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中村純一

 白いカプセルの中で一人きりになってからも全身の震えが止まらない。洗面台の鏡に映る、興奮とよろこびで笑う自分の顔を見ながら、僕はついさっきのことを思い出す。萩原とかいう柄の悪い男に歯向かった時の記憶。誰がカプセルの中に最初に入るかで揉めてた時、暴力沙汰を起こせば首輪から電気が流れるというのに、いつまでも学ぼうとしないあいつに向かって、僕は言ってやった。

『何度も何度も。学習しろよ』

 あの時の萩原の顔。カッとなって暴力を振るおうとしたけど、電気ショックを恐れて何もできずにただ悔しそうな顔をするだけだった。

 自分の気持ちをはっきり口にするのがあんなに爽快だなんて知らなかった。僕は今までの人生、ずっと他人の顔色ばかりを窺って生きてきた。幼少期は両親に受験勉強を無理強いされても文句を言わずに頑張った。学校ではパシリにされても、嫌な役目を押し付けられても、悪口を言われても何も言い返すことができなかった。社会人になってからは毎日、時代錯誤の熱血タイプの上司にいびられても、理不尽な説教をただ受け入れるだけだった。

 今まで自分の意見を言えなかったのは報復を恐れていたからだ。勉強を放棄すれば両親に冷たくされるかもしれない。パシリを断ればクラスで仲間外れにされるかもしれない。悪口を言い返せば殴られるかもしれない。上司に楯突けば会社に居づらくなるかもしれない。そんな恐怖に縛られて、何か言い返そうとしても喉元がグッと締まって何も言えなくなる。それが常だった。

 だけどここでは違う。言いたいことを言っても、報復に遭うことはない。少なくとも暴力を受けることはない。むしろ、萩原のような暴力や暴言でしか物事を解決できない最低な人間のほうが我慢を強いられる。さっきの悔しそうな顔は、今までの人生で同じ思いを散々味わってきた自分自身の姿を見ているようだった。何の理由で首輪がはめられているのかはわからないけど、これのお陰で優劣が逆転した。萩原や川崎みたいな力を誇示するタイプはもう脅威じゃなくなった。ここは僕にとって楽園だ。

 だけど、ここは一体どこなんだろう? 辛い人生に終止符を打ちたくて集団自殺に志願したけど、僕は本当に死んだのだろうか? 肉体も精神も今までと変わらず存在して、同じ感覚を保ってる。違うのはこの状況だけだ。見たこともない場所。砂漠の中にぽつんとできた集落。太陽の姿が見えないのに明るい。気温と湿度が絶妙に心地いい。不思議な場所だ。

 他の皆は何をしているか見るため、洗面台から離れて居室へ移動する。壁一面がマジックミラーになっているらしく、こちらから外の景色が一望できる。広場の中央にあるあの黄色いエリアは何なんだろう? 大輔くんとかいう坊主頭の子が勇敢にも踏み入って、ゴムのように足場が沈んでいくのを見た時は面食らった。

 そういえば、ニワトリのマスクを被った怪しげな男にワゴン車に乗るように言われた時も、大輔くんが最初に行動を起こしたんだった。萩原や川崎に対しても物怖じせずに意見を言ってた。きっと僕とは違って、今までも我を抑えずに堂々と主張できていたんだ。我慢して悔しい思いをするなんてこと、きっとなかっただろう。年下だけど尊敬する。だけど、これからは僕だって彼のように自分の意見を言える。

 それはそうと、大輔くんのような子がどうして自殺なんてしようと思ったんだろう? 彼とは違うけど、萩原や川崎みたいな自己中心的で図太い人間が、僕と同じように自殺願望を抱いているなんて、ちょっと信じられない。

 そんなことを考えながら、ベッドに腰かけて外を眺めていると、隣のカプセルから大輔くんと、結衣という小柄な女の子が出てきた。あの二人、もうできてるのかもしれない。やっぱり、女の子はああいう男らしい男を好きになるんだ。大してかわいい子じゃないけど、正直言って大輔くんが羨ましい。いいなぁ。僕も一度でいいから、女の子に好かれてみたい。ああいう風に腕に縋りつくように頼りにされてみたい。

