NO. 1 終わりの先
――ハッピーエンドなんて嘘っぱちだ。
一つの戦いが終わった。長く、苦しく、そしてなにより美しかったその戦いはあっけなく終わった。心臓を貫いた感触は想像よりもずっと軽く、決着の一瞬はどうしようもなく虚しかった。
始まりは悲劇で、終わりは喜劇だった。ありきたりの結果を、予定調和な犠牲と予想通りの裏切りが彩るだけ。そこには求めていたものは何もなかった。
底のない虚無と悲しむこともできない喪失感だけが俺の手に残された戦利品だ。栄誉も賞賛も、英雄という地位も俺には価値がなかった。燃え盛るような使命感も、魂を蝕むような憎悪も、強迫観念のような悲しみさえも俺の中から消え失せた。何もかもが燃え尽きて、残ったのは燃えカスのような俺だけ。
だが、それでも、それでも終わりは訪れない。俺の戦いは終わっても、結末には辿り着かない。燃えカスのような俺はただ、この永久炉がその機能を停止するその日まで、燻り続けるほかないのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
終わらない悪夢に今日も魘される。眠っている間ですら記憶は俺を離してはくれない。
いつものように目覚めは最悪。体調がではなく、気分的な問題だが、とにかく眠りから目覚めるその瞬間は俺とっては一日で一番不愉快な時間だ。
時刻は五時半。どれほど疎ましく思っても、身に染み付いた習慣はそう簡単には消え失せてはくれないらしい。二度寝しようかと思い布団を掛けなおすが、枕もとの時計を見て考え直す。七月五日、忘れたくとも忘れられない日付だ。といってもその日になるまで率先的に思い出そうとはしていなかったわけだが。
憂鬱な気分のままベッドから立ち上がり、端末を立ち上げる。真っ暗な部屋に一つの光が灯る。既に日は昇り、外は明るいのだろうが、カーテンを閉め切ったこの部屋には関係ない。
いつも通りメッセージはなし。特別変わった事のない、七月五日はこうして始まった。
「――を明日に控えた今日、記念式典の行われる会場では……」
自動で流れるニュースの音声を背後に、洗面台へと向かい、顔を洗う。そうして顔を上げると鏡に見慣れた顔が映った。
少しやつれて無精髭をのばした顔色の悪い男。何の特徴もない我ながら凡庸な顔立ちだ。TVやらネットで流れていた予想図の顔とは似ても似つかない。世間もこんな死人のような顔をした英雄は欲しくはないだろう。
「NEOHの出現が収まっとはいえ、問題は今だ根強く活動を続ける"組織"残党に、TCS技術流出による凶悪の事件の増加であり、この時期での式典はテロの対象になりかねませんね。専門家としてはどう思われます? 安納さん?」
「そうですね。そもそもまだ人類戦役での復興が完了していない中で、記念式典といわれましても――」
ニュース番組のコメンテーターが慣れた調子で御託を並べている。昔の俺なら、無責任な物言いに憤るなり、上層部のやり方を愚痴るなりしてたのだろうが、そういう人間らしい事をしようという気持ちは五年前で品切れだ。
冷蔵庫を開け、中身を確かめる。
「――はあ」
やはりなにもない。あるのは飲みもしない酒とツマミらしきものだけ。元から期待はしていなかったが、少しばかり自分に辟易する。堕落ぶりも此処までくるとお笑い種だ。
適当な服を引っ掴み、手早く着替えを済ませる。見た目に拘らなければ、ごくごく短時間で着替えなど済む。というより早着替え、早飯、早起きは今でも残ってる数少ない特技だ。
電源を落としたまま端末をポケットに突っ込み、靴を履く。ドアを開き、振り向かぬまま歩き出す。オートロックのドアは機械的に鍵を閉め部屋の主を締め出した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
目的地はそう遠くはない。遠くはないのだが、早朝とはいえ都会だ。人通りの少ないところを歩いていかなければならないから、近場が目的地でも時間が掛かる。まあ、急ぐことはない。ゆっくり歩いて昼前に到着というのも悪くはないだろう。
早朝の澄んだ空気は嫌いではない。肺に流れ込む冷たさ、肌に感じる陽の暖かさ。自分は生きているのだと錯覚できる。
街並は資料で覗くような姿を取り戻している。見上げる摩天楼が立ち並び、目立つ廃墟もなければ、飢えた難民もいない。空は晴れて赤はなし。世界は俺の知らない元の姿に戻りつつある。それが少しだけ嬉しくて、それ以上に哀しい。
