NO. 17 契約
山のように積みあがった報告書を見ていると、それだけで溜息が漏れる。それもこれも、二年前のハッキング事件のせいだ。情報漏えいを避けるために全て紙媒体での二重管理が規則になったのだが、利点と同じか、それ以上の弊害が発生している。おまけにその内容は悲惨な被害報告か、何も分かりませんという情けないものばかりなのだから余計に気が滅入る。
「――ん」
ふと、机の上に置かれた写真が目に入る。元01(ゼロイチ)特務戦隊の集合写真、確か八年前の作戦前に撮られたものだ。
「若いなー、皆」
どの顔も懐かしい。入隊したての自分も、使命感に燃えた親友も、何処か恥ずかしそうにはにかむ彼も、そこには変わらず存在している。この写真の向こうでは何も失っていない、もはや光を映さなくなってしまったこの左眼もそこにはある。当然彼が失ったものも。
写真の中央には、一人ではなく二人。彼の隣に寄り添うように彼女の姿がある。優しげな笑みがこちらを見返している。
「…………駄目ね、私」
その微笑みを前にすると、何時も心をかき乱される。彼女を守れなかったという悔恨と彼女を失った彼への深い同情、そしてなにより自分はその場所に立つことはできないのだという事実への嫉妬がないまぜになる。無論、そんな感情を持つ浅はかさは重々承知だ。それでも、この微笑みの前では何も繕うことができない。
それだけ、彼女の存在は大きかった、彼だけではなく、誰にとっても彼女の存在は大きすぎた。
「――よし」
感情振り払うように頬を叩いて、気合を入れなおす。感傷に浸っている暇があるなら、少しでも仕事を進めないといけない。
外は夕方、日も暮れ始める頃合だ。そろそろ彼はあの場所に着いたころだろう、そんなときに自分だけが呆けてるわけにはいかない。
気を取り直し、山の中から一部の報告書を試しに抜き取る。分厚い報告書の出所は本部の諜報部からのものだ。個人的なコネクションを使って回してもらったものだが、その苦労に見合った価値があったかといわれると非常に怪しい。
この報告書の内容を一言で表すなら、色々調べましたけど何もわかりませんでした、だ。何が諜報部だと怒鳴りつけてやりたい衝動が湧き上がってくるが、彼らだけを責めるのは酷な話だ。情報をつかめていなかったとはどこも同じ。どこの諜報機関を当たっても、おそらくは”組織”の残党勢力であるという事以上は何も把握できなかった。
問題はその一点。今回の敵には一切の痕跡が無い。どんな組織であれ、秘密結社であれ、行動を起こすには何らかの痕跡を残す。小石でも大海原に波紋を起こすように、金、人、物、電気、なんであれ何かが動けばそこに波紋が生じる。それがなんであれ、存在する限りは何らかの痕跡を残すはずなのだ。
だというのに、今回の敵にはそれが一切無い、それこそ不自然なまでに、あらゆる痕跡が存在しない。まるで降って沸いたように、突如この敵は現れた。
しかし、それでも手掛りは残っている。そのために彼をあの場所に送ったのだから、最も因縁深く、最も遠ざけたいあの蛇の元へ。どれほど疎もうとも漠然とした切欠ではなく、形のあるはっきりとした手掛かりはあの蛇しかいない。そして、あの蛇が求めるのは彼ただ一人。それ以外のものなど、蛇の世界には存在していないのだ。
「…………」
どれほど仕方がないと割り切っても、頭から嫌な予感が離れない。この五年間そうやって割り切ることばかり上手くなってきたはずなのに、どうしようもなく感情が乱される。その感情は分かっている、けれど、その感情を認めてまえば自分が自分でいられなくなってしまう。五年前から、いや、もっと前から封じていたもの、今更そんなものに邪魔されるわけにはいかなかった。
「ちょっと、一菜、大丈夫なの?」
「え、ええ、少し頭が痛いだけよ」
考え込んでいたのを、心配げな雪那の声が遮った。どうやら彼女が入室したことにすら気付かなかったらしい。思っていたより重症だ。
寛恕云々を差し引いても、調子が悪いのは事実だ。疲労性の頭痛はひどくなる一方だし、身体の節々が重く、思考が鈍っている。髪の毛はパサパサで、皮膚はカサカサだ、とてもじゃないがデートにいけるような格好じゃないし、これから記者会見しろといわれても絶対に無理。こんな姿は彼には見せられない。
「少し休んだら? 雑務なら私が片付けておこうか?」
