自伝小説 氷点下のアンビエント part6
一話完結のラブストーリーです。
Mちゃんと初めて同じクラスになったのは、小学三年生の席替えだった。
いつも赤いトレーナーを着ていた。
少しくせのある髪を後ろで束ねていて、笑うと目尻が下がった。
後になって思えば、あの頃から整った顔立ちをしていた。中学生になると、学年で一番の美人だと噂されるようになるのだが、そのときの僕はそんなことを知らない。ただ、隣の席にいる女の子だった。
ある昼休み、僕は机に突っ伏して狸寝入りをしていた。
すると、
「このひと寝てるよ」
とMちゃんの声がした。
くすくす笑う声が二つ三つ重なる。
僕は勢いよく顔を上げた。
「寝てねーよ!」
その瞬間、額から何かが落ちた。
定規だった。
Mちゃんが腹を抱えて笑った。
「あはは!」
その顔を見た瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。
今なら恋だったと言える。
でもあのときは、ただ心臓がおかしくなっただけだった。
それから僕たちは仲良くなった。
放課後、一緒に帰ることも増えた。
ある日、
「うち寄ってく?」
とMちゃんが言った。
僕は何も考えず、
「うん」
と答えた。
子どもというのは恐ろしい。
他人の家へ行くことが、どれほど特別なことなのか知らない。
ただ面白そうだから付いていく。
それだけだった。
団地だった。
薄汚れた灰色の階段を上がり、細い通路を歩く。
Mちゃんが立ち止まった。
「ここ」
ドアが開く。
その瞬間だった。
風が吹いた。
いや、風ではない。
空気だ。
家の奥から流れてきた生活の匂い。
洗剤。
汗。
夕飯の支度。
布団。
子ども。
その全部が混ざった匂い。
その中心に、Mちゃんの匂いがあった。
学校で横に座ったときにかすかに感じる匂い。
それを何倍にも濃くしたような空気が、僕の顔を撫でて通り過ぎた。
胸がぎゅっと縮んだ。
学校のMちゃんじゃない。
もっと近い。
もっと柔らかい何かだった。
「ただいまー」
Mちゃんが言った。
「友達連れてきた」
僕は小さな声で、
「お邪魔します」
と言った。
そして顔を上げた。
衝撃だった。
床がなかった。
いや、正確にはある。
見えないのだ。
部屋いっぱいに布団が敷かれていた。
一面。
本当に一面。
海みたいに。
僕の家には居間があった。
ちゃぶ台があった。
テレビがあった。
だけどMちゃんの家には、まず布団があった。
暮らしの中心に。
家族の真ん中に。
波打つみたいに広がっていた。
奥では弟らしい男の子が遊んでいた。
台所ではお母さんが夕飯を作っていた。
包丁の音がする。
味噌の匂いがする。
布団の匂いがする。
Mちゃんの匂いがする。
僕はどこに座ればいいかわからなくなった。
結局、適当な布団の上に腰を下ろした。
沈んだ。
少しだけ。
するとMちゃんが突然、
「もうっ、Jのおかげで私、こんなことするようになっちゃったじゃない!」
と言った。
枕を抱えた。
ギターみたいに構えた。
そして歌いながら踊り始めた。
僕は笑った。
学校での僕は馬鹿だった。
変なことばかり言っていた。
変なことばかりしていた。
優等生だったMちゃんは、それを面白がった。
最初は呆れながら。
そのうち真似するようになった。
誰もいないところでだけ。
僕の前でだけ。
夕方になった。
帰らなければいけない時間だった。
「そろそろ帰る」
と言うと、
Mちゃんは
「送る」
と言った。
様子がおかしかった。
今でも覚えている。
少し息が荒かった。
顔が赤かった。
何かと戦っているようだった。
「もういいよ」
と言っても、
「まだ」
と言う。
僕の半歩後ろを歩く。
何も話さない。
ただ付いてくる。
魚屋の角まで来た。
店の脇に物置があった。
夕日が斜めに差していた。
魚の匂いが少しした。
Mちゃんが言った。
「ちょっとこっち来て」
手を引かれた。
物置の陰だった。
狭かった。
向かい合う。
近い。
近すぎる。
赤いトレーナーの毛玉が見えた。
胸元のあたり。
小さな毛玉。
何個も。
その毛玉を見ていた。
見ていないと駄目だった。
顔なんか見たら死んでしまいそうだった。
前髪が揺れた。
Mちゃんが何か言おうとした。
唇が少し開いた。
閉じた。
また開いた。
言葉は出なかった。
代わりに、
唇が来た。
柔らかかった。
Mちゃんの匂いがした。
団地の匂い。
布団の匂い。
夕飯の匂い。
汗の匂い。
洗剤の匂い。
全部が混ざっていた。
頭の中が真っ白になった。
時間が止まったのか。
何秒だったのか。
何分だったのか。
わからない。
離れたあと、
Mちゃんは少し笑った。
恥ずかしそうに。
だけど逃げなかった。
まっすぐ僕を見た。
そして小さな声で言った。
「みんなには内緒ね」
夕日が赤かった。
トレーナーも赤かった。
頬も赤かった。
全部赤かった。
「じゃあ、また明日」
そう言って、
Mちゃんは走っていった。
夕日の中へ溶けるみたいに。
僕はしばらく動けなかった。
魚屋の前で立ち尽くした。
唇を触った。
何も変わっていなかった。
世界も変わっていなかった。
車が通る。
犬が吠える。
遠くで子どもが笑う。
何も変わらない。
なのに、自分だけが別の場所へ放り込まれた気がした。
それから僕は走った。
交差点まで。
息を切らしながら。
手紙を書こうと思ったのだ。
何を書こうとしていたのかは覚えていない。
好きです、だったのか。
ありがとう、だったのか。
僕にもわからない。
あのキスが何だったのか、五十歳を過ぎた今でもわからない。
恋だったのか。
衝動だったのか。
寂しさだったのか。
それとも子どもだけが知っている何かだったのか。
ただ一つだけ確かなのは、
三十年以上経った今でも、あの日の夕日の色と、赤いトレーナーの毛玉だけは、異様なほど鮮明に思い出せるということだ。
肝心なことほど忘れていくのに、
どうでもよさそうな毛玉だけが、
まるで昨日見たものみたいに残っている。