 自殺をしようかどうかずっと悩んだのは、女性と交際経験がないまま、童貞のままで死ぬことに躊躇していたからだ。もしかしたら、こんな僕でも好きになってくれる人がいるかもしれない。映画やドラマのような恋愛を経験できるかもしれない。そうすれば、人生がバラ色に変わるかもしれない。そんな期待をしていた時もあった。

 だけど、会社の同僚の女性グループが、「暗い、地味、おもしろくない」などと寄ってたかって僕の悪口を叩いているのを耳にした瞬間、すべてが崩れ去った。このまま生きていたって何もいいことはない。それどころかきっと悪くなる一方だ。それならいっそ死んでしまおう。そうやって決心は固まった。

 だから、大輔くんや、認めるのは癪だけど萩原のように、女性に不自由しなさそうな男が自殺を選択する理由が僕にはまったく理解できない。

 その大輔くんは、今だって憂鬱そうな顔をして空を眺めてる。隣にいる結衣ちゃんも同じように見上げてる。……さっきから二人は何を見ているんだろう? 気になる。壁際に近づいて空を見ると、その理由がすぐにわかった。天上からロープのような物に吊るされた真っ白な球体がゆっくりと下りてきてる。遥か頭上のために正確な大きさはわからない。あのまま落下すれば、着地点は集落の中央。黄色いエリアになりそうだ。

「何だあれ?」

 思わず声に出た。まさか爆弾? 急に怖くなって外に出ると、同じタイミングで他のカプセルから皆も出てきた。

「何かな、あれ?」

 大輔くんに話しかけると、彼は僕のほうをちらっと見て、

「わかりません」頭を振る。「でも、なんか嫌な予感がします」これまで強気だった彼が急に弱気な態度を見せたことで、僕の不安は増した。

「家の中に入ってたほうがいいかな?」結衣ちゃんが大輔くんに訊く。

「そのほうがいいかも」

 大輔くんが答えた後も誰も動かず状況を見守っていると、地上から五メートルほどの高さで球体がロープから離れて落下した。僕たちはカプセルに避難する暇もなく、ただ呆然とその様子を見ているしかなかった。

 球体は黄色いエリアに着地したかと思うと、トランポリンのように大きくバウンドした。直径は一メートルくらい。もしかしたら本当に爆弾なのかもしれない。爆発はしなくても、毒ガスか何か害のある物が入っている可能性もある。

「カプセルの中に避難したほうがいい」僕は大輔くんと結衣ちゃんに言い、「皆さん、避難しましょう!」他の皆に叫んでいた。今までの人生では、いつも声が小さいと言われ、目立ったり人に指示を与えるのが大の苦手だったのに。それから、いつの間にか他の皆に対して仲間意識を抱いていることにも気がついた。

「そうですね」大輔くんは僕に同意して、結衣ちゃんを連れてカプセルに引き返した。他の皆も僕の考えに従ってくれる。それがうれしい。今まで感じたことのない感覚を抱いた。この世界では、別の人間になれる。そんな気がした。

 高揚する気持ちを抑えながら自分のカプセルに戻って外の状況を見守った。室内には、いや、外にも時計がないから、時間の感覚がわからない。だから適当な勘だけど、大体十分くらいが過ぎた頃、カプセルの中から一人の男の人が出てきた。眼鏡をかけた短髪の佐藤大輔さん。今はスーツを着てないけど、社畜感がたっぷり出てた人だ。年齢は四十歳前後。僕がサラリーマンを後二十年近く続ければ、きっとあんな感じになるんだろうなと思わせてくれる。あんなにはなりたくないなとも思わせられる人だ。だから、まさか率先してカプセルから出てくるとは思わなかった。こういう時は大輔くんが真っ先に外に出てくるものだと予想していた。