自身も病み上りの身だというのに、親友は真摯な気遣いをしてくれる。何かしていないとおかしくなりそうだと無理やり退院してしまった時は肝が冷えたが、実際、助けられているのはこちらのほう。彼女がいるだけで、何処か安心できている。
「……先に資料に目を通したらね」
「そうしたほうがいいわ。貴方、それこそテレビに出られない顔してるわよ」
睡眠という甘美な誘惑に身を任せるか悩みながら、十年来の大親友の顔をまじまじと眺める。
彼女は老いることはない。いや、変化することができないというの方が正しいかもしれない。改造手術を受けたうら若き少女のままで全ての時が止まり、内面がどれほど決定的に変質しようとも、彼女の外面はそれを示さない。
それを羨むものもいるが、それは彼女という個人を見ていないからだ。彼女という人間を理解せず、表面しか見ない人間の戯言に過ぎない。
歳をとることもできず、酒にも薬にも逃げることは許されない。それがどれほど辛いことなのか、彼女には慮ることすらできない。そうなりながらも誰かのために戦い続ける彼女の強さも、測り知ることはできない。
「な、なによ、人の顔をまじまじ見て。気持ち悪いって」
「――雪那、ホントにごめんね」
「……謝っても仕方がないことは謝らないでよ。ほとんど八つ当たりみたいなものなんだから気にしないで。大体、どうせいつかは戻ってきただろうし…………」
零れるように謝罪を口にしていた。自分が再び彼を巻き込んだ、彼女の唯一の理解者を再び戦場に引き戻したのだ。五年前の約束を破ってまで、彼の平穏と彼女覚悟を壊してしまった。その咎は全て、滝原一菜にある。それだけは間違いなかった。
「――負けちゃったのは私、約束を破ったのは一菜。それでお相子ってことじゃだめ?」
「――でも、私……」
どうにか、そう返した。泣き出してしまいそうなほどに雪那の言葉は一菜にとって重い。同じ想いを持ったものとして、彼女の想いの深さは誰よりも知っている。どれほど想い悩み、苦しんでいたか知っているからこそ彼女のその言葉はどんな刃よりも鋭利だった。だが、それと同時に確かにその言葉に救われていた。
「――ほら、いいからシャワーでも浴びてきなさいよ。今のままじゃ気の毒すぎて、怒ろうにも怒れないって」
「え、ええ、そうね。じゃあ、その報告書を――はあ……」
そう腰を上げた瞬間、目の前のディスプレイが機械的な着信音を鳴らす。どうやら、現在の仕事はまともにシャワーを浴びさせてもくれないらしい。
溜息を堪えながら、メールを開く。どうせ被害報告の続きか、もしくは他の伝からの調査報告だろう。目を通すだけならそう時間は掛からない。そのはずだった。
「……どうしたの?」
暗号認証を済ませ、詳細を開くと同時に、再び椅子に座り込み、ディスプレイにかじりつく。今までのように片手間で進ませるわけにはいかない。
ディスプレイに表示されていたのは、関東支部の職員のデータ、それも襲撃事件の際に現場に出ていた職員及びH.E.R.Oの能力評価データと経歴だった。
データのファイル名は、対特S級脅威特別対策チームの草案及び構成員候補者。そのチームリーダー候補者の欄に、極東地域関東支部所属、滝原一菜統括官と彼女の名前が踊っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「君の夢だけを見ていた、五年と一週間、六時間三十二秒の間ずーとね。君を欠いた世界は僕にとっては一日千秋、一分一秒が拷問だった。辛すぎて、気が狂いそうだった。でもこうして君が、逢いに来てくれた、それだけで僕は満たされている。君の声を聞くだけで僕は幸福で、君の姿を見ているだけで嬉しくなってしまう。この気持ち、君なら分かるだろう?」
「いや、まったく理解不能だ」
恍惚とした声にいちいち構っていてはこちらの気がもたない、頭どころか心の内に這い寄るようなその声は五年前と同じだった。適当に聞き流してとっとと本題に入ろう。
暗い部屋を進み、檻へと近づいていく。話すべきことはそう多くない。聞きだすべき事を聞きだしてしまえばそれでいい。
「相変わらずつれないなあ。まあ、その正直さが君の愛おしい所のひとつなんだけどね」
嬉しそうな声が密室の中で反響した。これだけの拘束を受けていてもまったく堪えてない。全身に装着された拘束具など存在してすらいない、そんな様子だった。
