NO. 44 そして、全てが揃う
その浴室は、彼女のためだけに造られた場所だ。調度品は全て超一流、タイルから鏡に至るまで全てがオーダーメイドで製作され、浴槽にいたってはわざわざ銀とプラチナで作られた世界に一つだけの品。いっそ悪趣味にしか見えないそれらが輝き、美麗なものに映るのは全てが超一流であるが故か。それとも浴槽にて寛ぐその存在に比べれば全てが色褪せてしまうが故なのか。
おそらくは後者。百人が見ても同じ答えを出すに違いない。それほどまでにその生物は美しかった。玉の肌は水を弾き、濡れた銀の髪は光さえも吸い込むよう。美しいという言葉ですらも肢体と美貌の前ではちんけな言葉に過ぎない。豊満さを体現したような双丘、文句のつけよう無いほどの均整のとれたプロポーション、完璧というものがこの世界に存在するのならそれはこの生物のみ。
それも当然、この女はそれを体現するために作られたのだから。サーペント、そう呼ばれる存在は心地よさの中で静かにまどろんでいた。
夢を見ているのか、あるいは何かを思い描いているのか。瑞々しい唇が喜悦に緩み、端正な口角が僅かに上がる。なんであるにせよ愉快なことであることには違いはないらしく、まどろみの中で今にも笑い出しそうだった。
「――んっ」
閉じていた瞼がゆっくりと開く。たったそれだけの動作すら見惚れるような麗しさを帯びていた。紅の瞳が現れ、鋭い光を帯びる。
獲物を狩る捕食者の瞳。見詰めたものを魅了し、犯し、支配する蛇の目は彼女の美貌に見事に映えていた。
「これで一つ、か。ふふ、久しぶりに感じちゃった」
熱を帯びた声が密室に木霊する。一度聞けば脳をとろかすようなその声の向かう先はこの世界にただ一人だけ。今此処にはいない彼、先程まであの白昼夢の中で逢瀬を重ねた01にだけ。余計な妹が混じっていたものの、彼の戦いは存分に堪能できた。動きの一つ、呼吸の間隔、心の内でさえも彼女には手に取るようなもの。一つ一つが甘露であり、狂おしいほどに愛おしい。
彼の苦悩も葛藤も、痛みも全てが彼女には愛すべきもの。その心の底の暗い喜びでさえも彼女には最上の飴と同じ。彼の全てを理解し、噛み締め、愛する。
それがサーペントが自分に課した唯一の存在意義。与えられた役割など知ったことか。為すべき事ではなく、欲する事だけを行う。それだけが彼女の守る唯一の基準だった。
「残りは十二。駒は揃ってないけど、どうしたものかな」
浴槽から上げた右手を、見詰めながら愉快げにそう呟く。指先から流れた水滴が腕を通り、肩を流れ、胸元を伝って浴槽へと還った。
状況は悪くはない、むしろ彼女にとっては好都合とも言えるような展開だ。彼とUAFは裏切り者の手先を捕え、”組織”は全ての準備を整えつつある。どちらにとっても全てが順調に進んでいる。静かではあるものの、その時が迫っているのは確実だ。
問題は、この嵐の前の静けさの中で彼女が何を望むかということ。目的は言うまでも無く一つ、彼を手に入れる、文字通りの全てをもって彼への愛を成就させることだけ。それを実現するにあたって何が必要なのかそれも既に理解している。例え幾つ予定外が重なったとしても、計画そのものは問題なく進む。おそらくは一年、どれだけ長くとも二年は掛からない。それだけ経てば全ての決着はついているはずだ。
だが困ったことにそのための準備はすべき事であって、したいことではない。それだけでは大いに信条に反する。そもそも、見ているだけではやはり物足りない。
やはり、逢瀬は直接肌を重ねてこそ。視界の一部をジャックしての盗撮なんて生殺しにもほどがある。それにもしやとはおもうが、悪い虫と泥棒猫の掃除も怠ってはおけない。特に戦いの最中でも熱の篭った視線を向けてきていたあの妹には要注意だ。
「でも、もう少しだけ我慢かな」
逸る心を抱き止めて、再び目を閉じる。信条に反するのは不本意極まりなく、彼に逢えない苦痛は言葉にもできないが、今は我慢のとき。その時のために駒をそろえられなければ本末転倒だ。
そうして蛇は再びまどろみに落ちる。必要な駒は後一つ、何もかもが揃うその時はもう直ぐそこだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
モニター越しにその部屋を眺める。幾つもの照明に照らされた白い壁と白い天井、そこに置かれているのは簡素な机と椅子が二つだけ。他に目立つものは何も無く、ただそこにはそれだけしかなかった。窓も無ければ、扉も無い。部屋と呼ぶことすら相応しくないだろう、真っ白で静かな空間には部屋の条件すらもみたしていない。放り込まれた人間しかわからないが、あの場所は五分間も閉じ込められればそれだけでイスで頭をかち割りたくなる衝動が湧いてくるようになっている。人間を壊すのに大仰な武器や力など必要ないとこの目の前の部屋は証明しているのだ。
