遠藤大輔
……ああ、睡眠薬を飲んでもうすぐ死ぬっていうのに、またこの夢を見なきゃいけないのか。ウンザリする。昨年の甲子園の準決勝。雲一つない青天だった。延長十六回の裏。そんなに長いイニングを投げ続けるのは初めての経験だった。連日の試合の疲労が蓄積されて、おまけに記録的な猛暑。全身から汗が噴き出し、腕を上げるだけでも顰め面を隠すのに骨が折れた。それでも弱音は吐けない。ウチのチームはリリーフ陣が心もとない。だから、お前一人の力で完封してくれと、前日の夜に監督から命じられた。プロを目指すなら、同世代で圧倒的な力を見せつけなければダメだと。そう言われたらやるしかない。だけど、相手チームは継投が上手くいき、ウチのチームの打線にちっとも火が点かず、どちらも決め手のないまま試合は長引き、炎天下で俺の体力は容赦なく削られていった。
それでも気合で投げ続け、下位打線を迎えたこの回は何とかツーアウトを取り、二塁にランナーを背負っているものの、あと一人抑えれば攻守交替。悪夢はいつもこの場面から始まった。九番手を務める相手バッターはピッチャー。普通だったら簡単にアウトを取れるはずだった。だけど、暑さと疲労で意識が朦朧とし始めていた。客席を埋め尽くす同じ学校の生徒たちの応援の声も、次第に遠くから聞こえるようになっていた。
集中力が切れていると自覚しながらも両手を上げて投球動作に入った。右足を軸に左足を上げながら上半身を捻り、グローブをはめた左手をゆっくり前方に出す。今思えば、この時点でボールを握る右手にはもう力が入ってなかったのかもしれない。ほとんど無意識に近い状態で右腕を振り回そうとした瞬間、額から汗が流れ落ちた。打者を捉える左目に入り、視界がぼやける。ボークになってしまうけど、一旦投球をやめればよかった。けど、俺はやめなかった。もう疲れた。早く終わりにしたい。そんな弱い気持ちがあったからだ。絶対にプロになると明言しておきながら、中途半端な覚悟しかなかった。後になって振り返り、不甲斐なさに心が押し潰されそうになった。
とにかく、俺はそのままボールを投げた。正直、どこへ投げたのかもまったく覚えてない。ボールが手から離れた直後、俺は試合中に初めて神様に祈った。どうか打たれないでくれと。その願いは聞き入れてもらえなかった。カキーンという金属音が鼓膜に響いて、大歓声が湧き上がった。急いで右手の手首で瞼をこすり汗を拭くと、二塁にいたランナーが両手を上げながらホームに生還していた。サヨナラ負け。俺の身体は前方に揺らぎ、両手で膝を掴んで踏ん張ろうとしたけど、そのまま倒れてしまった。その後のことは何も覚えていない。気づいたら医務室のベッドの上に寝ていて、マネージャーから敗戦を知らされた。
地元に戻ると皆は健闘を称えてくれたけど、俺は自分のメンタルがプロ向きではないことを思い知らされ、これ以上ない程に打ちのめされた。三日間与えられた休日期間中、一度もボールを握ることができず、準決勝戦のVTRを何度も見返しては、もうこれ以上野球を続けても意味がないのではないかと落ち込んだ。
そして練習が再開された初日、久しぶりにボールを握ろうとした時、俺は愕然とした。まったく握力が入らないことに気づいたからだ。他のことをする時には何も感じなかったのに、ボールを手にした瞬間、すべての指が震えて、とてもじゃないけど投げることなんてできやしない。すぐに医者に診てもらった。レントゲンで調べても何も異常は無いと言う。念の為に脳のMRI検査を受けたけど、やっぱりどこにもおかしな点はないと言われた。恐らく気持ちの問題だと。準決勝戦で敗れたショックによって、一時的に身体が野球をすることを拒否しているのだろうと診断された。
そのことを報告すると監督は、『そんな軟弱なメンタルで、本当にプロになれると思ってるのか』と、蔑むように言った。それが俺の精神をさらに追い詰めた。回復するまでしばらく体力づくりを重点的にこなすようになったけど、それから数日、数週間経ってもちっとも握力は戻らなかった。最初は心配してくれていたチームメイトたちも、次第に疑いを抱くようになった。詐病でサボっているのではないかと。
『エースは練習しなくてもレギュラー確約なのか、羨ましいなぁ、オイ』
『甲子園で負けたのはお前らのせいだから、もっと練習しろってことか』
……元々、俺のことを妬んでいた先輩たちから、露骨に嫌味を言われるようになった。次第に練習に行くのが精神的に辛くなった。インフルエンザにかかって一週間休んだ時は、正直ほっとした。練習に出なくてもいい、れっきとした言い訳ができたから。
