遠藤大輔
昔から人一倍、神経質だった。いつもと枕が違うからホテルでは寝付きが悪い、なんて話はザラにあるけど、俺の場合は寝具一式、家で使ってる物と同じじゃなきゃ絶対に寝れない。だから、少年野球の全国大会で遠征した時、両親がわざわざ家から枕、シーツ、敷き布団、掛け布団を運んで、ホテルのベッドの上にセッティングしてくれた。それが許されるのは、俺に野球の才能があるから。身体にいいからと、高価な浄水器や色々な種類のプロテイン、憧れのプロ選手と同じ野球道具一式、何十万円もするベッドやマットレスにマッサージチェア、酸素カプセル、食事はすべて高級食材で作った物。それらのすべても、俺に野球の才能があって、将来プロ野球選手になれば、両親は自慢ができるから。
違う、そうじゃなかった。すべて、両親の愛情だったんだ。今まで当たり前にあると思っていたものをすべて奪われ、こんなわけのわからない場所に連れて来られて、食べ物も住む家も劣悪になったことでようやく、俺は大切なことに気づいた。両親は俺にずっと惜しみない愛情を注いでくれていたのに、たかが野球ができなくなっただけで、俺は二人を裏切って身勝手に死んでしまおうと思った。
今、俺が姿を消したことで、両親はどれだけ悲しんでいることだろう? もしまだ死んでいないのなら、元の世界に戻れるのなら、今度は俺が目一杯、親孝行をしてやろう。
もし、ここから脱出する手段があるとすれば、今のところ考えられる手段は一つしかない。食料が入った白い球体。あれを天井から吊り下げていたロープ。あれを掴むことができれば、あとは自動的に上がっていけるだろう。ロープの先端は地上から五メートルくらいの高さまでしか下りてこなかったけど、あの真下の黄色いエリアはトランポリン状になっている。体操部の連中がトランポリンの練習をする様子を見たことがあるけど、あれくらいの高さは飛んでいた。俺だって野球で鍛えた筋力は、まだそれなりに残ってるから、全力を振り絞ればロープに届くはずだ。
だけど、この計画を他の連中に話したら、引き留められるかもしれない。カプセルの中を初めて見た時、
『すっごく清潔な部屋だね。わたし、気に入っちゃった』
結衣がそう言ったことに俺は耳を疑った。信じられないけど、こんな所でも楽園のように感じられる奴がいるんだ。しかも、結衣だけじゃなくて、他の連中もここを気に入ってるみたいだ。じゃなきゃ、もっと必死になって出口を探すはず。
だから、俺はロープを使って脱出する計画を、誰にも話さないことに決めた。反対されるだけでなく、妨害を受けたらたまったものじゃないから。
ただ、計画を失敗すれば、次は警戒されてしまう。だから、チャンスは一度きりだと思ってる。いつ、あのロープが下りてきても、即座に対応できるように身構えていなきゃならない。固すぎて寝心地の悪いベッドの上に横たわり、眠れない夜を過ごす間、俺はずっとそんなことを考えていた。
そして外が次第に明るくなると、ベッドの上でボーッと休んでいるのが不安になった。今、あのロープが垂れてきたら、十分な高さまでジャンプをする自信はない。何事も準備が大事だ。野球を通じて知った教訓を、ここでも活かさなくては。だから、ベッドから起き出して顔を洗い、外に出た。
太陽はないのに空は明るみ、何となく新鮮に思える空気を肺一杯に吸って吐く。まだ誰も活動を始めていない世界を独占しているような感覚。野球の朝練を頑張っていた時以来の懐かしい気持ちを味わいながら、俺はストレッチを開始した。入念に関節と筋肉をほぐしながら、黄色いエリアを眺めてイメージトレーニングをする。要は、トランポリンを使っての走り幅跳びと高跳びの複合だ。思い切り助走をつけてあそこまで走って行って、黄色いエリアの中に飛び込み、両足で踏ん張ってジャンプして手を伸ばし、ロープを掴む。そこまでできれば、あとはロープが勝手に上がっていってくれる。昨日、見た時はそうだった。大丈夫、俺の身体能力なら大して難しいことじゃない。
けど、一つだけ不安がある。白い球体が落ちたら、あの黄色いエリアは普通の地面のように硬直してしまうことだ。仮にロープを掴み損なったり、掴んでも途中で離してしまったら、五メートル近い高さから地面に叩きつけられるのと同じ衝撃を受けることになる。そうなればケガは免れないだろうし、最悪、命の危険に関わる可能性もある。
そう考えて、何だかおかしくなった。今、自分が生きているのかどうかさえわからないのに、死ぬ可能性を恐れていることに。いずれにしろ、この世界から脱出したければ、計画を実行するしかないんだ。失敗の可能性は頭の中から排除して、成功することしか考えないようにしよう。
そう決意を固めていると、背後から微かに物音が聞こえてきた。まさか、俺たち以外にも住民がいるのか? 驚いて振り返り、すぐに安堵した。白い砂漠地帯をこちらに向かって走っているのは、最年長の奥川さんだったからだ。奥川さんは、走るよろこびを初めて知った人みたいに、気持ちよさそうに走ってる。まるで子どもみたいな姿に、俺は好感を抱いた。元々、初めて見た時から、奥川さんには少し親近感を抱いていた。どことなく、死んだ祖父に雰囲気が似ているからだ。子どもの頃は一緒にキャッチボールをしてくれた。毎週日曜の試合には、必ず観戦に来て、誰よりも大きい声援をくれた。去年の夏の甲子園の準決勝戦も、末期がんでろくに動けないっていうのに、炎天下の中、スタンドまで足を運んでくれた。それなのに、試合に負けてしまった。決勝戦の翌日、祖父は他界した。準決勝で投げ勝っていれば、あと一試合、最高の舞台で投げる姿を祖父に見せることができたのに。
