福田幸太郎
枕元でスマートフォンのアラームが鳴り、幸太郎は不機嫌に目を覚ました。朝の四時。窓の外はまだ暗い。この時間に寝入ることはあっても、起床した記憶は人生で数える程しかない。
昨夜は鈴木結衣のアパートから真っ直ぐ帰宅して、シャワーを浴び、寝酒にウィスキーを一口飲んでからすぐに寝た。睡眠時間はそれなりに取ったはずだが、依頼の相談がなければ昼まで眠る幸太郎にとって、この時間に起きるのは地獄のように辛かった。
どうせ金になるかどうかわからないのに無理をする必要はない。十中八九、骨折り損になるに決まってる。事件はもう解決したかもしれない。してないにしても、この騒動を受けて、北洛高校野球部の朝練は、当分の間は中止になるだろう。幸太郎の頭の中には、このまま寝続けるための言い訳が湧き出た。
そう、幸太郎がアラームを四時に鳴るように設定したのは、失踪事件の当事者の一人である遠藤大輔が所属する北洛高校野球部の朝練にお邪魔して、監督やチームメイトから大輔についての情報を訊き出すためだった。
だが、北洛高校まではここから車で一時間近くかかる。その労苦を想像した結果、幸太郎は情報収集を中止して、このまま寝続けることにした。
ところが、テレビの電源が自動で点いたことで驚き、反射的に上半身を起こしてしまった。誰かが部屋に忍び込んで勝手に電源を点けたのかと戦慄した。けど、すぐに気がついた。昨夜、寝る直前、四時にアラームが鳴ってもきっと自分がそのまま寝るだろうことを見越して、テレビのオンタイマーをセットしたことを。
「クソッ」
数時間前の自分の余計なお節介に腹を立てながら幸太郎はベッドから立ち上がる。そうしなければならないように、いつもは枕元が定位置のリモコンを、わざわざテレビの近くに置いておいたのだ。
悪態をつきながら電気を点けて、幸太郎はテレビに近づく。画面に流れるニュース番組では、失踪事件を取り挙げていた。まだ事態は解決されておらず、それどころか昨日に増して大々的に報じられていることを知り、調査を続ける気持ちが高まった。結衣だけでなく、他の七人の失踪者の家や学校、勤務先にまでマスコミ陣が群がる映像が流れると、焦燥感から目が覚めた。ぼやぼやしてたら手柄を取られる。誰よりも先に真相を解明しなければ意味がない。テレビの電源を消して着替え、すぐに家から出た。
裏の駐車場へ行く前に自動販売機でブラックの缶コーヒーを買い、ボルボに乗り込むと、まだ少し残る眠気を覚ますために煙草を吸いながらコーヒーを飲んだ。そうしながらスマートフォンでネット検索をして遠藤大輔の情報を探る。怖ろしいもので、中学校や小学校の卒業アルバムの写真や、両親のプロフィールまで出回ってしまっている。その扱いはもはや犯罪者に近かった。
「医者の一人息子かよ」
幸太郎は思わず舌打ちしそうになる。大輔の父親は外科の開業医で元甲子園球児。母親は銀座の元ホステスだという。父親譲りの頭脳と運動神経に加え、母親似の端正なルックスを合わせ持つ。家は当然、三人家族では持て余す程の豪邸だ。ネットの掲示板上には、大輔の小学校や中学校時代の同級生の書き込みがあり、
『大ちゃんは欲しい物は何でも買い与えられてた』
『家に遊びに行ったら、お寿司を頼んでくれて驚いた』
『イケメンで野球上手くて金持ちで頭がいい。マジでどれか一つくれっていつも思ってた』
羨望のコメントに溢れている。そしてどの投稿者も最後には、
『どうして死のうと思ったのか、マジでわからない』
そう付け加えていた。その一方で、高校の同級生だと名乗る人物からは、
『去年の夏の甲子園が終わってからスランプに陥ってた。最近は練習にも来なくなってて、それが辛かったんじゃないかな』
そんなタレコミが書き込まれていた。幸太郎が調べたところ、大輔は実際に今年の春の選抜大会に出場してなくて、代わりに一年生エースがチームを引っ張り活躍したらしい。それが、プロ野球選手を目指していた大輔のプライドを傷つけ、精神的なショックを与えたであろうことは想像できた。
「でもなぁ」と幸太郎はスマートフォンの画面を見つめながら煙草の煙を吐き、頭を傾げてしまう。たとえ野球を奪われても、大輔には他人よりも秀でたスペックが残されている。プロ野球選手になれなくたって、勝ち組の人生を送れただろう。
「こいつ、バカだな」幸太郎はその一言で片づけた。「野球バカ。夢追いバカ」と容赦なく続け、煙草を灰皿に揉み消すと、エンジンを点けて車を発進させた。
