福田幸太郎
「まさか本当に浮気してるなんて思いもしませんでした」
ソファに座り対面する中年女性が、ローテーブルの上に置かれた二枚の写真を見下ろしながら、溢れる涙をハンカチで拭く。写真には、女性の旦那と二十代の若い女性が腕を組み、ラボホテルに入る姿と、事後に出てくる姿が、それぞればっちり捉えられている。
「信じてたのに」女性は目尻にハンカチを押し当てる。だったら何で、浮気調査なんて頼むのかと、福田幸太郎は心の中でため息を吐いた。毎度のことだ。思わず出そうになったあくびを慌てて噛み殺す。
ここは繁華街にある雑居ビル内の二階にある、狭く薄汚れた探偵事務所。事務員は誰もおらず、手が回らない時はアルバイトを雇うこともあるが、基本的には幸太郎が一人で切り盛りしている。従って、引き受けられる仕事量には限りがあるが、そもそも依頼に訪れる客は少ない。しかも、その九割が浮気調査だが、近辺にあるラブホテルは一軒だけで、依頼の七割強はそこの張り込みで事が済む。そのため、幸太郎はホテルのスタッフを買収して、目当てのカップルが来た時にこっそり写真を撮っておくよう指示している。
労力要らずで割のいい仕事なのだが、大変なのは依頼主に調査報告をする時だ。まさしく今がその時なのだが、大体が依頼してくる時点で、浮気はクロだと感づいているはずなのに、事実を目の当りにすると人間、感情的になってしまうらしい。泣く、喚く、幸太郎をまるで旦那かのように怒りをぶつける、実は自分も浮気をしてるのだと訊いてもいない告白を始める……。その反応は様々だ。
さて、この奥さんはどんなものかと、幸太郎は紙煙草にマッチで火を点けながら、それとなく観察する。短く切った髪の毛はパサパサで、化粧っ気のない顔は目が落ち窪み、頬はこけて唇はカサカサ。黒の薄手のニットを着た上半身は、鶏がらのように細く胸は真っ平らだ。調査依頼してきた時に記入してもらったプロフィールによれば、幸太郎と同い年の四十四歳だが、涙に濡れる目尻の小皺やほうれい線を見る限り、プラス五歳と言われても納得してしまう。女としての色気は無いに等しいが、それでも幸太郎は『イケる』と心の中で舌なめずりをした。女としての身だしなみは疎かにしているくせに、旦那から愛されていると信じて裏切られ、十代の少女のように悲劇のヒロイン気取りで泣く姿が何ともいじらしい。こういう女は、男の味を教えてやれば何でも言うことを聞くようになる。幸太郎は今までも依頼主に手を出したことがあるが、経験上、彼女もそういうタイプだと直感した。
すっかり白いモノが混じった顎髭を撫でながら、つい頬を緩めてイヤらしい目で彼女を観察していることに気づいた幸太郎は、ハッと我に返り立ち上がった。ソファの後ろにある事務机の引き出しから安いラム酒の瓶とショットグラスを手に取り、女性の隣に腰かける。彼女が酒好きであることは、調査依頼をしに来た時、ほろ酔いだったことから見抜いていた。素面ではここへ来られなかったのだろう。
「坂上さん」というのが彼女の苗字で、名前は美樹。幸太郎は包容力のある男を装うべく、低い声でゆっくり喋ることを意識しながら話しかけた。「お気持ちはわかります。一杯飲んで、気分を鎮められてはいかがです?」と、酒瓶とショットグラスをテーブルの上に置いた。
「お言葉に甘えて、頂いてもいいですか」幸太郎の狙い通り、美樹は願ったりとばかりにグラスに手を伸ばす。針に獲物が掛かった釣り人のような気持ちが顔に出ないよう、幸太郎は注意を払いながら、「どうぞ遠慮なく」とグラスにラム酒を注ぐ。「さあ、グイッと飲んでしまってください」ゆっくり慎重にリールで糸を巻き戻すようなイメージで幸太郎は囁く。女性の子宮に響く魅惑のウィスパーボイスだと自負している。
「ありがとうございます」美樹は涙でしっとり濡れた目で幸太郎を見つめて礼を言うと、一息でアルコール度数四十パーセントのブラウン色の液体を飲み干した。すかさず幸太郎は、「もう一杯どうです?」と、返事も聞かずにお代わりを注ぐ。業務スーパーで一本五百円で買った代物だ。これで抱けるのなら安いものだと、美樹が心地よくなるまで何杯でも『投資』するつもりでいたが、美樹はグラスを置くと、テーブルに突っ伏してさらに激しく泣き出してしまう。どうやら泣き上戸のようだ。失敗したかな、と思いつつ、「好きなだけ泣いてください」と、幸太郎は彼女の背中を優しくさすってやる。頭ポンポンするにはまだ早いか、とタイミングを窺っていると、
「あのさ」腕に顔を埋めた状態の美樹の声が突然、ドスの効いたそれに代わった。
「え?」と驚き、反射的に幸太郎の手は美樹の背中から離れ、空中で止まる。ボディタッチをするにはまだ早かったか、それとも下心を読まれてしまったのか。幸太郎は少し焦った。
「訊きたいんだけど」美樹が頭を上げる。幸太郎に向ける目は据わり、頬が赤い。見るからに酔っ払っている。酒によって性格がガラリと変わるタイプなのかもしれない。幸太郎の知り合いにも何人かいる。普段のおとなしさから一変して暴力的になるパターン。美樹もそうなのかと、幸太郎は身構えながら、
「何をですか?」と訊き返す。
「弁護士。知り合いにいない? こうなったら、徹底的に慰謝料搾り取ってやる。相手の女からも。人の旦那に手を出しておいて、タダで済むと思うなよ、クソビッチが」ほんの数分前のしおれた姿が嘘のように、美樹は口汚く罵る。そういうことか、と幸太郎は心の中で安堵のため息を吐いた。そして、美樹に余計なちょっかいを出すのはやめておこうと心に決めた。
「いますよ。うってつけの弁護士が。ここからすぐ近くに事務所を構えてますから、ご案内しますよ」
幸太郎は立ち上がり、美樹を引き連れて、二百メートルと離れていない雑居ビルへ移動。その三階に居を構える『杉浦法律事務所』のドアを乱暴にノックした。反応がない。
「ここの先生、ちょっと耳が遠くて」幸太郎はふらついてまともに立っていられない美樹に苦笑いを向け、言い訳するように言うと、さらに乱暴にドアをノックした。すると今度は室内からゆったりとした歩調の足音が聞こえてきて、ギィィィと耳障りな金属音を鳴らしながらドアが開けられた。
「何度も言ってるだろう。親の敵みたいに叩かなくても、ちゃんと聞こえてると」長く伸ばした白髪と白髭で顔の輪郭を丸ごと縁どられた、瞳のサイズほどしかない小さなメガネをかけた老人が、不機嫌そうな顰め面を覗かせた。紺色の作務衣を着て草履を履いた姿は、弁護士ではなく浮世離れした芸術家にしか見えない。名を杉浦太蔵。幸太郎の依頼主が弁護士を求めた時、彼のことを紹介する“提携”を結んでいる。
「爺さん、依頼人を連れてきたよ」幸太郎は身体をどけて、背後にいる美樹が太蔵に見えるようにする。太蔵は一瞥すると、美樹が酔っ払っていること、幸太郎が肉体関係を結ぼうと企んだことを一瞬で見抜き、フンッと幸太郎にだけわかるように、批判の意味で鼻を鳴らした。
「浮気調査でクロだったわけか」説明されなくても、幸太郎の依頼人が旦那の浮気に悩まされている女性ばかりであることを、太蔵は熟知している。「離婚裁判は泥沼になる確率が高い。肉体的にも精神的にも疲弊するだけだが、浮気くらい目をつぶってやったらどうなんだ」
隠遁生活に片足を突っ込んだような生活を送る太蔵は、毎回、依頼者にそう諭すのが常になっている。
「いいえ」美樹はきっぱり言った。「絶対に離婚します」鼻息が荒い。
「そうか、わかった。中で話を聞こう」太蔵は美樹を事務所内に招き入れると、幸太郎に向かって、「あとで」と声に出さず口だけ動かして伝え、ゆっくりドアを閉めた。
ドアが閉じる金属音が、この日の幸太郎にとっての終業チャイム代わりになった。今日はもう仕事の予定は何も入っていない。自分の事務所には戻らず、その足でスロット店へ移動して、負けが込むのに苛立ちながらも時間を潰し、窓の外が薄暗くなってきた頃、二万円近くをオケラにしたところで切り上げることにした。クサクサした気持ちでメールを確認すると、調査依頼の面談希望者から、明日の予約が二件も入っていた。調査を引き受ければ今日の分の負けはチャラになる。少し気楽になった。
店を出て向かう先は馴染みの赤提灯。この近所では店を開くのが一番早く、もうすでに席の八割方は、顔を赤くした酒飲みで埋まっている。ここでは幸太郎が最年少に属するくらい、中高年の男性ばかりが顔を並べていた。その中でも仙人風の太蔵の見てくれは異彩を放ち、店に入るなりすぐに居場所がわかった。向こうも幸太郎に気づき、カウンター席の隣の空席を指差しながら手を挙げる。ここでの飲み代が、“提携”の見返りになっているのだ。
「で、どうなった?」席に着くなり、挨拶もせずに幸太郎は訊いた。店員は慣れたもので、何も言わずに幸太郎の前に瓶ビールとグラスを置く。
