福田幸太郎
一
――おかしい。何か変だ。
サイト運営者の湯島に対して、十分おきに通算四度目の電話をかけても繋がらず、幸太郎は異変を感じ取って首を傾げた。そうこうしている内に、川崎愛の実家がある街に到着してしまった。
ネットからの情報によれば、川崎の両親は借金まみれの生活を送り、今は古びたアパートに住んでいるという。まとめサイトに掲載された住所を手掛かりに住宅街を進むと、ちょうど鈴木結衣の家に似通った、年季の入った木造二階建てアパートに辿り着いた。
またしても、マスコミが群がっていることを予想していた幸太郎は、閑散とした様子に拍子抜けした。住所を間違えたのではないか、偽情報だったのではないかと疑ったが、ボルボを近くのコインパーキングに停め、アパートに引き返して、錆びついた外階段を上ってすぐの部屋のドアを見ると、表札代わりに『川崎』と書かれたシールが貼られていた。間違いなく、ここに川崎の両親が住んでいるらしいが、ドアの向こうからは何も聞こえてこない。日本中を騒がす事件の当事者の家族が住んでいるとは到底思えないほど、静かな時間が流れていた。
おかしい。幸太郎は不思議に思った。中村のマンションの前には、あれだけ多くのマスコミがいたというのに。川崎本人の家ではなく実家だから取材が来てないのだろうか。それにしても、誰一人としていないのは変だ。ここまで来るドライブ中に、他に何か世間を賑わす重大な事件が起きたのではないかと考え、その場でスマートフォンを取り出してネットニュースを開いた。その瞬間、ここにマスコミの姿がなくなった理由がわかった。大物俳優と女優のW不倫発覚が大々的に報じられている。大手ニュースサイトの見出しは、そのニュースで占められていた。今や日本人の関心は完全にそちらへ向けられてしまっている。
移ろいやすい国民性ということは幸太郎も十分に承知しているが、失踪事件について昨日から一生懸命になって調査してきただけに、急にハシゴを下ろされたようで呆気に取られ、虚脱感を覚えた。このまま事件を調べ、仮に真相に辿り着いたところで、大して話題にならないかもしれない。ただの骨折り損に終わる可能性のほうが高い。ここらで打ち切ろうか。
だが、一度乗りかかった船から中途半端に降りるのは気持ちが悪い。いっそのこと、浮気調査の依頼が舞い込んでくれればスパッと踏ん切りがつくのに。そんなことを考えていると、タイミングよく着信音が鳴った。まさか本当に依頼が? とスマートフォンの画面を見た幸太郎は、そこに湯島の名前と電話番号を見つけ、「もしもし?」と急いで応対した。
「……ほうがいい」背景に雑音が多く、湯島の声は掠れて聞き取れない。
「何だって?」幸太郎はスマートフォンの音量を上げて耳に押し当てる。手すりに肘を置いて地上を見下ろすと、収集日を間違えて出され、放置されたゴミ袋をカラスの群れがクチバシで突っつき、生ごみを漁っていた。そのすぐ近くには錆びた自転車が置かれ、『粗大ごみ』のステッカーが貼られている。
「やめたほうがいい」今度はちゃんと聞き取れた。湯島は苦しみ喘ぐような声で何かを忠告しようとしているらしい。だが、その言葉だけでは幸太郎には意味が通じず、
「やめるって何を?」頭を傾げながら訊き返した。「調査をってことか?」それとも、川崎の実家を訪れることをだろうか? そう思い当たり、幸太郎は手すりを背にして振り返った。ドアの向こうから微かに物音が聞こえたような気がした。
「奴らは頭がイカれてる」湯島の呼吸は荒い。誰かに追われているのか、切羽詰まった感じが伝わってきて、スマートフォンを持つ幸太郎の手にじんわりと汗が滲んだ。
「奴らって?」と訊き返しながら、幸太郎は湯島と会った時に彼が言っていた言葉を思い出した。
『調査を続けるのはリスクも高そう』。
『もしかしたら、相当ヤバいかもしれない。何せ、頭のイカれた連中だからね』
そんなことを言っていた。あの時の湯島は、幸太郎をからかったり脅したりするのではなく、本当に何かを懸念する様子だった。湯島の言う『奴ら』『連中』とは何者なのだろう。返事が聞こえてこず、
「おい、どうした?」幸太郎がスマートフォンに向かって問いかけたのと同時、目の前のドアがゆっくり開けられ、それに合わせたように湯島との通話は切断されてしまった。幸太郎がすぐに電話を掛け直そうとすると、ドアの隙間から中年の男が半身を覗かせた。頭頂部が禿げ上がり、頭のサイドから後頭部にかけてはフケだらけの髪が無造作に伸びている。顔はシミだらけでむくみ、白いものの混じった無精髭を生やしている。服装は黄ばんだ白いタンクトップにベージュ色のステテコ。汚れたビーチサンダルを突っかけている。
「ああ」男は呻くように声を出し、「本部の方ですか?」恭しい様子で訊いてきた。
「本部?」幸太郎は首を傾げる。遠藤大輔の実家を訪れた時にも、彼の両親から同じことを訊かれた。
『失踪した八人にはある共通点があるんだ』
幸太郎は、湯島の言葉を思い出した。もしかしたら、その『本部』と、湯島の言う『連中』は同一なのではないか、と考えつつ、恐らく川島愛の父親である男に対して、身分をどう偽り情報を引き出そうかと思案を巡らせた。そして、
「実は以前、心臓発作を起こして道で倒れた時、川崎愛さんに救急車を呼んでもらい、一命を取り留めたことがありました」という設定にすることに決めた。「お礼のために連絡先を訊いたところ、こちらの住所を教えて頂いたのですが、愛さんのお父様ですか?」と続けると、意外な訪問者に男は驚き、ドアを開いて全身を出した。