部屋の名は尋問室。UAF各支部に一つはある極めて人道的に情報を引き出すための空間だった。
「…………どう調子は?」
「滝原か……まあ、順調なんじゃないか」
背後の滝原にそう言葉を返して、モニターへと視線を戻す。椅子に座っているのはこの半年間只管追い続けた相手、上海支部の副支部長がげっそりした顔で座っている。尋問が始まってから十分足らずだが、この部屋に閉じ込められてからは一時間近くが経過している。並みの人間ならもうへばっている所だろうが、この副支部長は意外にも持ちこたえていた。
『それで? いい加減、アンタのボスについて話して欲しいんだがな」
『わ、私は、その、あの……』
しかし、それも時間の問題。尋問官を担当しているのは手馴れたエドガー、人類戦役の頃からのベテランだ。必要な情報を引き出すまではそう時間は掛からないだろう。むしろ此処まで何もはいていないことのほうが俺にとっては驚きなくらいだ。
北極海でのクレタスとの戦いからは約一日。ようやくこの極東支部に帰り着いたものの、ヤツにも俺たちにも休む暇などない。ようやく探し続けた手係を見つけたのだ、此処で一気呵成に事を進まねばならない。
「そっちじゃないわよ、聞いたのはあなたの調子のほう」
「オレ? オレは問題ないぞ」
「様子が変だって雪那が心配してたから……戦った相手が相手だしね」
そうか、と返すのが精一杯。様子が変だったといわれても自覚が無いのだから答えようが無い。確かにクレタスは因縁のある相手ではあったが、それ以上の何者でもない。ただ敵であったから打ち倒しただけ、どれだけ強くとも、どんな能力を持って敵なら倒すだけだ。
もし、俺の様子がおかしかったとしたら原因はらしくもなく感傷に浸っていたからだろう。アイツの事を、隼一を思い出すなんて一体何年ぶりだろうか。
最初の兄弟、最も長い間背中を背中を任せた親友。それを今の今まで思い出そうともしていなかったなんて、正直なところ自分の薄情ぶりに嫌気が差す。自分じゃなけりゃぶん殴っているところだ。
「……まあ、いいけど。こうして肝心の鼠は捕まえたわけだしね」
「半年掛りの大捕りものだからな。ここまでした甲斐があると良いんだが……」
サーペントから情報がはいってから半年、この副支部長だけを只管追いかけてきた。情報の真偽を確かめ、動きを探り、絶好のタイミングで仕掛けた。結果としては成功したが、失敗していたらと思うと背筋に悪寒が走る。
あのギガフロートでの戦いから一年、第五○一独立空挺戦隊は何一つとして成果を上げられずにいた。それもそのはず俺たちが戦うべきは”組織”であり”NEOH”だ。そいつらが何も行動を起こさない以上は、成果の上げようがない。マスコミがせっつき、上が喚こうがそればかりはどうしようもない。
しかし、そのおかげで此処まで事を進めることができた。この副支部長はあくまで鼠の一匹に過ぎない。それでも、こいつを捕えるのには最大限の慎重さを必要とした。本部に知られれば即ち裏切り者どもに知られることになる。それではまずい、全ての準備が整うまでは此方が動いていることは知られるわけにはいかなかった。
張副支部長の確保。これは最初の一歩でもあるが、閉塞した状況を打ち破る糸口でもある。副支部長から情報を引き出すことができれば後は芋ずる式。本部で手を回している裏切り者の正体も見えてくるはずだ。副支部長の逮捕が本部に知られるまではどれだけ長くとも後数時間。身柄の引渡しの辞令が降るまでの間が勝負だ。最大限の情報をそれまでに引き出しておかなければならない。
ここからは全て、エドガーの腕次第。この数時間で何を聞き出せるかに掛かっている。
『分かってると思うがな、こっちも後がねえんだ。アンタから情報を引き出せないならそこまでのこと。余計な事を喋られるわけにはいかないしな』
『わ、私をどうする気だ!? お、同じUAFの職員を、しかも副支部長に手を出したとなれば貴様らとてただでは済まんぞ!」
『そいつは知られたらの話だろう? まあ、亀裂に落ちたでも、戦闘に巻き込まれたでも、なんでも言い訳のしようがあるんだ。ああ、あと、娘さんがいたな。凜麗ちゃんだっけ? 今年大学受験か、はあー悲しむだろうねぇ……』
気だるげな表情のまま、まるで夕食の献立でも考えるような気軽さでエドガーはそう言ってのける。実際にそんなことはしない……はずだが、ああも軽く言われると相手としては堪ったものじゃないだろう。確かにこいつを本部にただで渡す手はない、万一情報を引き出せなかったときのことは考えておかなければならない。あくまでエドガーの言っているのは最終手段ではあるが、いざとなればやむをえないことではある。
『じゃ、後でな』
『ま、待て! わ、わかった! 話す!』
それから数分足らず、退室しようとしたエドガーを副支部長が呼び止める。ようやく音を上げたらしい、合計一時間半、長く持ち堪えたほうだが、こんなものだろう。
