NO. 43 誓いの元
驚愕には痛みと怒りが先行した。突如降り注いだ紅の閃光、それは彼の体を容赦なく引き裂き、瞬く間に侵略していく。01の光とはまるで違う。消失ではなく浸食、彼の体、数万トンにも及ぶ彼の一部はすでに彼でなくなってしまった。
『——ありえない』
思わず思考が言葉になって伝播した。物体を侵し、作り替え、支配することは彼の領分。その領分を今侵されている、目の前の存在、あの緑色の装甲をしたサイボーグがそれを成した。
それが理解できない。八年前はこんな存在はなかった。彼の力は絶対であり何者にも侵すことのできない神の領域。それが今、侵されている。取り込んだあのタンカー、そして足下から喰らった氷。その大半の支配権をただの一撃で失った。
取り込んだ有機機械群はすべて彼の一部であり、彼自身。一滴でも残っていれば意識と体を再構成するのは容易い。八年前には無かった力、あの薄暗く狭苦しい牢屋の中で煩悶の中で身に付けた新たな力、あの01ですらも仕留めかけたのがこの力だ。
その力がこうして奪われている。吹き荒れたあの紅の嵐に引き裂かれた彼の一部はもはや彼ではなかった。原子構造さえも変化した残骸はそのまま繋がっていれば彼の意思すらも飲み込んでいたはずだ。
侵し、支配し、無へと返す。彼の力と似通いながらもその本質を全くもって対極、あれは絶対的な破壊の力。彼のような存在を滅するために与えられた絶対の権能だ。その意味ではあの存在は、あの二体は彼と同じ彼の者の系譜に連なるもの。本質を対極にしながらも、同じ神の遺伝子ちを受けた神の子の兄弟といってもいいかもしれない。
だからこそ許せない。
『——アアアアアアアア!!!』
咆哮は世界を揺るがした。残った体を使い、ありとあらゆるものを侵し、喰らい、取り込んでいく。先ほどの倍、いやそれでは足りない。十倍、百倍、人類の歴史よりも遥かに古いこの氷をすべて自分にしてでもこの二体を排除せねばならない。
復讐はもはや生存競争へと変化した。感情ではなく本能がこの敵を排除せよと叫んでいる。いかなる手段を用いてでも、この二体を殺さねばならないと細胞の一滴までもが叫んでいた。
神の子、そう神の子だ。彼らは自分と同じ存在だとようやくクレタスは理解した。彼らはただの外敵ではないと、自身に取って代わりうる天敵なのだと。
目指すべきは勝利でもなければ復讐の完遂でもない。ただ排除あるのみ、その欠片までもを消滅させ、生存の確証を得る。大義も、感情も、理性すらも介在しない。
これより、ここにあるのはただ一匹の獣。目の前の全てを喰らい尽くすまで決して止りはしない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……噂には聞いてたけど、予想以上に面倒ね、こいつ」
目の前で侵食範囲を広げ、身体を構成していくクレタスに向かって、雪那はまるで近所の猛犬を見つけたような気軽さでそう言い放った。
周囲の氷と海水を根こそぎ取り込んで巨大化したその姿はまるで大昔の怪獣映画よう。完全な球体として鏡面となったそれには世界が映り込んでいる。いっそ映画の通り巨大な獣か、人型になってくれたほうが戦いやすい。
だが、雪那の目には恐怖など微塵もない。どうやって戦ったものか俺ですら頭を悩ますような敵を前にしても、その自信と力強さには一点の曇りを見出すこともできない。我が妹ながら頼もしい、ともすれば楽観的にすらも思えるが、雪那の自信と余裕はきちんとした根拠に基づいている。クレタスにとって雪那は文字通りの天敵といってもいいのだから。
「……来るぞ」
巨大な銀の雲、そこから降り注ぐ雨はまさしく災厄の権化。遥かに大きく凄まじい密度のそれは俺の攻撃では消しきれないだけの圧倒的質量弾だ。
逃げ場などどこにもない。一滴でも掠めればそれこそ先ほどの繰り返し。そのまま雨に呑まれるだけだ。まさに絶望、抗う気持ちさえも挫くその暗雲を――。
「分かってる! 前衛は――!」
瞬間、紅い嵐が吹き荒れる。周囲の物体どころか、空間さえも吹き飛ばすその嵐の名は”紅蓮舞踏”。03、風見原雪那に与えられたのがその権能、絶対にして不可避の破壊を齎す紅の波動だ。
「――任せて!!」