『本気で願い、本気で努力を続けるなら、叶わぬ夢はない』
祖父の口癖だった。それまでは、努力を重ねて目標を必ず実現させてきた。それなのに、甲子園優勝の夢は達成することができなかった。野球人生で唯一の挫折。『敵わぬ夢はある』という言葉が、俺の心の奥深くに巣食い、野球を続けるのが怖くなった。そうだ、やっとわかった。スランプに陥った原因が。それなら、こうしよう。ここから脱出することができたら、もう一度プロ野球選手を目指して、一からやり直すと。
『人生に意味のないことは起こらない』
祖父のもう一つの口癖だ。俺がこのわけのわからない世界に来た理由は、野球を再開させる決心をするためだったんだ。
そう考えると、ここから早く脱出したくなった。ブランクの分を考えれば、今までの何倍、何十倍も努力をしなければならない。苦しいだろう。だけど、その苦しみも、今は心の底から楽しめる気がする。早く野球をやりたい。この胸のわくわく。野球を始めた当初、その魅力にどんどんのめり込んでいった時の感覚に似てる。
いい気分に浸っていると、
「おはよう」
いつの間にかすぐ後ろまで近づいていた奥川さんが声をかけてきた。運動をしたからか、昨日よりも顔の肌艶がよく見える。俺は立ち上がり挨拶を返した。この人になら話しても害にはならないだろうと思って、脱出の計画を話してしまった。具体的な方法は教えなかったけど、奥川さんは察したらしい。
「無理をしないほうがいい。ここにいれば安全なんだ。食料だって、働かずに手に入る」
そんなことを言った。やっぱりそうだ。他の六人に脱出計画を打ち明けても、きっと同じことを言うに決まってる。否定するだけならまだしも、邪魔をされたら堪ったもんじゃない。それに、俺の祖父だったら、こんな後ろ向きなことは言わない。失敗を恐れず挑むように励ましてくれたはずだ。あの人はいつだってポジティブだった。それに比べて、この奥川って人はずっと後ろ向きだ。人のことは言えないけど、だからこんな所にいるんだろう。
もう放っといてくれ。俺の気持ちを察したのか、奥川さんは自分のカプセルに戻ろうとした。その後ろ姿を見ていると、ふいに疑問と好奇心が湧いた。もうそれほど寿命は長くないように見えるのに、この人はどうして死を選んだんだろう? 気になって呼び止め、
「どうして、死のうと思ったんですか?」俺はストレートに訊いた。怒ったりはぐらかされたりするかと思った。だけど、奥川さんは俺の直球を真正面から受け止めてくれた。それから、
「自分に価値を見出せなくなったからだよ」それは、何の混じりっ気もない率直な言葉に思えた。だから俺は、
「一緒です」と反射的に相槌を打っていた。野球でスランプに陥ったことで、自分が無価値な人間だと思うようになった。逆に言えば、俺にとって野球がそれだけ掛け替えのない宝物であることもわかった。奥川さんが真摯的に答えてくれたから、俺も去年の夏の甲子園が終わってから、死ぬことを決意するまでの経緯を素直に話した。他人にそこまで腹を割って話すのは人生で初めての経験で、何だかすっきりした。それに、口にしてみると、自分の悩みなんて大したことではなかったんだと再認識できた。
俺がすべて話し終えると、
「きみは特別な才能を持って生まれ育った。人並み以上の才能がある人間は、人並み以上の苦労や悩みも背負わなければならないのだろう。誰も大輔くんを責めたりはしないよ」
奥川さんはそう言って慰めてくれた。そう、才能と引き換えに苦しまなきゃいけない。俺はもっともっと苦しんで、壁を乗り越えていかなきゃならない。
「死のうとしたこと、僕は今とても後悔しています」
赤裸々な気持ちを俺は吐露した。その理由を奥川さんが訊いてきて、答えようとした瞬間、俺は視界の端に捉えた。天上からロープに繋がれてゆっくり下りてくる白い球体を。まさか、こんな早い時間にくるとは思わなった。準備をしておいてよかった。呑気に話してる時間はもうない。
「皆によろしく伝えておいてください」奥川さんにそう言い置いて、俺は黄色いエリアに向かって走り始めた。全力疾走するのは久しぶりで、筋力の衰えを感じた。けど、絶望するほどじゃない。それに、大事なのはタイミングだ。ロープが白い球体を離す、一番低い地点まで下りてきた瞬間、黄色いエリアのゴム膜を使って高くジャンプする。そのイメージを頭の中で描きながら全力疾走していると、
「無茶だ!」
背後から奥川さんが叫ぶ声が聞こえた。やっぱり、あの人は祖父とは違う。雰囲気は似てるけど、何もかもが後ろ向きの考えばかりしてる。少し前の俺もそうだった。だけど、もう違う。自分の力で、自分の意思で、目の前の高い壁を乗り越え、暗闇を切り裂いていく。困難から逃げようとするから、余計に辛く苦しくなるんだ。逃げずに真正面から立ち向かっていく。そんな強い気持ちが湧くと、自然に全身に力が漲るようだった。
「大輔くん!」結衣の叫ぶ声が耳に入る。「何してるの!」咎めるような口調だ。恐らく俺の意図に気づいたんだろう。裏切られた気持ちを抱いているのかもしれない。だから、どうした? 俺には関係ない。振り返ることなく走る! 走る! 走る!