「腕まくって、やる気満々だったな」太蔵は幸太郎のグラスにビールを注ぐ。お互いのグラスの縁を軽く合わせて乾杯。話を続けた。「とりあえず、一晩寝て考えるように言って帰したが、お前は何度言えばわかるんだ」幸太郎のほうへ身体をぐっと向けて、急に説教臭い口調になった。
「何が?」幸太郎はお通しに用意された、茹でた銀杏を割り箸で摘まみながら、ぽかんと口を開けた顔を太蔵に向ける。
「とぼけるな」太蔵は睨みのポーズを取る。「酒を飲ませて、あわよくばと思ったんだろう。いつもの手だ。失敗した時には、こっちに負担がかかるんだからな。感情が昂った女性を相手にするのがどんなに大変か、お前にだってわかるだろう?」
「悪かったよ、爺さん。今日は奢りじゃなくていいよ」幸太郎はふてくされて、口に入れた銀杏をビールで流し込みながら、カウンター端の天井に設置された大型テレビに目をやった。夕方のニュース番組。プロ野球のデイゲームの結果を伝えている。
「まあいい。奢るから好きに飲め」空になった幸太郎のグラスに、太蔵がビールを注ぐ。「こうしてお前と飲むのも、来月いっぱいまでだからな」
「どういうことだ?」幸太郎は驚き、テレビから太蔵へと顔を向ける。「どっか行くのかよ」
「ああ」太蔵は幸太郎から視線を逸らして、日本酒の入ったグラスを傾ける。「もう歳だからな。事務所を畳んで、娘夫婦と一緒に住もうと思ってる」
「嘘だろ。爺さんは共同生活に向いてないし、こんな偏屈爺さんと一緒に住むなんて、婿も迷惑だろ」
「それが、意外にウマが合うんだ、義理の息子とは。趣味が将棋でちょうど同じくらいの実力でな。いい対局相手になってくれる」
「向こうが気を遣って、爺さんのレベルに合わせてるだけだって。やめとけ。隠遁生活なんて性に合わない。一気に老け込んで健康に悪いぞ」
「もう決めたことなんだ」太蔵は頑とした口調で言う。「お前もそろそろ、将来のことを考えて、仕事を考え直したほうがいい。この先、体力は衰えるばかりだ。浮気調査専門の探偵業なんて、行く先は見えてるじゃないか」
「別に浮気調査を専門にしてるわけじゃない」幸太郎はむくれる。「それに俺は、今の気ままな暮らしが好きなんだ。気に入ってる。爺さんにあれこれ言われる筋合いはない」
「貯金はしてるのか?」
「そんなもん」と幸太郎は鼻で笑う。「宵越しの金は持たないってのが、親父から貰った唯一の教えだよ。探偵のノウハウなんて何も教えずにぽっくり逝きやがったからな」
三歳の時に母親を亡くして以来、幸太郎は父親に男手一つで育てられた。住まいは事務所があるのと同じ雑居ビルの三階。父親はいつも、夜になると幼い幸太郎をほったらかしにして飲みに出歩いていた。長年の暴飲がたたり、心臓発作を起こしてあっけなく死んでしまったのは、幸太郎が高校卒業を間近に控えた一月の寒い夜のことだった。地元の自動車工場に内定が決まっていたが、通夜で一人長い夜を過ごす中で、探偵事務所を引き継ぐ決心を固めた。
それ以来、二十六年に渡って何とか糊口を凌いできた。今さら仕事を変える気には到底なれない。ただ、気力や体力の衰えは、幸太郎も同年代の男同様、しっかり感じていた。最近は、深酒すると翌日、きっちりツケを払わされることになる。仕事が手につかず、せっかくの依頼を断るハメになったことも何度かある。その度に、有給休暇の存在しない自営業の大変さが身に染みる。サラリーマンと違い、厚生年金だって貰えない。太蔵には弱気を見せたくないから言わないが、将来への貯えを少しは考えなきゃな、と思うことも増えてきていた。
「探偵業を続けていくつもりなら、少しは事業拡大することを考えることだな」太蔵はカウンターの上で腕を組み、テレビを見上げる。「何でもいいから名前を売る。事務所を大きくして、人を雇う。で、ある程度の年齢になったら、信頼できる優秀な部下に任せて、自分は現場から退く。楽して金が入ってくるシステムを作るということだな」
「自分はできてないのに、よく言うよ。説得力がありゃしない」太蔵が親切で言ってくれているのは重々承知しているものの、幸太郎はつい茶化してしまう。「それに、名前を売るって? 簡単に言ってくれるけど、それが一番難しい。どうやればいいのか、やり方を教えてくれよ」
幸太郎なりに事務所のホームページを凝ったデザインにしたり、SNS上での宣伝に思考錯誤したり、名前を売る努力はしてきたつもりだ。けれど所詮、弱小の個人探偵事務所。大手には敵いっこなく、これまで何とか撃墜せぬようにと水平飛行を続けるので精いっぱいだった。
太蔵からの返事がない。怒らせてしまったかと横顔を見ると、太蔵はテレビを見上げたまま、顔を強張らせていた。
「ごめん、言い過ぎた」幸太郎は笑って太蔵の肩に手を置く。「爺さんが心配してくれるのはありがたいよ」
太蔵は微動だにせず、テレビを見つめ続ける。
「爺さん?」無視を決め込むほど怒らせてしまったのかと、幸太郎は少し不安になった。これまでずっと親しくしてきたのだ。ケンカ別れはしたくない。「そんなに意固地になるなよ。さ、楽しく飲もう」と、太蔵のグラスに日本酒を注ごうとした時だった。
「おい、あれだよ」太蔵が突然、テレビを指差しながら、独り言のように呟き、「名前を売るチャンス」と、幸太郎のほうを振り返った。
「は?」
何だよ急に、と不思議に思いながら、幸太郎はテレビを見上げた。いつの間にかスポーツコーナーが終わり、今日あった事件を伝えている。山間の木々に囲まれた、ぽっかりと拓けた場所に立つ現場レポーター。背後には警察の捜査員や他のマスコミ連中の姿があり、
『男女八人 山奥で集団自殺?』というテロップが画面上部に映っている。
「鴉山か」隣町が事件現場であることに幸太郎は気づいた。しかし、理解したところで、「だから何?」と太蔵に視線を戻して疑問をぶつけた。探偵業と集団自殺の接点が思いつかない。ましてや、今まで話していた『名前を売る』というテーマとは結びつきそうになかった。
「現場に残されていたのは、各自の靴と身分証明書だけ。遺書の類はなかったそうだ」
太蔵はテレビを見つめたまま説明を始める。幸太郎がその視線を追うと、テレビ画面は『ほのぼの我が家の動物』という、視聴者投稿のペット自慢コーナーに切り替わっていた。幸太郎が顔を横に向けると、太蔵もテレビから視線を逸らし、グラスに口をつけていた。
「どうやら、八人は最寄りの駅で待ち合わせをして、車で現場に向かったらしい」日本酒で唇を濡らすと、太蔵は話を続けた。「だが、閑散とした駅で人目が少なく、目撃情報がまるでない」
「待てよ。現場には靴と身分証明書だけしか残されてなかったんだろ? 自殺かどうかもわからないじゃないか。自殺だったら、わざわざ別の場所に移動する必要はないわけだし。集団失踪かもしれないぞ。夜逃げだ、夜逃げ。全員、借金を背負って首が回らなくなったんだよ」
「何のために?」太蔵は鋭い視線を幸太郎に送る。「それなら、わざわざ自分たちの足跡を残す必要はない。自殺と見せかけて姿をくらませようという意図があるなら、樹海の入り口や海に面した崖の上に靴と身分証明書を置いたほうがわかりやすいじゃないか」
「まあ、それはそうか」
「それに、そういう場合は遺書を一緒に置いておくのが定石だろ」
「定石かどうかは知らんけど、まあ」と幸太郎は一応、納得。ただ、「それと、俺が名前を売るのとどういう関係が?」という点が理解できないでいた。
「今の事件、スマホでちょっと検索してみろ」
太蔵に言われた通り、幸太郎はスマートフォンを取り出してネット検索してみた。すると、今日起こったばかりの事件とは思えないほど、まとめサイトが乱立。『失踪の謎を追え』という趣旨の情報が溢れ返っていた。幸太郎は試しに、検索順位が一番上のサイトを開いてみた。そこには、集団自殺を筆頭に、北朝鮮の工作員や宇宙人による拉致、駆け落ち、暗殺、神隠しなど、様々な憶測が好き勝手に羅列してある。
「暇な奴が多いんだな」
幸太郎が顔を上げると、太蔵は銀杏を口にしながら頭を振った。
「違う。いつの時代も謎多き失踪事件は世間の注目を集めるものなんだ。古くはドイツのグリム童話の元になった『ハーメルンの笛吹き男』。あるいは、ポルトガル沖で無人の船が漂流しているのが発見された『メアリー・セレスト号事件』なんかが有名だ」
「随分、古い例を挙げるもんだな」と指摘しつつ、幸太郎もそれらの事件のことは知っていた。それに、テレビでも定期的に、FBIお墨付きの超能力者やら何やらが登場して、行方不明者を捜索する特別番組が放送されたりしている。確かに考えてみれば、失踪事件というのは人の興味を掻き立てる要素があるらしい。幸太郎自身は今まで捜索依頼を受けたことはないが、警察も匙を投げた事件を、失踪者の家族や恋人、家族が探偵に相談しにくるケースは少なくないと聞いたことがある。