巻き起こった嵐は威力を増しながら空へと。触れた銀色の雨を弾き、侵し、潰し、消失させ、ついには分厚い銀色の雲すらも真っ二つに引き裂いていく。稲光の如く、あるいは海を割ったとかいう預言者の如く。雪那の一撃は正しく、天を割ったのだ。
強力な侵食性と伝播性を併せ持つ”紅蓮舞踏”による圧倒的広範囲の殲滅および制圧、それが03の開発コンセプト。単一戦闘における性能が重視された俺や隼一とは違う、対NEOH戦力としての完成形、それが雪那だ。
そしてその能力はクレタスにとっての悪夢そのもの。やつの銀色の肉体にとって雪那のクリムゾンは最悪の毒、それこそ触れた時点でお陀仏だ。
「援護する! 道を拓くぞ!!」
「――ええ!! 背中は兄さんに任せるから!!」
答える声には戦場には似合わぬ歓喜と充実感に満ちている。咎めることはできない、きっと俺も嗤っている。こうして雪那と共に戦えることに喜びを感じているのだから。
同時に氷を蹴って真っ直ぐに駆ける。目指すは一つ、あの銀色のバケモノの命。ただそれだけだ。
彼我の距離は四百メートル、一息で間合いを詰めるのは容易いが、道は険しい。だが、今のオレは一人じゃない。
「――はあああああああ!!!」
先手は雪那から。脚部のフレアスカートが咆哮を上げ、波動を放つ。迫り来る銀色の壁を嵐が瞬く間に引き裂いていく。正しく一方的。嵐を前にしては銀の壁など意味を成さない。
舞う様な連撃。蹴りが空を裂き、手刀が走るたびに波動が舞い踊る。
それは正しく死の舞踏。立ちはだかる全てに死を齎し、あらゆる敵を粉砕していく。雪那の前では例えクレタスといえどもエモノに過ぎない。
これで二百メートル。残りは半分、道は拓けた。
「させるか!」
「――!!」
次は俺。背後から雪那を狙おうとしたやつの一部を空間諸共に吹き飛ばす。続いてもう一撃、目の前に聳え立つ銀の城壁、その中心に穴を穿つ。
俺の頭上を雪那が駆けていく。道を拓くのは俺の役目、妹が駆け抜ける道をこの手で作り出すことだ。なんと心地よく、快い役目か。誰かの背中を守って戦う、ただそれだけがたまらなく嬉しい。
雪那の拓いた道、焼けた銀の雨が降るその道を二人で駆け抜ける。呼吸と鼓動を我が物のように感じる、生きている証明に仮面の下の顔が嗤った気がした。
これでまた百メートル。やつの首元まであともう少しだ。
言葉による意思疎通も、通信による意識共有も必要ない。あるのはただ互いの呼吸だけ。それだけでお互いの動きを把握し、緻密な連携を組み上げる。それが俺たちだ、たとえ血の繋がりはなくとも、俺と雪那が兄妹である証明は此処に在る。
「――兄さん!!」
「応!!」
俺を足場に雪那が空へと。極まった、ならば後は放つだけ。俺も雪那もその瞬間を逃すほど鈍間じゃない。道は拓けた、二人で駆け抜けるのみだ。
目の前には視界を埋め尽くす絶壁。隙間などどこにもなく、踏みしめるべき地面でさえも敵の支配下にある。俺単機では攻撃どころか、回避すらも不可能。目の前に広がるのは絶対の死だ。それでも絶望はおろか恐怖すらも感じない。ただ只管に信じたまま真っ直ぐに。
なぜならば此処にいるのは、俺と雪那。例え神が相手でも膝を屈することなどない。それは既に証明済みだ。
「――うおりゃあああああああッ!!」
裂帛の気合。空間の震え、世界が裂け、悲鳴を上げる様を確かに感じる。懐かしい感触、脳髄に走る痺れるような怖気は良く知っている。
眼前の空に形成されるのは紅の杭。バケモノの心臓を穿つそれは全長にして百メートル以上。空鳴りを発生させながら錐揉みして押し進むその様は正しく巨大な削岩機の如し。雪那の必殺、ありとあらゆるもの消滅させる絶対の一撃だ。
「――!!」
「ッアアアアアア!!」
刹那、稲光さえも吹き起こし、その一撃は振り下ろされる。その威力を察してか、ヤツの全てが防御に回る。だが、無駄だ。その程度ではあの一撃は防げない。
接触、そして蹂躙。杭の先端たる雪那の両足が銀の障壁に食い込む。その瞬間、回転する波動が周囲の空間を引き裂いて、花を咲かせる。
銀の盾、数百メートルの厚さはあろうかというそれが紙切れの如く散っていく。鎧袖一触とは正しくこのこと。雪那の一撃はほんの一瞬で、ヤツの全てを無に返す。欠片さえも残しはしない、本体の宿るであろう球体でさえもこの一撃の前にはただの繭に過ぎない。