黄色いエリアが目前に迫る。白い球体は高さ五メートルくらいまで下りてきてる。速く走り過ぎているのか、あるいは遅いのかわからない。筋力とタイミングだけじゃなく、運にも頼る必要がある。神様、と心の中で祈る。ここから上手く脱出させてください。甲子園の最後に投げた球を打たれないようにと祈ったのに叶えてくれなかった分、ここで願いを聞き入れてください、と懇願した。
いよいよ黄色いエリアは目と鼻の先。白い球体はまだ落下してこない。もうこうなったら、何も考えずに自分を信じて全力でジャンプすることだけに集中しよう。
白い砂と黄色いエリアの境目ぎりぎり。走り幅跳びの要領で思い切り踏み切った。空中を蹴るように前へ進み、黄色い地面に両足で着地。白い球体はまだ落下してなくて、地面はまだゴム状だった。身体がグンッと沈み込む。不安定な足場に倒れそうになるのを堪える。沈み切ったところで、今度はググッとゴムが反発を始める。と思った次の瞬間には、俺の身体は宙高く飛んでいた。入れ違いで白い球体が落ちていくのが見える。上を向くと、ロープがもうすぐ目の前にあった。必死に手を伸ばす。頼む、届いてくれ! 祈りは通じた。右手の先がロープの先端に触れ、死に物狂いで掴んで下に引っ張ると、その反動を利用して左手を上げて、両手でロープを掴むことに成功した。何がなんでも落ちないようにと、ロープを両手に巻き付ける。それから足元を見て、その高さに震えた。黄色いエリアの地面はもう硬化しているだろう。落ちたらタダでは済まない。全体重を支える両手がじわりじわりと痛むけど、絶対に離すもんかと気合を入れる。ロープは、昨日地上から見て感じたよりも速く、天上へと引き上げられていく。あとは耐え忍ぶのみだ。
「大輔くん!」
下から結衣の声が聞こえても無視した。恐らく、もう二度と会うことはないだろう。下を見る代わりに天上を向く。雲が流れる青空の向こうには何も見えない。俺はふと不安になった。もし誰かがこの先で俺たちの監視をしているのなら、そこへ辿り着かないように、首輪から電気を流して、俺を地上に落とそうとするのではないか。楽園から逃れようとする者への懲罰。見せしめのための死刑。そんな嫌な予感を抱いた。
だけど結局、首輪から電気は流れてこなかった。その代わり、
「まいったな」青空の向こうから、スピーカー越しのような男の声が聞こえてきた。「遠藤大輔くん、困るよ、そんな無茶されちゃ。落ちたら死ぬじゃないか。折角、上手い具合にカイトウができたっていうのに」
やっぱり、誰かが俺たちのことを見張っていたらしい。一体誰が? それに、カイトウって何のことだ? まったく意味がわからない。
「そのまま耐えてて。すぐに迎えを寄越すから」
男がそう告げると、上空から白く塗られたスクーターのような乗り物が降りてきた。タイヤがない代わりに、ファンのような物がついていて、その風力で宙に浮いている。空飛ぶバイク。こんな物、見たことない。存在することすら知らない。野球ばっかりやってたせいで、俺は世の中の情報に疎すぎるのだろうか?