そこで緊張の糸がぷっつり切れた。久しぶりに登校して、放課後に部室へ行こうとしても身体が拒否反応を起こして動かない。練習開始時間になっても教室の自分の席から立ち上がれず、心配した同学年のチームメイトたちが数人、ユニフォーム姿で現れた瞬間、全身から脂汗がどっと噴き出した。まるで死刑を受ける囚人の気分になった。チームメイトたちが周りを囲んで心配そうに見つめ、口々に何か言い掛けてきたけど、耳に水が詰まったように不明瞭にしか聞こえず、貧血を起こして倒れた。
そんなことが毎日のように続き、監督と両親を交えて相談した結果、しばらく休部することになった。ほっとしたのも束の間、今度は何もすることがなくて不安になった。考えてみれば、物心ついた時からずっと野球に打ち込んできた。土日、祝日、長期休みのスケジュールはすべて練習や試合で埋まり、それ以外は何もしてこなかった。だから、授業が終わり家に直帰しても何をすればいいのかわからず、部屋に閉じこもっては、ただただ壁や天井を見つめていた。食事をする気も失せて、筋肉は急速に衰え痩せていった。自分には野球しかないのだと強烈に思い知らされた。けど、野球をしようとすると気分が悪くなる。手に力が入らず、ボールもろくに握れない。まさに生き地獄。いつしか、このまま生きていても意味はない、死にたいと、朧気ながら考えるようになっていた。
その気持ちがよりハッキリと芽生えたのは、今年の春の選抜大会の試合を観た時だ。一年生に本格派の速球投手が入ってきたという噂は、野球部から距離を置いていても耳に入ってきた。俺がいることに気づかず、『一年前の遠藤より凄いらしいぞ』と話す奴もいた。だから、その存在は心の片隅で気になっていた。でもあえて試合を観たいとは思わなかった。プロも高校野球の試合も、目にすると色々なことを思い出して気分が悪くなるからだ。
それでも、春の選抜大会のウチのチームの試合を観てしまったのは、ネットで音楽動画を見ていた時、おすすめ動画に出てきたからだ。
『北洛高校の一年生エース 野上毅 圧巻の奪三振ショー』
そんなタイトルが付けられた映像を見た瞬間、俺は衝撃を受けた。そこに映っているのは俺だった。顔も体型も投球フォームだってまるで違う。だけど、物怖じせず堂々とマウンドに立つ姿、自分の投げる球を打てる奴なんて誰もいないという自信に満ちた顔、絶対にプロになるんだという強い意志が感じられる目力。そのすべてが一年前の自分の生き写しのように思えた。そして、それらの何もかもを今の自分は失ってしまった。取り戻す自信はなく気力も湧かない。自分の居場所は完全に奪われてしまった。もはや本当に生きてる意味なんてないんだ、死ぬしかない。強迫観念に駆られたようにそう思うようになり、それでも決心がつかず、死ぬ方法を探していた時、突然届いたのが死神と名乗る人物からのメールだった。最初は何かの犯罪に巻き込まれるんじゃないかと疑った。けど、それならそれで構わない。もし本当に楽に死ねるならラッキーだ、ぐらいの気持ちで参加することに決めた。
そんな、この一年余りの記憶が、夢の中で走馬灯のように蘇った。そしてその映像が徐々に薄らいでいく。肉体が死に近づいている証拠だろう。このまま完全に意識が無くなったところで俺は死ぬ。十七年の人生で、何も成し遂げられないまま。もし違う人間に生き返ることがあったら、次はどういう人生がいいだろう?
あらゆる雑音が聞こえなくなり、自分の心と真正面から向き合っている今、思うことはただ一つ。やっぱり野球がやりたい。俺は心の底から野球が好きだったんだ。別にプロになんてなれなくてもいい。むしろそのほうが、何の気負いもなく純粋に楽しめる。右手でボールが握れないなら、左手で投げる練習をすればよかった。それがダメなら、バッティングに専念するのだっていい。
ああ、何で死のうなんて思ったんだろう? せめてもう一度だけマウンドに立ちたい。信頼する仲間に囲まれて、渾身の一球をキャッチャーミットに放り投げたい。バットがかすりもせずに風を切る音、ボールがミットに収まる時のズドン! という重い音。割れんばかりの歓声。もう一度だけ、あの充実感を味わいたい。
だけどもうダメだ。もう引き返せない。ランダムに蘇っていた過去の記憶は薄れ、暗闇に包まれた。このまま死ぬ。父さんと母さん、大事に育ててくれた一人息子なのに、裏切ってごめん。感謝の気持ちは遺書に書いたから、どうか許してください。今まで支えてくれた歴代のチームメイトたち、プロで活躍する自慢の同級生になれずにごめん。所詮は口だけの男だったんだ。だけどこれだけは言わせてくれ。皆と一緒に野球をやれたことは、短い人生の中で最高の宝物だった。
意識が遠のいていく。神様、命を粗末にしてこんなお願いをするのはワガママかもしれないけど、どうか安らかに眠らせてください。よろしくお願いします。
……暗闇がぼんやりと明るんできた。なぜだろう? 肉体に徐々に力が蘇ってくるのも感じる。死んだらてっきり魂だけになるのだと思ってたけど、どうやら違うらしい。天国か地獄かは知らないけど、あの世でも『遠藤大輔』のまま過ごすことになるのかな?