「つまり、爺さんは俺に、この事件に首を突っ込めってわけだ。無償で」幸太郎は呆れて笑いながら、スマートフォンをジャケットの内ポケットにしまう。「確かに解決できれば名前は売れるかもしれない。でも、こんな場末の探偵一人で何ができる? これだけ騒がれてれば、警察だって本腰を入れて捜索をするだろ。俺なんかが介入する隙はないさ」
「逆に、政治やら何やらに忖度する必要のない、向こう見ずな個人だからこそ、真実に辿りつける可能性もあるんじゃないか」
「何だよそれ」幸太郎はつまらなそうにビールを呷る。「政治的な危険思想の持ち主の粛清やら、怪しげな団体が関わってるって意味かよ。だったら余計に興味ないね。ってゆうか、そんなアンタッチャブルな裏があるなら、尚更のこと手を出したくない」
「ネットの情報を見る限り、失踪した八人にそういった懸念はないようだがな。一番下は中学生だそうだ。一番上は七十代の老人。どこから漏れたのか、どうやって調べたのか知らないが、すでに個人情報が広まっている」
「ふーん」と興味ないポーズを取りつつ、幸太郎はポケットからスマートフォンを取り出して、再びネット検索をしてみた。確かに、八人の名前や年齢、在籍する学校名や会社名、SNS上の過去の投稿やらをまとめたサイトも乱立していた。
「まるで犯罪者だな」幸太郎はため息を吐きながら、太蔵の横顔を見る。「こういうのは取り締まれないのか? 何か事件が起きても、加害者はまだしも、被害者のプライバシーまで遠慮会釈なく晒されるじゃないか。だから俺は、SNSなんてものは絶対に手を出さないんだ」つい話の流れから横道に逸れて、常日頃思っている不満をぶちまけた。
「被害者本人や遺族が訴えようとすれば、手立てはいくらでもある。だが、それだけの量の情報があちこちで出回ってしまっては、すべてのサイト管理者を罰するのは難しい。結局、泣き寝入りするしかないだろうな」
「なんて世の中だよ、まったく」幸太郎は煙草を取り出して火を点け、深々と吸って吐く。テレビに目をやると、人気動画投稿者が渋谷のスクランブル交差点で立ちションをして逮捕、というニュースが報じられている。「なんでこんなのが人気なんだよ。どうかしてるよ。目立てば何でもアリなのかよ」酒が回り、口の滑りがよくなってきた。「ひょっとして、その八人も同じような手合いなんじゃないの? 世間を騒がせておいて、本当は何もありませんでしたって。くだらねえ。ホント、世の中くだらねえことばっかだよ。そう思わないか、爺さん」
「そいつらも、お前と根は変わらんと思うが」太蔵はテレビを見ながら笑う。
「こいつらと俺が?」どこがだよ、と幸太郎は頭にきて、太蔵を睨みつける。「デタラメなこと言うなよな」
「いや、デタラメじゃない。楽して暮らしたい。そうだろ?」
「そりゃ、誰だって楽できるならそうしたいよ。爺さんだってそうだろ。さっき言ってたじゃないか。楽して稼げるシステムを構築しろって」
「だから、失踪事件の謎を追って、名前を売ればいい。仮に行方を探ることができれば、何人かには感謝される」リモコンを手に取る。
「ダメだったら、骨折り損のくたびれ儲けってわけか」
「どうせ暇だろう」
「お互い様だ」幸太郎はすぐに言い返す。「それに、今のペースがちょうどいい。気楽なもんだ。あ、でも明日は珍しく二件も面談の予定が入ってるんだった」
「そうか、それならもう何も言わん」
「そうだよ、余計なお世話だっての」
二人は黙ってそれぞれの酒を飲む。次の話題を探しているうちに、店員がテレビのチャンネルを変えた。幸太郎は何となく気になり、そちらに目をやる。他のニュース番組でも失踪事件について報じていた。
「おい、鴉山で事件だってよ」
「ストップ、見せてくれ」
他のテーブルで飲んでる親父たちが声を上げ、店員はリモコンをカウンターの上に置いた。
「騒ぎが段々、大きくなってきてるじゃないか」と太蔵。
テレビ画面には、鴉山の現場からの中継が映されている。レポーターの背後にいる他のマスコミ連中の数が、さっきの番組で見たよりも、確かに増えているような気がした。幸太郎はポケットからスマートフォンを取り出し、SNS上での検索ランキングを調べてみた。すると、『鴉山 失踪事件』というワード検索が急上昇していて、直近一時間内の一位にランクインされていた。『男女八人』や『集団自殺』といった関連ワードも軒並みランクインしている。
「おい、見ろ」太蔵に肩を叩かれ、幸太郎は顔を上げた。「ほら」と太蔵はテレビを指差す。
画面には二階建て木造のボロアパートが映っている。どうやら少し前に撮影したVTRらしい。現場にいるのとは違うレポーターが一軒のドアの前に立ち、ドアブザーを鳴らす。すぐにドアがゆっくり開いたところへ、レポーターはマイクを突き出した。ドアの隙間の向こうにいる人物の顔は映されないが、痛み切ってパサパサの茶髪、上下揃いのグレーのスウェットに食べ物のカスや染みが付着しているのを見る限り、生活レベルはかなり低い。その女性の横に『失踪した鈴木結衣さんの母親』というテロップが貼られている。
「鈴木結衣さんのお母様でいらっしゃいますか?」
レポーターが訊くと、
「そうですけど、こういうことされると困ります。近所の方に迷惑になりますから」
プライバシー保護のために音声は加工されているけれど、明らかに怯えて困惑した声。娘が失踪する前から、この女性は生きていくことに疲れ切っていたのではないか、と幸太郎は憶測した。
「結衣さんが失踪されたということですが」レポーターは構わず質問を続ける。「何か置き手紙のような物は残されてなかったのでしょうか?」遺書の有無を、言葉を変えて訊いたらしい。
「警察の方から何も話さないよう言われていますので」
女性がドアを閉めようとしても、レポーターはマイクをどけようとしない。
「あ、最後に一つだけ」と口早に喋り、「結衣さんは学校でイジメなどに遭っていたのでしょうか?」傷心に劇物を塗り込むような言葉を浴びせた。これには、何とか冷静さを保っていた女性も感情を揺さぶられたらしく、
「もう帰ってください!」泣き声混じりで訴え、マイクを押しのけて勢いよくドアを閉めてしまった。それと同時に画面は失踪現場の映像に切り替わった。
「よくやるよ、マスコミの連中は」幸太郎はテレビから目を逸らすと、胸糞悪い気持ちを押し流すようにビールを飲み干した。
「何か動きがあったみたいだぞ」まだテレビを見ている太蔵が呻くように言う。「イジメ……やっぱり集団自殺なのか?」
太蔵のどこか落胆するような口振りに触発され、幸太郎は顔を上げた。テレビ画面には、『先程、報道センターに送信されてきた鈴木結衣さんからのメール』というテロップとともに、パソコン画面上に表示されたメール文章が映し出されていた。個人情報が記されているらしく、所々にモザイクがかけられている。
「何て書いてあるんだ?」予期せぬ展開に、幸太郎は興味をそそられ始めた。ナレーターがメールの内容の説明を始めるが、店内が騒がしいためによく聞こえない。もどかしくなり、幸太郎はカウンターの上に置かれたリモコンを手に取って、音量を最大限に上げた。何事かと店内がざわめくが、幸太郎たちと同じくテレビを見ていた親父たちが、
「おい、ちょっと黙ってくれ」
「鴉山でいなくなった中学生の女の子の遺書らしいぞ」などと呼びかけると、店内が静まり返り、全員の耳目がテレビに引きつけられた。
結衣のメールを要約すると、学校でイジメに遭い、それを苦にして死ぬことに決めたらしい。何度か自殺を試みたものの決心がつかず、SNSを通じて知り合ったある人物の手引きで、集団で練炭自殺するグループに加わったとのことだ。メールには結衣をイジメた同級生たちの個人情報がしっかり記されているらしく、幸太郎がスマートフォンを覗くと、ネット上では早くも『犯人』特定の動きが盛んになっていた。何か他に情報が得られるのではないかと、結衣のSNSを検索してみたけれど、今回の事件に関わりのありそうな投稿は何もなかった。
メールの内容の紹介が終わると、テレビ画面は再び鴉山の現場映像に切り替わり、店内の興味は散り散りになって、店長が通常の音量に下げた後はそれぞれの会話に戻っていった。
「何だ、やっぱり集団自殺じゃないか。終了。俺の出番なし」幸太郎は、テレビを見つめたまま押し黙る太蔵に、皮肉っぽく言ってみせた。「イジメを苦に自殺なんてありきたりすぎる。きっと、他の七人も人間関係がどーたらだの、リストラされただの、恋人に振られただの、借金で首が回らなくなっただの、お決まりのパターンに決まってる」