空飛ぶバイクはやがて、俺の真横に来てピタリと停止した。ハンドルや速度メーター、座席シートの配置は、普通のバイクと変わらない。ファンが動く音は聞こえず、静かに宙に浮いている。俺は夢でも見ているんじゃないかと、自分の正気を疑った。
「遠藤大輔くん、その乗り物に移って。落ちないよう気をつけるように」
頭上から男の声が聞こえてきた。何かの罠ではないか、と俺は半信半疑だった。バイクに乗り移った瞬間、浮力を失って落下してしまう。その可能性を考えて躊躇していると、
「何してるの。こっちはきみの体力ゲージをモニタリングしてるの。そのままだと、手が耐え切れなくなって、あと一分ももたずに落下することになるよ。それでもいいの?」
男が淡々と告げる。その分析通り、俺の手は限界近くに達していた。どうやって、そんな数字を割り出したのかはわからないけど、確かにあと一分も耐えられそうにない。恐る恐る下を見ると、いつの間にかカプセル群が米粒大に見えるくらい、俺は遥か上空にきていた。このままでは助からない。男の言葉を信じて、空飛ぶバイクに乗り移ることにした。
俺が決心したことを察したのか、
「そう、焦らずゆっくり」男がアドバイスをしてきた。「それに乗り移りさえすれば、あとは勝手に上まで運んでくれるから」
俺は言われるままに、空飛ぶバイクの座席シートに座ると、浮力を失わずに安定していることを確認してから、ゆっくりロープを離して、ハンドルを握り締めた。大丈夫、バイクは、見えない地面の上にでもあるように、俺の体重にもビクともしない。
「よし、無事に乗り移ったね」男は少し安堵した声を出した。
「あなたは誰なんです? ここはどこですか? 僕は死んだはずなんですけど」落下する恐怖と不安がなくなったことで、俺は上空に向かって矢継ぎ早に質問をした。
「上に来たらすべて話すよ。そのままの状態でじっとしてるように」
男がそう言い終わると、空飛ぶバイクは音も立てず、何の前触れもなく、ゆっくり浮かび始めた。流れる雲が顔の前を通り過ぎていく。やがて、頭上一面が青一色になった。この青空は一体、どこまで続いているのだろう? と思ったら、空飛ぶバイクは突然止まり、すぐ真上からウィーンという機械の音が微かに聞こえてきた。次の瞬間、二メートル四方ほどの空間が開いて、そこから真っ白な光が漏れたかと思うと、
「やあ、遠藤大輔くん。よく来たね」白衣姿の若い男が苦笑した顔で覗き込んできた。胸ポケットに『寺沢』という名札を付けてる。「まったく、大したものだよ。自力でここまできたヒケンシャはきみが初めてだ」呆れた様子で言うと、顔を引っ込めた。と同時に空飛ぶバイクが再び動き出して、真っ白な光の空間へと吸い込まれるように上昇する。
天井も床も真っ白に統一された場所に到着すると、二メートル四方の空間は閉ざされ、空飛ぶバイクはそこに静かに着地した。
「はい、お疲れ様。まだこっちに来るには早いから、気を付けて」
寺沢が手を差し伸べて、バイクから降りるのを手伝ってくれた。「気を付けて」の意味がわからないまま床に足を着いた途端、俺は鉛でも背負ったように全身に重みを感じて、よろけそうになった。
「ほら、言わんこっちゃない」と、寺沢が身体を支えてくれなければ、ろくに立っていられそうにない。
「どうして?」
自分の身体がおかしくなってしまったのではないかと、戸惑う俺に寺沢は微笑み、
「まだ、正常な重力に慣れてないだけだ。安心して」不安を取り除くように優しく言うと、「誰か、車椅子を持って来てくれ」周りにいる白衣姿の連中に声をかけた。
「ここはどこですか?」
周囲をぐるりとモニターが囲み、その下に機械類が並んでいる。テレビ局の調整室に似てる。広さは体育館一つ分くらい。そこに、寺沢と同じく白衣を着た男女が二十人近くいて、俺のほうを興味深げに見ている。
「ここで、きみたちをモニタリングしてるんだよ。ほら、あんな具合に。下にいる皆は、きみがどうなったか心配してるみたいだよ」
寺沢が指差したモニターには、あんぐりと口を開けて空を見上げる、結衣や川崎、萩原たちの姿が映ってる。よく見ると、他のモニターも全部、地上の様子が映されていた。
「ほら、座って」
車椅子が運ばれてきて、寺沢が俺を座らせてくれた。手元にスティックが付いていて、これで自由に動けるらしい。
「僕たちは死んだのではなかったんですか? あなたたちは誰です?」
そう訊きながら、俺は気がついた。寺沢の首に掛けられたペンダント。シルバーのコインが付いていて、その表面には、大きな目を両手で包み込み支えるデザインが彫り込まれている。両親が持っているのと同じ物だ。ということは、
「新進福祉教の信者ですか?」
「その通り」寺沢はうれしそうに頷き、「きみと、きみのご両親には、教団も深く感謝しているんだ。もちろん、まだ向こうにいる他の七人やその家族にも。きみたちが協力してくれたお陰で、我々の研究が素晴らしいものであることが証明された」
「研究? 協力って何をです?」首を傾げた俺は、寺沢がさっき口にした、『カイトウ』や『ヒケンシャ』という言葉が急に気になり始めた。周囲にいる白衣姿の連中が、宇宙人でも見るような視線を俺に向けてくるのも気になる。
「そうだね、きみは何も知らずに実験に身を貸すことになったんだったね。困惑するのも無理はない。ゆっくり説明してあげるから、場所を移動しようか。ついて来て」
寺沢は歩き始め、モニター群が並ぶ一ヶ所だけ、通路になっている場所を通り抜ける。その先にドアがあるのが見える。俺は手元のスティックを操って、その後に続いた。
自動ドアの向こうは床から壁、天上に至るまで真っ白な廊下になっていて、左右の壁には『ROOM1』のようにルームナンバーが表示されたドアがずらりと並んでいる。
「ここは、どこかの研究所なんですか?」廊下を先に歩く寺沢に俺は訊いた。
「教団のね。鴉山にある先端科学開発研究所だよ」
「鴉山?」俺は耳を疑った。「じゃあ、さっきまで俺がいた地上は?」
「鴉山の内部に造られたリハビリ施設だよ」
「リハビリ? って何のです?」練炭の煙を吸ったことによる、一酸化炭素中毒の症状で、足腰が弱くなるのだろうか? だとしても、ここへ来るまでは普通に歩けた。それどころか走ったりジャンプすることもできた。じゃなければ、脱出は不可能だった。それに、さっきまでいた場所は楕円形でどこにも支えがなかった。小さな惑星のように浮いていたというのか? どうやって?
