命を売った若者 (ショートショート56)
ここは風光明媚な海岸。
自殺の名所でもある断崖絶壁の先端に、生きる望みを失った一人の若者が立っていた。今は深夜で、この若者のほかはだれもいない。
――このまま生きてても……。
意を決し、若者が暗い波間に飛びこまんとしたときだった。闇の中からニュッと手があらわれ、背後から若者の腕をつかんだ。
「命は粗末にするものではありませんよ」
手の主の声がした。
「はなしてください」
若者は、自分をつかんだ手を振り払おうとした。
だが、びくともしない。
「まあ、こちらへ」
見えない強い力が、若者を崖の先端から引きはなしていく。
安全な場所まで移動したところで……男が闇から姿をあらわした。
「死のうなんて、どうして?」
「生きててもなんにもいいことがなくて……。ところで、あなたはどうしてここに?」
深夜に観光めぐりでもあるまい。若者は奇妙に思って首をかしげた。
「ここは、死にたい者たちが集まるのでね。死神の私としては絶好の場所なんですよ」
「死神? では……」
「そういうことです。取り引きをしたくて、あなたに声をかけたのですよ」
「ボクの命がほしいってこと?」
「もちろんタダとは申しません。引きかえに、お望みのものはなんでも」
死神は若者の目をじっと見た。
「いいですよ。どうせ死ぬところたったんです」
「では、あなたの望みを」
「お金がいいな。それも一億円ぐらい」
若者は迷うことなく大金を要求した。
「承知しました。では、今日のところは契約だけにして、履行は三年後ということで。あなたも、お金を使う期間が必要でしょうからね」
「助かります」
「ですが三年後は契約に従って、かならず命をもらい受けますよ」
「三年後ですね。でもそれまで、命は保証してくれませんか。お金を使いきれずに、死にたくはありませんので」
「むろん、そういたしますよ」
「ありがとうございます」
「礼にはおよびません。あなたは私の契約者となったのです。履行の日まで、命を大切にしてもらわなくてはなりませんからね」
死神はそう言い残し、闇の中に消え入るように立ち去った。
一億円を前にして。
若者は笑いが止まらなかった。
ガンの病に侵され、あと三カ月と告知された命。
それが一億円という大金で売れたうえ、しかも三年間に延びたのだから……。