「UAFはあなたを求めています! 人類のため! 私たちと一緒に戦いましょう!!」
ビルに投射された広告が早朝にもかかわらず大音声で宣伝を撒き散らす。映像の中では白銀の鎧をつけたキャラクターが、甘ったるい声で如何に自分たちの仕事が重要か誇大表現満載で喋り倒していた。
そんな広告を気に留めることなく、人々は営みを続けていく。行き交う人は互いに、あるいは自分にさえも無関心で、次の瞬間のことなんて何も考えてはいない。
ああ、これが平和なのだろう。死を思うこともなければ、戦いに駆り立てられることも無い。すぐ傍の可能性ではなく、もっと先の事を考える、それが平和なのだろう。俺にはわからないが、それでこの人たちは幸せなんだと思う。彼女が望んでいたのもきっとこれだ。それならきっと、それでいいんだと――。
「――っ」
途端、吐き気を催した。心臓が胃までせり上がってそのまま飛び出しそうだ。突発的な眩暈と嘔吐感、衝動的な嫌悪感、そして足元から崩れ落ちるような恐怖がやってくる。
目の前の景色が歪んで、ありもしない炎が黒焦げの何かを燃やしてる。生きて、息をして歩く焼死体、なにもかもが崩れ落ちた。空は血に染まり、地には地獄。何もかもが消えて、死だけがそこに満ちていく。
ああ、懐かしい。これなら全て見知っている、何もかもが、五年前と同じ。死と戦い、それが今は愛おしく思えるなんて――。
「――よし」
なんのことはない、いつものことだ。そう自分に言い聞かせ、足を踏み出す。一度歩き出してしまえば幻覚は崩れていく。この先を望むことは贅沢でしかない。俺一人の望みと、この仮初の平和を取り替えることなど決して許されはしないのだから。
そうやって思考を捨て去り、足を進めることに集中する。一度集中してしまえば周りの人間もあってないようなものだ。このまま無心に歩き続ければ、予定よりも早く目的地に付けるだろう
路地を曲がってできるだけ人通りの少ないほうを目指す。やはり人混みは苦手だ。端末を片手に歩くサラリーマン、ところ構わず談笑する学生たち、気だるそうな主婦たち、何のことはない日常の風景を見ているだけで、いても立ってもいられなくなる。
彼らと自分は違うという事を否応なく思い知らされ、どこに居場所がないのだと心に気ざれる。
それだけじゃない、その何気ない風景が炎と死の塗り替える。その光景が恐ろしいんじゃない、その光景に焦がれていることが何よりも恐ろしい。この世界が壊れてもいいと思えることが恐ろしくて堪らなかった。彼女が望んだものをオレが壊すなんてそんなことできない、決して。
恐怖を振り払うように歩いていると、それが目に入る。遠く聳え立つ黒い塔、全長五十メートルのそれには隙間なく名前が刻まれている。続く道には色とりどりの献花。人々の哀悼が道をなしていた。
人類戦役、かつての戦いの名残がそこにはあった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「――永山隊長、区画封鎖完了しました」
「ご苦労。部隊配置は完了しているな?」
「はい、各隊準備完了です。しかし、電磁封鎖線の展開にもう少し時間が……避難勧告を行うべきでは?」
「必要ないよ。所詮は雑魚だ、直ぐに片付く」
補佐官の報告を聞きながら、手元のコンソールを通じて現状をダイレクトに掌握していく。ディスプレイでは郊外の大きな廃ビルを囲むようにして隊員を示す青い光点が展開している。問題はなし、包囲は順調に完了しつつある。
手狭な指揮車の内部では十数名のオペレータたちが管制を続けている。流石は精鋭で知られる極東支部の隊員、指示を受ける前にすべきことは全て把握していた。
その整然とした動きを観察しながら、思考をめぐらす。密告者によれば、敵は手配犯の組織残党、とはいえ一体のみ、センサーの感知した数値もそう高くはない。対して、こちらは万全に装備を整えた特務小隊だ、この戦力差で突入すれば制圧は容易い。しかも標的はこちらに気付いてすらいない、電撃戦を行えば戦闘すら起こらないだろう。
楽な獲物だ、他人に譲るには惜しい。
「準備が完了次第突入する、野次馬連中が嗅ぎ付ける前に事を済ませるぞ」
「統括官からは到着を待つようにと……」