「それを今から順を追って説明してあげるつもりだよ。この部屋だ。入って」
寺沢はそう言うと、『ROOM13』と表示された部屋に入って行く。
部屋の中も真っ白に統一されているけど、そこはさっきと違い、教室ぐらいの広さしかなかった。中央に長机が置いてあって、椅子が何脚か並んでる。
「ここへ」
寺沢が椅子をどけたスペースに俺は車椅子を動かし、彼と机を挟んで向き合った。今の状況を、早く説明してもらいたくて仕方がない。目で訴えると、
「慌てないで。順番を負って説明するから。というのも、きみには多少、ショックな事実があるから」
「ショックって? 研究だの何だの、意味がわかりません。僕は昨日の夜、鴉山駅に来て、死のうと思っていたんです」
「昨日?」寺沢はなぜか目を丸くして、それから微笑み、「きみにはあれが、昨日の感覚なんだね?」不思議なことを訊く。
「昨日の感覚って?」
「いや、いい。そのことは僕も把握してるよ。きみは自殺願望があり、死神と名乗る人物から、集団自殺の誘いがきた。その送り主は、うちの教団だったんだ」
「え?」わけがわからない。「じゃあ、あのニワトリのマスクを被った人は?」
「きみたちを迎えに行った人ってこと? もちろん、教団の人間だよ。記録では、当時、開発部の部長をしてた芹澤って人が迎えに行ったことになってる」
「当時?」その言い方が、俺は気になった。なぜ昨日のことなのに、そんな言い回しをするのだろう? だけど、それより気になることがあった。
「何で、あのメッセージが僕の元に? まるで、僕が自殺願望を抱いていることを知っているみたいなタイミングだった」
「そりゃそうさ。きみのご両親がリークしてくれたんだもの。きみは確か、野球でスランプに陥って、生きる希望を見出せなかったんだよね? ご両親は心配になり、このまま無為に死んでしまうならと、我々の研究の実験台として、きみを提供してくれたんだ」
「実験台? 提供?」意味がわからない。この寺沢って奴は、頭がおかしいに違いない。「電話を貸してください。両親と直接、話がしたい」
「無理だ」寺沢は急に厳かな顔をして即答した。
「どうして?」そう訊きつつ、俺は直感が働いた。「もしかして、ここは本当は、警察の精神病院か何かなんじゃないですか? 集団自殺してる途中で発見されて、俺たちは皆、心が落ち着くまで、リハビリとして、あのカプセルがあった場所に搬送された。そうじゃないですか?」
「残念ながら違うよ」寺沢は顔をゆっくり左右に振る。「さっきも言った通り、ここは新進福祉教が所有する研究施設だ。警察の息はまったくかかってない」
「何でもいい」俺は焦れったくなってきた。「両親と話をさせてください。謝りたいんだ、迷惑を掛けたこと。身勝手にも死のうだなんて考えたこと。今まで一生懸命、育ててくれたのに、本当に申し訳ないことをした。きっと心配してるだろうから、無事だということだけでも伝えさせてください」
「だから、無理なんだよ。申し訳ない」と寺沢は頭を垂れる。
「どうしてです?」
寺沢は俺の質問を拒むように、頭を振りながら顔を上げる。
「さっきも言ったけど、順を追って説明させてもらいたい」
「どうしてです? 両親と話せない理由を言えばいいだけじゃないですか」
「きみのことを思ってだよ。その理由を言うには、段階を追わなければならない。そうしなければ、きみは僕がデタラメを言ってると思うだろう。あるいは、もし僕が言うことを鵜呑みにするとしたら」寺沢はそこで口を噤み、俺の顔をじっと見つめた。
「鵜呑みにするとしたら、何です?」
「最悪、精神性のショック死を起こすかもしれない」
真面目腐った顔をして言う寺沢を見つめ、俺はピンときた。こんなにも寺沢の口が重い理由は一つしか考えられない。
「俺が本当に集団自殺する道を選んだから、二人ともショックで後追い自殺したんですか? そうでしょう?」
両親にとって、俺は大事な存在だった。いつだって、俺のことを最優先してくれた。俺の幸せのためだったら、悪魔にだって魂を売る人たちだ。その俺が自殺したと知ったら、責任を感じて自分たちも死ぬ。その可能性は低くない。こうして、寺沢が頑なに両親への連絡を拒み、「無理」と断言するのは、二人がもうこの世にはいないから。そういうことなんだろう。そうに決まってる。
「違う」寺沢は厳かな表情のまま、顔を横に振る。「今しがた、説明したばかりだろう? ご両親はきみを我々に実験台として提供してくれたと」
「ふざけないでください!」我慢ならなくなって立ち上がろうとしたけど、足に力が入らずにその場に倒れてしまう。
「ほら、まだ筋力が戻ってないんだから、無理をしないで。ケガをするよ。きみがさっきまでいた場所は、超電導磁石を使った小さな惑星のようなもので、重力を自由にコントロールできたんだ。酸素濃度も調節してた。けど、ここはもう正常の重力だから、今のきみの肉体には酷なんだ」寺沢はわけのわからない説明をしながら長机を回って近づき、俺の両脇に手を差し入れて車椅子に戻してくれる。俺は自分の身体の弱々しさにショックを受け、抵抗する気にならなかった。おまけに、怒鳴ったせいで息が荒くなり、心臓の鼓動が激しい。