「さっきも言ったが」太蔵は首を傾げる。「それならどうして、その場で練炭自殺をしない? どうして靴と身分証明書だけが置かれていた? 彼らの死体はどこにある?」と責めるでもなく、心から不思議に思うといった顔で幸太郎を見る。
「さあ……」そう言われてみればそうだが、幸太郎はもはや興味を失っていた。「山奥で練炭自殺をするとなると、車の中って可能性が高いだろ。誰か第三者が、車を盗むために死体をどこかに処分したんじゃないか」
「だったら、わざわざその場に証拠を残すようなマネをしなくてもいいと思うが。現に、靴と身分証明書が置いてあったせいで、こんな騒ぎになってるじゃないか」
「知らんよ」幸太郎は投げやりに答える。「まだその話続ける気なら、帰るよ、俺。辛気臭い。何で与えられた命を粗末にするかね? 俺には理解できないよ」
「死にたいと思ったことが一度もないのか?」
「ないね」
「一度も?」太蔵は少し眉根を上げて幸太郎を見る。
「ないね」一度目よりもさらに強調して幸太郎は言う。「そりゃ、生きてれば誰にだって嫌なことはあるさ。だけど、そんなの物の見方の問題だろ。俺は物事のいい面ばっかりを見るようにして生きてきた。人生は短いんだから、そんなに真面目に考えずに適当に楽しめばいいんだよ」
「お前みたいに、おめでたいほど楽観的な奴ばかりなら自殺者は減るだろうが、社会が上手く回らないだろうな」
「だろうな」幸太郎は太蔵の嫌味を簡単に流す。「爺さんにはあるのかよ、死にたいと思ったこと」
「そりゃ、あるさ。何度だってある」
「例えば?」
「事務所を開いたばかりの時はしょっちゅうだったな。上手く軌道に乗らなくて、赤字が続いた時は、このままいったら首でも吊るしかないのかと思った」
「そんなもん、借金を踏み倒して夜逃げすればいいんだ」
「お前な」太蔵は舌打ちしそうな調子で窘める。「そんな無責任なことができないから、悩み苦しんだんだ」
「せっかく授かった命を、自分で放棄するくらい無責任なことは他にないと思うけどな、俺は」
「見解の違いだな」議論の余地なしとばかりに、太蔵は話題を切り上げてしまう。「それはそうと、この事件、やっぱり気になる。裏に何かあるぞ、きっと」
「だから、集団自殺で決まりだって。しつこいな。そんなに気になるなら、自分で調べればいいだろ。どうせこれから暇になるわけだし」
「体力が追いつかない。気力もない」太蔵は赤ら顔に憂いの表情を浮かべる。そういえば、この爺さんもいつの間にやら酒が弱くなったもんだと、幸太郎は改めて友人の老いを感じ、少し寂しくなった。
「あいにく、明日は珍しく、午前と午後に一件ずつ調査依頼の面談があって忙しいんだ。二件とも引き受けるとなったら、しばらく暇がなくなる。調査を終える頃には、この事件も落着してるだろ。してなくても、世間の興味は他に移ってるさ」
「明日の二件もどうせ浮気調査なんだろ」
「悪いか。仕事は仕事だ」幸太郎は気分を害してしまう。「ああ、今日は酒がまずい。誰のせいだよ、まったく」と立ち上がる。
「帰るのか?」
「明日、朝早いもんでね。誰かさんと違って需要があるんだ、こっちは。ご馳走様。またな、爺さん」
捨て台詞を吐いて店を出た幸太郎だが、メールをチェックすると、明日の午前中の予約はキャンセルされていた。さらに、事務所に戻って雑務をこなした後、再びメールを見ると、午後の予約まで取り消しになっていた。
「チェッ、何だよ、ついてねーな」と舌打ち。
調査内容からドタキャンする依頼人は少なくないが、さすがに二件立て続けだと腹が立ち、ショックを受けた。
事務所の電気を消して階段で三階に上がり、ドアを開けると、事務所と同じ面積の居住スペースが広がっている。父親と一緒に住んでいた時は、それぞれの個室とリビングの三部屋に区切っていたけれど、今はすべての壁を取っ払ってしまい、広々としたワンルームのど真ん中にダブルベッドを置き、それを囲むようにソファやテレビ、ダーツ台、冷蔵庫、ウィスキーの空き瓶で埋まったキッチンなどが並んでいる。
幸太郎はテレビの電源を点けた。どの局もくだらないバラエティ番組ばかりで、BGM代わりに街ぶらロケの情報番組を流しておくことにした。
ソファの上に転がっているウィスキーの瓶を手に取り、枕を背もたれにしてベッドの上に寝転がる。ウィスキーを一口飲んでから煙草に火を点けて吸う。上を向いて煙を吐くと、亀裂だらけの天井が目に入った。父親が吐いた煙から遡り、何十年もの間染み付いたヤニですっかり黄ばんでしまっている。それはもちろん天井だけでなく壁も変色させ、ビルの外観にも増して古びた印象を受ける。ここで一生を終えることになるのかと、幸太郎は時々、冷静になって考える。それもいいだろう。父親との思い出が詰まった場所だ。ただ、すでに築五十年を過ぎている。不摂生の幸太郎が奇跡的に平均寿命まで生き永らえたとしたら、それまでの間に必ずビルは建て替えの運命を迎えることになるだろう。その時の資金は? 貯金なんて何もない。探偵業だっていつまで続けていられるかわからない。
『お前もそろそろ、将来のことを考えて、仕事を考え直したほうがいいんじゃないか。この先、体力は衰えるばかりだ。浮気調査専門の探偵業なんて、行く先は見えているじゃないか』
太蔵の言葉が脳裏に蘇る。確かに体力の衰えは自覚していた。何より気掛かりなのは、あと四年で父親が急死した時と同じ年齢を迎えるということだ。父親と同じように、いやそれ以上に酒も煙草もやる。加えて、健康にはまったく気を遣っていない。心臓麻痺でぽっくり逝くならまだしも、身体が不自由のまま生き続けることになったら? 考えただけで幸太郎はゾッとした。珍しくネガティブなことを考えてしまい、
「チェッ、爺さんのせいでくだらないことを」と悪態をつき、気持ちを上げるには女しかいないとスマートフォンを手に取って、すぐに抱けそうな都合のいい女たちにメッセージを一斉送信する。いつもなら大抵、誰かしら引っ掛かる。タイミングが良ければダブルブッキングなんて日もざらにある。だが、今日は珍しく全員が用事があるらしく、早々に断りのメッセージが届き、幸太郎を寂しい気持ちにさせる。それならばと、いくつか登録してあるマッチングアプリで、最寄りに住む女に『いいね』を乱射するもこれも不発。
「どうなってんだよ、クソ」と悔しさを滲ませてウィスキーを呷る。駅前のバーに繰り出せば、仕事帰りのOLが一人で飲んでいるかもしれない。しかし、一度ベッドに横になってしまうと、起き上がるのが面倒でモチベーションが上がらない。一眠りしてから飲みに出ることに決め、リモコンを手に取りテレビの電源を消そうとすると、いつの間にかニュース番組に切り替わっていた。しかも、スタジオでキャスターが報じているのは、例の失踪事件だった。八人の身元がわかったらしく、画面に全員の顔写真と名前、年齢が映る。
誰か見知った人間でもいるかと興味をそそられ、幸太郎は上半身を起こした。枕元に置いてある双眼鏡で八人の顔写真を凝視する。見知った人間はいないが、ベッドを共にしたいと欲情する女は二人いた。一人は井上彩子という主婦。いかにも性格が暗く地味でおとなしそうな顔が、夕方に会った依頼主の美樹を思い出させる。それとは対照的に、もう一人は金髪に派手な化粧をした川崎愛という名前のギャルだった。といっても、年齢は二十六歳ということで、写真は少し前のものだろうと推測した。何であれ、幸太郎の好みのストライクゾーンに収まっていることに違いはない。さらに加えるならば、ロリコンの趣味はないものの、十四歳の結衣については、顔が整っていて、あと数年すればイイ女になると予感させる雰囲気があった。イジメを苦に自殺と報じていたが、この年代にありがちな、かわいいがゆえにターゲットにされたパターンだろうな、と幸太郎は予想した。
その結衣に関して新たな情報が入ったらしい。顔写真がアップになったかと思うと、
「先程、結衣さんのSNS上に、結衣さんをイジメていたグループのメンバーの顔写真が投稿され、ネット上で拡散している模様です」
キャスターが告げた。幸太郎は興味をそそられ、スマートフォンを手にして検索を始めるも、結衣のSNSを開く前にキャスターが、
「なお、結衣さんのSNSは現在、運用管理者によって凍結された模様です」と補足したために落胆した。一応、結衣のSNSを開いてみたものの、確かに凍結されて投稿が見れなくなっていた。けれど、ネットサーフィンすると、投稿が消去される前に画像を保存してアップしたまとめサイトがいくつも存在する。結衣をイジメていたという同級生は全部で三人。いずれも髪の毛を茶色に染めて化粧を施した、校則無視のヤンチャそうなタイプだった。その中でも主犯格であったという飯島璃子という女子中学生を見た途端、「ん?」と、幸太郎は思わず唸り声を発した。右目の目尻に大きな涙ボクロ。どこかで見た記憶がある。けれど、それがどこであったか思い出せない。
