NO. 13 まどろみ
彼女の世界は、最初から完璧だった。不要なものは何処にも存在せず、培養液に満たされたポッドと与えられた知識だけが全て。彼女自身と同じく、その世界は完璧だった。
それに疑問を抱いたことは一度もなく、全てを与えられたその時から、自身の役割を受け入れていた。そこに感情などという不純物は存在しない。全てが完璧で、瑕など何処にも存在していなかった。
彼に出会うまでは、彼という存在を認識するまでは、彼女の世界は完璧だった。
「―――ああ」
まどろみの中、彼女は嗤う。あの時の悦び、悲しみ、憎しみ、怒り、愛。彼という存在を理解したとき、彼女の世界は瑕を得た。感情という無駄、喜びという無価値、愛という無意味。何もかもが醜く、美しい。完璧な存在として創られた彼女はその時、堕落した。
この世界に自らの意思で、自らの痕跡を残す。ありとあらゆるものを与えられ、たった一つの役割を担わされた彼女は、自らの手で自身の役割を定めた。
愛のために全てを捧ぐ、彼女の世界に存在しているのはただそれだけ。ただおぞましいほどの愛が髑髏を巻き、たった一つの光を犯していく。太陽を喰らう大蛇のように、知恵の身を口にした女のように。
彼女は嗤う。何処でもないこの世界で、自らの愛で世界染めるその日を夢見て。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
消失、出現、また消失、そして出現。幾度となく繰り返すその過程は、螺旋階段のように果てなく続いていく。降りているのか、昇っているのかさえ曖昧で不確か。始まりがいつなのか分らない以上、終わりがいつなのかもわからない。
何も無い空間に記憶の破片が浮いている。どうしようもなく孤独だが、静かで安らいでいる。悪くない。この世界にはなにもないが、それゆえに失ったものを数えなくていい。ここにいる限りは孤独さえも愛おしい。
しかし、夢は醒めるものだ。それがどれほど心地よくても、どれほど素晴らしくても、何時かは必ず現実は追いついてくる。そこに痛みと恐怖しかなくても、いつも突然に夢は醒めるのだ。
「――っは」
闇が途切れ、光と共に新鮮な空気が流れ込んでくる。目と肺が焼けるように痛い、光と空気でおぼれてしまいそう。
少ししてようやく映像を認識できた。白い壁に白い天井、日光の差し込む四角い窓、傍らに置かれた数々の精密機器と種々の計器。なるほど、病室か。
状況はおぼろげで、記憶もばらばらだが状況は把握できている。どうやら、機能不全でぶっ倒れたらしい。戦闘用のシステムのほとんどが機能を停止している。
何があったかは明白、敗けた。完膚なきまでに負けた、負けてしまったのだ。背中に負った思いの重さを知りながら、肩にかかった希望の儚さを知りながら、また俺は同じ過ちを繰り返した。我慢ならないがそれが事実だ。あの倒れる前の一瞬に何人を守れたかも分からない。敵を倒すこともできずに、おめおめと生き延びたそれが俺の現実だった。
だからといって、ここで寝ているつもりはない。後悔も懺悔も全て片付けた後、今すべきことはこんなことじゃない。
腹の底の怒りを燃料にして体を動かす。上体を起こそうとして、違和感に気付く。神経が焼けているせいで大まかにしか分からないが、何かがおかしい。
「――?」
内部捜査を掛けようとして、脇腹にかかる重さと奇妙な感触を感知した。まだぼやけたままの視界が、何かを捉える。
「――んあ」
小さな声が漏れた。呆けたままの頭でも声の主は分かる、間違えようがない。たった一人の妹の声を忘れるほど耄碌しちゃいない。
声を掛けようかと迷い、やめた。安らかな寝顔だ、起こすのは惜しい。どんな夢を見ているかは知らないが、それがどうか安らかなものである事を願う。