「はい、そうです」と、出っ張った腹を手で掻きながら、「愛がそんな人助けを? 意外だなぁ。ここの住所を教えるのも意外だぁ」呆けたような顔で幸太郎を見つめる。その背後から物音がして、「お父さん、本部の方?」と、痰混じりの女性の声が聞こえてきた。愛の母親らしい。父親が身体をどけると、おかっぱ頭に細い目をした、こけし人形を老けさせたような、あずき色のワンピースを着た女性が姿を現した。
「いや、違うよ」父親は顔の前で手を振り、「道で倒れたところを、愛に助けてもらったことがあるらしい。わざわざお礼に来てくださったそうだ」と、幸太郎のほうを向いて、隙間だらけの黄ばんだ歯並びを見せて笑いながら会釈をする。
「愛が人助けを?」木製のサンダルを突っかけて顔を出した母親は、細い目を精一杯に見開いて幸太郎を見つめる。驚きの表情を浮かべているらしい。幸太郎は笑顔を取り繕い、
「お陰様で命拾いしました」と頭を下げ、「直接会ってお礼を言いたいのですが、お嬢様は今、どちらに?」失踪事件のことなんてまるで知らない、という態度で訊いた。そして不思議に思った。愛の両親もまた、娘が姿を消したというのに、まるで平然とした様子でいることを。
幸太郎の言葉に二人は顔を見合わせると、
「すいませんね、娘は今、出稼ぎに行ってるもので」父親が何事もないかのように朗らかな調子で答えると、
「お名前を伺ってもよろしいですか? お礼に来られたと娘に伝えておきますので」と、母親がすかさずフォローした。だが、幸太郎にだって意地がある。ここまで来て何も収穫がなければ、骨折り損もいいところだ。
「お気持ちは有難いのですが、愛さんがいなければ、わたしは今、生きていなかったかもしれません。できれば直接、お礼をさせて頂きたいのですが、出稼ぎしてる場所を教えてはもらえないでしょうか」どうにか粘ってみると、両親は揃ってため息を吐くような様子を見せた。それから互いに顔を見合わせ、
「申し訳ない。事情があって、娘の居場所を教えるわけにはいかないのですよ」父親が幸太郎のほうを向いて、すまなそうに頭を垂れた。
「事情というのは?」どうにか、失踪事件の真相を解く手掛かりを掴めないだろうか。幸太郎は焦る気持ちを抑えながら、なおも粘る。だが、それを妨害するように、父親のステテコのポケットから着信音が鳴った。
「ちょっと失礼します」父親はスマートフォンを取り出して画面を見ると、「本部の方からだ」と呟いて電話に出た。スマートフォンを耳に当て、母親のほうを見ながら、
「もしもし、川崎ですが」と応対すると、途端に笑顔になり、「ええ、お待ちしております。え? そうなんですか?」玄関から出て幸太郎の隣に立ち、手すりに片手を置いて階下の道路を左右見渡した。母親もそれに倣い、幸太郎の隣に立って下を覗く。
夫婦に挟まれた形になった幸太郎は、『本部』の人間が来たのだと直感して、二人と同じく道路を見渡すと、黒塗りのベンツがこちらへゆっくり進んでくるのが見えた。その運転席を見た瞬間、幸太郎の心臓は停まりかけた。髪の毛をオールバックにして整髪料で塗り固め、シームレスメガネをかけた、スーツ姿の三十代前半くらいの男が座っていたからだ。遠藤大輔の家で出くわした男と同一人物ならば、愛に礼を言うために来たことが嘘だとバレてしまう可能性がある。そうなれば素性が疑われるだろう。
面倒なことになるかもしれない。いや、そもそも『本部』とは何のことを言っているのかもわからない。ただ、それが大輔と愛の共通点であることはわかった。もしかしたら、失踪した他の人たちも、『本部』と繋がりがあるのかもしれない。今すぐこの場から立ち去りたい気持ちと、『本部』について知りたい気持ちが、幸太郎の中でせめぎ合う。せめて、彼が何者なのかだけ訊いておこう。そう決めて、
「あの方は?」幸太郎は父親に訊ねた。「本部の方と言ってましたけど、何の本部なんですか?」
「シンシンフクシキョウですよ」父親は道路を見下ろしたまま口にする。
「シンシンフクシキョウ?」耳慣れない言葉に幸太郎が戸惑っていると、
「わたしたちは昔から、色々な新興宗教に騙されてきました」母親が横から口を出した。「自分たちが唯一無二で、自分たちの教えを守れば必ず幸せになると、言われるままに献金やら霊感商法やらでお金を搾り取られ、遂には自己破産するまでに至りました。親戚や友人からもそっぽを向かれ、孤立したわたしたちを救ってくださったのが、シンシンフクシキョウだったのです」
「シンシンフクシキョウというのも、宗教団体ということですか?」
「ええ。でも、今まで入信していたどの宗教団体とも違いました」
ベンツを見つめる母親の目は、まるでアイドルの出待ちをする少女のように熱っぽかった。結局、また宗教にハマっただけじゃないか、という言葉を幸太郎はグッと飲み込み、
「その違いとは何です?」と母親の横顔を見つめる。
「今の時代を生きるわたしたちだけでなく、その先の未来のことも考えてくださっている点です」
「はあ?」具体的にはどういうことだろう。だが、もっと踏み込んだ質問をするにはもう時間がない。幸太郎はそう思いながらベンツを見下ろしたが、先程よりも近づいたことで、運転手の顔の造作が大輔の家で会った人物とは微妙に違うことに気づいた。これなら急いで立ち去る必要はないかもしれない。もしかしたら、失踪した八人の共通点を探ることができるかもしれないと思い、もう少し留まることに決めた。
「ちょっと勉強不足でわからないのですが」幸太郎はへりくだった微笑を浮かべる。「未来のことも考えるとは、具体的にはどういった活動をしているんですか?」
「それは――」母親が説明しかけたところで、