「この程度で統括官を煩わせる必要もあるまい。それより、内部の様子は確認できているんだろうな?」
多少独断ではあるが、結果さえ出せば大した問題ではない。たかが一統括官の評価より、将来の事を考えれば派閥内での点数稼ぎのほうが優先だ。それに来年度からは本部へと栄転と決まっている、この程度の事案は点数稼ぎに丁度いい。
彼の直属の上官である統括官の有能さは疑うべくもない。しかし、その有能さゆえに彼女がこの場に居合わせては点数稼ぎにはならない。あくまでこの逮捕劇は自身の手腕により成功したと上層部に印象付ける必要がある。
そもそも、如何に人類戦役の英雄といえ、二十過ぎの生娘に命令されるなど腹に据えかねていたのだ。あの小娘の鼻を明かすためにも、今すぐ突入する必要がある。
「――隊長、封鎖線展開準備完了です」
「よし、全部隊突にゅ――!?」
準備完了の報せに思わず頬が緩む。悔しそうに奥歯を噛み締める統制官の表情を思い浮かべ、指示を下す、その瞬間、それは起こった。
強烈な衝撃が彼らを襲う。指揮車が激しく揺れ、廃ビルの天井が弾けた。舞い上げれれた瓦礫が雨のように降り注ぎ、周囲の視界を塞ぐ。続いてけたたましく警報が鳴り響き、現場の隊員たちから次々と通信が届き始める。明らかなイレギュラー、事態は完全に彼の掌から零れ落ちていた。
「対象がビルを爆破! 東側の包囲を突破し、市街地へと進行中!!」
「周辺にレギオンの反応!! 部隊が交戦!!」
「ふ、封鎖線を展開して対象を拘束しろ! レギオンを殲滅して、奴を追うんだ!! 周囲の住民に避難勧告!! コードはブラックだ!!」
動揺しながらも、どうにか指揮を飛ばす。腐ってもUAFの一員、市民を守ると誓いを立てた軍人だ。派閥競争に勤しんでいたとしても完全な無能ではない。現状において最適解と思える行動をとる程度の能力は持ち合わせている。
例えそれがあまりにも、あまりにも遅きに失していたとして彼の指示は間違ってはいなかった。
「しかし、東側に展開した部隊は……」
「――こちらH-11ッ!! 対象を追います!!」
若い、幼さを残した少女の声が答えた。H-11、そのコールサインは試験機体のテストパイロットのもの。声が示すとおり、訓練学校を卒業したての新兵だったはずだ。如何に最新鋭機とはいえ、単独での戦闘は不可能、返り討ちに会うのが関の山だ。
「よ、よし、H-11、許可する。封鎖線を展開し、対象を無力化せよ!」
全てわかった上で命令を下した。彼女が断るはずがなく、命令を果たせるはずがないと分かったうえで、永山隊長は命令を下した。部隊がレギオンを殲滅し、体勢を立て直すまでの数分間、その時間を稼げさえすればいいと彼女を切り捨てた。彼女とその数分間を秤にかけ、軽いほうを諦めた。ただそれだけのことだった。
「隊長! H-11は今回が初任務です!! 単独追撃は――」
副官がそう声を上げたときにはすべてが遅かった。市街地の近辺に封鎖線が展開され、H-11は戦端を開いた。電磁封鎖線内部に住まう数千人を巻き込んで、敵性サイボーグとの戦闘が始まった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
慰霊碑へと続く長い階段、その階段を昇り始める前に、僅かばかりの平和は終わりを告げた。
「……封鎖線、それに警報はブラックか」
耳鳴りがしそうなサイレンと空を覆う電気の楔。幾度となく聞いたそれと毎日のように見ていたそれを見間違うはずがない。コードブラック、人口密集地にて敵が侵入、市街地戦を回避できない、これはそういう場合の警告だ。状況は下から二番目、最悪ではないが良くはない。
すぐさま端末が緊急モードに移行し、空を見上げる人々に避難経路を伝達する。最寄のシェルターまでは数十メートル、何とか間に合うだろう。
不本意ではあるものの、パニック寸前の人の群に流されるようにしてシェルターに近づいていく。思えば、こうして避難すること自体、初めてのことだった。新鮮ではあるものの、楽しくはない。周囲の恐怖も不安も、俺には理解できないものだ。まるで言葉の分からぬ外国に突然放り込まれたようだった。
「早く開けてくれ!!」
「どうなってるんだ!?」
雪崩の先頭まで押し流されると、そこには壁があった。どうやら不具合でシェルターの扉が開かないらしい。辛うじて理性を保っていた人々への最後の一押し。泣き声やら叫び声やら、今度こそパニックに陥っている。
