萩原拓哉
ガキの頃から親譲りの堪え性の無さで、何をしても中途半端な結果しか残せない。その自覚はあった。それでも退屈な日常に嫌気がさして、一旗揚げようと田舎から都会に出てきて、天職に巡り合った。親父譲りの酒の強さと女好き、母親譲りのルックスの良さと心にも思ってないお世辞を平然と口にできる才能を駆使して、ホスト業界に足を踏み入れた三ヶ月後には店のトップに立つことができた。
そこからは順風満帆、仕事も恋愛もすべてが上手く回り、将来のことは何も考えずに散財した。もっともっと楽して豪遊したい。欲望は高まるばかりで歯止めが利かず、店を辞めて独立することにした。自分は現場に立たず、若い連中に店を任せて大金を搾取する。ホストクラブの経営が円滑に回るようになったら、美容やアパレル業界にも進出して、さらに稼いで稼いで稼ぎまくってやる。俺は息巻いていた。絶対に成功すると確信していた。
ところが、だ。突然、降って湧いたように起きた新型コロナウィルスの流行によって、すべてがご破算になった。ホストクラブへの客足は急激に鈍化して、赤字の垂れ流しを食い止めるために、断腸の思いで店を畳むことにした。後に残ったのは億単位の借金だった。それでも、最初の店でナンバーワンだった時の知名度がある。動画配信で稼げばすぐに借金は帳消しにできる。
甘かった。動画配信の世界はすでにレッドオーシャン。何の戦略もなしにズブの素人が参戦したところで、まったく太刀打ちできなかった。映像制作のために雇ったスタッフへの給料の支払いで、借金は減るどころか増すばかりだった。人生、好転する時は一歩一歩山を登るように遅く感じられるけど、破滅する時は床がすっぽり抜けて、真っ逆さまに際限なく暗闇の底へと墜落していくようなものだ。それは恐怖以外の何物でもない。何かに縋りつきたい。この暗闇を僅かでも照らしてくれそうな物があるなら、必死になって食らいつく。
そんな心境の時に出会ったのが、キャバクラに勤める梨穂だった。これといって美人ではないが、借金まみれで評判を落とし、敵だらけになった俺が求める母性溢れる優しさを梨穂は備えていた。恋愛は惚れたほうが負け。田舎にいた頃は本能的に、ホストクラブで働くようになってからは意識的に感じ取っていた。いつも勝ち続けてきた。そんな俺が、梨穂に関しては人生で初めて、完璧にノックアウトされた。梨穂の存在は麻薬のように俺の心を掴み、魅了して離さなかった。もう梨穂なしでは生きていくことができず、その中毒症状を自覚すればするほど、こんな女にはもう二度と出会えないと錯覚して、その価値観は日に日に増していくばかりだった。
梨穂に嫌われたくない。見捨てられたくないという思いで、俺は梨穂の言うことは何でも聞いた。二人の間で力関係がはっきりしてくると、最初の優しさはどこへやら、あるいはそれが本性だったのか、梨穂は次第に女王然となっていった。顎で俺をこき使い、他の男の影も一人だけでなく複数人感じられるようになった。だが、俺はそれでも構わなかった。完全に洗脳状態。梨穂なしでは生きられず、まともに思考すらできなくなっていた。梨穂に言われるままに金を使い、利子も含めて借金は雪だるま式に増えた。梨穂と一緒にいたい一心で見て見ぬ振りを続けた。借金取りから逃げる術を覚え、梨穂には絶対に迷惑がかからないように最善の注意をして上手く立ち回っていた。
だけど、田舎にいる両親の所にまで借金取りが足を運び、危害を加えたと知った時、俺はようやく目が覚めた。現実を直視するには遅過ぎた。まともに仕事をしていたんじゃ返せない額にまで借金は膨れ上がり、どこかへ逃げるか死ぬか、どちらかしか選択肢はなかった。それを梨穂に打ち明けた時、
「じゃあ、死んで」呆気なく言われた。「わたしの所にまで借金取りが来たら困るから」それだけじゃない。『死神』からの招待状を俺に見せ、「どうせなら、楽に死ねたほうがいいんじゃない?」薄っすら笑いながらそんなことを言ってきた。屈辱的だった。頭に血が上った。こんな女にうつつを抜かしていたのが情けなくなった。
だけど、『死神』の誘いは魅力的に思えた。一緒に死ぬ仲間がいる安心感。自殺する罪悪感も薄まる。実際に自分と同じ自殺志願者を見た時、何て辛気臭い顔をした連中なんだと思った。俺もこんな顔をしてるのかと、反吐が出そうになった。それでも中には一人、マシなのがいた。今、白い砂漠を並んで歩く川崎愛。少し目つきが鋭いが、見た目は悪くない。駅のロータリーで煙草を吸いながら軽く雑談した時は、話も合うように思えた。それなのに、さっきの俺に対する「ヘタレ」発言はなんだ? あの井上彩子とかいう根暗な奴といい、どうして女は急に性格が変わるのか。決まって、俺のことをバカにしやがる。ふざけんな。舐められてばかりでたまるか。どこかで絶対に形勢逆転してやる。俺は他人を見下して、こき使う側の人間だ。
……それにしても。
「なあ、いくら歩いても意味ないぜ」時間の感覚がわからないが、かれこれ一時間近くは歩いただろう。それなのに景色はまったく変わらない。薄っすらと雲が流れる青い空と白い砂漠に分割された世界がどこまでも広がるだけだ。「もう引き返そうぜ。他の連中も諦めてそうしてるさ」
「そうしたきゃ、勝手にそうすれば」川崎は俺のほうを見もしないで無感情に言う。「わたしはまだ歩くつもりだけど」
