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ヤンデレさんの幸せの形

 意識が浮上する、目覚めの瞬間。

 最初に覚醒したのは嗅覚。

 甘ったるくて重たい匂いに、自然と眉間にしわが寄った。


「やあおはよう。目が覚めた?」


 耳に心地よく届く低い声に、まだ半分眠っていた意識が次々に覚醒していき、眠っていた思考が働きだす。

 起きあがらなくては。逃げなくては。しかし体は指一本として動かす事が出来ず、ようやく言葉を発する事に成功するも上手く舌が動かない。


「あ……う?」

「僕の名前、分かる?」


 視界に初めに映ったのは、赤銅色の髪を後ろで一つに束ねた壮年の男。

 少しだけ目元に刻まれたしわが更に深くなる。

 笑ったのだ、と気付くのに遅れた。

 それほどに、赤く濁った目が印象的で尋ねられた言葉も理解できていなかった。


「名前だよ。僕の名前。僕の名前は?」


 年を重ねたことによる落ちついた声音。

 青年を通り越したその大人の声に覚醒したはずの意識が何故か霞がかった。

 ぼんやりとして思考がまとまらない。答えられないでいると、更に深く男が笑った。

 少しだけ尖った耳に真っ白な歯は牙のようで、捕食者を思わせた。では、その捕食者の前にいる自分はこの男に食べられるのか。本来であれば恐怖を感じてもおかしくないはずなのに、思考回路がまだ正常に働いていない所為で逃げるという選択肢が思い浮かばなかった。

 だからこそ、この感覚が異常であると気付かないままに女もつられて笑った。

 この男にならば食べられても仕方ないと、どこかで受け入れている自分に気付かずに。




 アルストロメリア。

 初めて目覚めてから、また眠って。何度目かの夜が来てようやく起きあがれるようになった頃、男はそう名乗った。

 何度か口の中で転がして発声してみるもたどたどしく、長いから呼び辛いのだとアルと省略して呼べば、ふわりと笑って髪を撫でられた。

 六畳程の床も壁も木で作られた簡素な家の一部屋。

 ふかふかの絹のベッドに木の丸テーブル。部屋にあるのはその二つの家具だけ。この部屋に似合わない程に豪華で眠り心地の良いベッドに少しだけ違和感を感じるが、尋ねてみようとは思わなかった。

 丸い窓には格子がはめられており、そこから降り積もる雪景色を眺めるのが日課。

 ただ毎日アルストロメリアが訪れるのをベッドの中で待つ。それが彼女の世界の全て。

 その事を疑問に思う気持ちは浮かんでこなかった。


「記憶を全てなくしちゃったんだね。大丈夫。僕がいるから。君はリサ。僕の奥さんだよ」


 言葉を交わす度に何かが体の中から抜け落ちていく感覚に支配される。

 それでも、真っ黒な髪を撫でる手が優しかったからリサはそっとその手を享受した。



「苦いよ」

「薬湯とはそういうモノだよ。ほら、これを飲みきったらリサの好きな生クリームたっぷりのケーキを食べよう」


 リサの腰まで伸びた少しだけ赤茶色が混ざった黒髪を一房手にし、そっと口づけを落とす。

 それをくすぐったそうに受け入れながら彼女、リサはあれ、と疑問を心の中で飲み込んだ。

 少しだけ色の抜けた黒髪。

 自分の髪はこんな色だっただろうか?


「リサ? 飲みきれないのならば手伝おうか?」

「だ、大丈夫!」


 いつの間にか髪から離れた手がそっと器に添えられる。

 その先の行動を十分すぎるほど身をもって体験していたリサは、羞恥心からアルストロメリアが行おうとした行動を防ぐために薬湯を一気飲みする。

 ごほっとせき込み、口の中に広がる鉄の味をなんとか吐き出さずに押し込める。


「ふふ。リサは恥ずかしがり屋だね」

「誰でもあれは恥ずかしいと思うの」


 親鳥が雛に餌を与えるのと同じ行為だと分かっていてもまだ恥じらう心は残ってる。

 手を触れられただけなのに、赤くなっていく頬を自覚しながらリサはアルストロメリアをそっと見つめた。

 僕、と自身の事を称しているが、どちらかと言えば私や俺と言った方が似合いそうな年齢。

 いくつだと尋ねたら、笑顔で三千歳と少しだよ答えられた。おじいちゃんで老い先短いけれどリサと同じくらい生きれるよと。意味が分からないと眉をしかめたものだが、嘘だとは思えなかった。

 人以外も普通に住まうスウェンティオールという世界で、アルストロメリアは隠居した龍族。全てが良くなったら背に乗せて空を飛んであげる。そう言って笑うアルストロメリアにリサもつられて笑った。

 アルストロメリアはリサに対して嘘を吐かない。

 確証も何もないのにそう心から信じられた。



 気付いたら記憶を全部失っていた。

 なんとなく見慣れた部屋のような気もするけれど、それ以上に住み慣れた部屋があった気もする。

 けれども、それを問う言葉をリサは持っていなかった。

 ベッドから起きあがるのにも息切れを起こしてしまう程に衰弱していた体。

 アルストロメリアに見捨てられたら生きていけないと、本能が理解していた。


「ふふ。僕だけの奥さんなんだから、余所の普通と比較しなくても良いんだよ。ねえ、触れても良いかな」

「ど……ぞ」


 そっと額に口づけが落とされる。

 リサはそれを拒めない。

 夫婦なのだと目覚めた時に説明された。

 リサは迷い人という存在で、こことは違う世界から来た迷い人であるらしい。

 突然現れる迷い人は、どうやってこちらの世界にやってきているのか原因は解明されていない。なので還る方法も分からない。

 国によっては保護している所もあるらしいが、今のこの世界は至る所で戦争が起こっているらしく迷い人は災厄を呼ぶという風潮になりかけているのだと説明された。

 見つかったら殺されてしまう。

 だからしばらくは外に出る事が出来ない。

 しばらくがどれ程の期間なのかはわからないが、どっちにしろ弱った体では自由に動けないし、生活習慣も生活道具も異なる世界では一人で生きていけない。

 アルストロメリアがいなければ文字通り野垂れ死んでしまうだろう。

 だんだんと下へ下がってくる口づけを享受しながら、でもとリサは不思議に思う。

 いつ、どのような経緯でアルストロメリアの妻になったのだろう、と。

 けれどなんとなく聞いてはいけない気がして、そっと心の奥底に押し込んだ。


 