その様子を遠巻きで観察しながら感覚を研ぎ澄ます。心とは裏腹に頭脳と感覚はこの異常事態へと適応している。眠っていた機能に再び火が灯った。五年ぶりだが、難しいことじゃない。覚えてないが自転車と同じだ、身体で覚えたことは簡単には忘れない。
戦闘の位置は直ぐに把握できた。戦っているのは十二体、大半がレギオンでここからは距離がある。問題はもう一方、そこから離れた場所で二体が交戦している。片方はサイボーグで片方はそうじゃない。形勢は五分五分か。なんにせよこのシェルターからかなり近い、目と鼻の先だ。かなり拙い。
「――きゃああああああああ!!」
扉が開くよりも早く、十数人の一般人と俺を残したまま、その戦いは此処へと至った。
吹き飛ばされた人影は俺たちのすぐ傍に墜落する。周囲の建物は瓦礫に変わり、コンクリートの道路が砕けちった。粉塵が巻き上がり、一気に視界が低下する。続いて老若男女あらゆる種類の悲鳴の混声合唱、恐怖に駆られた彼らが未だ開かぬ扉にすがり付いているのは容易に想像がついた。
「っあ、うあ」
悲鳴の中に埋もれるように粉塵の中から呻き声が聞こえてくる。声の感じからして女だろう。呼吸音が酷く乱れている、胸部を圧迫されているのか、肺に穴が開いているのかどちらかだ。どちらにせよ、このままでは長くはもたない。
数秒で粉塵が収まり、吹き飛ばされてきた彼女の姿が見えるようになる。何のことはない、予想通りの惨状がそこにはあった。
埃と血で汚された鮮やかなメタリックレッドの装甲。美しい流線型のフォルムも所々傷つき、凹んでいる。特に胸部装甲は無残に陥没していおり、故障部分は火花を上げている。この様子だとメインシステムのほうも動いてはいないだろう。生命維持システムはどうにか機能しているが、それも数十秒しかもたない。
肩の部分にペイントされた女神の盾と世界地図の紋章は人類連合軍、UAF所属である事を示すこれ以上ない証拠。正式採用型の機械化装甲服、俺が知るものとは多少の差異はあるが間違いない。紛れも無いUAFのH.E.R.Oだ。
そのH.E.R.Oが失墜した。最強の矛にして盾、それが破られたのだ。状況は正しく絶望的といえる。
「にげ……て……!」
状況に気付いたのか、女は擦れた声でそう叫ぶ。呼吸するのでさえ苦痛に変わっているだろうに、必死に立ち上がろうとしている。その様子から視線を外せない、とうに関わるまいと決心したはずがどうしようもなく揺れ動く。
「と…………とにかく避難を! 時間は……稼ぎます!」
血反吐を吐きながら立ち上がり、背後の人々に懇願するようにそう言い放つ。その様は正しく理念を体現したもの。皮肉抜きに、逃げ出した俺よりもよっぽどH.E.R.Oの名前に相応しい。
心の中で賞賛と劣等感が鬩ぎ合う。名も知らぬ彼女の姿を目の当たりにすればするほど、自分の弱さと情けなさを思い知らされているようだった。
そうして俺は逃げ出す機会を失った。あるいは恐怖に押し潰されそうな彼等と同じ場所にいればこんなことはにはならなかったかもしれない。だが、そうはならなかった、ただそれだけのことだ。
「――なんだ、まだ死んでなかったのか。往生際の悪い女だ。ん、だが助かったぜ、おかげさまで人質には困らなく済む」
瞬間、花の香りがした。土煙の中に花びらが舞っている、きっと着地の衝撃で花が散ったのだろう。それが瑠璃の花と気付いたのはその瞬間だったか、あるいはその後だったか、それだけがわからない。
「――」
目の前には巨体のサイボーグ。驚きはしない、こいつが追ってきていることには気付いていた。
決断するまでは逃げ続けてきた歳月に対してあまりにも短かった。逃げはしない。こんな奴に背を向けるほど腐ってはいない。逡巡はない、俺の事情と十数人の命。天秤にかける必要はない。
五年間の間、俺がすべきだったことを今此処で再開する。ただそれだけだ。
「そ、そこの貴方、早く逃げてください!」
「あ? 逃げねえのか? 妙な野郎だな、それともブルって動けねえのか?」
彼女の必死の警告を無視して、うんざりとした気持ちで上を見上げる。ああ、でかい、ふざけた大きさだ。五メートルくらいはある。しかも、膨れ上がった人工筋繊維を惜しげもなく晒し、その姿には品性の欠片もない。高分子装甲は胸部と腹部を覆っており、頭部には悪趣味な二本の角の付いたヘルメッド。かすかに見える両の目は血走り、本人も気付いていないのだろうが拒絶反応で体が痙攣しているのが見て取れる。