「――行くぞ」
それでもまだもう一押しが要る。それは俺の役目だ。
嵐の合間を縫って、雲耀を駆け抜ける。刻まれた視界の中には、巨大な繭から切り離された一塊の銀色。おそらくはやつの意思の宿るそれは、決して逃がしてはならないものだ。
光を両の腕に。余計な部分を守っている暇はない。ヤツを掴めればそれで十分だ。
『――ッ貴様!?』
「捕まえたぞ!!」
その銀色、人型を成そうしたそれを確かに両手で掴む。これで逃げ場はない。こいつは確かに此処にいる。
飛沫が接触し、痛みにも似た快感が脳を食い荒らす。喰われている、接触した部分から自分が消えていくのを確かに認識する。
だが、それがどうした。こんな程度で止るほど、俺は甘くない。この程度なら何度でも耐えてきた。
「雪那ッ!! 行くぞ!!」
『!?』
右脚を軸に一回転、確かに掴んだクレタスを遥か上空へと投げ飛ばす。空中にはやつの変換できる物質は存在しない。更なる分散は竜巻のように渦巻き、舞い上がる永久炉の光が許さない。雪那のようには行かないがそれでも真似事くらいは俺にもできる。これでこいつはもう再生も、再構成も不可能だ。
ほんの一瞬、たったそれだけでいい。俺達に必要なのはたったそれだけの時間だった。
「――はああああああああ!!!」
『なにっ!?』
再加速。さらに勢いを増した削岩機が世界を削り、空間を裂き、ヤツへと至る。もはや繭すら存在せず、新たな寄り代になりうる物質すら空中には存在しない。今度こそ詰みだ。
苦し紛れの防御膜も盾とはなりえない。あれは防げない一撃だ、放たれたその段階で決着はついていた。
『――!!』
「――ッ!」
断末魔の叫びは波長となって響き渡る。紅の波導は飛沫すらも焼き尽くし、人型を八つ裂きにした。背後では展開されていた巨大な壁が紅く燃えている。炎は燃え盛り、全てを焼き尽くすまで消えることは無い。それが紅蓮装(クリムゾン
)の力。
生存の余地などどこにもない。正しく必殺、雪那の一撃は間違いなくやつを仕留めた。今度こそ、俺のような半端な一撃とは違う。絶対の死があの一撃の真価だ。
「……あばよ、クレタス」
身体に付着した飛沫。もはや統率する意思を失ったそれから伝わるのは唯一の残留思念。なんのことはない、脳髄に響くその声は死に怯えるありふれたものだ。死にたくない、消えたくない、終わりたくない。その感情は、俺達サイボーグに残された最後の人間らしさだ。
俺の無くしたものでクレタスが持ち続けたもの。身体すらも無くし、機械の臓物に意思を宿しただけのヤツでも最後まで、それだけは失わずにいられた。それが少しだけ羨ましく、そして哀しい。痛みと恐怖、これだけの力を持っていても最後までそれからは逃げられないのだと、見せ付けられるようだった。
「……兄さん?」
全てをやり遂げた雪那が隣に降り立つ。あの時の宣言どおりだ、雪那の居場所は守られる場所はいごじゃなく、共に戦うためのこの場所だ。兄としては情けない話だが、それがどうしようもなく頼もしく、心地がいい。確かな充実感と腹の底から湧き上がる歓喜。やはり俺にできることは戦いだけ、ただ一人の妹との絆ですらその中でしか確かめることができない。
「大丈夫なの? ボーっとしてたけど」
「ああ。ちょっとな……」
心配げな雪那にそう答える。俺はこうなってしまったが、まだ雪那はそうなっていない。そうしてはいけない、だから戦う。たとえ俺に望みが無く、俺にその資格がなくともそれだけは変わらない。例え戦うだけの宿命でも、それを為す事ができるなら決して無意味ではないはずだ。
「……やったな」
「当たり前でしょ? 私と兄さんなんだから!」
誇らしげな妹と拳を合わせる。この勝利を刻むように、生きているという実感を忘れないように。
ああ、そうだ、一人じゃない。こうして背中を預けられる誰かがいるという事、もし、俺とクレタスを分けたものがあるとすればそれだけだ。八年前は隼一が、今は雪那が俺の隣に立っている。
今度こそ、隣に立つ誰かを守れるなら俺は何でもしよう。それだけが八年前から変わらぬ、絶対の誓いだ。