ああ、瞼の裏がどんどん明るくなっていく。
「……ん?」
遠くから誰かの声が聞こえる。どこかで聞いたことのある声だ。
「だ……ん?」
女の子の声。かわいらしい声だ。それに、さっきより近くから聞こえる気がする。
「大輔くん?」
今度ははっきり聞こえた。あの女の子だ。ワゴン車に一緒に乗った、えっと、そうだ、ユイって名前。儚げで頼りなくて、傍にいて守ってやらなきゃって気持ちにさせられる子だった。同級生の子みたいに無理やりなメイクじゃなくて、ナチュラルなところがいい。ちょっとぽっちゃり気味なところも俺の好みだ。きっと学校でもモテたんだろうな。あんなにかわいければ死ぬことなんてないのに。まあ、人の悩みなんて所詮、他人にはわからないものだけど、でもあの子に関しては、今死ぬのはもったいない気がする。まだ中学生だろうし、高校生になればもっと楽しい生活が待ってるだろうに。
でも待てよ。どうして、ユイの声が聞こえるんだ? 俺はもう死んだはずなのに。
「大輔くん?」
今度はすぐ近くから呼び掛けられただけじゃない。頬に手の感触を感じた。瞼の裏がパッと明るくなる。眩しくてたまらず、俺は目を開けた。
二
「どこだ、ここ?」
思わず声に出た。すぐ傍でユイがしゃがみ、俺の顔を覗き込んでいる。その向こうに見える青空、流れる雲。穏やかな陽の光で明るく照らされている。寒くもなく暖かくもない心地いい気候。風はまったく吹いていない。頭が少しぼんやりして身体がダルかった。
「それが……」ユイは困ったような表情を浮かべ、周囲を見回してからまた俺の顔を見て、「わからない」と頭を振る。よく見ると、ニワトリ男と同じ真っ白なツナギの服を着ていて、左胸の辺りに『鈴木結衣』と黒の糸で刺繍がしてある。首には一cm幅くらいのシルバーの首輪をはめていて、真っ白な靴を履いている。俺も同じ格好をしていて、同じく左胸に黒の糸で『遠藤大輔』と縫われている。首に違和感を感じて手で確認すると、金属製の首輪の手触りを感じた。
「わからないって?」俺は周囲を見回し、「ここは!?」ワケがわからず大きな声を出してしまった。反射的に上半身を起こそうとすると、部活でハードな練習をこなした翌朝のように、身体の節々が痛む。頭がクラクラして、軽い吐き気を感じた。それでも驚きのほうが大きく、無理に上体を起こして、ゆっくり頭を振りながら周りを見ると、すぐ近くに、一緒にワゴン車に乗った人たちがいて、俺と同じ格好をして、同じように困惑した様子でキョロキョロしていた。
さらに見回すと、まるで巨大な卵が地面に半分埋まったように、高さ三メートルくらいの真っ白な物体が、俺たちを囲むようにして、直径百メートルくらいの円状に配置されていた。その中央の地面だけ、直径十メートルくらいの円状に黄色く塗られていて、それ以外は白色のサラサラした砂に埋め尽くされている。円状に建物が配置された向こう、外部は見渡す限り何もなくて、その果ては青空と白い砂漠にくっきりと二分されていた。
「何だ、ここ?」俺と同じ疑問を、他の皆も口にしている。
「ここ、天国なのかな?」結衣が遠慮気味に呟く。振り返ると、「それとも、地獄?」不安げな顔をして俺を見つめてきた。
「少なくとも地獄には思えない」俺は立ち上がり両手をはたくと、手に付いていた白い砂は簡単に落ちた。「かと言って、天国なのかもわからない」立ち上がったことで視線が高くなっても、地平線の向こうには何も見えない・
「おい、何だここ! 俺たち、本当に死んだんだよな?」
ワゴン車に乗る時、やたらと不満を言ってたハギワラとかいう男が叫ぶと、そのすぐ傍にいるカワサキとかいう金髪の女が一緒になって、
「変な所に連れて来られたんじゃないよね?」と騒ぎ出した。
「死ぬって、こんな感じなの?」気づくと結衣も立ち上がり、俺と肩を並べて泣きそうな声を出す。「生きてる時と全然、変わらないよ」
「確かに」俺は頷き、足元から自分の全身を眺めた。白いツナギを着ていて皮膚は見えないけど、風邪の病み上がりの時のように身体がフラつく感覚があるだけで、死んだ実感はちっとも湧かない。
「やっぱ怪しいと思ったんだよな、あのニワトリ野郎!」
