認識
ある日突然現れた、昴という旅人は、ある日突然、エミリオの館に来なくなった。
昴が館の監視をかいくぐってエミリオの部屋まで辿り着き、エミリオと話をするというのはすでに習慣となっていたためか、エミリオにとっては動揺するしかなかった。この習慣が成立してから、エミリオは自分から部屋の掃除をするようになった。昴が外から持ち込んでくる話を心待ちにしていた。
昴という未知の人間のおかげでか、エミリオはだんだん人間らしい心を覚えるようになった。今までの彼は、両親がすべてであり、彼らのお気に召すような生き方を第一に考えるような、いわば人形だった。それが今となっては、そんなことを考える暇がなくなったのだ。昴の話に期待を抱き、昴にからかわれると顔を真っ赤にしてむくれ、昴に体のどこかを撫でられると無性にうれしさを感じる。ロックウェル兄弟やナノの努力では決して叶わなかったことが、異国の少年によってあっさりと成就した。
「ソール兄さん。昴は?」
エミリオは、部屋のベッドを整えている最中のソールに問うた。
「うん? 見てないよ。そのうち来るさ」
「そうだね」
エミリオは窓を開け、門を眺めた。いつもなら、この時間帯には必ず来るのに。いつまで経っても、来ない。
「どうしたんだろ」
「あいつにはあいつの都合があるんだよ」
「でも、今までは絶対に来てたのに」
「風邪ひいたとか、追っ手に見つかっちまったとか、そんな感じかもな」
「うん……」
エミリオは終始、沈んだ表情で一日を過ごした。結局、その日は来なかった。
次の日、また来なかった。エミリオは寝不足を訴え、それでも朝の決まった時間には起きたが、昼食を取った後にベッドにもぐりこんだ。眠れなかった。きつく目を閉じても、難しい本を読んでも、駄目だった。本を読んでも、内容が頭に入ってこなかった。
その次の日も、昴は来なかった。エミリオは相変わらず寝不足だし、食欲もなかった。大好きな読書もつまらなかった。だんだん、エミリオにとって何もかもがつまらないものに変貌していった。
一週間もすると、エミリオは寝込んだ。ユウヤの診察によれば、体に異常はないとのことだったが、エミリオ本人が体調の悪さを訴えていたので、彼を安静にさせることにした。
「で、具体的にどこが痛いんだ?」
ベッドに横になるエミリオに、ユウヤは聞いた。
「痛いというか……苦しい」
「苦しい? どこ?」
「……胸かなあ。なんかこう、ぎゅっと締めつけられる感じで、苦しい」
「なるほど。ほかに苦しいとこはあるか?」
「ない。胸だけ」
「熱もないんだよな。吐き気とか頭痛はするか? 腹痛は?」
「どれもない。胸だけ苦しい。……あと、なんか急に泣きたくなる」
「泣きたくなる?」
「ヘンな言い方だけどさ、胸がぽっかり空いた感じがして、今は何も楽しくない。つまんない。退屈。それに胸はずっと苦しい。これ、どんな病気?」
ユウヤは、理解した。これは医学的な病名を持たない、心の病気だと。エミリオを不安にさせないよう、ユウヤは努めて優しく微笑み、彼の額を撫でた。
「それはな、”寂しい”っていうんだよ」
「さびしいってなに?」
「んー、そうだなあ……説明が難しい。いつも一緒にいる人がさ、ある日突然自分の傍から消えちゃうとするだろ。その人は自分にとって、傍にいるのが当たり前だってくらいの人でさ。その人がいなくなって、初めてその人が自分にとってなくてはならない存在だったって気づいたりする。うーん、つまりな……自分にとっての当たり前が、なくなっちゃうってことだと思うんだ」
「そうなると、胸が苦しくなるの?」
「なるよ。これはとても苦しい。薬で癒せる病気じゃないんだ」
「どうしたら、治るかな」
「当たり前のものが、戻って来たら治る」
「もし戻ってこなかったら?」
「分からないな」
「ユウヤ兄さんでも、わからないことってあるの?」
「そりゃあるさ。俺だって人間だ。万能じゃないからな。……さ、これを飲みな。ぐっすり眠れるよ」
ユウヤはコップ一杯の水をエミリオに差し出す。その中には、睡眠薬が溶かしてあった。水を飲み干してベッドに戻ったエミリオは、すぐに眠った。彼にとっては、久しぶりの深い眠りだった。
――さびしい。これは、さびしい。
両親の人形として生きてきたエミリオは、寂しいという感情を初めて実感した。
今まで輝いて見えた世界が、今は色褪せている。なんでだっけ、と無意識に考えた。無意識の中で思い浮かぶのは、昴という異国の少年ばかりだ。
――あ、そっか。
エミリオは、理解した。
――僕の当たり前、昴だったんだ。
エミリオは、昴のいない世界がいかに寂しいものを、認識した。
だんだんと自分の感情に気づいていくリオンです。それにしても今回は昴出て来なかったな……