まだ早朝で道路が空いていたため、四方を田園に囲まれた北洛高校には、幸太郎が予想していたよりも少し早く、四十分あまりで到着した。薄く朝陽が射し始めたグラウンドでは、まだ野球部の練習は始まっておらず、一年生らしき坊主頭の部員たちが用具出しをしていた。まだ早い時間だからか、マスコミらしき人々の姿も見えない。これはチャンスだ、早起きは三文の徳だ、と幸太郎は逸る気持ちを抑えながら、ボルボを職員用の駐車場に無断で停めて、グラウンドに戻った。
この時間から朝練をするのは野球部だけらしい。顧問の教師の姿もない。部員たちはニキビ面でまだあどけない様子だ。大輔のことを訊けば簡単に口を割るかもしれない。幸太郎は期待しながら、堂々とグラウンドに入って行き、誰だ? と不審そうに見つめる部員たちの視線を無視して、
「ねえ、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
すぐ近くで地面に座り込み、ボール磨きをしている子に声を掛けた。
「は、はい?」頬のこけた痩せ身の部員は、眩しそうに眉間に皺を寄せて、警戒心を露わに顔を上げた。『遠藤のことは口外するな』と、学校側か顧問から注意されているのかもしれないな、と思いつつ、幸太郎は構わず続けた。
「遠藤大輔くんのことについて訊きたいんだ。ここの部員だろ? 君は一年生?」
「そうですけど」新入部員は困ったように眉尻を下げ、助けを求めて他の部員のほうへ視線を泳がせる。幸太郎は彼の目の前に立って視界を遮り、しゃがみ込んだ。
「遠藤くんは、去年の夏の甲子園以降、練習を休んでるって話を聞いたけど、それは本当?」
「すみません、僕、一年生なんで、去年のことは」わかりません、と言うように部員は頭を振り、「それに、遠藤先輩のことを訊かれても誰にも話すなって、先生から口止めされてるんです。すみません」と頭を下げた。
「どうして口止めされてるの?」
「どうしてって……」部員は呆れた表情で顔を上げる。それならどうしてあんたは先輩のことを質問するんだ? と問いたげな顔をしていた。
「口止めしなきゃいけないようなことをしたの、遠藤くんは?」
幸太郎が捲し立てるように言うと、部員は困惑した表情になる。
「ニュースは見てないんですか?」と、つい口にしてしまったことを後悔するように顔を顰め、「すみません、どちら様ですか?」幸太郎を値踏みするような目で見た。
「うん、ちょっと身分を明かすことはできないんだけどね」幸太郎は意味ありげに声のトーンを落とす。「まあ、遠藤くんの身辺調査をしている者、とだけ言っておこうかな。こっち関連のね」と、ピッチングの素振りを見せる。つまりはプロ野球の球団関係者を偽ったわけだが、
「遠藤先輩って、まだその対象だったんですか?」部員は反射的にそう口走り、目を丸くさせた。
「まだ、というと?」
幸太郎が鋭く返すと、しまった、という顔をして、部員は目を逸らす。
「ケガでもしてるのかな?」幸太郎は部員に顔を近づけて声を潜めた。「君から聞いたということは絶対に漏らさない。教えてくれ」
「僕からは何も言えないですよ」
立ち上がろうとする部員の腕を掴み、幸太郎はもう片方の手でポケットから財布を取り出す。入っているのは千円札ばかりだが、幸太郎がそれをチラつかせると、部員の視線はそこに注がれた。好奇の目。練習ばかりでバイトができず、小遣いが欲しいはず。幸太郎はそう踏んで、とりあえず千円札一枚を財布から取り出した。今どきの高校生にこれではあまりに少ないかと思ったが、部員は餌を前に待てと命じられた犬のような顔になった。
「君が口外したなんてバレやしない。遠藤くんはケガを?」
「いや……」と、部員は千円札を見つめたまま、なおも罪の意識に捉われて口を割ろうとしない。
「これならどうだ?」幸太郎は部員にさらに近づき、声を小さくして千円札をもう一枚、財布から取り出す。これが決定打になった。
「絶対、僕が言ったってことは内緒にしてくれるんですか?」部員は誘惑に負けた。
「もちろん。約束する」幸太郎はウィンクして頷く。
「約束ですよ」部員は念を押すと、周囲に視線を送ってから、「ケガじゃなくて、精神的な問題みたいです。原因はわからないみたいですけど、夏の甲子園の後、練習に来なくなったみたいで。ずっと休部状態が続いているそうです」幸太郎に耳打ちするようにして打ち明けた。