ハギワラがなおも喚き、それに引き寄せられるように、他の皆が集まり出した。
「行こう」俺は結衣の手を握り、黄色いエリアのすぐ傍に立つハギワラとカワサキに近づいた。二人の左胸にはそれぞれ『萩原拓哉』『川崎愛』と刺繍されている。それから、サラリーマンになりたてみたいな、黒縁のメガネをかけていた男の人は『中村純一』。中村と一緒にワゴン車に乗った、猫背気味の地味な女の人は『井上彩子』。短髪でスーツを着てた中年の男の人は俺と同じ名前で『佐藤大輔』。お爺さんは『奥川博』。年齢がバラバラなのに、全員が同じ格好をしているのは何だか奇妙に思えた。
「ここはどこなんですかね」佐藤さんが全員の顔を見回しながら言う。「ワゴン車に一緒に乗った人、全員いるみたいですけど」
「死んだのか生きてるのかもわかりませんね」奥川さんが苦笑いを浮かべる。「もしかしたら、あの世とこの世の中継地点みたいな場所なのかもしれない」
「中継地点?」彩子さんが俯きながら、か細い声で独り言のように呟く。「天国へ行くか地獄へ行くか、最後の審判を待つ場所ってことですかね」不安そうに両手をこすり合わせて、頭上を見た。つられて全員が上を見る。青空に雲がゆっくり流れている。俺はふと、違和感を覚えた。何かがおかしい。何だろう?
「無い……」しばらくしてから、結衣がそう口にした。
「無いって、何が?」
俺が訊くと、結衣は泣き笑いのような曖昧な表情で俺を見てから、また空を見上げて、
「太陽が、無い」
その声を聞いていた全員が、口を開けてポカンとした表情を浮かべながら空を眺め回した。まさか、と心の中で苦笑いしながら俺も太陽を探したけれど、どこにも見当たらない。さっき感じた違和感はこれだったんだ。太陽が無いのに明るい。
「本当ですね」中村さんが空を見たまま頷く。「それでも明るいのはどうしてですかね」
「嘘だろ、おい」萩原が引き攣った顔をしながら笑い声を上げた。「太陽が消えただと? そんなバカなことあるかよ。あってたまるか!」最後は怒りの感情を込めた叫び声を上げて、その声は地平線の向こうへ空しく響いて消えた。
「ねえ、ここはどこなの? あのニワトリのマスク被ってた、変な奴はどこ?」萩原に便乗して川崎も喚き始める。「どこにいんの! 早く出て来なさいよ!」その声も白い砂漠の彼方に消えた。
「何なんだよ、ここは!」誰も答えを知らないのに萩原は無駄に質問を繰り返すと、ふと足元に目をやった。すぐ近くに黄色に塗られた地面がある。「ここだけ色が違う。何でだ?」
「さあ」川崎が不安げな顔を傾ける。「あんまり近づかないほうがいいかも」
「おかしい。絶対に何かある」萩原は黄色い地面を睨むように見つめたかと思うと、顔を上げて全員を見回した。俺と目が合ってもすぐに視線を逸らして、中村さんを見つけるとニタッと笑い、「お前だ」と指差す。
「な、何ですか?」
うろたえる中村さんに近づいた萩原は、
「お前が行って調べてこい」と腕を引っ張り、無理やり黄色い地面に突き落そうとする。
「やめ――」ろ! と俺が制止する前に異変が起きた。
「う、うわあーーっ!」
突然、首輪から青白い電気の光のようなモノが、バチバチと静電気のような音を立てて流れたかと思うと、萩原は両手で首をおさえて悲鳴を上げた。急に手を離された中村さんは地面に尻もちをついて、呆然と萩原を見上げる。他の皆も驚いて様子を見守った。
「大輔くん、怖い」身体を震わせて寄り添ってきた結衣の手を俺は握りしめた。大丈夫だと言ってあげたかったけど、俺も不安で口が動かなかった。
やがて、首から青白い光が消えると、萩原は放心したように地面に倒れた。
「ちょ、ちょっと、何? 大丈夫なの?」
川崎がおっかなびっくり近づくと、
「大丈夫じゃない。何だ今の?」萩原は、犯人捜しでもするような疑いの目を全員に向けた。「突然、首に電気が走った。痺れるような痛みで死ぬかと思った」
「ぼ、暴力を振るおうと、し、したからじゃないですか?」ずれたメガネを手で直しながら、中村さんはたどたどしく指摘する。「よ、よくわからないけど、こ、ここでは、ぼ、暴力を振るおうとすると、ダ、ダメなんですよ、きっと」