「――どうかしたかな? もっと近づいてくれてもいいんだよ、それこそ、お互いの吐息が感じられるくらいに」
「ここで充分だ」
誘うような、艶やかで扇情的な声を受け流し、付かず離れずの距離を保つ。動けないのはわかっているが、これ以上近づけば引き摺り込まれてしまいそうだった。
「ふふ、だろうと思ったよ。それで――今日はどうして逢いに来てくれたのかな?」
「どうしてか、なんて知ってると思ってたがな」
すぐさま本題に入るなんてこいつにしちゃ珍しい。耳を覆いたくなるような美辞麗句と口説き文句だか、誘ってんのか良く分からない睦言が小一時間は続くと覚悟していたが、拍子抜けだ。
「君が僕を褒めるなんて――今日は記念日にしなきゃね」
「じゃあ、知ってるんだな?」
「――そうは言ってないだろう? 知ってるかもしれないし、知らないかもしれない。だからまず、君の口から聞きたいな」
前言撤回。今回はこっちが焦れてるのをみて遊ぶつもりらしい。拘束具の下では喜色満面に違いない。俺で遊ぶのは、コイツにとって至高の娯楽にして愛情表現の一種らしいが、こっちにとっては迷惑以外の何者でもない。こいつの楽しみはあまりにもはた迷惑だ。
「――永久炉。ここまで言えば分かるはずだ、お前何を話した?」
「……永久炉、正式名、特異境界面反応炉心。汲めども汲めども尽きぬ夢のエネルギー、神の心臓とも言われるね。九基の炉心が製造され、現存するのは三基だけ。君のと、あの頑固で幼稚な妹のと、あの脳みそまで筋肉で埋まってそうな彼ので、三つさ。ああ、あと、ブラックボックスの中身をしってるのは世界に二人だけ。いや、訂正しないと、僕一人だね。あの泥棒猫はもういないわけだし」
「――――」
一瞬、怒りに我を忘れそうになった。腕に嵌められた拘束具も、果たすべき役割も関係ない。今ここで、こいつを殺す。余裕ぶったその顔を引き剥がし、腐りきったあの心臓を握りつぶす。そうできたらどれほどいいか、そうできたらどれほどの快感か、頭の中で何度もその光景が繰り返す。それこそが唯一の道なのだと、なによりも感情自身がそう願ってる。
偽ることなく言えば、俺はこいつを殺したかった。
「――その手には乗らん」
寸での所で踏みとどまり、自分を押し留める。感情に身を任せるわけにはいかない、俺にはやるべきことがあり、果たすべき使命がある。ここでコイツを殺すべきじゃない、全ては引き出すべき情報を引き出してからだ。
「ふふ、怒った君も素敵だ。それに僕を殺したくて仕方がないなんて、本当に気持ちが良い。快感といってもいい。君が望むなら、僕の命なんて何時でも差し出そう。けど、今はその時じゃない。それも君は理解している。ああ、嬉しいよ、五年が過ぎても君は何も変わらない」
まるで歌うようなその言葉は、俺の心全て理解した上での言葉。こいつは俺をあらゆる意味で理解している。俺が何を考えているか、何をしようとしているか、こいつには手に取るようにわかる。子供が積み木を崩すように、創り上げた砂の城を潰すように、俺の心を弄んでいた。
「――誰に解式を教えた? 連中は何を企んでいて、何処に潜んでいる?」
「……ああ、必死な君は可愛いいなあ、もう見ているだけで……達してしまいそうなくらいさ……」
背筋があわ立つほど、甘く上気した声だ。そんなことは想像したくないが、そういうんだからそうなのだろう。こいつが俺を理解するようにとはいかないが、俺もある程度はこいつを理解している。騙しはするが嘘を吐くことはない、少なくともコイツは俺に対していつもそうだった。
「――で答えは? 答える気がないなら……」
「答えてもいいけど、一つ条件がある。それを君が呑んでくれるなら、求める答え示してあげよう。君が何処へ行くべきで、何をして、誰を殺すべきか、僕が導いてあげようじゃないか」
俺の言葉を遮ったサーペントの返答には狂おしいほどの情念が篭っている。懇願であり、要求であり、脅迫でもあるそれは、こいつの願いそのものに他ならない。
コイツの願いはただ一つ。俺を支配すること、ただそれだけ。コイツの願いは何時だってそれだけだった。
「わかった。条件を呑む」
迷いはない。これが悪魔の誘惑だというのは重々承知の上。だからといって、今更引き返すほど臆病者でもない。ただそれだけのことだ。