「なるほど」幸太郎は頷きながら、千円札を二枚、約束通り手渡す。「プロを目指していたのに挫折してしまった。そこへ、かつての自分を思わせるような新入生エースが現れた。それで絶望して自殺を考えたってわけか」
「自殺!?」部員はぎょっとなり、「遠藤先輩がそんなこと」するわけない、と言うように頭を横に振った。それから、「やっぱり失踪事件のこと知ってるんじゃないですか」と、幸太郎を疑いの目で見て、後悔するように自分の手の中の千円札に視線を落とすも、それを返す様子はなかった。
「君、遠藤くんの住所知らない?」幸太郎は構わず続けた。「どの地域に住んでるか、ざっくりとでもわかれば助かるんだけど」
「知らないです」
「本当に?」
幸太郎が再び財布から千円札を取り出しても、
「本当です」と、部員は残念そうに頭を横に振る。
「そっかぁ」
幸太郎は千円札を手にしたまま、周囲を見回す。他の部員たちが遠巻きに幸太郎の様子を探っている。グラウンドにいる一年生は全部で三十名程。さすが甲子園常連の名門校だ。県内だけでなく県外の中学校からも、野球部に入部するために進学する生徒は数多い。もしかしたら、大輔の地元の後輩がいるかもしれない。幸太郎はその可能性に気づき、
「君の同級生の中に、遠藤くんと地元が一緒の子はいない?」と、目の前にいる部員に視線を戻した。
「遠藤先輩と……」部員はグラウンド内を見回しながら少し考え、「そういえば、タカギがリトルリーグでバッテリーを組んでたって言ってたような気がします」
「タカギくんてどの子? 今いる?」
「はい」部員は指差しそうになるのを寸でのところで回避して、「水道場で洗い物をしてる奴です」と、顔を俯けながら小声で言った。
幸太郎が振り返ると、水道場で一人、タオルを水で洗ってる新入部員がいた。
「あの恰幅のいい子?」と訊くと、目の前の部員は小さく頷く。
「ありがとう。助かった」幸太郎は千円札を手渡し立ち上がる。
「あの、本当に僕が言ったって誰にも――」
「言わないよ。約束する」
安堵と疑いが入り混じる表情を浮かべながら見上げる部員を尻目に、幸太郎は水道場へと歩く。他の部員は注目して見ているが、タカギは洗い物に忙しく、幸太郎の存在に気づいていない様子だ。
「タカギくん、ちょっといいかな」
幸太郎が話しかけると、タカギは顔を上げ、この人はどうして俺の名前を知っているのだろう? と訝しるように丸顔を少し傾げて幸太郎を見つめ返しながら、蛇口を捻って水を止めた。
「はい?」
「君が遠藤大輔くんの知り合いと聞いて足を運んだんだけど」
大輔の名前を出した途端、タカギの顔に警戒の色が浮かんだ。先程の部員とは違って頑固で意思が強そうだ。中学校の時からチームメイトだっただけに、先輩を金で売るようなマネはしないだろう。幸太郎は咄嗟にそう判断して、攻め方を変えることにした。
「何すか?」タカギは敵意を隠さずに幸太郎を見つめてくる。「マスコミ関連の人なら帰ってください。何も話すことはないんで」
「いや、違うんだ」幸太郎は恭しい態度を取る。「実は最近、うちの息子が危うく車に轢かれそうになってね。ギリギリのところで遠藤くんが助けてくれたお陰で、かすり傷だけで済んだんだ」
「そうなんですか」タカギは警戒心を解き、敵意を出していたことを後悔するように態度を軟化させた。
「そう」幸太郎は深く頷き、「息子から後でその話を聞いた時は、心臓が止まるかと思った。もしかしたら、事故死していたかもしれないからね」と、梅干しを食べた時をイメージして、息子を失いかけた父親の悲壮感漂う表情をつくる。タカギがすっかり信用している様子なのを見て、さらに話を続けた。
「だからこそ、遠藤くんには感謝してる。ぜひともお礼がしたいと思っていたんだけど、息子を助けた後、すぐに立ち去ってしまったみたいで、どこの誰だかわからずじまいだったんだよ。ところが昨夜、偶然にもネット動画で、遠藤くんが甲子園で投げる姿を見た息子が、『このお兄ちゃんだよ、僕を助けてくれたのは』と教えてくれたものだから――」
「ここへ来たってことですね?」納得顔で頷きながら、タカギは幸太郎の言葉を先回りするように言う。
「そう。そういうわけなんだ」幸太郎は笑顔で手を叩き、話が通じたよろこびを表す。「まずは学校側に問い合わせたほうがよかったのかもしれないけど、息子から話を聞いたら居ても立ってもいられなくなってね。会社へ行く前に会ってお礼がしたくて、ここまで足を運んでしまったというわけなんだ」