さらに検索すると、失踪した八人が在籍する学校や会社まで特定されてしまっている。そこから自殺に至った原因を憶測する流れになり、掲示板が盛り上がりを見せていた。結衣が自殺をする原因をつくったイジメ・グループのメンバー、特に主犯の璃子に対しては、
『死刑だろ、こいつ。警察、ちゃんと捜査してくれよ』
『ブスの嫉妬でかわいい結衣ちゃんを死なせやがって、絶対に許さねえ』
『お前が死ね! 死ね死ね!』
などと、殺意が込められた投稿が殺到している。この怒りの矛先は、現実世界の本人にも向けられるのではないか、と幸太郎は危惧した。結衣はそれを期待して、メディアにイジメの事実や璃子たちの名前を流し、SNSに顔写真を投稿したに違いない。自分の死と引き換えに、璃子たちに生き地獄を味わわせる。下手すれば、三人は事件に憤慨した誰かに殺されるかもしれない。あるいは、これから起こるだろう世間からのバッシングや嫌がらせを苦に自殺に追いやられるかもしれない。自らの手を汚すことのない完璧な復讐といえる。
幸太郎はその後しばらく掲示板の投稿をタイムリーに見守ったが、時間が経つ毎に、璃子らに対する批判の声は熱量を増していった。ただ、
『俺、同じ中学の同級生だけど。一言いわせて』
という書き込みで流れが変わった。『一言』を催促する投稿が瞬間的に連続する。この盛り上がりようを見る限り、そして失踪した他の七人にも同じような事情があるのならば、この事件はしばらく日本中で注目の的になる。幸太郎はそう直感しつつ、
『探偵業を続けていくつもりなら、少しは事業拡大することを考えることだな』
太蔵の助言を思い出した。確かにこの事件の真相を突き止めることができれば、探偵として一気に知名度が上昇することだろう。
そうこうしているうちに、結衣が通う中学の同級生だと名乗る人物から投稿が寄せられた。
『確かにイジメがあったのは事実だよ。けどさ、元はといえば鈴木が悪いんだよ』
書き込みはそれだけだった。掲示板にはすぐに、
『結衣ちゃんが悪いわけないだろ』
『理由を言え、コラ!』
『お前、結衣ちゃんをイジメた張本人だろ。別人になりすましてガセネタ流そうとしてんじゃねえよ』
などと責める攻撃的な投稿が相次ぎ、幸太郎はそれから三十分程、経過を見守っていたが、同級生を名乗る人物からの反論はなかった。
『元はといえば鈴木が悪いんだよ』という言葉が引っ掛かる。それに、璃子に見覚えがあることも気掛かりだ。一体、どこで見たのだろう? 何か新たな手掛かりがないかと次々に検索していると、璃子に関する情報を深掘りしたサイトを見つけた。すでに凍結された彼女のSNSをいち早く保存したらしい。母親の名前は恭子。一年前に離婚して、母娘二人暮らし。その結果、璃子はグレだしたのではないか? とそのサイトでは憶測していた。画面をスクロールしていくと、二人が並んで撮った写真があった。璃子は黒髪でメイクをしてない。今より幼い顔立ちから、小学生の時に撮ったものかもしれない。そして、母親の恭子にも右目の目尻に涙ボクロがある。
幸太郎は、その写真を見たことがあった。飯島恭子。間違いない。旦那の浮気調査の依頼に来たのは一年以上前になるが、顧客自体が少ない上に、母娘揃って同じ位置にホクロがあることから、記憶に残っていた。となると……。
今も同じ家に住んでいるなら、飯島家の住所はわかる。これはもしかしたら、失踪事件について調査しろと、神様からの天啓なのかもしれない。などとガラにもなくスピリチュアルなことを考えつつ、ベッドから立ち上がり、部屋を出た。そのまま事務所へ行き、過去の調査ファイルを漁る。自分の仕事量の少なさを再認識しつつも、飯島恭子に関するデータを苦もなく探し出せたのは有難かった。
依頼時に記入してもらった個人情報に目を通す。住所は璃子が通う中学の学区内。ということは、仮に引っ越していても、どうにか現在の住所を特定することはできそうだ。もしかしたら、マスコミより誰よりも早く璃子にコンタクトを取って、結衣について何か訊き出せるかもしれない。これは本当に太蔵が言った通り、人生を変えるチャンスなのかもしれないと思い立ち、幸太郎は急にやる気が漲るのを感じた。
善は急げ。飯島恭子のデータ記入表を抜き取ってポケットに突っ込み、机の引き出しの中から傷だらけの車のキーを取り出す。白のボルボ240セダン。父親の形見だ。喘息持ちのラクダのような頼りないエンジン音を出す。幸太郎がろくすっぽ洗車しないために全体が茶色がかっていて、図体がでかいこともプラスされ、尾行には不向きな程に目立ってしまうのが難だが、長年連れ添った腐れ縁で愛着があるだけに、幸太郎は完全に動かなくなるまで、しぶとく乗り続けるつもりでいた。
そのボルボが停めてある裏の月極め駐車場へ行き、気分屋の女を根気よく宥める塩梅で、苦戦しながらもエンジンを掛けることに成功した。目指すは隣町。飯島親子が住む家だ。
二
閑静な住宅街の一角。夕食時のため、周囲の家の窓は明かりが灯っているのに、一軒だけ真っ暗な家があった。それが、約一年半前にデータ記入表に記された、飯島母娘の住む家だった。今も二人が住んでいるか定かではないが、正門には『飯島』の標識が掛かっていているところを見る限り、旦那か母娘どちらかが住んでいるのは間違いないだろう。
さて、どうしようか。幸いなことにマスコミも、幸太郎と同じく名を上げようと調査をする素人も、誰の姿もなかった。果たして自分が一番乗りで飯島母娘の行方を突き止めたのか、はたまた二人は別の場所に引っ越していて、他の連中はもうそちらの住所を突き止めて殺到しているのか、どちらなのかわからない。とりあえず、唸りを上げて近所迷惑になりかねないボルボを近くのコインパーキングに駐車して引き返した。電柱の陰に身を隠して考える。どうにかして、飯島母娘が今も同じ家に住んでいる確証を得られないか。璃子に接近することはできないかと。
特に良いアイデアも浮かばず、正面切ってバカ正直にインターホンを鳴らして訊いてみようかと足を一歩踏み出した時、誰かが近づいてくる気配を察知して、幸太郎は電柱の陰に身を潜めた。そこから恐る恐る顔を覗かせると、パーカーのフードを被り、マスクをして目だけを出した、怪しげな二人組がスプレー缶を手にして、周囲の様子を窺いながら飯島家の外壁に近づくのが見えた。どちらも身長は幸太郎と同じ百七十cm前後。華奢なためにわかり難いが、恐らく中学生くらいの男子二人組だろう。だとすると、璃子と同じ中学に通う学生の可能性がある。
こんな所で何をしているのかと見守っていると、一人がスプレー缶をカシャカシャと控えめに振ってから、外壁に向かって一思いに『人』という字を自分の上半身くらいの大きさで描いた。薄暗いため、幸太郎の位置からは色味がわかりづらいが、どうやらカラースプレー缶らしい。もう一人がその横に『殺』とカラースプレー缶を噴射したところで、二人が『人殺し』と落書きをしに来たのだと幸太郎は察した。恐らく、自殺に追いやった張本人である璃子に憤慨した、鈴木結衣を熱烈に慕う輩たちが、姑息な復讐をしに来たのだろう。
これは好都合だと、幸太郎は足音を忍ばせて背後から二人に近づく。彼らは『し』をカラースプレー缶で描き加えると、飯島家に人のいる気配がないのをいいことに調子に乗って、今度は何かの絵を描き始めた。正門には防犯カメラが設置されているが、家から誰も出てこないところを見る限り、本当に留守なのかもしれないな、と幸太郎は予想した。
二人組も同じ考えなのか、油断し切った様子で女性の陰部を描きながら笑い声を上げ、幸太郎の気配にはまったく気づかない。たとえ気づかれたところで、ボクシングの心得がある幸太郎は、華奢な小僧二人をとっちめるくらいわけないと余裕をこいていた。
「なあ、お前ら」と二人の間に立って、それぞれの肩に手を置く。何て貧弱な肩をしてるんだ、と内心で嘲笑いながら、「ダメじゃないか、人の家の壁に落書きしちゃ」わざと陽気な声を出した。
二人組は肩から電流が走ったように、同時に身体をビクつかせると、「うわぁ!」と悲鳴を上げた。どちらも声変わり真っ只中の少年の声だった。飛び上がるようにして走り出そうとする。