声を掛ける代わりに、僅かに指先だけで彼女の髪に触れる。柔らかく、それでいてしなやかな黒髪。彼女に残された人間としての名残、それがこの髪だ。伝わってくる命の熱もその重さも、俺のような造りものじゃない。
許されるのならずっと触れていたいそう思えるほどに、彼女の熱は美しい。その容姿はもちろんのこと、何よりもその気高い在り方が、俺には眩しくて仕方がない。英雄の名は、俺よりも雪那に相応しい、いつだってそうだ。
「――んっ」
それから程なくして、彼女は目覚めた。まだまどろんだ瞳が俺を見つめ返す。数秒の間、お互い視線を逸らせないでいた。俺のほうはというと、単純に寝惚けていただけだが、雪那の方はすぐさま茹蛸みたいに紅くなっていく。よほど寝顔を見られたのが恥ずかしかったらしい。
「――大丈夫か?」
「……だ、だだ、だ大丈夫かじゃないわよ!! 私がどれだけ心配したと思ってるのよ!!」
返ってきたのは、案の定、耳鳴りがしそうな怒鳴り声だった。どうやら、こんなことで怒れるくらいには元気なったらしい。少し安心したし、怒鳴り声でも聞けて、素直に嬉しかった。やはり、雪那は元気じゃないと駄目だ。
「やられて返ってきた上に、五日間も意識不明で、死ぬかもしれないとか、脳波消えちゃうし、私、心配だったのに………………大丈夫か、ですって!? 大丈夫なわけないでしょう!! こっちの台詞よ!!」
「す、すまん」
飛び起きて、いそいそと髪を整えると雪那は息を荒げながらそんな事を叫ぶ。純粋に心配してくれたのが伝わってくるのだけに、なんだか申し訳ない。
「……あ、謝ってほしいわけじゃない。だいたいそっちのほうこそ大丈夫なの? 傷、かなり酷かった」
不器用ながら快い優しさが感じられる。どれだけ言葉を重ねても、彼女の本質はそこにある、その彼女の本質がたまらなく眩しく愛おしい。
「大したことないさ。酷いのは見た目だけで、中身のダメージはそこまでない。直ぐに元気になるさ」
ありのままを伝えた。内部捜査を掛けたところ、俺が思っていたよりも状態は悪くない。内部の回路断絶、人口筋肉の損傷は自己修復で充分どうにかなる。俺達の機関部とも言える永久炉と変換機はほとんど無傷、すぐに戦線に復帰できる。まだ戦える、それだけで十分だ。
「そ、そう、ならいい……………よくないけど、元気ならいい」
消え入りそうな呟きの後、雪那は俯いてしまった。また泣かせてしまったのかもしれない、これ以上雪名が泣かなくていいようにと戦いに戻ったのに本末転倒にもほどがある。ほとほと、自分の中途半端さに嫌気が差してくる。
「――心配、してくれたんだな。ありがとう」
どうにか搾り出したのが、そんな短い感謝の言葉だった。ただそれだけ、気の聴いた言葉をかけてやれるほど、俺は器用じゃない。
「――たった一人の兄さんなんだから当然でしょう」
「……そうか」
そう返すのが精一杯だった。雪那は何時も変わらない。何時だって俺の事を01ではなく、兄としてみてくれる。それが堪らなく嬉しい。こうしてここにある事を何もせずとも肯定される、その優しさに甘えてしまいそうになる。いつだって雪那はそうだった。
「…………」
「…………」
沈黙。けれども、気まずくなどない。ここにいるというだけで快い、そんな沈黙だった。この場所を、こうしてここに雪那がいる意味を守れるのなら、それでいい。戦う理由はそれだけで十分だった。
「あー、お邪魔?」
「!?」
少し不機嫌な声が静けさを破った。贔屓目に見てもひどい状態、髪はボサボサ、目の下にクマも浮かんでいる。どうみても徹夜明け。見るも無残な、滝原一菜がそこにいた。