 ちらちら。

 ふわふわ。

 空を舞う白が薄紅に変わり緑黄、そして紅へ。

 四季の移り変わりをぼんやりと部屋から眺めながら、リサの体はアルストロメリアで満たされていった。

 朝、目覚めて一番最初に映るのはアルストロメリアの微笑み。

 おはようの口づけから始まり、一緒に朝食をとる。

 薬湯を飲んで眠り、次に目覚めるのは日が暮れた頃。

 また、アルストロメリアと夕食を共にして薬湯を飲んで眠る。

 食事の間しか起きていられないことに疑問を感じることもなく、リサの世界はアルストロメリアだけとなっていく。

 ただ、夢の中だけは違った。

 誰かが名前を呼ぶ。

 夢の中の自分は同い年の者達と同じ格好をして勉学に励んでいた。

 同じ格好をした者達がリサの名前を呼び、リサは笑顔で振り返る。けれど、振り返るとリサを呼ぶ者達が笑うのだ。それがなんだか怖くて走って逃げる。逃げ切れないと頭のどこかで理解していても逃げずにはいられない。

 何度も何度も繰り返し見る夢。

 名前を呼ばれて振り返る。

 すると笑われる。しかし季節が変わるごとに夢も変化していった。

 顔が見えないのだ。確かに笑っている、怒っていると分かるのに顔が見えない。

 いくつもの机が並べられた箱のような部屋が、いつの間にか真っ暗闇に変わった。

 いつの間にかリサを追いかける夢の住人達も真っ黒な影のようなモノに変わる。

 ぐるりと一周してまた季節が白一色になった時、夢を見なくなった。

 それからしばらくして外に出てみようかとアルストロメリアが初めてリサを誘った。

 ベッドに腰掛け、そっとリサの髪を一房掬い上げて口づける。

 アルストロメリアとお揃いの赤銅色の髪がはらりと揺れた。


「あれ?」

「ん? どうしたの」

「ううん。私の髪の色ってアルストロメリアとお揃いだったっけって思って。ふふ。へんなの。まだ寝ぼけているのかな」

「お揃いになったんだよ」

「お揃いになった?」

 

 アルストロメリアの言葉が引っかかってオウム返しに問いかけるも、ニコリと微笑まれて流されてしまう。

 おいで、と差し出された手を何の疑いも持たずに取るとそっと引き寄せられて腕の中に囚われ、顎を優しく掴まれ視線を固定される。

 アルストロメリアの目に映るのは赤銅色の髪と目の女性。

 ただぼんやりとアルストロメリアを見つめている。


「龍族はね、とても嫉妬深く独占欲が強いんだ」

「アルストロメリアがヤキモチって話?」

「そう。でもこれは僕達にとっては普通だよ。龍は他の種族に比べてとても長生きで頑固なんだ。生涯にただ一人だけを愛する融通の効かない種族でね。ねえリサ。リサは良い具合に私と混ざったと思うんだ。そろそろ私を食べてくれないかい?」


 落ちてきた唇に抵抗することなくリサは目を閉じる。

 食べるという意味は分からなかったが、恐怖は感じなかった。

 唇から首、鎖骨へとゆっくりと下がってきて、ワンピースのボタンを外される。

 今までは体の至る所に優しく口づけられるだけだった。

 だが、今回はそうではないだろう。僕を食べて、と言われながらも捕食者はアルストロメリアだ。


「アル。ねえ、アルストロメリア」

「なんだい」


 そっと腕を伸ばしてリサと同じ赤銅色の髪を撫で、視線を捕える。

 ほの暗い色が浮かんだり消えたりしているアルストロメリアの目をリサはしっかりと覗きこんで心の底から素直に微笑んだ。

 考えようよすると妙に頭の中が霞がかってしまうのも、なんとなく自身の容姿に違和感を感じてしまうのも全てアルストロメリアの所為なのだろう。

 けれど怒りは感じなかった。

 怒らなくてはいけない原因は忘れてしまった。違う。リサ自身がアルストロメリアと過ごす日々の中でゆっくりと、しかし何重にも心の奥底に沈めていったのだ。

 体力の回復と共に遠くが良く見えるようになり、匂いに敏感になっていった。薬湯が鉄の味がするのも、気付いてしまった。それでもリサは笑う。

 アルストロメリアがリサに対して行った数々の事を理解していながらも、アルストロメリアの働きかけに自らの意思に便乗し、身をゆだねた。その事に疑問も憤りも感じず、当然の行為だと認識していた。

 いつの間にかリサの全てはアルストロメリアのモノになっていたから。


「大好きよ。私は全部アルのモノよ。だからアルも」

「ああもちろん。リサの全ては僕のモノだよ」


 ふわふわ。

 ちらちら。

 外を埋める雪が小さな箱庭を埋める。

 リサの為だけに作られた優しい箱庭の中で、リサは何かを思い出そうとする自分をそっと押し込めてアルストロメリアの腕の中でまどろんだ。


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