「大輔くんなら」と言いかけたタカギは、「遠藤先輩なら」と言い直し、「昔から困ってる人を見ると放っておけない人だから、『らしいな』って思います」誇らしげな表情を浮かべる。
「息子も、『すごくかっこいいお兄ちゃんだった』って。ただ、今話を聞いたら、遠藤くんは最近、練習に出てないとか?」幸太郎は、失踪事件のことは何も知らない振りをして訊いた。
「最近というか……」タカギはどうしたものか困り、周囲を見回す。幸太郎も振り返って見ると、野球部員たちの視線がこちらに集まっていた。先程の部員は、ボール磨きを続けながら、不安そうに幸太郎の様子を探っている。
「今の話って本当ですよね?」タカギは急に不安に駆られたのか、幸太郎を疑うように目を細め見つめる。
「今の話って?」幸太郎は目を見開いて、タカギの顔を見つめ返す。「遠藤くんに息子を助けてもらった話?」
「はい」
「どうして?」と、眉間に皺を寄せながら、幸太郎は首を傾げる。「嘘をつく理由なんて何もないけど」
「ですよね、すいません」タカギは再び、疑ったことを後悔するように表情を和らげ、けれど今度はすぐに顔を強張らせて、「遠藤先輩、去年から練習に参加してないんです」
「それはまた、どうして? 大きなケガでもしてるの?」
「いえ、そうじゃなくて、精神的な問題みたいです。僕は大輔くんと中学の時みたいにまたバッテリーが組みたくてここに来たのに」タカギは『大輔くん』と呼んだことに気づかず話を続ける。「何があったのか知りたくて、教室だけじゃなく家にまで押しかけても、会いもしてくれないんです」まるで失恋でもしたかのように俯いて肩を落とす。
「家を知ってるんだ?」
「はい。中学の時は、よく遊びに行ってましたから」
「教えてくれないかな、住所」
「それはまずいですよ」タカギは驚いて顔を上げる。「個人情報ですから」
「そこを何とか。どうしてもお礼を言わなければ、親として気が済まない」
「無理です。勘弁してください。職員室に行って訊いてください」蛇口を捻りかけたタカギの手を幸太郎は握る。学校に掛け合ったところで、大輔の住所を教えてくれるわけがない。だが、ここまできて何も収穫なしなんてあり得ない。
「頼む。この通り」顔の前で両手を合わせ、幸太郎は手刀を切る。「これで足りないって言うなら、土下座だって構わない。命の恩人に何としてでもお礼を言いたいんだ」
「だから、職員室に――」
「君に訊いたことは誰にも話さない。遠藤くんに会えたら、君が心配してることを伝えるから」
口を挟む隙を与えずに迫る幸太郎に押され、タカギは困惑した表情になり、やがてため息を吐いて白状した。
「行っても無駄ですよ」と。急に投げやりな態度になり、「ニュース見てないんですか? 今、ネットとかでも、めちゃくちゃ話題になってますよ。昨日から先生もピリついてるし」怒りと嘆き、不満が入り混じった口調。相手が感情的になればこっちのもんだと、幸太郎は内心でほくそ笑みながら、
「最近、仕事が忙しくて、ニュースには疎くて。遠藤くんに何かあったのかな?」と無知を装う。
タカギは一瞬、答えそうになりながらも自制して、
「自分で調べてくださいよ。スマホで調べればすぐにわかりますから」と、再び蛇口を捻ろうとする。そしてまた、幸太郎がその手を制して、
「そのことについては後で調べる。せっかくここまで来たんだ。遠藤くんに会えないのなら、せめて親御さんにだけでも感謝の気持ちを伝えておきたい。彼の家を教えてくれないかな」
「だから、ダメですって」
「お願いだ。具体的な住所じゃなくてもいい。大体この辺りだって教えてくれれば、後はどうにか見つけ出すから」幸太郎は、タカギの手を握る指にぎゅっと力を込める。頼りになるのは君しかいないんだ、という気持ちが伝わるように、タカギの顔を真っ直ぐに見つめた。
「困らせないでくださいよ」タカギは幸太郎の視線から逃れるように目を逸らす。苛立ったように唇を噛みしめるも、「ここまで、どっち方面から来たんですか?」と口を開いた。
「向こうから」タカギの手を離し、幸太郎は来た道を指差す。ちょうど、太陽が昇り始めていた。タカギは顔を上げると、朝陽の眩しさに顔を顰めながら、
「途中にショッピングモールがありませんでした?」と無愛想に言う。
「あった」
「その辺りです。俺が言ったって絶対に内緒ですよ」
「わかった。ありがとう。恩に着るよ」
「もう行ってください。皆に見られてる」
タカギが指摘した通り、先程までグラウンドに散在していた他の部員たちは、今は数名ずつのグループが数ヶ所に点在して、不審そうにこちらを見ていた。これ以上いたらタカギに迷惑をかける。職員室から教師が出てくる可能性もある。