「はあ? 何言ってんだよ、いい加減なことってんじゃねえぞ」萩原は中村さんを睨みつけるけど、電流を恐れているのか暴力を振るおうとはしない。
「そうだよ、意味わかんない」川崎も加勢するけど、不安で声が震えている。「モヤシ野郎のくせに調子こくんじゃねえよ」
言い終えた瞬間、川崎の首輪が光った。萩原の時と同じだ。
「あ、痛い痛い痛い!」
川崎は地面に倒れて悲鳴を上げる。首輪の電気が消えると荒い呼吸をして、「どうして? 暴力振るってないでしょ、今わたし」と、恐ろしげに中村さんを見つめた。
その中村さんもワケがわからない様子で、目を丸くさせて川崎を見つめ返し、全員が驚きと恐怖で口を利けなくなった。結衣が俺の手をさらに強く握りしめる。
「暴言もダメってことじゃないですか」最初に口を開いたのは彩子さんだった。「人の悪口を言ったり、脅すような言葉を使うと、この首輪が反応するんじゃないですか」今までは俯きがちだったのに、今はなぜか安心したような顔をして言った。
「何それ、どういうこと?」川崎はうんざりしたように左手で髪の毛を掻き上げる。親指の付け根あたりに三つの点のタトゥーが彫ってあるのが見えた。中学の時、少年院に入った同級生が同じようなタトゥーを彫っていたのを思い出した。「それじゃ、わたしたちまるで囚人みたいじゃん」川崎の言葉が重く響く。「そういえば」と言う奥川さんを見ると、両手で服に触りながら自分の全身を見下ろしていた。そして顔を上げ、「我々はなぜツナギを?」と全員の服を見回す。
「あのニワトリのマスクを被った人に着替えさせられたってこと?」佐藤さんが首を傾げる。
「嫌だ」川崎は襟元からツナギの中を覗いて、顰め面を上げた。「あいつに裸を見られたってこと?」
ツナギの中には下着しか着用してない。しかもそれは、いつも穿いてたボクサーパンツじゃなくて、真っ白なブリーフだった。これを履き替えさせられたということは、俺も裸を見られたということになる。なぜそんなことをする必要が? 身体に何かされたんじゃないかと不安になり、ツナギのフロントにあるファスナーを下ろして、上半身に何か異常がないか調べた。他の男性陣も同じことを始め、
「おい、背中に何かされてないか見てくれ」萩原が川崎に背中を向けながら騒ぎ立てる。
「何もない。大丈夫」川崎は冴えない表情を浮かべて言うと、「ねえ、向こうへ行って、わたしたちも異常がないか調べようよ」彩子さんと結衣に向かって無愛想に言った。
結衣が俺を見る。どうしよう? と言うように眉毛を八の字にして、俺の手をぎゅっと握りしめる。
「行ってきたほうがいい」俺が言うと、結衣は頷いて手を離し、川崎と彩子さんと連れ立って、白い建物の裏側へ向かった。男性陣はツナギのファスナーを元に戻しながら三人を見送る。
「でっかい卵みたいなのは何なんだろうな」建物を見回しながら、萩原が独り言のように呟く。そして思い出したように黄色い地面を見て、「その前にこれは何だ? 誰か入ってみてくれよ」
萩原の視線から全員が目を逸らす。俺を除いて。
「そんなに気になるなら、あんたが調べればいいだろ」
「あ?」萩原は俺を睨んできた。睨み返すと、舌打ちをして目を逸らす。「ガキが生意気なんだよ」
「でも、確かに気になりますね」奥川さんが黄色い地面を見下ろしながら首を傾げる。「プラスチックのように見える」
言われてみれば、黄色い地面はプラスチック製のように表面がつるりとしている。白砂が敷き詰められた地面とは明らかに異質だった。
「石でも転がってればいいんですけどね」佐藤さんが辺りを見回すも、石はどこにも転がってなかった。
「いいですよ」俺はじれったくなって、つい口を開いた。「俺が入ってみますよ」
「よし、頑張れガキ」
俺は萩原を睨みつけた。首輪から電気が流れないのが不満だった。
「気を付けて」奥川さんが俺の肩に手を置く。「危ないと思ったらすぐに引き返すように」
「わかりました」俺は頷くと、黄色い地面のすぐ前まで歩いて立ち止まった。
「どうした、さっさと行けよ。ビビッてんのか」背後で萩原が嘲笑う。