別に二人とも捕まえる必要はない。幸太郎は、左側の少年はそのまま逃がすことにして、もう一人のほうを捕まえることにした。当然、その少年は抵抗を試みる。幸太郎が襟首を掴むと、猫のように柔軟に身体をくねらせて逃れ、振り返る素振りをみせた。どうやら反撃を試みるらしい。お友達のように、さっさと逃げればいいものを。けれど、幸太郎はその心意気を買った。気の強い男は嫌いじゃない。よし、いっちょ相手になってやるかと、ファイティングポーズを取って身構えた。テスト前日に右足のアキレス腱を断裂したため、十七歳の時にプロの道は諦めたものの、そこらのもやし体型のガキになんて負けるわけがない。幸太郎は余裕しゃくしゃく、少年が振り向きざまの軟弱な右ストレートを放ってくるのを予想して、それを鮮やかにかわし、カウンターの右ボディで地面に膝まづかせるシミュレーションを瞬時に図った。
そしてその予想通り、少年の右腕が動いた。次は拳が伸びてくる。幸太郎は笑みを浮かべながら、少年の攻撃を待ち受けた。まず、マスクをした少年の顔がこちらを向き、右腕が弧を描いて上がる。幸太郎の目には、それがスローモーションのように見える。そして少年の拳……にはカラースプレー缶が握られていた。
「はっ!」
少年の意図に気づき、言葉にならない小さな悲鳴を上げた時にはもう手遅れだった。カラースプレー缶の噴射口から勢いよく霧状の物が放たれる。幸太郎には、黒い煙幕が目の前に広がり顔を覆われるように見えた。そして、一気に視界を失った。
「う、うわあ!」
形勢逆転。先程の少年たちのように、今度は幸太郎が驚きの悲鳴を上げ、慌てて瞼をこするも、目を開けていられないほどの痛みに襲われ、このまま失明してしまうのではないかという恐怖に駆られた。
「ふざけんじゃねえよ!」
少年の怒声が聞こえてきたかと思うと、ガラ空きになったボディに、幸太郎は鈍い衝撃を受けた。ボクシングのトレーニングに明け暮れていた頃だったら、たとえ気を抜いていても痛くも痒くもなかっただろう。だが、それは四半世紀近くも昔の話だ。今では筋肉は衰え、ビール腹と化してしまっている。おまけに、運悪く少年の攻撃はみぞおちに入った。恐らく、出まかせに振り回した爪先が偶然にもクリーンヒットしてしまったのだろう。一瞬、呼吸ができずに喘ぎ、幸太郎は片手で顔を、もう片方の手で腹を抑えながら地面に倒れ込んだ。先程のシミュレーションとはまったく真逆のシチュエーションに狼狽し、少年の次の攻撃に恐れをなし、まさかではあるが、殺されるのではないかという恐怖心まで芽生えた。
ところが、少年はケンカ慣れしていないようで、
「な、舐めんなよ、オヤジ」
あまりにも自分の攻撃が簡単に決まり、最初は余裕ぶっていた幸太郎が苦しみもがく姿に恐れをなしたのか、震え声で必死に凄むと、唾を吐いたのかペッという音を立て、走り去って行った。その足音が遠ざかっていくのを聞きながら、
「チクショー、ああっ!」幸太郎は痛み、苦しみ、不安、怒り、恐怖、情けない気持ち、あらゆるネガティブな感情がごった混ぜになった叫び声を上げた。みぞおちの痛みはすぐに回復したが、両目に染み入る痛みはどうにもならない。むしろ悪化していく一方に感じられ、早く水で洗い流さねばと立ち上がり、
「誰か! 助けてください!」と喚きながら、やたらめったら手探りで歩いた。薄暗がりの中、客観的に見たらゾンビのように見えるだろう。何とも情けないが仕方がない。失明を免れるか免れないか、今は一時を争う事態かもしれない。幸太郎はとにかく焦り、手に鉄のノブが触れるのを感じると、迷わずに押し開けた。どこへ通じるドアを開けたのかはわからない。
「助けてください!」誰でもいい。頼むから水場へ導いてくれ。幸太郎は神に祈った。何かにつまずき転んだ。目が見えないために上手く受け身が取れず、顔を地面に擦りつけるようにして倒れてしまう。このまま誰にも発見されず、視力を失ってしまうのか。もうこの目で美女を見られなくなってしまうのか。何てことだ。今まで好き勝手に生きてきた天罰なのかもしれない。それなら神様、心を入れ替えるので、どうかお許しくださいと、幸太郎は組んだ両手を額に近づけて心の底から祈った。
その祈りが通じたのかはわからない。けれど、少し離れた場所でドアが開く音が聞こえた。それから足音が警戒するようにゆっくり近づいてきて、
「あの、ちょっと……」怯える女性の声が聞こえてきた。年齢は四十歳前後といったところか。ハスキーで色っぽい声をしている。いや、今はそんなこと関係ない。幸太郎は頭の中から雑念を振り払い、
「顔に突然、スプレーを掛けられて、目が開けられないんです。早く洗い流さないと。水道場に連れて行ってもらえませんか」懇願した。
「え、どういうこと?」
「お願いです」女性の目に今の自分はどう映っているのだろう。幸太郎は情けない気持ちを抑えながら必死に訴える。「詳しい事情は後で説明しますから。早く水道場に案内してください。お願いします」土下座までしてみせた。すると、瞼の向こうが明るくなるのを感じた。懐中電灯か何かで幸太郎の様子を確認しているらしい。そして、切羽詰まった状況だと判断したらしく、
「ついてきて」
幸太郎はシトラス系の香水の匂いが近づいてくるのを感じた。次の瞬間には小柄で華奢な身体に片方の脇を支えられて歩き始めた。何歩目か進んだところで、
「あれ?」幸太郎の顔のすぐ傍で、女性が驚きの声を発した。「あなた、どこかで見たことある」
闇雲に突き進んだ結果、自分は今、飯島家の敷地内に迷い込んでいるのではないか。そして今、身体を支えてくれているのは、飯島恭子なのではないか。ふとそう思い訊いた。
「もしかして、飯島恭子さんですか?」
「そうです。あの、前に調査を依頼した探偵さんですよね?」
「福田です」
「あの時はどうも」恭子の声から警戒心が解けた。けれどすぐ、「どうしてここに?」と身構える空気を幸太郎は感じた。そうしている間にも目の痛みは増すばかり。
「それについては後で説明します。とにかく、今は早く水場へ」と促す。
「ああ、はい」恭子は納得しない様子で返事をするも、幸太郎の指示に従って歩を進めてくれた。そして、「璃子、ちょっと手伝って」と呼びかけた。どうやら、すぐ近くに娘の璃子もいるらしい。こんな状況でなければ、幸太郎は手を叩きたくなる程に舞い上がったことだろう。
駆け寄ってくる足音が聞こえてきて、幸太郎はシャンプーの甘ったるい香りが漂ってくるのを嗅ぎ取った。そして、空いてるほうの脇に、恭子と同じくらい華奢な身体の支えを感じた。
「誰なの、このおじさん」恭子を責めるような口調。璃子の声は、写真で見た感じそのままに、気の強い印象を幸太郎は受けた。けれど、「変な人じゃないよね?」という質問を発する声は急に弱々しくなった。壁に落書きをするガキがいるんだ。もうすでに、嫌がらせが始まっているのかもしれないな、と幸太郎は考えた。
「大丈夫。心配ない」近所を気にしてか、恭子は声を抑えて断言した。「ですよね?」と、急にドスの利いた口調になる。それで幸太郎は思い出した。夫が会社の新入社員と不倫していることを告げた時、恭子が殺気立った顔をして「殺す」と呟いた時の鬼気迫る迫力を。
「大丈夫です」幸太郎はゴクリと唾を飲み込み、「むしろ助けに来ました」と調子のいいことを言ってのけた。
幸い、水で洗い流すと目の痛みはみるみる無くなり、すぐに目の前が明るくなった。恭子が持ってきてくれたタオルで顔を拭くと、目の周りが少しヒリつき、涙が滲んで視界がぼやけるけれど、そのうちに元通りになりそうだと幸太郎は踏んだ。恭子は心配して医者に行くよう勧めてくれたが、璃子に接近できる千載一遇のチャンスを逃がすわけにはいかない。その璃子は、リビングのソファの向かい側に恭子と並んで座り、スマートフォンを憎々しげに見つめている。そして突然、
「ふざけんなよ!」と左の拳を固め、ソファの座面に叩きつけた。それでも怒りが収まらず、下唇を血が出そうな程に噛み締める。その様子を幸太郎が見つめていると睨まれ、
「あ、いや、どうしたのかなと思って」幸太郎は何も知らない振りをすることに決めた。「実はさっき、たまたまこの家の前を通りかかったら、外壁にカラースプレーで落書きしてる連中がいたんです。それを注意しようとしたら、スプレーを顔に噴射されて、このザマで。アッハハハ」空笑いが響く。
「壁に落書き?」恭子が眉を顰める。「本当ですか? 何を?」と中腰になる。
「あ、いや」幸太郎はとぼけた振りを続ける。「よく見なかったので」
「ちょっと見てきます」璃子が不安そうに顔を上げたのを見て、「大丈夫、福田さんは前にお世話になった探偵さんだから」恭子はそう言い置いて廊下に出て行った。玄関のドアが開けられ、恭子の足音が消えると、
「探偵なの、おじさん」璃子は幸太郎を改めて評価し直すように見つめた。
「まあ、一応。お恥ずかしいところを見られてしまったけど。それより、何かあったのかな? 外で落書きしてた子たちは、璃子ちゃんと同い年くらいの感じだったけど」