「お邪魔したね」
幸太郎が声をかけてもタカギは無視して、蛇口を捻り洗い物を再開させた。ところが、幸太郎が踵を返して立ち去ろうとすると、蛇口をきゅっと閉める音がして、
「あの」と畏まった声で呼び止めた。
「ん?」と振り返った幸太郎に、
「もし大輔くんに会うことがあったら伝えておいてくれませんか」と、タカギは俯きながら言う。
「いいけど、何を?」
「待ってるからって。また一緒に野球やろうって」
タカギの声は少し震えていた。大輔はもうこの世にはいないと、心のどこかで感じ取っている。それでも、もう一度会えるという希望を捨ててはいない。幸太郎は、そんな思いを汲み取った。
「わかった。もし会えたら、そう伝えておくよ。またバッテリーを組んで、夏の甲子園に出場できたらいいね。応援してる」
「……どうも」泣くのを堪えるように声のトーンを落として返事をすると、タカギは黙々と洗い物を再開させた。
幸太郎は水道場から離れ、他の部員たちの好奇と警戒の目を尻目に駐車場へ戻り、ボルボに乗り込むと、すぐにその場を後にした。
タカギが言っていたショッピングモールは、北洛高校から車で十五分程の場所にあった。その周囲は住宅が密集していて、この中から遠藤家を探り当てるのは骨が折れるぞ、と幸太郎は覚悟した。
ところが、思いのほかあっさりと事は進んだ。犬の散歩をしていた初老男性に、プロ野球の球団のスカウトだと偽り、北洛高校のエースの遠藤大輔くんの家を知らないかと訊くと、
「ああ、大ちゃんね、ここらじゃ有名だよ」と、何の警戒心も持たずに住所を教えてくれた。幸太郎が礼を言ってボルボを走らせようとすると、
「でもさ、大ちゃん、イップスになったとかで、ずっと練習休んでたでしょ? スカウトの対象になってるなんて、ちょっと驚きだな」あんた奇特な人だね、とでも言いたげな様子で、初老男性は幸太郎を見た。
「イップス?」幸太郎は思わずエンジンを停めて訊き返した。イップスは、心理的な葛藤によって通常のパフォーマンスができなくなる症状だ。大輔が部活を休んでいる理由について、タカギが『精神的な問題』と言っていたのを思い出した。
「そう。準決勝で負けちゃったのがショックだったらしくて、立ち直れなくなったって話だよ。それにさ、今、大変じゃないの」近くに誰もいないのに、初老男性は声を潜める。「ニュースでも代々的に取り上げられちゃって」
「失踪事件ですか?」
「そう。それで調べに来たんでしょ、お兄さん」
「いや、まあ」幸太郎は言葉を濁す。「事件についてどう思いますか?」
「どうって」初老男性は周囲に誰もいないことを確認すると、さらに声を低くして、「自殺じゃないかって噂もあるみたいだね。野球ができなくなってさ、絶望したって」
「そう思います?」
「どうだろうな。その可能性もないとは言い切れないよね」
「最近、遠藤くんを見かけました?」
「一ヶ月前くらいだったかな。すぐそこのコンビニで。暗い顔をしてたよ。甲子園のマウンドに立ってた時とはまるで別人みたいでびっくりした」
「遠藤くんの家は金持ちと聞きましたけど」
「そうだけど」急に話が代わり、初老男性は少し驚いた顔で幸太郎を見る。「父親のほうが代々、医者の家庭みたいだよ。立派な家が建ってる」
「恵まれた環境で育ったんですね。だったら、野球ができなくなったくらい、何ともないと思いますけど」
幸太郎が指摘すると、初老男性は虚を突かれたように、一瞬だけポカンと口を開けて黙ると、
「あんた、何かに一生懸命、打ち込んだことはあるかい? ないだろ」少し嘲笑するように口元を歪めた。
「ありますよ」幸太郎は胸を張って答えた。ボクシングにギャンブルに女遊び。それらのすべてにのめり込んだという自負がある。
「へえ、そうかい」初老男性は疑わしげに目を細める。「じゃあ、それを突然、奪われたらどうだ? 死にたくなる程に落ち込まないか?」
「全然」幸太郎は即答した。「別の何かを探せばいいだけじゃないですか。人生は短いんだから絶望してる暇はないし、世の中には夢中になれることなんてたくさんありますよ」
とはいえ、女遊びとギャンブルを取り上げられるのは、ちょっとばかしキツいな、と幸太郎は心の中で思う。賭けに勝った時、いい女をモノにした時の高揚感は中々、他のことには代え難い魅力がある。
「へえ、そうかい」初老男性はため息を吐くように言う。「あんた、幸せ者だな。大ちゃんも、あんたみたいな性格だったらよかったのに」