「黙れ」振り向きもせずに言い返した途端、俺は後ろから背中を押された。バランスを崩して前のめりに倒れ込んでしまう。首輪から電気が流れたのか、背後で萩原が悲鳴を上げるが、そんなことよりも俺は自分が置かれた状況に焦り、パニック状態になった。黄色い地面はゴムのように柔らかく、身体がどんどん沈んでしまう! 立ち上がろうにも足場が柔らかすぎてどうにもならない。
「助けてください!」自力で脱出するのは無理だと判断して、皆のほうへ手を伸ばした。首輪からの電気でのたうち回る萩原以外の全員が、驚いた顔で俺の手を掴み引っ張り上げてくれたから助かった。
「びっくりした……」
砂の上に倒れ込んで安堵のため息を吐きながら、俺は黄色い地面を振り返る。俺の体重で窪んだ箇所がゆっくり元に戻って平面になった。
「大丈夫?」佐藤さんが俺の背中に触れる。「驚いた。あっという間に沈んじゃうんだもん」
「クソッ」首輪から流れていた電気が止まり、落ち着きを取り戻した萩原が歯噛みしながら俺を見る。「見逃しちまった。どうなったんだ?」
「あんたよくも」俺は拳を握りしめた。突き落とされた怒りを萩原にぶつけようとしたけど、首輪から電気が流れてくることを思い出して何とか我慢した。
「しかし、どうしてこんな物が?」奥川さんが首を傾げながら黄色い地面を見下ろす。「一体何のために?」
「もしかして」と口を開いたのは中村さん。唾をごくりと飲み込んで全員を見回しながら、「何か獲物を捕まえるため、とか?」
「だとしたら、この辺りに動物でもいるんですかね」
佐藤さんが辺りを見回す。つられて俺も周りを見たけど、白い砂漠が広がるばかりで、どこにも動物の姿は見当たらない。
「獲物は俺らだったりしてな」萩原は笑いながら言ったけど、顔は恐怖と不安で強張っていた。
「皆さんがいなかったら、自分の力では戻ってこれなかったです」俺は率直な感想を口にした。「身体がどんどん沈んで。もしあのまま助けてもらえなかったら、どうなってたんだろう?」これは独り言に近かった。あそこから抜け出せなかったら、ゴム膜のような地面の中で、餓死するまで身動きが取れずにいたかもしれないと思うとゾッとした。他の皆も同じことを考えているのか、誰も何も言わずに沈黙が流れる。
白い建物の裏から女性陣の会話が微かに聞こえてきた。お互いの身体に異常がないことを確認して、こちらに戻ってこようとしている。だけど、川崎だけが途中で立ち止まって、白い建物を調べ始めた。
「どうした?」と萩原が訊く。もうトラブルは御免だ、とウンザリするような口調で。「変なモノでも見つけたか?」
「ううん」川崎は頭を振り、恐る恐る白い建物に手で触れる。「何だろって思っただけ。ツルツルしてて、ゆで卵みたい」
「確かに何なんでしょうね」
奥川さんが円状に配置された白い建物を見回すと、皆もつられて頭を左右に振った。
「行ってみましょうか」佐藤さんが川崎たちのほうへ歩き、俺たちも後に続いた。結衣に近づくと、
「大輔くん」と、不安で仕方なかったという顔をしてすぐに手を繋いでくる。「さっき、なんか騒いでなかった?」
「ああ。あの黄色い地面に――」
プシュッ。
皆で川崎の近くに集合した途端、小さな空気音が聞こえたかと思うと、白い建物の壁が一部、人が一人入れる大きさの分だけ、上にスライドして開いた。
「な、何っ!?」
川崎が驚いて尻もちをつく。
「家だ」川崎のすぐ隣にいる萩原が驚きの声を上げた。その肩越しに見ると、白い建物の内部は外観どおりドーム型になっていて、天井から壁、床まで真っ白で、中にはベッドやソファが置かれていた。家具まで新品のように白い。
「家だ」俺たちを振り返ってもう一度言った萩原の首輪の真ん中の部分が赤く光っていることに気づいた。光ってるのは萩原のだけで、他の皆の首輪は光ってない。そのことを佐藤さんが指摘すると、
「あなたの首輪に反応して開いたのでは?」奥川さんが推測する。「もしかしたら、首輪が鍵代わりになっているのかもしれませんよ」
「ちょっと離れてみてよ」
川崎に言われ、萩原は不安と疑いを抱いた様子で一歩二歩と後退する。すると、首輪の赤い光が消えて、白い建物のドアがゆっくり閉じてしまった。
「やっぱりそうだ」川崎は立ち上がり、手を叩いて白い砂を叩き落としながら、目を丸くさせて萩原を見る。「でも、わたしが近づいた時は開かなかった」
