から飛び出したかと思うと光輝き、その形を変えた。一つの指輪が浮いている。その指輪をセイギは手に取った。
「なんだこの指輪は」