 佐藤さんが外に出たことで、他の皆も姿を見せ始めた。大輔くんと結衣ちゃんも隣のカプセルから出てくるのを見て、僕も外に出た。

「何も起こらないね」僕が声をかけると、

「そうですね」大輔くんは虚ろな表情。ホームシックにでもかかったみたいに見える。逆に結衣ちゃんは好奇心に満ちた様子で、

「ねえ、見に行ってみよう」と大輔くんの手を引っ張る。ニワトリ男がワゴン車に乗るように促した時とは、二人の立場が逆転してしまったみたいだ。僕にしたって、恐怖よりも興味のほうが強まってる。あの球体だけでなくこの世界全体に関して。ここがどこなのかちっともわからないけど、快適な気候だし、暴力も暴言にも悩まされることがないから、もしかしたら死後の楽園なのかもしれない。

 そんなことを考えながら、僕も二人に続いて黄色いエリアに近づいて行く。他の皆も慎重に様子を見つつカプセルから離れ始めている。

 結衣ちゃんと大輔くんが先に黄色いエリアの縁に到達して立ち止まった。二人は何も言わずに向こうを眺めている。

「どう?」と、二人の後ろから声をかけて、僕は大輔くんの隣に並んだ。呼びかけたわけではないけど、他の皆も僕らの傍に寄ってきた。

 黄色いエリアには、直径二メートルほどの真っ白い球体が、その重量で一メートルくらい沈んでいた。頭上からの光を反射していることから、表面はつるつると滑らかなことがわかる。

「何なの、あれ?」川崎が背後で薄気味悪そうに言うと、

「爆発するかもしれないぞ」もっと後ろのほうから萩原の声が聞こえてきた。

「最初は棒か何かにくっついてましたよね?」佐藤さんが俺たちを見て、それから上を向いた。僕も見上げると、青空に流れる雲。さっきのロープのようなものはすでになかった。

「ヘリの音も聞こえなかったですし、あれはどこに繋がっていたのでしょう」老齢の奥川さんは狐に頬を摘ままれたような顔をしている。

「まさか、人間が入ってたりしないよな?」怯えた声を出したのは萩原だった。「死体とかさ」

 確かに真っ白な球体は人が入れるぐらいの大きさではある。だから、萩原の余計な一言によって、その場に緊張が広まった。

「おい、野球少年」萩原が大輔くんを茶化すように呼ぶ。「お前、勇敢なんだろ。近くまで行って調べてこいよ」

 その声が耳に届いてないのか、大輔くんは真っ白な球体をただぼんやりと眺め、

「大輔くん、どうする?」と結衣ちゃんが訊いても返事をしない。

「近づくのが怖いなら、石でも何でもいいから投げてみろよ」萩原はなおも続けるけど、大輔くんは無視を決め込んだように何も言わない。そもそも地面には投げるような石なんて一つもなかった。

「聞いてんのかよ、野球少年」萩原が腹を立てる。首輪から電気が流れないギリギリのところを探りながら、大輔くんをいびろうとする腹づもりらしい。僕は腹が立ち、後ろを振り返った。皆の最後尾、何かあっても一番安全な立ち位置でにやついてる萩原の顔が目に入った瞬間、

「やめろよ!」自分でも驚くくらい、ためらいなく怒鳴り声が出た。「そんなに気になるなら、自分で調べに行けよ!」

「何だと!?」萩原の顔が途端に引き攣る。他の人たちは、驚いたように僕を見てる。それが何だか気持ちよく感じられた。小さなヒーローになった気分になり、

「自分で調べに行けばいいだろって言ったんだよ」僕はさらに強気になって繰り返した。

「調子に乗りやがって」萩原の顔は怒りで真っ赤に染まる。僕に詰め寄ろうとするけど、

「やめときな」川崎が制した。「また首輪から電気が流れて痛い思いするだけだよ。こいつはそれがわかってるから強気になってんだ」と僕を顎で示すと、憐れむような顔になる。「普段、おとなしい奴が酒の力を借りて気が大きくなるようなもんだろ。ダセぇ」蔑むような口調。核心を突かれて、僕は急に恥ずかしくなった。

「そうだ、ダセぇな、こいつ」萩原も僕を見下すような笑みを浮かべる。バカにしたような目。今までの人生で何度も晒されてきた。トラウマが蘇って、僕はまた弱気になり、自分の殻の中に閉じ籠ってしまいそうになる。