「あの」彩子さんがか細い声を出し、遠慮がちに挙手して皆の注目を集める。「この建物、わたしたちの人数分あるみたいです」
「えっ?」俺はすぐに白い建物の数を数えた。「本当だ」彩子さんの言う通りだと気づいて、急に背筋が寒くなるのを感じた。『わたしたちまるで囚人みたいじゃん』という川崎の言葉を思い出したからだ。
「じゃあ、つまり」佐藤さんは腕組みをしながら、萩原と白い建物を交互に見る。「このカプセルは、萩原さん専用の家ということなのでは?」と言い終わると、さっきまで萩原がいた場所に歩いて白いカプセルに近づくもドアは開かず、「やっぱりそうだ」確信を得たように頷いた。
「マジかよ?」と萩原が近づくとドアは開き、「マジだ」と萩原は目を丸くする。
「ねえ、ちょっと中に入ってきてよ」
川崎の言葉に萩原は「何で俺が」と尻込みする。
「あんたの家だからでしょ」
「だったら、お前の首輪でドアが開く所を探して入ればいいだろ」
「何ビビッてんの」
「ビビッてねえよ。ふざけんな」
二人の不毛な言い争いに苛ついた俺は、
「じゃあ、俺が見てきますよ」黄色い地面の恐怖を忘れたわけではないけど、結衣の前で格好つけたい気持ちが少しだけ、いやかなりあった。
「大丈夫?」と心配そうに見つめる結衣に「大丈夫」と微笑んで手を離し、萩原の横を通り抜けて白いカプセルの中に入ろうとした瞬間、
プシュッ。
ドアは俺の侵入を拒むように素早く閉じてしまった。どういうことだ? と振り返って皆の顔を見ると、
「やっぱり、ここは萩原さん専属の家なんですよ」佐藤さんが代表して口を開いた。「だから、他の人が入ろうとすると、すぐに閉まってしまう」
「じゃあ、やっぱりあんたが入って見てきてよ」川崎が萩原の背中を押す。
「何で……だったら、自分の家を探して入れよ」
「探すの面倒だから、とりあえず、あんたが入ればいいでしょ。やっぱビビッてんじゃん。ダサッ」
「何だと!」
萩原はカッとなり拳を固めたものの、
「また電気が流れるぞ」中村さんの注意で思いとどまった。「何度も何度も。学習しろよ」さっきまでの弱気な態度とは違って、中村さんは急に強気になって嘲笑う。
「お前」萩原は中村さんを睨みつけるも、電気ショックを恐れてか、唇を噛んで怒りを堪えると、「わかった、入りゃいいんだろ!」投げやりな口調で叫んで、カプセルの中に入って行った。萩原が完全に中に入るとドアが閉まり、姿が見えなくなる。
「大丈夫なの?」川崎が不安げに呟く。「中に誰かやばい奴がいたりしない?」
誰も何も答えず、萩原が戻ってくるのを静かに待った。無風のため辺りは静まり返る。やがて、目の前のドアが開くと、何事もなかったように表情を柔らかくさせた萩原が姿を見せた。
「どうだったの?」と、真っ先に訊く川崎に対して、
「ビジネスホテルみたいな感じ」警戒していたのがバカバカしい、という口調で萩原は答えた。「テレビはないけど、ベッドやシャワールームがある。おまけに、中からは外の様子が透けて見える」
「何それ」川崎は安堵した様子で言うと、急に興味を抱いたらしく、「わたしが入れる部屋も探そう」と、隣のカプセルに近づき、そこのドアが開かないとわかると、また別のカプセルに駆けて行った。
「わたしたちも探そう」
結衣の誘いに応じて、俺たちも川崎に続き、皆が順々に自分のカプセルを探し当てた。俺のカプセルは結衣と中村さんの間に挟まれた場所にあった。他の人の部屋割りを見る限り、何となく年齢順に並んでいるように思えた。
「何かあったらすぐに助けにきてね」不安そうに自分のカプセルに入っていく結衣を見送り、俺も自分のカプセルに入ることにした。首輪がタッチレス・キーになっていて、カプセルの前に立つとドアが自動で開く。中に入ると、萩原が言っていた通り、壁一面が透明なガラスのようになっていて、外の風景が丸見えだった。向こうからもこちら側が見えているんじゃないかと落ち着かない。