「本部の方がお見えになられています」父親が口を挟んだ。「もしお時間があるなら、話を聞いていかれてはどうでしょう? 口下手なわたしたちが説明するより、よっぽど詳しくシンシンフクシキョウの素晴らしさを知ることができると思います」
その提案に惹かれる一方で、幸太郎は愛の両親から妙な圧力を感じた。にこにことした笑顔には感情が感じられず不気味に思える。
「あまり時間がないのですが」と予防線を張り、「少しでもいいので、ぜひ話をお聞かせ願いたいです」と申し出ると、両親の顔はパッと明るくなった。
そうこうしている内に、アパートのすぐ目の前にベンツが停まり、中から男が出てきた。背筋を伸ばし、幸太郎たちを無表情で見上げる姿は、まるでアンドロイドのように思えた。
「お忙しいところ、わざわざすみません」父親が外階段を降りて出迎えると、母親も後に続いた。幸太郎もそれに従うと、男が値踏みするような視線を送ってきた。何もかも見透かしたような目は、遠藤大輔の家で会った男と似通っている。
「そちらの方は?」愛の両親への挨拶もそこそこに、男は幸太郎の正体を知りたがった。父親が事情を説明して、
「シンシンフクシキョウについて興味が湧き、活動内容を知りたいそうです」と付け足すと、男は急に生命が宿ったように柔和な表情になり、
「それはそれは。入会を心よりお待ちしております」握手を求めて右手を差し出してきた。幸太郎が握手に応じると、男は力強く手を握り、
「シンシンフクシキョウのセリザワと申します」と、やり手の営業マンのように自然な笑みを見せ、幸太郎から手を離してジャケットの内ポケットをまさぐった。幸太郎は一瞬、セリザワが拳銃を出すのではないかという錯覚を抱き、身を竦めた。だが当然、そんなものを取り出すはずもなく、内ポケットから手にしたのは名刺入れだった。なぜ、拳銃などという危険なイメージが湧いたのかわからず、戸惑う幸太郎に、セリザワは笑みを絶やさぬまま名刺を差し出してきた。
『新進福祉教 メディカル開発局開発部部長 芹澤恭一』
「新進福祉教……」見覚えのない宗教名に、幸太郎はどうリアクションをすればいいのか悩んでしまう。
「ええ。ご存じないですか?」
「世事に疎いもので、申し訳ないです」
「いえ、まだ設立間もないですから、気になさらないでください」芹澤は気分を害した様子もなく微笑む。「これを機に入会して頂けたら幸いです」
「こちらこそ。あ、えっと、今、名刺を切らしてしまっていて。すみません。福田と申します」
「そうですか」芹澤は笑みを消して、思案顔で幸太郎を見つめると、「福田さんのご住所を教えて頂ければ、わたしから資料をお送りさせて頂きますよ」と提案してきた。
幸太郎は、芹澤に自分の住所を知られるのが何となく恐ろしく感じられたが、拒否するとあらぬ疑いをかけられると思い、
「お手数でなければ、ぜひ」と頭を下げた。
「では、わたしに任せてください」芹澤は再び笑顔になって、ポケットからメモ帳を取り出した。幸太郎が口にするアドレスを、モンブランの万年筆ですらすらと書き留めていく。よく見ればスーツや腕時計もブランドものばかり。かなり羽振りがいいらしい。
「承知しました。この住所に資料を送らせて頂きますね」メモを終えた芹澤は、万年筆と手帳をジャケットの内ポケットにしまい、口元だけで笑ってみせる。
「よろしくお願いします」幸太郎は、芹澤の笑顔の中に潜む冷徹な目に見つめられることに耐えられなくなり、早くこの場を後にしたくなった。「すみません、用事があることを忘れていました。お話を聞けなくて残念ですが、わたしはこれで失礼させてもらいます」
「お見送りしますよ」すかさず芹澤が応じた。「ここまではどうやって?」
「車で来ました。近くのコインパーキングに停めてあるんです」
「そうですか」
幸太郎が路上に出ると、芹澤と愛の両親が後に続いた。まさかコインパーキングまでついてこないだろうなと、幸太郎が懸念を抱きながら歩き始めると、
「ああ、お二人はここでお待ちになっていてください。駐車場までお見送りする間に、わたしが福田さんに、新進福祉教について簡単にご説明させて頂きますので」
芹澤が愛の両親にそう申し出たものだから、幸太郎はドキリとした。しつこく勧誘されるのではないか。あるいは、失踪事件について嗅ぎ回っていることを見抜かれてしまったのではないか。芹澤の目には、人の心を見抜くような鋭さが感じられ、二人きりになるのは気が乗らなかった。
「あ、お心遣いは感謝しますが、ご用事があって訪問されたのでしょう? わたしのことはどうか気になさらずに。送って頂く資料をじっくり拝見させて頂きますから」
丁重に断ったつもりだが、
「まあ、そう仰らずに」芹澤は親しげな笑みを見せ、幸太郎の背中に軽く手を添えてきた。「お二人も、新たな仲間が増えることを歓迎してくれますから、少しの時間を割いても気になさらないですよね?」と、愛の両親に同意を求めると、二人は会心の笑顔で頷いた。
「わたしたちも芹澤さんに誘われて入会したんですよ」と父親。
「こういう出会いも何かの縁ですから」と母親。
「あ、そうですか」幸太郎は気乗りしないものの、無下にするわけにもいかず、「お邪魔しました」と二人に挨拶をすると、芹澤と肩を並べ歩き出した。
「失礼ですが」芹澤は、観察するような目で幸太郎を見つめながら、「福田さんは、ご家族は?」と切り出す。
「高校生の時に父親が死んでからは天涯孤独の身です。探せば親戚の一人や二人はいるんでしょうけど」
「ご結婚は一度も?」
「ないです」何だか尋問されているようで、幸太郎は居心地が悪くなった。コインパーキングに着いて車に乗り込んでしまえば撒けるだろうと、自然に早足になる。だが、