「あ、あなたたちのほうが」震える声。聞き覚えがなくて、最初僕は、誰が喋ったのかわからなかった。川崎と萩原の視線を追うことで、声の主が井上彩子さんだということに気づいた。

「わたしたちのほうが、何?」川崎が彩子さんに凄むように近づく。「ビビっちゃってんじゃん」と笑い、萩原も一緒になってはしゃぐ。

 彩さんは唇を噛みながら俯き、握りこぶしを震わせる。この人も僕と同じタイプだ、と思った。強い者に何も言えずに虐げられてきた。電車に乗っていた時、ちらっとだけど、腕に痣があるのが見えた。彼氏か旦那にでも暴力を受けたのかもしれない。

「何だよ、言いたいことがあんじゃねえのかよ?」萩原が下から顔を覗き込むと、彩子さんは顔を上げた。

「卑怯者!」今度ははっきりと言い切った。

「は?」意外な反撃をくらった萩原が驚いて一歩後ろに下がる。「何で俺が卑怯者なんだよ?」

「あなただけじゃない、あなたも!」彩子さんは睨みつけるように川崎を見る。「そうやってすぐに優劣関係をつくって、人のことを力で支配しようとする。だけど、わたしは知ってるの。気づいたの。あなたたちみたいな人は、本当は弱いんだって。臆病者なんだってことが。すぐに暴力を使おうとするのは、誰かにそうされたことがあるから。そうでしょ?」

「あんたに何がわかるっていうんだよ」心の奥の触れられたくないスイッチを押されてしまったかのように、川崎が凄む。「わかったような口を利くんじゃねえよ!」

「そうだ、調子こいてると、ぶっ殺すぞ!」萩原がそう加勢した途端、首輪から電気が流れ、「うがああああ!」萩原は首を抑えながら地面に倒れ込んだ。その姿を見て、彩子さんと川崎は冷静さを取り戻す。電流が止まると、萩原は地面に腰を下ろしたまま、肩で息をして放心状態に陥る。

「皆さん、落ち着きましょう」佐藤さんがそう言った次の瞬間、どこかからブォォォォンという不気味な音が聞こえてきた。

「何?」川崎が不安顔で辺りを見回し、「また何か起こるのかよ」と萩原が情けない声を出す。彩子さんの言った通り、こいつらは誰よりも臆病者だとわかった。

「ねえ、あれ!」結衣ちゃんが大輔くんの腕にくっつきながら、真っ白な球体を指差す。見ると、沈んでいたそれがゆっくり上昇してきている。ゴム状だった黄色いエリアが硬化し始めているようだ。

「ここにいて大丈夫ですかね?」奥川さんがそう口にした途端、これから危険な事態が起こるような気がして、誰ともなく「一旦、カプセルの中に戻りましょう」と言い出して、一斉に退散した。

 カプセルに戻り一人きりになると、

『普段、おとなしい奴が酒の力を借りて気が大きくなるようなもんだろ。ダセぇ』

 川崎に突きつけられた言葉が頭の中に蘇って、悔しくて腹立たしくて、恥ずかしくも思えた。たいして長い時間を共有してないのに、自分という人間をあっさり見抜かれてしまった。そうだ、僕はこの首輪がなければ、萩原や川崎に意見を言い返すなんてできない。だけど、それでもいいじゃないか。今いる世界がすべてだ。この状況では、暴力や暴言に怯える心配はない。勇気を奮い起こして僕を庇ってくれた彩子さんのように、今度は真っ向から言い返してやる。何も怖くなんかない。あの二人が臆病者だってことはもうわかった。心配なのは大輔くんだ。今までだったら、萩原と川崎の出しゃばりに対して口を挟んでいたはずだ。それが急におとなしくなってしまった。顔色もよくなかった。どこか具合でも悪いんじゃないかと心配になる。