幸太郎が探りを入れると、璃子は一瞬、身体をビクつかせて怯えた表情を見せた。けれど、すぐに勝ち気な顔に戻る。
「男? 女?」
「男だった。顔は見えなかったけど。誰か心当たりはあるの?」
「おじさん、ニュースは見てないの?」
疑いの目で見つめられ、幸太郎は肩を竦める。
「今日は一日中、忙しくて」
「そうなんだ。ネットで調べてみなよ。鴉山で事件が起きたから」
璃子に言われるまま、幸太郎はポケットからスマートフォンを取り出して、ネット検索する振りをしてから、「こんな事件が? 知らなかった」と驚く演技で顔を上げた。「でも、この事件と璃子ちゃんとどんな関係が?」
璃子は言おうか言うまいか迷う素振りを見せる。幸太郎を睨むように見つめ、廊下のほうへ視線を送る。恭子の戻りを気にしているらしいが、物音は聞こえてこない。
「こういう仕事をしてると、色々な事情を抱えた依頼主に会う。璃子ちゃんのお母さんもそうだけど」幸太郎は、穏やかな笑顔を意識しながら、優しく語りかけた。「口が堅くなきゃやっていけない仕事だから、その点は心配いらないよ。まあ、璃子ちゃんが話したくないのなら、無理に訊くわけにはいかないけど」と、それほど強く興味を示してないように振る舞う。幸太郎は長年の経験で熟知していた。悩みを抱える人間は、必ず捌け口を求めていると。その相手は必ずしも身内や親しい友人とは限らない。それまでの関係が崩れるのを恐れるからだ。そういった場合、何の利害関係のない、秘密が漏れる心配のない赤の他人に対してのほうが気兼ねなく喋ってしまうものだ。
璃子は前歯で下唇を軽く噛み、左右にギリギリと動かしながら、自分のスマートフォンを見つめる。そして、「絶対に誰にも喋らない?」顔を上げて、品定めするように幸太郎を凝視する。「約束してくれる?」
「もちろん」しめしめ、と思いながら幸太郎はポーカーフェイスを装う。「必要なら、お母さんにも言わないよ」
「絶対だよ」と念を押すと、璃子は結衣のイジメの主犯格としてネット上で晒し者にされてしまっていることを、不安や怒り、泣きそうな表情になりながら語った。「完全にリンチだよ。さっきからイタズラ電話が何回もかかってくるし」と言ってる傍から、家の固定電話が鳴り、璃子は立ち上がると、受話器を上げて叩きつけるように戻し、ふてくされた様子でソファに腰かけた。「あいつ、ふざけんなよ。死ぬなんて卑怯だろ」固めた左の拳をソファの座面に叩きつけながら悪態をつき、それから両手で前髪を掻き上げ、頭を抱えたポーズのまま泣くのを我慢して鼻をすする。
恭子はまだ戻ってこない。沈黙の数秒間を置いて、
「じゃあその」と、幸太郎は璃子の表情を窺いながら訊く。「璃子ちゃんは、本当にイジメを?」
「したよ」幸太郎の思いのほか、璃子は素直に認めた。けれど、その顔に反省の色はなく、幸太郎を敵視したような目を向けてくる。「したけど、元はといえば、あいつが悪いんだ」
幸太郎は心の中でガッツポーズをした。ネットの掲示板で、同級生だと名乗る人物が『元はといえば鈴木が悪いんだよ』と書き込んでいた真相が聞ける。焦る気持ちを抑えながら、
「というと?」と平静を装いながら先を促した。「おじさん思うんだ。イジメが起きると、加害者側ばかりが悪者扱いされるけど、イジメられる側にも問題があるはずだってね」と、心にもない言葉でフォローを忘れない。
「そうなの!」璃子の目は見開き、ハッとした表情を浮かべる。味方を得たよろこびで頬が紅潮した。けれどすぐに感情を抑え込んで、廊下のほうを見て恭子の気配がないか窺う。
「お母さんには絶対に言わないから安心して」
「本当?」璃子は幸太郎に顔を戻し、眉毛を八の字にして不安そうな表情。「約束してくれる?」
「もちろん」
「他の人にも内緒だよ。マスコミには絶対に流さないで」
「流さないよ」
「じゃあ言うけど」誰かに喋りたくて仕方なかったのだろう。璃子は眉毛を逆八の字に、一瞬にして怒り顔になり、「あいつがわたしの彼氏を横取りしたんだ」と声を尖らせた。
「璃子ちゃんの彼と知ってて?」
「もちろん」バカなこと訊かないで、とばかりに璃子は幸太郎を睨み、「レンとわたしが付き合ってることは、誰でも知ってる。同じ学年の連中なら絶対。なのに、あいつはレンにちょっかい出して。それだけじゃない。今までだって、ミカやアオイの彼氏に手を出そうとしてた。ウチの学校じゃ有名だよ、あいつがヤリマンだって」興奮した様子で話す。早口で捲し立てられ、一気に複数の人名が出てきたために幸太郎は理解しきれず、
「ちょっと待って」と片手を上げて制し、ポケットからスマートフォンを取り出して、メモ機能に人名を打ち込み、話を整理した。「璃子ちゃんの彼氏はレンくんて言うんだね?」
「そう。もう別れたけど。あいつに一瞬でもフラついたのがムカつく」
「その、あいつっていうのが、失踪した鈴木結衣ちゃん?」
「そうだよ」璃子は苛立ち、下唇を噛む。「失踪じゃなくて自殺したんでしょ」
「いや、それはまだわからないけど。その結衣ちゃんは、璃子ちゃんの友達の彼氏にも色目を使ったってこと?」
「そう。あいつ、いつもか弱い振りして、自分じゃ何もできないから助けて、頼りにしてるって感じで上手く甘えるんだ。ブスのくせに厚かましくさ。男はバカだから、そういう女に弱い。おじさんだって、そうでしょ?」璃子は不機嫌な顔になり目を逸らす。好きな人に甘えたくても甘えられない。素直になれない。だから、それが当たり前のようにできる結衣が羨ましくもあり、それだけに彼氏を奪われたのが余計に腹が立つ。そんな感情を幸太郎は読み取った。こういう時、日頃の女遊びで培った洞察力が役に立つ。
「いや、おじさんは違うな。そんな女の子、安っぽくて嫌だな。自分の気持ちを上手く伝えられない女の子のほうが、いじらしくてかわいく思えるよ」
「そう思う?」幸太郎のほうへ顔を戻した璃子の表情が和らぐ。少し照れたように微笑んでいる。
「うん。そう思う」幸太郎は深く頷いて見せる。「おじさんの学生時代にも、結衣ちゃんのような女の子はいたけど、男もバカじゃないから、か弱い振りをしてるのは演技だって気づいて結局、最後には全然モテなくなってたよ」と嘘をついた。
「そうなんだ?」璃子の顔が輝く。心底うれしそうな表情を見せて前のめりになり、「わたしは、レンにちょっかい出したことが許せなかった」と、すぐに目つきを鋭くさせた。
「そうか、それがイジメの原因だったんだね?」
「そう」璃子は恭子のことを気にして、さらに前傾姿勢になり、幸太郎に顔を近づけて声を潜めた。「ママが浮気された時、どうして相手の女にもっと怒らないんだって不満だった。だって、人の旦那に手を出したんだもん。何も罰を受けないなんておかしいよ。裁判すればお金を払わすことだってできたわけでしょ?」と、喋っている内に怒りのために声が大きくなる。どうやら、結衣を父親の不倫相手の姿に重ね合わせたことで、憎悪の炎が燃え上がり、イジメがエスカレートしてしまったらしい。幸太郎は「そうだね」と返事をして、スマートフォンにメモを打ち込みながら、この事実を公表するだけでも注目を集めることができそうだと考えた。実際には情報を流すマネはしないけれど、仮にネット上に流したら、果たして現状の璃子が絶対悪、結衣は同情すべき被害者、という両者の立ち位置はどれくらい変わるのだろうかと、幸太郎は少し興味をそそられた。
「だからさ、死ぬのはずるいよね。わたしだって、レンを奪われたって知った時、死にたくなるくらい悔しくて悲しかったんだから」璃子の声が震える。「まさか本当に自殺するなんて思ってもみなかった」目から涙がこぼれ落ちた。悔恨の念に襲われたらしい。
「まだ、自殺したと決まったわけじゃないよ」
「したに決まってるよ。じゃなきゃ、どこに行ったっていうの?」璃子に涙目を向けられ、幸太郎は目を伏せてしまう。
「さあ。それはわからない」その真相を探るため、こうしてここへ来たのだ、という言葉を飲み込む。
「勝手にわたしやミカたちの写真を拡散しやがって。訴えようにも本人が死んでたんじゃどうしようもないじゃん」璃子は悔し涙を流しながら拳を固める。
「知り合いに弁護士がいるから、もしかしたら力になれるかもしれない。たとえば、結衣ちゃんの親に損害賠償の請求をするとか」幸太郎は適当なことを言って、結衣の住所を訊き出すことにした。
「できるの、そんなこと?」璃子の目に復讐の炎がちらつく。
「まあ、その気があるならだけど。その場合、向こうにも連絡をしなきゃいけないんだけど、結衣ちゃんの住所わかるかな?」