「では、例えばですよ」と芹澤に肩を掴まれ、強引に足止めされてしまう。「事故や病気で寝たきりになった場合、どうなさるおつもりですか?」
「どうなさるって」幸太郎は困惑する。根が楽観的なために、そのようなネガティブな未来予想図を描いたことはなく、保険にも加入していない。「その時はその時。なるようになりますよ」と答えるしかなかった。
「ならないのですよ。その時にはもう手遅れ。きっと、いや絶対に、今の発言を後悔します」芹澤は熱を帯びた口調で断言する。「福田さん、失礼ですが、貯蓄のほうはされてますか?」
「ないです」会ったばかりなのに、遠慮なく質問してきて、本当に失礼な奴だな、と幸太郎は辟易する。
「まったくですか?」と、芹澤は目を見開いて驚きを露わにする。
「まったくってわけじゃないけど」限りなくゼロに近い。幸太郎は、銀行通帳の残高を思い出しながら、改めて自分は貯蓄などには向いてないと思った。
「まずいですよ、福田さん」不安を煽るように芹澤は言う。「お金もなく、世話をしてくれる身内もいない。孤独の中で絶望を抱くことになりますよ」
「寝たきりになったら、の話だろ」幸太郎はウンザリして、返す言葉も無意識にぞんざいになってしまう。「急いでいるので」と、芹澤の手から逃れ歩き出す。コインパーキングは目と鼻の先だ。車に乗り込んでさっさと逃げてしまおう。そう思い、先程以上に早足になる。
「人生に絶望感を抱いた時、福田さんはこうお考えになられるでしょう」芹澤は涼しい顔をして幸太郎の歩くペースに合わせてくる。「死にたいと」
「ハハ」幸太郎は鼻で笑う。
「何がおかしいのです?」眼鏡の奥から鋭い視線。芹澤が初めて感情的になった。
「俺は何があっても死にたいだなんて思わないね。絶望の中からだって希望を見出すさ。神様なんてものがいるのかは知らないが、何もかも悪いことずくめにして放っておくなんてことはないと思う。悪いことがあれば、いいこともちゃんと用意してくれる。きっとそうだ。今までだってそうだったんだから、これからだってそうだ」
幸太郎は、父親が急死した時のことを思い出した。確かに悲しかった。これからどうやって生活していけばいいのか、まったく不安を抱かなかったといえば嘘になる。だけど、探偵業を継いだことで様々な出会いがあった。自動車工場で働いていたら決して出会えなかったであろう人たち、経験をした。だから、例え寝たきりの身になろうとも、そこから有意義な人生が始まらないとも限らない。死を想うのは死ぬ直前。それまでは思い切り人生を楽しむ。それが幸太郎のポリシーだった。
「不安を煽って入会を勧めるのがあんたらの手口だってのは、この商売をしてればわかる。だが、相手が悪かったな。俺はそんな術中にハマったりはしない」幸太郎は勢いづいて続けたが、
「この商売?」芹澤が首を傾げながらその言葉に反応したことで、余計なことを言ってしまったと反省した。案の定、「福田さんのお仕事は?」と訊かれてしまった。
「あ、えっと、営業です。新規開拓の。だから、客を口説く手練手管は熟知してるってことです。ハハ」幸太郎は笑って誤魔化し、「ああ、しまった。もうこんな時間だ。本当に遅刻してしまう。わざわざお見送りありがとうございました。それではここで失礼させてもらいます」逃げるように駆け出した。追い駆けてくるのではないかと不安になったが、さすがにそれはなかった。
コインパーキングに到着すると、すぐにボルボを発進させた。すると、幸太郎が駆け出した場所にまだ芹澤は佇んでいた。そちらとは反対側にハンドルを切ってサイドミラーで確認すると、芹澤はスマートフォンを手にして、去り行くボルボを見つめている。まさか写真を撮ってるわけじゃないよな? 幸太郎は不安を抱き、すぐに角を曲がった。
サイドミラーから芹澤の姿が消えたことでようやく一安心。コンビニの駐車場に車を停め、スマートフォンでニュースサイトを検索した。世間の注目は完全にW不倫へと流れてしまっているが、それでもいい。遠藤大輔と川崎愛の両親が、新進福祉教なる新興宗教に入会しているという共通点を見出した今、失踪事件との関わりを、幸太郎は損得抜き、単純に興味本位で探ってみたくなった。
湯島が言っていた『共通点』も、恐らく新進福祉教のことを意味していたのだろう。その確認をすべく、幸太郎は再び電話をかけてみたが、すぐに留守番電話に繋がってしまう。そうなると今度は、先程の電話で湯島が喘ぐように伝えてきた意味深な言葉が気になり始めた。
『やめたほうがいい』というのは調査のことだろうか? それならば、『奴らは頭がイカれてる』の『奴ら』とは一体誰のことだろう? まさか、新進福祉教の信者のことだろうか?
不安と好奇心が双頭の竜のように幸太郎の心の中で激しくせめぎ合う。が、後者へと傾く気持ちのほうが勝った。このまま失踪者の素顔を知るための調査を続けよう。そう思い、新進福祉教に関する情報を集めるためネット検索してみた。
約十年前、白石統和によって創設された新進福祉教は現在、約五千人の信者を抱える。白石の出自や霊験あらたかなエピソードは飛ばし読みして、幸太郎はその教義や死生観に目を留めた。
『安楽死・尊厳死の合法化を推進』
『人体冷凍保存の研究』
『人生二百年時代の実現』
『不治の病の殲滅』
『人工子宮での妊娠、出産の研究』
この他にも、まるでSF小説の題材になりそうな項目が並び、幼稚な理想に幸太郎はつい苦笑いを浮かべてしまう。だが、『安楽死・尊厳死の合法化を推進』という点だけは見過ごせなかった。失踪した八人はいずれも死を望んでいた。とすれば、新進福祉教が手を貸した可能性は考えられないだろうか?