何だかバカにされたようで、幸太郎は納得がいかない一方、この男性は大輔が自殺したものだと、半ば決めてかかっているように思えた。
「おっと」犬がリードを引っ張り、初老男性は大袈裟に驚く振りをする。「もう行きたいみたいだ。それじゃあ失礼するよ」
去って行く初老男性をサイドミラー越しに見送りながら、幸太郎は首を傾げる。やはり考えは変わらなかった。どうしようもなく家庭が貧しくて、プロ野球選手になる以外、そこから抜け出す手段がないならまだしも、恵まれた環境で育った大輔が、野球ができなくなったという理由だけで自殺する心理が、どうしても解せない。とんでもなく甘ったれで、ワガママな人間にしか思えなかった。
「もったいねえな」命を粗末にするなと憤りながら、幸太郎はアクセルを踏みしめた。
豪邸が建ち並ぶ住宅街の中でも、一際目立つ豪奢な家の前に到着して、石造りの立派な門柱に貼られた『遠藤』の表札を見た時、大輔に対する幸太郎の怒りはさらに増した。父親が死んだ時のことが思い出される。雑居ビルの二フロア分を遺してくれたことに感謝したものだが、あの時の自分とほぼ同年齢の大輔は、それとは比べものにならないくらいの富に恵まれている。それを投げ捨ててまで死のうだなんて、もはや幸太郎の理解の範疇を越えていた。嫌いだ、とすら思った。
それはさておき、まだ陽が昇ってまもない時間だからか、ここにもマスコミの姿はなかった。大輔の両親と話をする絶好のチャンスだ。ただ、騒動の真っ只中にいる。バカみたいに正面突破しようとしても門前払いを食らうだけだろう。
幸太郎はひとまずボルボを近くのコインパーキングに停め、遠藤家の前に戻ってきた。そこへ新聞配達のバイクが停まり、遠藤家のポストに朝刊を入れる。その際に紙面がちらっと見えたが、驚いたことに、失踪事件の記事が一面を飾っていた。他に取り挙げる事件がないこともあってか、幸太郎が思った以上に失踪事件は大きな騒動となっているようだ。これだけの騒ぎになれば、警察だって本腰を入れて捜査をしていることだろう。それでも行方が知れないということは、それこそネット上で噂されている神隠しにでも遭ったのではないかと、幸太郎は半ば信じつつあった。そうであれば、自分ごときが地道に調査をしたところで、いつまで経っても進展はないだろう。
心が挫けつつも、日本中から注目を集める事件の、恐らく最もニュースバリューがあるであろう甲子園球児の実家に、マスコミの姿が見えないこの時間、何らかの手掛かりを掴む絶好のチャンスだと、幸太郎は気持ちを切り替えた。
とはいえ、大輔の両親は昨日から散々、警察からの事情聴取やマスコミ対応に追われ、精神的に疲弊していることだろう。どうしたら会ってくれるか。考えるまでもなく、息子を交通事故から救ってもらい、お礼を言いにきた父親をまた演じることにした。菓子折りの一つも持ってないのは無礼かと思ったが、どうせ嘘の設定なのだからまあいいかと、幸太郎は開き直って正門にあるインターホンを鳴らした。
「はい?」幸太郎が拍子抜けするほど快活な女性の声が返ってきた。恐らく大輔の母親のものと思われるが、息子が失踪して落胆しているとは思えない明るい調子に、訪問する家を間違えたのかと思い、表札を確認すると『遠藤』の文字。ここへ来るまでに他の家の表札も確認したが、遠藤家はここだけだった。
「どちら様?」
「あ、あの……」一瞬、頭の中が真っ白になった幸太郎だが、すぐに気を取り直し、「こちら、遠藤大輔くんのお住まいでしょうか?」
大輔の名前を出すことでマスコミ関係者だと疑われ、女性の声に警戒心の色が滲むと予想した。ところが、
「お忙しいところ、わざわざどうもありがとうございます」幸太郎の予想はまたもや裏切られ、女性はむしろ声のトーンを上げて応じた。「主人ともども、お待ちしておりました。どうぞお入りになって」
インターホンが切られ、代わりに家の中から操作したのか、門扉が開いた。
「お待ちしておりました?」
会う約束なんてしてない。単なる人違いか。そうでなければ、何かの罠ではないかと幸太郎は訝る。それでもここは素直に応じるしかないと腹を決め、庭先に足を運んだ。すると木製の大きなドアが開き、玄関から幸太郎と同世代くらいの女性が姿を見せた。長い髪の毛にはゆるやかなパーマがかかり、化粧は少し濃い目だが目鼻立ちが整っている。桜色のサマーニットに白いパンツを合わせたスタイル。華奢で全身から洗練された雰囲気が漂っている。普段、幸太郎に不倫調査を依頼しに来る主婦たちとは生活レベルが格段に違うことは一目瞭然。その女性が、まるで旧知の仲のように、にこやかに手を振るものだから、幸太郎は恐縮し、やはり誰かと勘違いされているのだろうと思い、