 そんなことを考えながら外を眺めていると、黄色いエリアの中央にある真っ白い球体は上昇を続け、遂には地面と同じ位置まできて止まった。今ではここからもその全体像が見える。もしかしたら本当に、あの中には誰かの死体が入っているのかもしれない。そんな恐怖で緊張感が増す。いや、あるいは生きてる人間が入っているのかもしれない。僕たちもああやって、この世界にやってきた可能性だってある。だとすれば、ここから脱出するには天井まで行かなければならないのか? ここは死後の世界ではない? 色々な疑問が頭の中に湧いて落ち着かない。

 そうやって考え事をしていても、しばらくは何事も起こらなかった。体感的には十分くらい。しびれを切らしてカプセルの中から誰かが出てくるんじゃないか。率先して誰かが外に出てくれれば、気楽にその後に続けるのに。他人任せで自分ではリーダーシップを取らない。毎度おなじみの軟弱な性格が顔を覗かせる。こんなんじゃダメだ。生まれ変わった気持ちで自分が皆を引っ張っていこう。

 そんな思いを抱いて外に出ようとした瞬間、真っ白な球体が徐々にオレンジ色に光り始めた。その光は、それまでの緊迫感をほぐすような温もりが感じられた。まるで太陽の雫が落ちてきて、地上を優しく照らしてくれているようだ。

 やがて光は点滅し始めたかと思うと、まるで開花するように、球体の壁面が花弁状になって開き始める。その中身がもうすぐで露わになるとわかった途端、恐怖心が蘇った。死体どころか爆発物が入っているかもしれない。あるいは毒ガス……そうだ、その可能性だってある。

 ふと思った。なぜ僕は死に対して脅威を抱いているのだろうと。元々、安楽死をしたくて鴉山に行ったのに。そもそも今はもう死んでいるのではないのか? 誰も答えをくれない。そういう意味では、ここは元の世界と同じだ。大事なことは誰も何も教えてくれない。

 そうこうしている内に、球体は半分ほど開いた。中身が段々見えてくる。どうやら人影はないようで、とりあえずホッとする。そのまま監視していると、見えてきたのは真っ白な箱だった。

 球体の壁面が完全に開き切ると、白い箱がすべて露わになった。四箱ずつの積み重なりが二段。つまり八箱。ここにいる人数とちょうど一緒だ。その数の一致に何か意味があるのだろうか? 好奇心がうずく一方で、怖さも増す。皆だって同じ気持ちだろう。だからこそ、今ここで一番に外に出れば、萩原や川崎にマウントが取れるようになるかもしれない。よし、行こう。

 勇気を振り絞って外に出ようとした瞬間、僕よりも先にカプセルから出てくる人影が見えた。それは意外な人だった。

「彩子さん?」

 間違いない。彩子さんだ。鴉山までの電車内で見た感じでは、僕と同じように今までの人生、他人から虐げられて生きてきたように見えたのに、さっきの川崎や萩原たちとの言い争いといい、ここへ来て彩子さんは確実に変わろうとしているみたいだ。今だって顔は緊張して、一歩一歩自分を奮い立たせるようにゆっくり進んでいるけど、誰にだって真似できることじゃない。

『普段、おとなしい奴が酒の力を借りて気が大きくなるようなもんだろ。ダセぇ』

 川崎の言葉がもう一度、頭の中に蘇った。確かに酒の力を借りて、普段できないことをやるのはダサいかもしれない。だけど、素面の状態で自分の殻を破ろうとするのはカッコいい。彩子さんを見ていてそう思った。僕も負けていられない。居ても立ってもいられなくなって、僕は外に飛び出した。

 黄色いエリアへ近づきつつ、右斜めから歩いてくる彩子さんに笑顔を向ける。彩子さんも笑顔を返してくれた。目元が前髪で隠れていて暗い印象だったけど、笑うとかわいらしい人だ。胸の中がほんわかと温かくなるのを感じた。もしかしたら、これが恋なのかもしれない。未知の物に対するのが急に怖くなくなった。彩子さんよりも先に箱がある所まで行って、男気があるところを見せたい。そう思って早足になった。