そう思いつつ、今度は教団が運営するサイトを開くと、メインページにでかでかと掲載されたシンボルマークに幸太郎の目は釘付けになった。大きな目を両手で包み込み支えるようなデザイン。どこかで見た記憶がある……そうだ! 遠藤大輔の両親がお揃いで装着していたネックレス。シルバーのコインに彫られていたのが、同じデザインのものだった。そのことを思い出した幸太郎は、ますます新進福祉教が裏で何らかの糸を引いているのではないかと疑った。
その疑惑を解消するためにも、まずは全員が新進福祉教に関わりがあることを確認する必要がある。
幸太郎が次にネット検索したのは萩原拓哉についての情報だった。現在二十八歳。元ホスト兼クラブ経営者だったが、新型コロナウィルスの影響で店を畳むハメになり借金まみれ。思いつきで始めた動画配信は箸にも棒にも掛からず、それ以降は住所不定になっている。
だが、ホスト時代の客が以前、萩原と女が一緒にいる姿をSNS上に投稿したことがあり、当時の写真が拡散されていた。女は猫目をしたシャープな顔立ちの美人。ネット上のまとめサイトでは、その女が勤めるキャバクラの店名と、そこでの源氏名と本名が特定されていた。
キャバクラ『リゾート』のナンバーワン嬢『ミサキ』。本名は岩倉梨穂。怖ろしいことに、梨穂が住むマンションや、出勤前にいつも利用する美容室の情報まで流れてしまっている。今の時代、プライバシーもへったくれもあったもんじゃない。事件の当事者だけでなく、その関係者まで人権無視で個人情報を晒されてしまうのだ。
幸太郎は薄ら寒さを感じつつも、調査の手間が省けたことをよろこんだ。おまけに、梨穂が住むマンションと『リゾート』、それから馴染みの美容院は、ここから十分足らずで到着する繁華街にある。W不倫騒動のお陰でマスコミの邪魔がなくなり、調査は随分やりやすくなっていることだろう。とはいえ、今はまだ昼過ぎ。夜営業のキャバクラならば、梨穂はまだ寝ているか、自宅でのんびり過ごしているに違いない。そう推測した幸太郎は、梨穂の住むマンションを目指してボルボを発進させた。
運転中も、幸太郎は何度か湯島への電話を試みたが、一向に繋がらない。そうなるとますます、先程の会話が気になって仕方なくなる。もしかしたら自分は、得体の知れない闇に深入りしようとしているのではないか。いや、もうすでにズブズブに踏み入ってしまっているのかもしれない。そんな考えに、芹澤の冷徹な視線が重なるように思い出され、背筋がスーッと冷たくなる。
まあいいさ。幸太郎はすぐさま楽天的な思考に切り替える。身に危険が及ぶと察知したら、すぐに撤退する。そもそも、湯島のイタズラの可能性だって考えられる。あるいは、失踪事件を追う競合相手を怯えさせ、調査から離脱させようと画策した可能性だってある。
結局、湯島には電話が繋がらないまま、梨穂が住むマンションの前に到着した。そこは繁華街のど真ん中。道路の先には、梨穂が勤める『リゾート』の看板が見えている。セキュリティの行き届いた豪壮な外観とは裏腹に、夜の仕事を営む住民が多いのか、平日の昼間だというのに、寝ぼけ眼をこすりながら、ほぼパジャマのような姿で、目の前のコンビニを行き来する若い男女が目立つ。そしてここにもマスコミの姿は見当たらなかった。
都合いいことに、そのマンションの前にコインパーキングがあり、エントランスが見渡せる位置にボルボを停め、幸太郎は梨穂が出て来るのを見張ることにした。結局、やることは浮気調査の時と変わらない。探偵は待つのが仕事だ。
梨穂の顔をドアップにした画像を表示させたスマートフォンをダッシュボードの上に固定して、エントランスから出てくる女と比較できるようにすると、シートを後ろに倒して、両手を頭の後ろで組んで楽な姿勢を取った。フロントガラスを通じて午後の陽が降り注ぎ、油断すると春のぽかぽか陽気に誘われて眠ってしまいそうになる。近くの自動販売機で缶コーヒーを買い、煙草に火を点けた。のんびりとした時間が流れる。
しばらくすると、目の前を学校帰りの小学生の集団が横切るようになった。その中の何人かは、幸太郎が見張るマンションへ入って行く子もいる。こんな繁華街のど真ん中に住むのは、教育上よろしくないのではないか、などと余計なお節介を考えつつ、刻一刻と時間は進み、やがて陽が傾き始めた。
梨穂らしき女性は一向に現れず、夕方に近づいてくると、ぼちぼち出勤の準備を始めるのか、お水の雰囲気を纏った女性がエントランスから出てくる機会が減った。
珍しく早起きをしたせいで、カフェインを摂取しても眠気を抑えることができず、幸太郎は次第に瞼が重くなるのを感じた。気を抜いたらすぐに眠ってしまいそうになる。ダメだ、梨穂が出てくるのを見逃すわけにはいかない。寝るな、寝るな……。
二
ハッと目が覚めた瞬間、周囲は暗く、目の前の道路は外灯に照らされ、マンションのエントランスが煌々と輝く光景を寝ぼけ眼で見て、幸太郎は一瞬、自分がどこにいるのか判然としなかった。背中とお尻が痛むことで、車内で眠ってしまったことに気づき、萩原拓哉の恋人である梨穂を待ち伏せしていたことを思い出し、
「しまった! クソッ」まんまと寝落ちしてしまった自分の愚かさを呪った。