「肉体だけじゃない。精神的にも不安定だから、落ち着いて僕の話を聞くように」寺沢は注意しながら自分の椅子に戻る。
「どうして、こんなに身体が弱まってしまっているんです? さっきまでは何ともなかったのに」
「それは今も言ったけど、下の世界は重力や酸素濃度を調整しているからだよ。目覚めたばかりの身体に、なるべく負担がかからないようにね」
「どうして、そんなこと? 一酸化炭素中毒のせいですか?」
「違うよ。それも順を追って説明する。とにかく、口を挟まないで黙って僕の話を聞いて欲しい」
寺沢がそう言っている最中にドアが開き、白髪を肩の辺りまで伸ばした、白衣姿の七十代くらいの老婆が、俺を見つめながら、朗らかな笑みを浮かべて入って来た。
「手を焼いているようね」笑いを含んだ声で寺沢に声をかける。
「あ、すみません」寺沢は老婆を見ると反射的に立ち上がり、恭しくお辞儀をした。
「代わるわ。あなたはモニタールームへ戻って」老婆は寺沢に命じると、椅子に腰かけた。
「失礼します」寺沢が部屋から出ると、
「こんにちは、遠藤大輔くん。調子はいかが?」老婆が微笑みかけてきた。額や目尻、口元に皺があるものの、肌はきれいで活き活きしている。何よりも、俺を見つめる目が、恋する相手を前にしたように輝いていて、俺はドギマギした。急に居心地が悪くなって俯き目を逸らす。
「驚いたわ。今まで、カイトウからたった一日で脱出を試みて、成功させる子はいなかったから」
「カイトウ?」またその言葉だ。気になり、俺は顔を上げた。「寺沢さんも同じことを言ってました。どういう意味ですか?」
「そうね、ちゃんと説明してあげる。けど、言葉だけじゃなくて、実際の研究風景を見せたほうが、納得がいくでしょうから、わたしについて来て頂戴」老婆は俺の返事も待たずに立ち上がり、廊下へ出て振り返り、「さあ早く」と手招きする。普段から人に命令することに慣れてる。それに、笑顔が柔らかいから、警戒心は自然に解けてしまう。何より、今の俺が置かれた状況を早く、詳しく知りたくて、老婆に従うことにした。
「こっちよ。すぐそこの部屋」と案内されたのは、部屋の半分がアクリルのような透明の板で仕切られていていた。向こう側にベッドが置かれ、その上に白髪と白髭をボサボサに伸ばした、骨と皮だけの痩せ細った老人が横たわっている。老人は起き上がる気力がないのか、仰向けになったまま虚ろな目で天井を見つめていた。
「ここは?」恐ろしくなって俺は訊いた。真っ白に統一された室内や、ベッドのシーツ、老人が来ている病衣のような服は清潔感があるけど、プライバシー完全無視の牢獄のように見える。自分もここに入れられるのではないかと、つい身構えてしまう。
「不治の病の治療薬の開発や人工子宮での妊娠、出産」老婆は、ベッドの上の老人をモルモットでも見るような目で見つめながら口を開いた。「わたしたちは、人類の輝かしい未来のために、様々なテーマで何十年も研究に取り組んできた。彼も重要な研究のヒケンシャなの」
『ヒケンシャ』が『被験者』という意味だと、俺はようやく理解した。
「あの人は?」
極限まで痩せこけ、顔だけじゃなくて手足まで皺だらけ。生きたままミイラ化しているように見える。どうしたら、あんな老け方をするのか謎で、得体の知れない恐ろしさを感じる。
「彼はね、人生二百年時代の実現を目指して、長寿のための研究に一役買ってもらっているの。そうそう、あなたたちが失踪した時に、行方を嗅ぎ回ってた探偵さんだったわね。きみのご両親にも会ったことがあるそうよ」
「失踪? 僕たちは失踪したことになってるんですか?」
「世間的にはね」
「それを嗅ぎ回ってた?」俺はベッドの上の老人に視線を移す。「僕らが鴉山駅に集まったのは昨日じゃないんですか? この人、そんなに動き回れるようには見えないんですけど」
「昨日?」寺沢と同じように、老婆もその点に驚いた様子を見せる。「あなたの感覚では、昨日のことなのね。へえ、おもしろいわね」
「何がですか?」俺が訊いても老婆は意味深に微笑むだけで答えず、ポケットから有名なブランドのロゴが入った、古びた名刺入れを取り出した。その中の一枚を俺に差し出してくる。
「自己紹介がまだだったわね。わたしはここの局長をしてる桜沢央香。よろしく」桜沢はそう言うと、「それで、さっきの話の続きだけど、彼は今、何歳だと思う?」ベッドの上に横たわる男のほうを見て質問してきた。
「何歳って……」俺は名刺から男へと視線を移す。あんな老け方の人間、今まで見たこともないから、何歳なのか見当もつかない。少なくとも百歳は超えているように見える。だから、その通りに答えると、
「やっぱり、そうよね」桜沢は苦笑した。「彼がここへ来た時は、確か四十四歳と言っていたかしら。アンチエイジングの実験を繰り返していくうちに、急激に老化が始まってしまって、今では自力で立つこともできないし、まともに喋ることもできない。まだ、七十四歳だというのに」