「ようやくね……何を喋ってくれるやら……」
「少なくとも本部の裏切り者の手掛かり位は貰わないとな」
滝原と共に固唾を呑んで見守る。この副支部長が何を話すか、それによっては俺たちの行動方針は決まる。それは即ちこの世界の命運そのものが決するということとイコールといってもいいだろう。
『ま、まず最初に確認しておきたい! わ、私と娘の身柄を保証してはくれるのだろうな? そうでなければ話はしないぞ!』
『そいつは勿論。誰にも手出しはできないようにこっちで配慮する。それにいざとなりゃ01と03があんたを守るんだ、これ以上の安心材料はないと思うがな。それに”組織”じゃねえんだ、娘さんに手を出したりなんてしねえよ』
そういうとエドガーは壁のほうを指してみせる。どうやらオレのことを示しているつもりらしい。気乗りはしないが、この副支部長が”組織”に狙われるのなら守るのはオレの義務だ。全力はつくす、その点においては雪那もオレと変わらないだろう。
『そ、それはそうだが……本部に私の身柄を引き渡さないと約束して欲しい、し、死んだことにしてくても構わない、た、頼む!』
『オーケーオーケー、そこら辺はこっちで上手くやるさ。それで? やっぱりアンタのボスは本部いるんだな?』
『そ、そうだ、私は末端に過ぎない』
予想はしていたことだが、これで裏づけが取れた。やはり裏切り者の首魁は本部にいる。今までは疑いだけだったがこれからは違う。確信が得られればこっちも対応の選択肢が変わってくる。此処に来て小さくとも大きな一歩だ。
『だろうな。あんた一人じゃ部品の横流しが精々、棺桶への手引きなんてのは無理だ』
『そ、そうだ、私など精々指の一つ。大した権限も情報も有していない……』
『その大したことのない情報が俺たちには必要なのさ。まあ、ボスの名前と電話番号と住所を知ってるてんならそれで万事解決だがな』
少しずつ、だが、確実にエドガーは副支部長から情報を引き出していく。直情的な俺には真似できない芸当だ。普段はサボり癖のあるただの中年でも、こういうときはきちんと仕事を決めてくれるのがエドガーだ。昔からそうだが、こういうときは本当に頼りになる。
隣では滝原が言葉を発することなく状況を見守っている。言い回し一つ、言葉尻一つが重要な手掛かりになりかねない。心理学や犯罪捜査の専門家ではないが、こうして直接見守ることで得られるものは少なからずあるはずだ。
『か、彼の名前は知らない。ただ指示だけが仲介人を通してメッセージとして届く。そ、それだけだ』
その言葉には偽りは感じられない。実際末端とボスとのやり取りなどその程度のものだろう。易々と自分の正体を明かすような間抜けではとうの昔にこの問題は片付いてるはずだ。おそらくは幾人もの仲介人を通しての指令のはず。簡単には辿れないように厳重な工作が施されているのは想像に難くない。
だが、重要なのは手掛かりが見付かったという事。辿るパンクズが見えているのといないのでは大きく違う。どれほど困難でも道さえあるならばそれで充分。諦めるような性分なら最初から戦おうなどとしてはいない。
『そりゃそうだろうよ。アンタから直接黒幕に辿り着けるなんてこっちも思っちゃいねえよ』
『で、では何を話せというのだ! これ以上、私が知っていることなど…………』
『仲介人の名前でも、連絡方法でも、場所でも何でも。アンタの知ってる事を洗いざらい吐いてくれりゃ、あとはこっちでなんとかするさ』
エドガーの言葉の通り得られる情報は何でもいい。どんな些細なものでもそこから蜘蛛の糸を辿る事は不可能じゃない。副支部長の齎す情報が嘘や罠でも問題はない、それならばそれで踏み越えて進むだけのことだ。
『先ずは手始めに仲介人の名前でも聞いておこうか』
「――ッ!!」
背筋を怖気が走ったのはその瞬間だった。クレタスと相対した時よりもなお濃く、より強烈な死の気配。おそらくは片鱗にすぎないはず、それがどうしようもなく俺の感覚に響き渡る。
起動しかけた変換核を力付くで押さえつける。そうでなくてはここで戦闘形態へとトランスしていた。どれだけ感覚が喚いたところで、此処には何もない。自分の感覚を疑うわけじゃないが、今目の前ではなんの異変も起こってはいない、だというのに、どうして――。
『――仲介人の名は…………あ?」
『っ!?』
それが起こったのはその直後のことだった。グチャリ、肉の塊を握りつぶしたような嫌な音。ディスプレイの向こうで赤黒い血が散った。肺か、胃か、あるいは脳か。ほんの一瞬で何かが潰れた。
画面の向こうにあるのは内側から弾けた胸元を不思議そうに眺める副支部長。それを認識した瞬間に、押さえを外した。光を帯びたからだが瞬く間に創り変えられていく。最短距離は正面、後で滝原には怒られるだろうが問題ない。
からくりはわからない。だが、今はまだ副支部長を失うわけにはいかない。それだけは確かだった。