時刻を見ると十九時半を回っている。『リゾート』は二十時開店で、お店のサイトによれば梨穂は今夜、オープンから出勤するらしい。ということは今、美容院でヘアーセットをしているかもしれない。『リゾート』に客として行き、話を聞く手もあるが、それでは余計な出費が掛かってしまうし、梨穂はナンバーワン嬢なだけに指名客がたくさんいる可能性がある。いや、人気嬢ならばこの時間は、同伴客とディナーを楽しんでいるのではないか。
寝落ちしてしまったために後手後手に回ってしまっている。幸太郎は苛立ちと焦りを感じながら車の外に出ると、とりあえず美容院へ向かうことにした。
目の前の道路を『リゾート』へ向かって歩き、突き当りを右に曲がってすぐの場所にある。幸いなことに、その美容院は全面ガラス張りになっていて、中の様子が一目瞭然だった。だが、客は戦闘モードに入りつつある夜の蝶ばかり。おまけに、新型コロナウィルス感染予防に、マスクを着用したまま髪の毛をセットしてもらっているのが半数あまり。この中に梨穂がいるとして、見つけ出すことができるだろうか。
幸太郎はスマートフォンの画面に梨穂の顔のアップ画像を表示させると、店内の人に気づかれないよう、道行く人に怪しまれないよう注意しながら梨穂を探した。すると一人だけ猫目が特徴的な女性を見つけたが、マスクを装着しているため確信が得られない。仕方なく彼女が出てくるのを待つことにした。
そうしているうちにも時間は進む。そうだ、梨穂がすでに出勤しているかどうか、『リゾート』に電話をかけて確認すればいいんだ。どうしてそのことに気づかなかったのかと、幸太郎が己の愚かしさを反省してスマートフォンを手に取った時、猫目の女性が椅子から立ち上がり、会計に向かった。電話は後にして、まずは彼女に話しかけてみよう。幸太郎は美容院の出口から少し離れた場所で待機した。
やがて、真っ白なドレスの上にスプリングコートを羽織った女性が美容院から出てきた。『リゾート』までは百メートルもない。逃がしてなるものかと、幸太郎はすかさず声をかけた。
「あの、すみません。梨穂さんですか?」
女性は振り返るが返事をしない。マスク越しに猫目で警戒するような視線を向ける。幸太郎は構わず続けた。
「萩原拓哉さん、ご存じですよね?」
「知りません」
女性は冷たく言い放つと、突然早足になる。明らかに様子がおかしい。幸太郎のことをマスコミか警察関係者だと見なしたのかもしれない。間違いない、こいつは梨穂だ。幸太郎は確信して、
「ちょっと待ってください」梨穂の手首を掴んだ瞬間だった。手首に装着されたシルバーのブレスレットの表面。そこに、大きな目を両手で包み込み支えるデザインが施されていることに気づいた。新進福祉教のシンボルマークだ。
「あんた、もしかして、新進福祉教の信者?」幸太郎が指摘すると、
「ちょっと、やめてよ。離して」梨穂は幸太郎の手を強引に振りほどき、ハイヒールを履いているとは思えないほど俊敏に駆け出し、幸太郎が追いつく前に『リゾート』の中に逃げ込んでしまった。
「クソッ」油断したことに腹を立てる一方、幸太郎はまた、失踪事件と新進福祉教との接点を見出し、真相解明にまた一歩近づいたという実感を抱いた。こうなったら、客として店の中に入ってでも梨穂から話を訊き出してやろう。幸太郎はそう決心して、ちょうど『リゾート』から路上に出てきて、開店準備のために立て看板を設置している黒服に声をかけた。
「あの、すみません。指名したいんですけど」
「いらっしゃいませ。まだオープンしてないので、少々お待ち頂くことになりますが、どちのキャストをご指名でしょう?」
「梨穂ちゃんを」
「梨穂?」黒服が首を傾げるのを見て、梨穂の源氏名がミサキであることを幸太郎は思い出した。
「間違えた、ミサキちゃんを」
「ミサキさんですね。今、確認してまいりますので、少々お待ちください」
黒服が店へと戻る。幸太郎はその場で待機するが、黒服はなかなか姿を現さない。ふいに上を向いて、入り口の上部に防犯カメラが設置されていることに気づいたタイミングで、黒服が眉間に皺を寄せながら、先程よりも低姿勢で戻ってきた。
「すみません、お客様」と頭を下げる。「ミサキさん、今日は予約がいっぱいでして」
「ああ、そう。残念」防犯カメラの映像で、自分の姿を見てNGを出したんだろうな、と幸太郎は推測しながら生返事をする。本当に予約が埋まっているかはわからないが、警戒されてしまった以上、今日はもう梨穂に近づくことはできないだろう。彼女が新進福祉教の信者である可能性がわかっただけでも収穫だと納得して、黒服に礼を言い立ち去ることにした。
駐車場へ戻り、ボルボに乗り込むと、次はどうしようかと幸太郎は考えた。年齢順でいくと、次は主婦の井上彩子の身辺を調査する番だ。だが、早朝から動き回っているため、今日はもうこれ以上、調査を進める気にはなれなかった。
というわけで家路に着き、自宅がある雑居ビルに到着した時には、二十二時を回っていた。ビールでも飲んで眠ってしまおう。そう思いながら階段を上がり、探偵事務所には寄らず、そのまま自宅のドアを開けた。
ブラインド越しに外灯の光が射し込む薄暗い室内。電気を点けようとしたところで、幸太郎はその手を止めた。微かにミント系の香りが漂うような気がした。鼻の穴を開いて嗅覚を研ぎ澄ませる。ほんの僅かにだが、確かにミントの香りを嗅ぎ取った。朝、ここを出る時には、そんな匂いはしなかったはずだ。食べ物も、化粧品や香水、煙草にも、部屋に置いてあるものにミントの香りは混ざっていない。今は合鍵を預けている女性もいなかった。