過剰な強化に脳改造、寿命を捨てた強さだが、それゆえに脆い。
「ああ、いい気分だ」
背後の悲鳴にすすり泣きが加わり、差し迫った死が彼らの心を溶かしていく。そんな様を見て目の前のサイボーグが笑っている。それがどうにも我慢ならない。彼女の造ったもの、その系譜にあるものがそんなマネをしている、ただそれを目の前にしているというだけでただ我慢ならない。
ならば、すべきことは一つ。彼らのためでもなく、彼女ためでもなく、自分のために。
「――お前、一体何者だ?」
悲鳴も警告も無視して、一歩間合いを詰める。背後の人々はこちらを見てはいない、直ぐそこの彼女は状況を理解できていない。丁度いい、かかる迷惑は少ないほうが気が楽だ。
もう彼我の距離は奴の拳が届く間合い。奴がその気なれば俺を潰すのは簡単だろう。
奴は動かない。堂々と歩み寄る俺に対してただ見ているだけ。取り繕った奴の瞳の奥に恐怖が見える。サイボーグでも人間でも、そこは同じ。理解できないものが恐ろしいのは誰でも同じだ。
「――なに、お前と同じただの化け物さ。気にしなくていい」
「エ、エネルギー反応!? 貴様ァァ!!」
その言葉と共に牙を剥く様に嗤う。
眠らせていた力が歓喜と共に燃え上がる。熱が体内で荒れ狂い、白銀の光が視界を覆い尽くした。その熱さ、その痛みが生きているという事を思い出させてくれる。
焼きついた記憶と狂う様な衝動。あの時失った全て、俺という存在そのものが五年前へと。皮膚が、肉が、骨が、内臓が、血液が、脳が、細胞が変換されていく。人間のふりをしていた体がその役割を破壊へと変える。
ああ、認めよう。俺は今でもあの日にいる。
ようやく状況を理解したのか、奴は今更拳を振り落とした。
遅い、遅すぎる。あまりにも不用意で、あまりにも無意味だ。俺を殺すならもっと速く、もっと鋭くやらないと。
瞬間、骨が砕け、肉がちぎれ、鮮血が舞った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
おそらくこいつには自分の身に何が起こったのか、どうして死んだのかなんてことは何一つとして理解できなかっただろう。
目の前に横たわる死体を見つめ、血に濡れた自分の掌を見つめる。赤黒い人工血液が銀色の装甲を汚している。足元には潰れた心臓が転がっていた。
振り下ろされた一撃をかわし、胸部装甲の薄い部分を見極め、拳を放った。動作にして三つ、たったそれだけの事でこの名前も知らないサイボーグは死んだ。核たる動力炉を引き抜かれ、握りつぶされ、こいつの命は消えてなくなった。
「――ハ」
これも、いつものことだ。命のやり取りは慣れてる。まだ殺し殺されは健全だ。こんな風に一方的に命を奪うのはもはや戦いともいえない。ただそのことが、無性に悲しく、虚しかった。
視線を落すと、ふとあるものが目に入ってくる。奴の体から漏れた伝導液、透明なそれに俺の姿が映っている。
白銀の装甲に、黒のエナジーライン、緑色に光る二つの目、甲冑のようなシャープなライン、そして翻る赤色のマフラー。五年前と全く変わらぬ俺の姿がそこにある。精神も在り方もどうしようもなくなってしまった。だというのに強靭な人口筋肉もナノカーボンの骨格も機械化した内臓もそのまま。改造され変異した俺の体は五年前のその日から少しも変わらぬままあり続けている。そのことが酷く歪だった。
背後で俺の姿に気付いた誰かが、声を上げる。あれは01だと、そう叫んでいるのが聞こえる。
気が狂いそうだった。まるで生き地獄だ。どれほどあの日を悔やんでも、どれほど現実から逃避しようとも、俺の体はいつまでも俺を放してくれない。
だというのに、俺は確かに喜んでいる。戦えること、力を振るうことに喜びを感じている。あるいは、命を奪うことさえも……。
「――瑠璃華、俺は……」
それは問いかけだったのか、あるいは懇願だったのか。そんなことですら、あやふやなままだ。
全く忌々しい。なにがH.E.R.Oだ。こんな男が英雄で、こんな呪いが世界を救った見返りであってたまるものか。何一つ守れなかったただの敗残兵が、どうして讃えられようものか。
――やはり、ハッピーエンドなんて嘘っぱちだ。