 他のカプセルからも皆が姿を見せ始め、僕を見つめている。こんなこと、今までの人生ではなかった。注目を集めることが、こんなにも気持ちのいいことだなんて知らなかった。ほんのちょっとの勇気を出せばよかったんだ。それだけで世界が違って見えるようになる。自分自身が変わればすべてが変わることを、死を選択した今になって知った。安楽死を決断する前に、この理解できない世界に来る前に、ほんの少しの勇気を振り絞ればよかっただけなんだ。そうしていれば、もっと楽しい人生を送れていたはず。

 後悔しても遅い。自分が生きているのか死んでいるのか定かではないけれど、今は目の前のことに集中しよう。黄色いエリアが近づいてきた。三十センチ四方くらいの大きさの白い箱も見える。

「……あれ?」予期せぬ光景に思わず僕は声を出し、その場に踏みとどまった。

「どうしたの?」と背後から彩子さんの声がする。僕は振り返り、

「あれ」白い箱のほうを指差す。「球体がなくなってます」

 白い球体は跡形もなく消え、黄色いエリアの真ん中には白い箱が積み上げてあるだけだった。

「そんな」僕の隣に並んで立った彩子さんが、驚きの声を上げる。

「待ってください」白い箱の周りに、足元にあるのと同じ白い砂がたくさん落ちていることに僕は気がついた。「もしかして、あの球体が砂状に?」確かめるべく、黄色いエリアへとさらに近づく。そしてその手前で立ち止まった。白い箱の周りには、やっぱり白い砂が大量に落ちてる。

「どうしました?」彩子さんだけでなく、他の皆も続々と僕の周りに集まってきた。僕が事情を説明すると、

「確かに、ここにある白い砂と同じモノに見えますね」と奥川さんが賛同してくれた。

「あの箱の中には何が入っているんだろう?」佐藤さんが独り言のように呟く。自分で見に行く気はないようだ。

「誰か見に行ってこいよ」臆病者の萩原が皆の顔を見回すと、

「メガネくん、カッコつけるチャンスじゃん」川崎が便乗して、僕を茶化すように言う。腹が立ったけど、ここで尻込みするのは負けなような気がして、

「いいですよ、僕が見てきます」平然と返してやると、まさかそんな返事があると思わなかったのか、

「マジで?」川崎は目を丸くさせて僕を見た。他の皆も予想外だったみたいで、僕に視線を向けてざわめいた。僕にはそれが、グループの中心にいるようで、気持ちよく感じられた。勇敢な大輔くんすら、尻込みした様子をしている。ここで勇気を見せれば、僕の株は一段と上がると確信した。だから、

「行きますよ。行って、あの箱が何なのか見てきます」僕は胸を張って宣言した。そして、目の前の黄色い地面を見下ろす。白い箱が沈んでないところを見る限りでは、今はゴム状ではないのだろう。だけど、黄色いエリアの表面は見た目にはさっきまでと何も変わってない。だから不安はあった。

「き、気をつけて」気遣って声を掛けてくれた佐藤さんに、

「またゴムみたいに沈むかもしれないので、手で支えていてくれませんか? 何か起こったらすぐに引っ張ってください」と、僕は右手を差し出した。

「わかった。任せて。無茶はしないように」

 佐藤さんに右腕を掴んでもらうと、僕は恐る恐る左足の爪先を黄色い地面につけた。

「固い」大丈夫、いける。だけどまだ不安は残ってる。だから、爪先から踵までゆっくり地面につけた。軽く体重をかけてみる。

「大丈夫そうです」今度こそ確信して、僕は佐藤さんに腕を離してもらい、次は右足も黄色い地面に踏み込んだ。こっちも大丈夫。全体重を乗せても沈まない。それでも最初の一歩は慎重に左足を移動させ、何か異常があればすぐに引き返せるように用心した。それも杞憂に過ぎなくて、僕は次第に歩を速めた。白い箱が置いてあるのは五メートルくらい先。中に何が入っているのか不安なせいで、そこまでが実際よりも遠く感じられた。緊張で背中に汗が滲む。と思ったら、白いツナギの内側に微風が吹いて、汗はすぐに乾いてしまった。ただの布製に見えて、実は高性能の温度調節機能が付いているのかもしれない。空から落ちてきた白い球体があっという間に砂状に変化してしまうことも含めて、どこか近未来を思わせる技術に感じられた。