ということは、見知らぬ誰かが部屋に侵入した可能性があるというわけだ。過去形ならまだいい。どうせ金目の物は置いてないのだから。だが、暗闇の中に潜んでいたら? 幸太郎は湯島からの電話を思い出した。
『奴らは頭がイカれてる』
その言葉を伝えてきた時、湯島は呼吸が荒かった。まるで誰かから走って逃れているかのように。湯島はあの時、何者かに襲撃されたのかもしれない。それと同一人物がもし、この暗闇の中に隠れていたら? 仮にそうだとしたら、そいつの頭はイカれている。何をしてくるかわからない。
幸太郎はいつでも逃げられるように、入り口から踊り場に出て、右手だけを部屋に伸ばして電気を点けた。いきなり誰かに襲われるかと身構えたが、そんな事態にはならず、パッと見る限り、室内には誰の姿もなかった。それでもベッドの下やソファの裏に隠れているのではないかと警戒し、防犯用の金属バットを片手に部屋中を巡回したが、侵入者の姿は見当たらず、安堵のため息を吐いた。
だが、何か盗まれた物はないか、という観点で室内を見直してみると、リモコンやら机の上に置いた書類やらの位置が、微妙に変わっているような気がして、背筋が寒くなった。やはり誰かがこの部屋に侵入した。何を探したのだろう? ここを物色したということは、事務所にも立ち入った可能性がある。
幸太郎は忍び足で階段を降り、事務所のドアを音を立てないようにゆっくり開けると、先程と同じように、いつでも逃げられる態勢で電気を点けた。襲撃されるのではないかと息を飲み、身構える。だが、ここでも侵入者の姿はなかった。けれど、ミントの香りが微かに漂い、物の配置が微妙に変わっているのは自室と同じだった。
一体、誰が何のために不法侵入したのだろう? 湯島が言った『奴ら』だろうか? だとしたら……。幸太郎の脳裏に浮かんだのは、冷徹な目をした芹澤だった。幸太郎が失踪事件について嗅ぎ回っていることに気づき、どこまで調査が進んでいるのか把握するため、新進福祉教の手先をここへ送ったのかもしれない。
ミントの残り香や物の配置をずらすなど、相手は決してプロではない。だからといって、ここで安心して休める気はしない。ただ、警察沙汰にすれば、事情聴取で時間を取られてしまう。幸太郎は三階の自室ともども、戸締りを確認して、それぞれのドアに髪の毛を貼り付け、再び侵入者があればわかるようにしてから、雑居ビルを後にした。
コンビニに立ち寄り、ウィスキーの小瓶とつまみを購入する。杉浦太蔵の事務所に寄って事情を説明しようとしたがやめた。元々は気の乗らなかった幸太郎に、失踪事件を調査するよう勧めた張本人は太蔵だったが、こうなった今、引退を間近に控える彼を騒動に巻き込むわけにはいかない。幸太郎にも、それくらいの配慮はあった。
尾行者がいないか注意深く周囲を観察しながら夜の商店街をぐるぐる歩き、安全を確認するとビジネスホテルに入り、シングルルームに宿泊することに決めた。
部屋で一人きりになったことでようやく、幸太郎は一息つくことができた。BGM代わりにテレビを点け、ウィスキーを呷る。ビーフジャーキーを齧り、煙草に火を点けた。緊張と恐怖心が少しだけ和らぐのを感じる。だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。
侵入者は恐らく新進福祉教の手先だと思われるが、いつ危害を加えられるとも限らない。テレビではニュース番組が流れているが、どの局もW不倫の話題で持ち切りだ。失踪事件は早くも過去のものになり、ニュースバリューは急落している。調査に乗り出した当初の、有名になるため、という目的はほぼ消えた。このまま続けても意味は無いのに、リスクを冒す必要があるのかと幸太郎は自問する。
八人の失踪に関しては、新進福祉教が裏で手を引いているのかもしれない。その教義の一つである安楽死を実践した可能性が考えられる。だが、それが何だと言うのか? ネット上の情報では、八人全員が厭世観を抱き、自殺願望を抱いていたらしい。まだ調査は途中だが、幸太郎自身が得た感触でも、彼らがこの世を憂いていたということは何となくわかる。死を望まない人を実験台のように利用するのなら話は別だが、ウィンウィンの関係ならば、幸太郎がしゃしゃり出て秘密を暴き出す必要はどこにもないのではないか。
身の安全だけを考えるならば、幸太郎はその理論を元に自分を納得させ、調査を終えたかもしれない。けれど、ここですんなり断念するのはなぜだか気が引けた。
なぜだろう? 煙草の煙をウィスキーで飲み流しながら、幸太郎はベッドの上に仰向けになり、天井を見つめて考えてみる。安楽死は非合法だから? そんなこと自分には関係ない。人間の生き死にの権利が誰に存するか何て興味はないし、現行の法律を遵守するよう求める正義感なんてありはしない。死にたい奴は死ねばいいし、それを擁護する者、反対する者は、それぞれ好き勝手に主張すればいい。それだけのことだ。その諍いの中に自分の居場所はないと幸太郎は自負している。
けれど、何かが引っ掛かる。この感情は何だろう? その謎が知りたくて、何か手掛かりがあるのではないかと思い、幸太郎はスマートフォンを手に取って、失踪した八人の顔画像を画面に映した。最初はまったく赤の他人だったが、すでに半数以上の実家や生活圏内を見て回ったせいか、今は少しだけ親近感を覚えていることに気づいた。
