魔物と魔法使い
積まれていた荷物の落ちる音がし、人間は衝撃に耐えきれず雪崩のごとく倒れ、女の高い悲鳴が響く。光り輝いていた機関車の灯りが点滅し、どこかの窓が割れたのだろう、車内に強い風が吹いた。
衝撃でワイズに倒れこんだ俺が顔を上げると、まるで何事もなかったかのように「大丈夫?」と笑顔を向けてきた。ここからだと帽子で隠れていた瞳がよく見える。ひとつは髪の毛で隠れていたが、色は真紅に輝いていた。
支えられていた体を立て直し、車内を見渡す。乗客は突然の出来事にパニックを起こしている。…無理もない、ここは世界と世界の狭間。暗闇に覆われた、虚無の空間。そんな暗闇での衝撃の原因は一つしか考えられない。
「ああ、でも、言われてみれば赤い髪に緑の瞳…、たしかにダランにそっくりだね! じゃあ童顔は遺伝ってことになるのかな?」
「…今はそんなこと…」
「確かに緊急事態みたいだけど…、存外君は冷静じゃないか。慣れてる…ことはないよね、ふふ、優秀優秀」
こんな事態がおこっているのに褒められても嬉しくない。ただ無表情でいるだけで、冷静なわけではない。…いられるわけがないだろう。緊急事態の原因なんて、十中八九決まっている。
「魔物だッ!! 魔物が出たぞ…ッ!!」
後方車両にいた人乗客がここに雪崩混んでくる。みんな顔を真っ青にし、女や子供は泣き、老夫婦は神に祈りを捧げている。
虚無の魔物は不死身だ。全身が黒い影のようなもので出来ていて物理攻撃は効かない。唯一、聖水や魔法なんかが奴らを追い返すことの唯一の手段だが、どちらにしろ一般人はあいつらに対抗できない。できることといったら今みたいにとにかく逃げること。…それもこの虚無を走る機関車のなかでは限られている。
「ふふ、じゃあいこうか優秀なロストくん。面白いものを見せてあげよう」
「…まさか」
「いい忘れていたけど、僕は一応魔法使いでね。こういうことには慣れっこなんだ」
ワイズが俺を立たせるとそのままの手を引いて人を掻き分けていく。傍にあった棒を持つと、不思議な装飾がきらりと輝いて、棒先に光が集まった。「魔法使いだ!道をあけろ!」と叫ぶと、ワイズの前に道が出来、周りはわああっと希望の声をあげた。
「……へへ、こういうガラじゃないんだけど、この方がいくらか頼りがいありそうでしょ?」
俺の視線に気づいたワイズが照れ臭そうに言う。…本当に慣れてる。魔法使いってことも確かにあるんだろうけど、周りをあの一言で安心させるのは、純粋にすごいと思った。
先頭車両を抜け、二両目を通る。ここでまどが割れていたらしい。前半分は先頭車両に乗り込もうとする人で溢れているが、三両目にいくともう人はいなかった。ついに最後、四両目に渡る時にワイズがかえった。
「…それにしても肝が座ってるねロストくん、逃げ出したくないの? 相手はあの魔物だよ? 手なんか、すぐ振り払えばよかったじゃないか」
人を連れてきといてよく言う。…まず、そんな嬉しそうな顔をして言うことじゃないだろう。本当に変な人だ。そもそも。
「…あんたが面白いもの見せてくれるって言ったんだろ」
「ふふ、そうだったね」
「それに」
ワイズの手を握り返す。皮のグローブのついた手からはわずかに温もりが感じられた。
「頼れる魔法使い、なんだろう」
「…ふふ、ははっ! …いい子だねロスト。君ならこれからきっとーー」
ワイズが俺の頭を撫でて微笑み、何か言いかけた。しかしそれはバァァンッ!!!っと何が吹き飛ぶ音にかき消された。反射的に瞑った目を開けると、さっきまでいた通行口の前に黒く、巨大な、魔物がいた。
「あれが魔物…、言わなくてもわかるね。…びっくりしたかな、ごめんね。君はそこで見ていて」
ストンと座席に降ろされ、自分がワイズに助けられたのだとわかった。もし、あそこにいたままだったら。そう考えるのすら恐ろしい。人のような形をしたその黒い巨体、顔らしい部分にある赤いひとつの目のようなもの。全身に黒いチリがまとわりついている。
「…魔物は、一般的には不死身だとされているけれど」
ワイズが光を宿した棒…、いや、魔法の杖を高く振りあげると、その先に光が集まり出す。やがて人の顔ほどになった光の球ができると、魔物はそれに対抗するかのように巨体から黒い影を伸ばす。飛び上がって刃のような影をよけると、そのままワイズは魔物めがけて棒を振り下ろすーー。魔物はそれに反応できず、一瞬で勝負がついたかと思った。しかし。
「それを殺さないでくれ…ッ!!」
「…っ!?」
男の悲痛な声に反応したワイズが咄嗟に動作をやめ、反応のおくれた魔物の影がそれを捉える。が、間一髪それをよけワイズは床に降りた。 すると四両目から女の人に肩を借りながら、血塗れの男が現れた。…さっきさけんだのはこの、逃げ遅れた乗客だろう。
「頼む、殺さないでくれ…ッ! その魔物のなかには……が…、娘がいるんだ…!」
ひどく掠れた声で男が叫んだ。
魔物は、人を取り込むと言われている。あの大きな巨体はその取り込んだ人や物の数だけ肥大し、強くなる。過去にはひとつの町が魔物によって喰われてなくなったこともあるとされている。…そして、取り込まれた人間が戻ってきたことは今まで一度もない。
「…あなたの気持ちはわかるが、魔物にのまれた人間は帰ってこない。この列車にはまだ多くの人が乗っている。…この意味をどうかわかってほしい」
「…ッあんたは魔法使いじゃないか!! 助けられるだろう…!!?」
「……」
ワイズが少し傷ついた顔をする。…こいつはこの緊急事態に慣れてるといった。きっと、今までにも同じことがあっただろう。…魔法使いは魔物を払うことはできても、魔物に取り込まれた人間を助けることはできない。
魔物を倒すことは、取り込まれた人間を助けるということとは違う。
「助けてくれッ!! 大切な、大切なたった1人の娘なんーーッ」
先ほどまでワイズのことを気にかけていた魔物が、夫婦のほうを向く。負傷した彼らは逃げることはおろか、その前に恐怖で動くことが出来ない。ワイズも助けようと走り出すが、あそこからは間に合わないだろう。魔物が刃のような影を、夫婦にむけて風を切る速さで伸ばした。
それに気がついたときにはもう、俺は走り出していた。