室内はベッドが置かれた八畳くらいの部屋と、シャワー室、トイレ、洗面所に分かれていた。一人だけで住むにしても狭く感じる。タオルや寝具類はどれも白で統一されていて、備品はどれも必要最低限あるだけだった。おまけに、試しに水を口に含んでみたら、水分を摂取するのを拒むように、すぐに固まってしまう。
「何だこれ?」と洗面器に吐き出すと、透明の塊はすぐに液体に戻って流れた。
『わたしたちまるで囚人みたいじゃん』
川崎の言葉がまた脳裏に蘇る。死ぬこともできず、こんな所で暮らしていかなきゃならないのか? 俺は絶望的な気分になり、ベッドに腰かけると、
「帰りたい」
思わず弱音を吐いた。視界の端で何かが動くのを捉えて顔を向けると、結衣がこちらに歩いてきている。うれしそうに笑顔を浮かべながら。どうしてそんなに上機嫌でいられるんだろう。理由が知りたくて、俺は立ち上がり、壁の前に立った。ドアが自動で開いて外に出ると、
「大輔くん、見た?」結衣は顔を輝かせて俺を見上げる。「すっごく清潔な部屋だね。わたし、気に入っちゃった」
「気に入った?」俺は耳を疑い、思わず眉間に皺を寄せた。
「うん」結衣は躊躇いもなく頷くと、首を傾げて、「大輔くんは気に入ってないの?」と不思議そうに見る。
気に入るも何も、まるで牢獄みたいじゃないか。確かに清潔だけど、あまりに狭すぎるし、テレビもスマホもゲームも筋トレマシーンも、バスタブもミストサウナもウォシュレットも、何もかもがない。不満を口にしようかと思ったけど、やめた。初めて会った時から気づいていた。結衣は顔立ちはかわいらしい。だけど、髪の毛はまったく手入れがされてなくて、近くにいると少し変な臭いがする時がある。待ち合わせ場所に着てた制服だってどこか汚らしかった。俺とは生活レベルが違うんだ。だから、こんな不自由な部屋でも満足できるんだ。急に結衣への興味が失せていくのを感じた。
「どうかした、大輔くん?」
「いや、何でもない」
「そう?」
結衣はまた首を傾げて俺の顔を下から覗くように見つめる。そのすべてがあざとく感じて苛立ち、俺は目を逸らした。
「マジで何でもない」
「そっか。それならいいんだけど。そういえば、さっき何を騒いでたの?」
「ああ、あの黄色い地面が何か調べてたんだ」
「それで、何だったの?」
「俺が代表して中に入ってみた。そしたら柔らかいゴムみたいになってて、身体がどんどん沈んでった。他の皆に助けてもらなわかったらどうなってたか」
喋ってるうちに恐怖が蘇った。それが伝染したように、結衣も顔を強張らせる。
「怖い、何それ?」俺の手を握りしめてくる。「わたし、他にも心配なことがあるんだけど」
「心配って?」と訊き返しつつも不安なことだらけだった。そもそもなぜ、俺たちはここにいるのか? 死んだはずじゃなかったのか? ここはどこなのか……心配事を挙げればキリがない。
「食べる物ってどこにあるのかな?」
結衣に言われるまで気づかなかった。食料どころか水分もない。
「草一本だって生えてない。こんな場所にずっといたら餓死しちゃうよ」
そう言いながら、結衣は白い砂漠のほうへ視線を向ける。顔を顰めて悲しげな表情。俺もその視線を追って地平線を見た。食料も水分もなければやがて死ぬ。これが死神の目的だったのだろうか、とふと思った。安楽死を餌に誘い込んだ俺たちに、苦しみながら死ぬ運命を強制する。
「最悪だ」
つい本心が漏れた。あれほど死を望んでいたのに。
「え、何か言った?」と訊く結衣を無視して、俺は上を見た。太陽は無いのに晴れ渡った空。放物線を描いて飛ぶ白球の幻が見えた。野球がしたい。心から思った。別にプロを目指さなくたっていい。野球を始めた頃は、ただ球を投げたり打ったりするだけで気分が高揚した。チームメイトと一緒にいるだけで楽しかった。あの頃に戻りたい。でももう無理なのかもしれない。死ぬことを選んだのは自分自身だ。だけど今、それを後悔している。何てバカなことを考えたのだろう。今頃、遺書を見て両親は何を思ってるか想像するだけで胸が痛む。せっかくここまで育ててもらったのに、俺はとんでもない裏切り行為をした。自責の念に駆られて目に涙が溢れ、青空が滲んだ。
「大輔くん」結衣が驚きの声を発して俺の二の腕を掴み、「あれ何?」と上空を指差したけど、涙が邪魔をして何も見えなかった。