そうだ、身近に感じてしまったからだ。見ず知らずの一般人が事故で亡くなったニュースを見ても何も動じないが、よく知る有名人の訃報には心が揺らぐ。それは、自分と同じように喜怒哀楽の感情を持ち、友人や家族に愛され生きてきたことを知っているからだ。その実在感と喪失とのギャップに心が動かされるということに、幸太郎は気づいた。
ウィスキーを一口飲む。アルコールが全身に行き渡り、脳みその緊張が解けて、普段は思い出さないような記憶が、大脳皮質からゆっくり流れ出す。煙草を深々と吸って大きく吐くと、天井に白い煙が雲のように広がり、その中に父親の姿が浮かんだ。記憶の中の映像だ。
真夏。炎天下の中、父親は毎年、お盆の時期と命日が重なる母親の墓石の前にしゃがみ込み、子どもの幸太郎には永遠とも思えるほど長い時間、合掌して黙祷を続けた。年々、頭頂部が薄くなり、そこが日焼けして赤くなる様子を見守るのが、毎夏の恒例となっていた。父親は何を考えているのだろう? 物心つく頃にはすでに亡くなっていた母親を偲ぶ気持ちよりも、いつもは傲岸不遜な父親が、この時ばかりは妙にしんみりした様子になることを、幼い幸太郎は奇妙な思いで見つめていた。
父親は、酒、タバコ、ギャンブル、法律線上の綱渡りと、心身に悪いことは何でもやった。けれど、女遊びだけは一切しなかった。これは、幸太郎の耳目に届かないよう配慮していたわけではなく、その点だけは異常に潔癖だったことを、父親の悪友たちが証言している。
死んだ人間のことを想って、いつまでメソメソしてんだよ。自我が芽生え始めると、幸太郎は父親のセンチメンタリズムな部分が理解できなくなっていった。思春期になると、真夏の暑い最中に長時間、墓石の前でジッとしていることに我慢できなくなった。
あれは反抗期真っ只中の中学二年の頃だったな、と幸太郎は苦笑いを浮かべる。とうとう我慢ならず、「先に帰る」と言い出したら、父親に強引に引き留められた。カッとなって振り回した拳が頬に当たり、父親は驚きの表情で母親の墓石まで後退して、背中を打ち付けた。アクシデントとはいえ、幸太郎が父親を殴ったのは、それが初めてだった。ハッと我に返り、「ごめん――」幸太郎が謝り終わる前に、「てめぇ、ガキのくせして何しやがる!」顔を真っ赤にさせ、凄まじい形相をして、父親が殴りかかってきた。当時は体格が二回り近く違う。幸太郎は防戦一方になり、夏休みいっぱい腫れが引かないほど酷く殴られた。その事件が引き金になり、父親の感傷主義、一人の女性を慕い続ける一途さに、虫唾が走るようになった。自分はこうはなりたくない。父親を反面教師にした結果、名うてのプレイボーイとなり、四十歳を過ぎた今も独身主義を貫いている。
果たして、それでよかったのだろうか? 自分好みの女性を口説き、思い通りに落とし、ベッドを共にしている間は、極上の気分を味わえる。だが、事を終えてしまえば、最近では必ずといっていいほど、虚無感に襲われる。自分はこのまま結婚もせず、我が子の姿を見ることもなく孤独のまま死んでいくのかと思い、ふと寂しくなる。心の繋がりのない女をいくら抱いても満たされない。父親のように、たった一人だとしても、心から愛する女性と結ばれるほうが幸せなのではないか、と考えることが多くなってきた。
そして、世の中には父親のように、愛する人を亡くし、悲しみの内に生きる人が数多くいることも、探偵業を通じて何度も知る機会があった。その中には、遺書も書かず突然、この世を去ってしまった恋人の真意を知りたい、という依頼もあった。
そうだ、と幸太郎はようやく合点がいった。湯島の話では、失踪した八人の家族は誰も捜索願を出してないということだが、心配したり悲しんでいる友人や恋人がいるはずだ。無事に帰ってくることを待つ彼らのためにも、自分ができる限りの調査を続けようじゃないか。珍しく、そんな使命感に駆られて、幸太郎が決意を新たにした時だった。
「湯島学さん」
ニュース番組の女性キャスターが、その名前を口にした。幸太郎は反射的に上半身を起こし、リモコンを手にしてテレビの音量を上げた。画面には、オフィス街に建つ高層ビルが映し出され、
「今日午後、男性が二十階建てのビル屋上から落下。病院へ緊急搬送されましたが、まもなく死亡が確認されました。警察が身元を確認したところ、ウェブサイト運営者の湯島学さんと判明。屋上に遺書が置かれていたことなどから、自殺の可能性が高いと見なされています」
女性キャスターが原稿を読み上げる声が部屋中に響き、幸太郎のショックを増幅させる。
「湯島が? なぜ?」
呟きつつ、昼間に会った湯島を思い出す。見かけでは判断できないが、とても自殺をするような人間には思えなかった。それに加え、誰かに追われているかのような電話でのメッセージ。
『奴らは頭がイカれてる』
その『奴ら』が新進福祉教のことかはわからないが、殺しも辞さない連中なのだろうか? 少なくとも、不法侵入という罪を犯す程度には、危険を顧みない連中だということはわかった。
湯島は殺されたのだろうか? だとすれば、これ以上、調査を進めれば、自分も同じ目に遭うかもしれない。幸太郎は恐怖で背筋がゾクッと寒くなった。
その一方、仮に殺されたのなら、それほど大事な情報を湯島は掴んだということだ。それはどんな情報だったのだろう? 気になった。好奇心が刺激される。さっさと寝て疲れを癒し、明日に備えよう。幸太郎はウィスキーの瓶の栓を締めると、シャワーをサッと浴びて、そのまま眠りに就いた。