「はじめまして」とお辞儀をしてから先手を打つことにした。「実は以前、わたしの息子が――」
「ああ、いらっしゃい」女性の後ろから現れた大柄な男性が、笑顔で声をかけてきたために、幸太郎の挨拶は遮られてしまった。「どうぞ、中へお入りになってください」ところどころに皺があるものの、顔の造りは大輔にそっくりだった。そして、二人ともお揃いのシルバーのコインネックレスを装着していることに気がつきつつ、
「あ、いえ、その」と、予期せぬ展開に幸太郎はしどろもどろになってしまう。
「本部からわざわざお越し頂き感謝致します」大輔の母親であろう女性が恭しく辞儀をすると、
「ここで立ち話もなんですから」父親らしき男性が幸太郎の背後に回り、家の中に入るように背中を押して促す。
「あ、その……」幸太郎は抵抗できず、流されるままに玄関の中に入り靴を脱ぐ。女性が言った『本部』という言葉が頭の中で引っ掛かったが、吹き抜けになった玄関ホールの豪華さに驚き、注意がそちらに向かった。やはり大輔は恵まれた環境で育ったのだ。
しかし、幸太郎がそれより気になるのは、大輔の両親だった。息子が失踪して渦中の人物となっているのに、まるで気落ちした様子がない。それどころか、上機嫌にさえ見えるのが不思議、を通り越して不気味でさえあった。
「あの、大輔くんのご両親で間違いないですよね?」たまらず確認すると、
「ええ、もちろん」大輔にそっくりな男性のほうが頷いた。幸太郎は、二人のネックレスのコインに、同じ彫り物が施されていることに気がついた。大きな目を両手で包み込み支えるようなデザイン。何か特別な意味でもあるのだろうか?
「本部の方ですよね?」父親がまたその言葉を使ったため、幸太郎は素直に訊くことにした。
「その本部というのは?」
「昨夜、お電話で本部の方が来られると」母親が目を見開く。「大輔のことについて詳しく説明なさってくれると仰ってましたよね?」
「大輔くんのことについて?」
一体どういうことだろう? 『本部』の人間は大輔の行方を知っているというのか。幸太郎が眉間に皺を寄せて訊き返すと、大輔の両親は揃って口を開けてお互いの顔を見交わし、それから猜疑心の芽生えた表情で幸太郎を見た。
「本部の方でないなら、あなたは一体誰なんです?」父親が幸太郎に一歩近づいて、精査するような目をしながら訊く。「まさかマスコミの方じゃないですよね?」
頭一個分、上から見下ろされ、幸太郎は威圧感を感じた。それまでの歓迎ムードから一転、不穏な空気が流れ始めたことで、頭の中が真っ白になってしまう。
「マスコミ?」咄嗟にとぼけた幸太郎は、大輔に交通事故から息子を救ってもらった父親、という設定を思い出して、しどろもどろになりながらも何とか自己紹介と訪問理由を説明した。
「大輔がそんなことを?」母親が我が子の善行に感動して目を細める。
「はい。お陰で息子の命は助かりました。感謝してもしきれません」作り話を信じてもらえて一安心した幸太郎だが、
「しっかり徳を積んだんだ。だから、大輔は選ばれたんだな」という父親の言葉が引っ掛かった。
「選ばれた、とは?」
「ニュースはご覧になってませんか?」父親が少し驚いたように幸太郎を見つめる。
「いえ、このところ仕事が忙しかったもので。何かあったんですか?」息子が失踪したというのに、目の前にいる夫婦は何も動揺した様子を見せていない。それに加えて『本部』の人間の訪問を待ち構え、大輔が徳を積んだために『選ばれた』と言う。何かがおかしい。もしかしたら自分は、開けてはいけないパンドラの箱を開こうとしているのではないか。幸太郎はそんな嫌な予感を抱いた。
「鴉山で」と切り出した父親だが、「いや、やめておきましょう。大輔が顔を見せられなかったのは残念ですが、わざわざここまで足を運んで頂き感謝します」日を改めて訪問しても大輔には会えない、と決めつけるように、そして長居は無用と言うような口調だった。これではただ挨拶を交わしただけで、大輔の失踪の情報をまるで掴んではいない。幸太郎はどうにかもう少し時間稼ぎができないか、あわよくば大輔の部屋に入って、事件にまつわる手掛かりがないか調べたいと思った。ところが、