舌打ちしたい気分を何とか堪える。煙草を吸いたい。酒を飲みたい。イライラして仕方がない。だけど、贅沢は言ってられない。俺はボトルに入った水をちびちびと飲みながら後ろを振り返った。カプセルが豆粒大ほどに小さく見える。それだけ歩いてきた証拠だ。
「あっ」
川崎が突然、驚きの声を発したために、「何だ?」と俺は素早く横を向いた。川崎は目を丸くさせ、口をぽっかり開けて前方を見ながら、「あれ」と砂漠の向こうを指差す。
「何だよ」恐怖心を抱きながら、俺は前方を見つめた。何も見えない。今までと同じ景色が延々と続いているだけだ。
「見えないの?」バカにしたように言いながら、川崎は俺の顔を見る。俺は舌打ちをしてやった。
「見えないね」不機嫌に答える。「何が見えるっていうんだよ」
「人」と言いながら、川崎は顔を先方へ戻す。「わたしたちと同じ白いツナギを着た人が二人。こっちに向かって歩いてくる」
「え?」俺は耳を疑った。瞼をこすり目を細めて見ても、近眼の俺には何も見えない。「視力いくつあるんだ?」
「どっちも二、0」くだらない質問をするな、と言いたげに無愛想に答えると、「おーい!」と大声を上げながら手を振り駆け出した。
「おい!」俺は慌てて追い駆ける。「どんな奴らかわかったもんじゃないぞ。用心しろ」
「だったら、ここで待ってればいいじゃん」振り返りもせずに、川崎は走り続ける。
「クソッ」体力には元々、自信がなかったが、さらに衰えた気がする。足が今にも絡まって転びそうになる。最初は威勢よく走っていた川崎も、すぐにペースダウンした。それでも走るのをやめず、仕方なく俺も付き合っていると、次第に地平線の向こうにぼんやりと人のシルエットが見えてきた。川崎の言った通り、俺たちと同じ格好をしてる。背の高さからすると、男と女の二人組のようだ。
「俺にも見えた」と報告するが、川崎は俺の声が届かない距離まで先行してる。ここは川崎に任せておけばいい。危険な人物たちかどうか、俺は後から行って見定めよう。
その場に腰を下ろしてボトルから水を口いっぱいに含んだ。生き返る心地がする。すでに三百メートルは先を行く川崎が振り返ったが、俺が休憩してることに気づいても何もリアクションせず、すぐに顔を前方に戻してそのまま前進した。その姿を見守っていると、さすがに体力に限界がきたらしく走るのをやめたが、歩くのはやめなかった。向こうの二人はまだ走ってる。
ここで休み続けていても仕方がない。俺は立ち上がり、ゆっくり歩き始めた。前を眺め続けていると、やがて川崎が向こうの二人に合流した。その瞬間、膝から崩れ落ちた。あれはどういう意味だろう? よろこびか絶望か。どの感情を抱いているのか知りたくなり、俺は早足になった。今では俺を待ち構えるようにして、三人はこちらを向いて休んでる。白いツナギ姿が並ぶ様子を見て、俺の脳裏にはある疑惑が浮かんだ。いやいや、そんなワケない。バカらしい考えをすぐさま頭の中から追い払い、思わず苦笑いする。だが、川崎の隣にいる二人の輪郭が次第にはっきりしてくると、期待から絶望へとゆっくり自分の感情が流れていくのを俺は感じた。そして、男のほうが黒縁のメガネをかけているのを確認できるまで近づいたところで、
「嘘だろ」あり得ないと思っていた現実が起こったことを確信して、無意識に呟いた。向こうの三人も俺のほうを見ながら、途方に暮れた顔をしている。
女のほうの顔もはっきり認識できる所まで近づくと、俺は虚脱感から歩くスピードががくんと落ちた。
「どうして?」俺の声はもう三人のところまで届いた。だが、誰も何も答えてくれない。
「何でそこにいるんですか?」
不意に右側から少女の叫び声がして全員がそちらを向き、新たな衝撃に襲われた。いつの間にか、身長差のかなりある男女二人組が、こちらに近づいてきていた。まだ顔がはっきりしない距離だが、そのシルエットで二人が誰かすぐにわかった。それならば、反対側にも人影が見えるに違いないと、今度は向かって左側に視線を向けると、人影が二つぼんやりと浮かんで見えた。
「ハハハ」もうワケがわからず、笑うしかなかった。二十メートルも離れていない場所にいる川崎たち三人は厳しい表情を浮かべたままだ。俺はそのまま歩いていき、
「辛気臭い顔をするな」何事にも動揺しない男に見えるよう平然と振る舞った。「ここじゃ、何でもありなんだ。深く考えるのはやめにしようぜ」
「深く考える必要はないですよ」黒縁メガネをかけた男――中村は達観した口ぶりで言った。「この世界はラグビーボールのように楕円の形をしているんだ」
「つまり」女――井上が後を継いで説明する。「あのカプセルがある場所と、わたしたちが今いる場所が、楕円形の二つの頂点てことだね」
「だから、四つの方向に分かれて出発したわたしたちは、ここで出くわしたってわけだ。わかりやすく説明してくれてありがとう。バカなわたしにもわかった」
川崎が疲労の滲む顔で口にした時には、右側から来るガキコンビと、左側から来る爺さんとおっさんコンビの顔が、はっきりわかるくらい近づいていた。
「なるほどな」俺は深く納得した。「じゃあ俺たち、まったくの骨折り損だったわけだ」そしてため息を吐いて空を見上げた。残された脱出口は上空にしかない。だが、果てしなく高く見える向こうまでどうやって飛び上がればいい? 誰か答えを教えてくれ。