「我々も後に続きましょうか」背後で奥川さんの声が聞こえてきた。僕は立ち止まり振り返る。

「大丈夫かよ。人数制限とかあったりしないのか? さっきはこいつ一人入っただけで沈んだんだぜ」萩原が大輔くんを指差しながら、僕の不安を代弁してくれた。僕一人では大丈夫でも、全員が入ってきたら沈んでしまわないとは言い切れない。何の保証もない。そうなった時、一番の被害を受けるのは間違いなく僕だ。だから、

「皆さんはそこで待っていてください」一人で白い箱に近づくのは怖いけど、沈む恐怖と天秤に掛けて、僕はそう訴えた。

「そうですか、わかりました」言い出しっぺの奥川さんはあっさり理解してくれた。むしろ安堵した表情を浮かべている。僕だけに大役を任せるのが心苦しくて、自分も一緒に行くと口では言っただけなのかもしれない。

「おい、時限爆弾の音とか、何か変な様子はないのかよ?」萩原が叫ぶ。

「ねえ、もしものために、わたしたちは離れてたほうがいいんじゃない?」川崎が続ける。僕を怖がらせようとしてではなく、ただ単純に自分の身を守りたいためだってことはわかってる。だけど、僕は異様に腹が立った。頭に血がのぼるのがわかった。その瞬間、

「黙ってろ、臆病者!」何かのタガが外れたように怒鳴っていた。萩原と川崎は、目の前で風船を割られたように目を丸くさせ、全身に電気が流れたように震えた。その姿を見て、僕の中で二人への劣等感みたいなものは完全に消えた。今までの人生で僕を虐げてきた人たちも、こいつらと同じ穴のムジナだったことを覚った。そんな奴らに人生を左右されて、死を選んだことが、ひどくバカらしく思えて後悔の念が押し寄せてきた。だけど、今さらそんなことを考えたって仕方がない。

「もっと早くに気づけばよかったな」つい、口に出して言うと、

「中村くん、大丈夫?」佐藤さんが心配顔で見つめてきた。他の皆も不安そうな顔で僕を見ている。

「大丈夫です」僕は無理に笑顔をつくって頷き、皆に背中を向けて再び歩き始めた。そうだ、恐れる必要なんて何もない。僕は愚かにも一度、自分で死ぬことを選んだ。だから、仮に爆弾で死のうがもうどうだっていいじゃないか。そんな心境になって迷いなく進み、白い箱がある所まで辿り着いた。白い箱はプラスチック製のように見えた。あるいはそれに似た材質なのか、表面が滑らかだった。そして僕はすぐに気がついた。その中に爆弾なんて入ってなんかいないことを。なぜなら――

「おい、どうした?」萩原が怯えた声で訊く。僕は背中を向けたまま答えた。

「名前が書いてある」

 白い箱の上面には、各自のフルネームがローマ字で印字されていた。その横には『1Day』の文字。まるで僕が最初にここへ来るのを予測していたように、四箱ずつ二段に分かれて積まれた片方の一番上に置かれた箱には、『Zyunnichi Nakamura』と印字されている。そして、もう一段の一番上の箱には、『Ayako Inoue』と印字されている。カプセルから最初に出て来たのは彩子さんだった。僕が出しゃばらなければ、きっと彩子さんは最初にここに来ていたはずだ。誰かが上から監視しているんじゃないか。そんな恐怖に鳥肌が立ちながら、僕は上を見た。青空を雲が流れる景色以外は何も見えない。

「中村くん?」早く何か情報をくれとばかりに佐藤さんが声をかけてきた。「何か異常でも?」

「ちょっと待ってください」

 僕は箱を見下ろして観察した。表面にはどこにも開け口のような箇所は見当たらない。どうすれば開けられるのか見当もつかず、とりあえず触れてみることにした。恐る恐る箱に手を伸ばして上面に触れた瞬間、

「何だこれ!?」

 僕は驚きで目を見張り、その場で尻もちをついてしまった。


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