「わかる」璃子はぶっきらぼうに説明を始めた。この家から二百メートルと離れていないらしい。「ゴキブリが山ほど棲みついてそうな、きったないアパートだから、すぐにわかる」と、顰めっ面をしながら痰でも吐き捨てるように言うと、それからは堰を切ったように結衣の悪口を喋り始めた。
この先は愚痴が続くばかりで、特に貴重な情報は得られそうにないな、と幸太郎はスマートフォンをポケットにしまう。タイミングよく、玄関から物音が聞こえ、恭子が戻ってきた。吐き気でも堪えるような顔をしていて、
「変な連中がうろついてる」と、腕を組んで身を縮めるようにして璃子の隣に座った。
「変な連中?」幸太郎はカーテンがきっちり閉まった窓のほうを見て、恭子に視線を戻す。「マスコミですか?」そろそろこの家を特定されてもおかしくない。
「違う。ネットに動画投稿してる連中。スマホでわたしを撮りながら、あれこれ訊いてきた」恭子の言葉に璃子が身体を微かに震わせた。
「あれこれって……」わざわざ訊くまでもないことに気づき、幸太郎は口を閉ざす。
「璃子?」恭子は娘の異変に気づき、「どうかした?」と、テーブルに置いてあるティッシュを取り、璃子の目尻を拭ってやる。
「何でもない」璃子は気丈に振る舞おうとするも、恭子に優しくされて涙が止まらなくなる。「怖いの。誰かに殺されるんじゃないかって。さっきSNSを見たら、『殺す殺す』って、色んな人からメッセージが送られてきてた」
「本当?」恭子は声を大きくするが、顔を見る限り、それ程驚いた様子はない。壁に『人殺し』と落書きされているのを見てきたために、璃子に悪意が向けられていることを理解したのだろう。「どうにかならないですか?」と幸太郎に助けを求めるも、「さあ。専門外なので」と幸太郎は答えるしかない。これ以上、長居していては面倒になりそうだと判断して、「そろそろ帰ります。お邪魔しました」幸太郎は立ち上がった。
「もう少し、ここにいてくれませんか? 二人だけだと不安で」恭子が涙ぐんで懇願するが、幸太郎は涙を武器にする女が好きではなかった。それに、マスコミに自分の姿を捉えられ、恭子の恋人か何かだと勘違いされて、自分にも悪意が向けられる可能性がある。火の粉が降りかかる前に、火事場から逃げ出さなければ。そう判断して、
「いえ、これからまだ仕事をしなければならないので」言い逃れして玄関へと足早に去る。
見送りに来た恭子におざなりな励ましの言葉を送り、靴を履いて外に出ると、門の前に二、三人、スマートフォンを構えてこちらを撮影している連中が目に入った。ミイラ取りがミイラになってたまるかと、幸太郎は顔を隠しながら庭を駆け、門扉を出ると、スマートフォンを向けて「飯島璃子ちゃんのお父さんですか?」と詰め寄ってくる連中から走って逃げた。わざわざ遠回りして、尾行がないことを確認してからコインパーキングへ行き、ボルボに乗り込んだところでようやく一息つくことができた。まったく、とんでもない目に遭ったもんだと、ルームミラーで顔を確認すると、目が充血して、その周りの皮膚が赤らんでいた。
「クソッ」と悪態をつくも、あのアクシデントのお陰で飯島家に入り、璃子から結衣の『素顔』を聞くことができたのだと思い直し、まあいいかと自分を納得させた。ただ、結衣の性格を知ったところで、彼女がどこへ消えたのかは掴めないままだ。
ひとまず、結衣の家に行ってみるか。幸太郎はエンジンを掛け、璃子に教えてもらった通りの道順を辿った。が、時すでに遅しだった。『ゴキブリが山ほど棲みついてそうな、きったないアパート』の赤茶けた木の壁は、集まったマスコミ連中のライトによって照らされ、まるで犯罪者の棲みかを突き止めたように騒然としていた。あちこちでテレビ中継のレポーターがカメラに向かい、最新情報を伝えている。
幸太郎は少し離れた路肩にボルボを停め、スマートフォンでニュース番組を確認したが、結衣に関する目新しい情報はなかった。ついでに動画投稿サイトを見ると、飯島家をリアルタイムで撮影している映像がいくつも出回っていた。幸太郎が飯島家を後にしてから数分しか経っていないというのに、門扉の前にたむろする動画投稿者の数は倍増しになっている。どうやって調べたのか、璃子以外のイジメ・グループのメンバーの家も特定され、結衣に同情する何人かの人々が罵声を浴びせる姿が映し出されていた。
このままヒートアップすれば、暴行沙汰になりそうだと幸太郎は思いつつ、さてどうしようかと顔を上げた。とてもじゃないが、マスコミの包囲網を潜り抜け、正攻法で結衣の家を訪れたところで、母親が顔を出してくれるとは思えない。たとえそれができたとしても、結衣の失踪の謎を解く手掛かりが掴める可能性は低そうだ。
幸太郎はもう一度スマートフォンを手にして、失踪事件関連のまとめサイトを開いた。嘘か本当かはわからないが、璃子たちが結衣のあらぬ噂をSNS上に流しただの、髪の毛を切り刻んだだのと、イジメの内容が書き込まれている。それらに対して、結衣への同情、『毎日こんな地獄を見せられたら、わたしだって死にたいと思う』という自殺に対する肯定、その一方で璃子たちへの敵意剥き出しにした批判の声が殺到していた。
幸太郎は煙草に火を点けて考えた。元はと言えば、結衣が璃子の彼氏に手を出したことがイジメの発端だったことが、世間に知られるようになったらどうなるかを。形勢逆転、因果応報で結衣を擁護する声は減り、自殺を正当化する意見もなくなるだろうか。そもそも、イジメを受けた経験のない幸太郎からすれば、自殺を選ぶ程の精神的苦痛とはどれ程に辛いものなのか想像もつかない。この世に生を受けただけでもラッキー。ましてや日本という平和で、自由恋愛が許され、公営ギャンブルもある国に生まれたというのに、自ら死のうとするなんて愚の骨頂に思える。
以前、その話を知人にしたら、『お前は世間の荒波に揉まれた経験がないからな』と苦笑いされたが、『余計なお世話だ』と言い返した。それから『たとえどんなに辛い状況に陥っても、俺は自分から死のうとは思わないね。生きてれば絶対にいいことがあるはずだから』と付け加えた。『きれい事をほざきやがって』と顔を顰めたその知人とは、いつの間にか縁が切れた。誰に何を言われようとも、幸太郎の考えは変わらない。死に至る程の絶望は存在しない。それが持論だった。
だからこそ、結衣だけでなく他の失踪者が自殺を望んだ理由に興味を抱き始めた。客観的に見て、果たして彼らは死を選ぶ程の苦しみを味わっていたのだろうか。そして、死の願望を叶えることができたのか。だとすれば、遺体はどこへ消えてしまったのだろうか。本業の依頼が入るまで、少し腰を入れて調査に取り掛かってみるかと意識が変わり、結衣以外の失踪者の情報も検索してみた。どうせなら若い年齢順に素性を暴いていこうと思い立ち、結衣の次に年齢の低い遠藤大輔に焦点を絞った。
その名前を目にした時から、どこかで見聞きした覚えがあるな、と幸太郎は心に引っ掛かっていた。それがどこでだったのか思い出せずにいたが、まとめサイトに掲載された坊主頭の大輔の顔写真と、北洛高校の二年生という文字を見て、すぐにピンときた。野球の名門、甲子園の常連校で一年生の時からエースとして活躍。将来を嘱望されるピッチャーだ。高校生離れした剛速球が持ち味で、昨夏の甲子園ではチームを準決勝まで導く原動力になった。その準決勝戦、延長の末に負けはしたものの、ラーメン屋のテレビで観戦していた幸太郎は、キャッチャーミットに届くまで勢いが落ちないストレートを見て、思わず箸を持つ手が止まった。店内に驚嘆の声が響いた。努力では補えない天賦の才能に眩さを覚えた。
ところが考えてみれば、今年の春の選抜大会では、その名前をまったく耳にしなかったことに気がついた。代わりに確か、北洛高校に入部したばかりの一年生ピッチャーが活躍したような気がする。その辺りに自殺願望の理由があるのではないかと予想して検索したところ、大輔は昨夏の甲子園の準決勝戦を最後に、公式戦に出場していないことが判明した。原因は不明。ネット上では、怪我や病気を疑う声に溢れている。
大輔は以前、インタビューでプロ入りを熱望していることを明言したらしい。その記事が抜粋されて掲載されているが、大輔は本気でプロを目指し、そのためにあらゆることを犠牲にして野球に全力を尽くしていることを、熱意をもって語っていた。人生においてそれだけ大切なモノを取り上げられてしまったとなると、世間一般的には自殺の要因になるのだろうなと、幸太郎は納得した。と言っても、まったく共感はできない。野球がダメになったのなら、すぐに気持ちを切り替えて、他の道を探せばいいだけじゃないかと。
何はともあれ、今日はもう疲れた。幸太郎は家に戻り、身体を休めてから明日の朝、北洛高校と大輔の家を訪れることに決め、マスコミ連中で騒然とするボロアパートを尻目にボルボを走らせた。