ピンポーン、とインターホンが鳴ると、
「本部の方ね、きっと」と、母親が嬉々とした表情になり、今度こそはお待ちかねの、と付け足しそうな様子で言った。
「お待たせさせては失礼だ」父親は玄関のほうへ母親を押すと、「すみません。今日は大事なお客様が来る予定になっていますので」お引き取りくださいと促すように、幸太郎に申し訳なさそうな顔を向けた。こうなってはもう長居はできない。
「そうですか」幸太郎は諦めて玄関へ向かった。靴を履いていると、閉じたドアの向こう、庭先から母親の「お待ちしておりました。わざわざ遠くから足を運んで頂き感謝しております」と、華やいだ声で誰かを歓迎する声が聞こえてきた。相手はきっと『本部』の人間なのだろう。
「息子さんにもよろしくお伝えください」父親が靴を履きながら幸太郎にそんな言葉をかけてきた。このまま何の収穫もなく引き下がるのは、探偵の名が廃る。幸太郎は意地になり、
「わたしの息子も、大輔くんのように立派に育ってもらいたいです。何か子育てのアドバイスを頂けませんか?」どんな取っ掛かりでもいい。大輔に関して何か情報が得られないかと、下手に出てそんな質問をしてみた。すると父親は急に真顔になり、
「福田さんと仰いましたね。名刺はお持ちですか?」と訊いてきたので、幸太郎はドキリとした。もちろん名刺を渡せば探偵であることはバレてしまう。息子が交通事故に遭ったということが嘘だと見抜かれたのではないか。本当は大輔の失踪の裏側を調査しに来たことがバレてしまったのではないか。冷や汗を掻きつつ、
「すみません、今、名刺は切らしてまして」と言い逃れた。
「そうですか」父親は残念そうに言うと、しばし思案顔を浮かべ、「では、住所を教えて頂けませんか」と続けた。
「住所、ですか?」どうやら名刺を求めたのも、それを知りたいためらしい。しかしなぜ? 目的がわからず戸惑う幸太郎に父親は微笑みかけた。
「いえ、息子さんの教育に少しでもプラスになるのではないかと、資料を送らせて頂こうと思いまして」
「資料、といいますと?」
「ご覧になって頂けばわかると思います」父親は胸を張って言うが、肝心の『資料』の内容は教えてくれない。それはただの口実に過ぎず、本当は住所を知って幸太郎の素性を調べるつもりではないか。けれど、もしかしたら逆に大輔の素顔を知る手掛かりになるかもしれない。しいては、失踪事件の真相を解くカギになる可能性もある。住所を教えれば探偵だとバレるリスクがあるが、その時はその時だ。失うものは何もないと判断して、幸太郎は住所を教えることにした。ポケットから手帳を取り出して番地を記し、そのページを切り取って父親に渡す。
ドアが開き、
「どうぞ、お入りになってください」と、母親がスーツ姿の男性を家の中へ案内した。年齢は三十代前半くらい。髪の毛をオールバックにして整髪料で塗り固め、シームレスメガネをかけていて、髭の剃り残しや染み一つないきれいな肌。理知的でどこか人間味の薄い、アンドロイドを思わせる人物だった。その男性は幸太郎を見ると立ち止まり、誰何するような顔をした。
「こちら、福田さんといいまして、息子さんが交通事故に遭いそうだったところを、うちの大輔が助けたとかで。わざわざお礼に来てくださったんです」
すかさず父親が紹介するも、男性は押し黙り、幸太郎の顔を観察するように見つめる。まるで実験動物になった気分になり、幸太郎は居心地の悪さを感じて、挨拶もそこそこにその場から立ち去った。
コインパーキングに戻り、ボルボの運転席に腰を落ち着けると、幸太郎は煙草に火を点けながら、さて次は誰の調査をしようかとネット検索を始めた。年齢順でいくと、大輔の次に若いのは中村純一という名の二十三歳のサラリーマンだ。写真を確認すると、目が隠れるくらい前髪を伸ばし、黒縁のメガネの奥に見える目はいかにも陰気くさい。中村が住んでいる地域は、ここから車で三十分ほどの距離にある。しかしそこへ行く前に、幸太郎は優先すべきことがあることに気づいた。自分は今、失踪事件の真相を追っているのだ。それならば、まずは事件現場に足を運ぶのが筋ではないか。鴉山に行こうと思い立ち、現在の状況を見ようとネットニュースの映像を検索すると、八人の靴と身分証明書が見つかった場所には、マスコミの数がさらに増している。そこへ足を運べば、もしかしたら何か有力な情報が得られるかもしれない。中村の住む街へ行く前に、やはり鴉山へ行こう。そう決心して、幸太郎はボルボを発進させた。