「え?」俺は自分の耳を疑った。「だって、あの人は、俺たちが失踪した時に行方を追ってたって言いませんでした?」
「ええ、言ったわ」桜沢は俺のほうに向き直り、急に真剣みを帯びた表情になる。「彼も、あなたたちも、ここへ来たのは三十年前だった」
「ハハ」俺の口からは乾いた笑い声が漏れた。桜沢が冗談を言ったと思ったからだ。「だって、俺はあの時のままの姿ですよ。何も変わっちゃいない」アクリル板に反射する自分の姿は、紛れもなく『昨日』と変わらない。違うのは筋力が衰えて、まともに立っていられない点だけだ。
「あなたたちには、彼とは違う実験を行ったもの。今のところ、あなたたちは全員、実験成功したみたいね。まだ、精密検査をしてみないとわからないけど」
「あの人と違う実験て何です?」俺は急に恐ろしくなった。自分の知らないうちに、身体の中に変な物を投入された可能性がある。
「三十年前、ご両親があなたをわたしたちに提供してくれたのは、鬱病の特効薬を開発するための実験台としてだった」桜沢は、冗談ではないことをアピールするように、厳粛な顔をして見せる。
「鬱病の特効薬?」
「そう。野球ができなくなって、あなたは深刻な鬱病を患い、いつ自殺するのではないかと、ご両親は気が気じゃなかった。同じ悩みを抱く人たちのためにも、特効薬を開発して欲しいと、あなたを提供してくださった」
「ちょっと待ってください。鬱病の特効薬の実験台が、どうして目が覚めたら一瞬で三十年も月日が経っているんですか? おかしいじゃないですか」
「そう。だから当初は、あなただけ他の七人とは実験内容が違った。けど、世間的に失踪事件として報じられて二日ほどが経った頃かしら。あなたのご両親は不慮の事故で亡くなられてしまった」
「不慮の事故って何です?」そう訊きながら、寺沢に両親と電話で話がしたいと訴えた時、「無理」と言われたことを思い出した。あれは、両親がすでに死んでいるから、という意味だったんだ。
「強盗殺人。家に侵入した何者かに殺された。犯人はまだ捕まってない」
「そんな……」信じられない、信じたくないという気持ちが心の底から湧き上がる。眠りから目覚めたあの地下の世界で、俺は両親への感謝の気持ちが強く芽生えた。これからは、俺が恩返しする番だと思ってたのに。それが奪われてしまったら、この先、何を目標に生きればいい?
「あなたがわたしたちに預けられていることは、ご両親しか知らない」俺の気持ちなんて知らず、桜沢は話を続ける。「それに加えて、七人がやる実験に、あなたのように若く、健康な男性のサンプルが急遽、欲しくなった。だから予定を変えて、あなたもあの七人と同じ実験に参加させることになったの」
「何の実験です?」と訊きつつ、恐ろしくて何も知りたくないという心理も働いた。けど、桜沢は躊躇することなく口を開き、
「人体冷凍保存の研究」と告げた。
「冷凍保存? 三十年ずっと?」
「そう。それを昨日、カイトウしたところなの。つまりは、三十年の眠りから無事に目覚めたってことね」
寺沢も言ってた『カイトウ』が『解凍』だと理解した瞬間、俺は全身に冷気が吹き抜けるような錯覚を抱いた。
「その後、あなたたち以外にも実験を進めたけど、三十年もの長期冷凍から無事に解凍までこぎつけたのは、あなたたちが初めて。これからじっくり精密検査をさせてもらうわ」
桜沢が喋る言葉は、俺の耳には遥か遠くから聞こえてくるように思えた。これは夢に違いない。そうだ、目覚めたらきっと、練炭自殺が失敗に終わり、警察に保護され、両親に迎えに来てもらう。そんな現実が待ってる。絶対にそうだ。こんなバカげた話があるわけない。これだったら……死んだほうがマシじゃないか。
いや、何もかも嘘かもしれない。目的はわからないけど、俺を騙して楽しんでるだけかもしれない。二度と自殺なんてしようと思わないように、お灸を据えるために。……そうだ、そうに決まってる。ただ、地下にあった小さな惑星のような大掛かりな場所を、『今』の技術でつくれるものなのかが気になる。あれは、新進福祉教が世間に隠してる最先端の技術なのか? それを知るにはここにいてはダメだ。桜沢が言ったことが本当か嘘か確認するためには、外の世界を見なきゃならない。
「大丈夫? 何だか顔色が悪くなってきたみたいだけど」
顔を覗き込んできた桜沢を無視して、俺は手元にあるスティックで車椅子を急発進させた。桜沢は慌てて手押しハンドルを掴んだけど、そのまま強引に前進を続けると、「あっ」と小さな悲鳴を上げてハンドルから手を離して床に倒れた。
俺は構わず部屋から出ると、来た時とは逆方向に廊下を走った。三十メートルほど向こうにドアが見える。あそこへ行けば外に出られるかもしれない。邪魔する者は誰もいない。真っ直ぐな廊下を、車椅子をぐんぐん加速させて走る。
「待ちなさい!」背後から桜沢の声が聞こえてきた。「外に出てはダメ! 誰か! あの子を止めて!」俺は無視して走り続ける。桜沢の必死な様子から確信した。やっぱり嘘をついてるんだ。練炭自殺をしようとしたのは昨日のことで、両親が死んだという話もすべて嘘。非人道的な実験をしようとしたことを世間にバラされるのが怖くて、俺を洗脳しようとしてるんだ。
突き当りのドアに近づくと、自動的に開いてその向こうは駐車場になっていた。全部で五十台くらいが駐車できるスペースの半分ほどが埋まってる。不思議なことに、どの車もタイヤがなくて、車体が地面に接地していた。もしかしたらここは、自動車の修理工場も兼ねているのかもしれない。
そんなことを考えながら、外に通じていそうな二車線の通路を見つけて、そちらに車椅子を加速させた。スティックをぐっと前方に倒し続けていると、スクーターくらいのスピードが出る。シートベルトをしてないから、障害物につまづいて前のめりに転倒したら大ケガをするかもしれない。だけど、ここで誰かに追いつかれて引き留められたら、もう二度と外に出るチャンスはないかもしれない。前方を注意深く見つめながら、百メートルはあろうかというトンネルのような通路を、車椅子の性能が許す限り全力で疾走させた。
やがて、両開きの扉に近づくと、セキュリティによって開かないのではないかと不安になった。扉が開かなければそこで行き止まり。捕まることになる。桜沢の話が真実かどうかもわからないまま、命の危険がある実験のモルモットにされるかもしれない。さっきの部屋にいた不気味な老人の二の舞になるのは絶対に嫌だ。
神様、と俺は心の中で祈った。ここから無事に脱出して、両親と再会させてください。それ以上に望むことは他にありませんから、と。
「こら、待て!」背後から男の怒鳴り声が聞こえてきた。振り返ると、制服を着た警備員が二人、追い駆けてきてる。俺は前に向き直って、
「頼む、開いてくれ!」目前に迫る扉に向かって祈りながら、スピードを緩めずに前進を続けた。このまま衝突してしまうかもしれない。恐怖と不安でスティックを前に倒す手が震える。だけど、俺の祈りは通じた。気配を察知した扉が音もなく開き、目の前には闇が広がった。こちら側の光が漏れ出て、道路のセンターラインのようなものが見えた。道は左から右へと傾斜になっていて、その向こうには木々が並んでいるのが見える。寺沢がここは鴉山だと言っていたけど、どうやらそれは本当だったらしい。
明るい通路から外に飛び出した瞬間、左から強烈な光に照らされた。何事かと思って振り向くと、こちらに車が直進してくる。
「危ない!」と叫ぶだけで、俺の身体はまったく反応できなかった。このまま轢かれて死ぬ。そう覚悟した瞬間、車は俺の脇ぎりぎりをすり抜けて、そのまま山道を下って行った。
轢かれそうになった恐怖とともに、過ぎ去って行く車にタイヤがなく、宙に浮いて走行していることに俺は驚き、その場で呆然としてしまった。
「おい、待て!」
煌々と光る通路の向こうから、警備員たちが怒鳴り声を上げる。それで我に返った。両開きの扉が閉じると彼らの姿は消え、目の前には暗い森が現れた。扉にはカムフラージュとして、周囲の森に溶け込むように木々の絵が描かれていて、目を凝らして見ても、そこに扉があるなんてまったくわからない。
そんなことより、今は早く逃げなくちゃ。左右を見ると、登り方面のすぐ先に『山頂』の標識があるのが目に入った。警備員の連中はきっと、俺が山を下ると予想するはずだ。だから、その逆をつく。それに、鴉山の山頂は、この辺りでは夜景スポットとして有名だ。俺も何度か来たことがある。本当に三十年も経っているなら、景色には何らかの変化があるはず。小さく光る宝石が満遍なく散りばめられたような夜景が同じなら、桜沢が言っていたことは嘘ということになる。
俺は車椅子を山頂方面へ向けて前進させた。三百メートルくらい続く長い坂道を全力疾走させる。夜風は冷たいけど、気温は『昨日』とほぼ同じように感じる。やっぱり、今が三十年後の未来なんて嘘だ。
そう確信しつつ、坂道を上がり切って頂上エリアに達した俺は、そこから見える景色に愕然とした。
「そんな、嘘だ……」言葉を失うのと同時に、車椅子の動力が切れてまったく動かなくなった。展望台の手すりまでは、まだ二十メートル近くある。俺は車椅子から下りて、
「嘘だ、嘘だ、嘘だ……」うわごとのように呟きながら匍匐前進した。
そのうち、背後から足音が聞こえてきた。警備員かと思ったら、
「こんな所で何をやってるんだ、まったく」寺沢の呆れたような声が頭上から降ってきた。「きみはまだ体調が万全じゃないんだ。ほら、研究所に戻るよ」俺を抱きかかえようとする。その手を俺は振り払い、匍匐前進を続けた。
「嘘だ、こんなの俺の知ってる街じゃない」
「そりゃそうさ」寺沢の冷たい声が返ってくる。「三十年も経てば、何もかもが変わる。特にここ五年ほどは激動の時代だったからね」
「何があったんですか? この街に……日本に」
「アインシュタインはこんな言葉を残してる。第三次世界大戦はどのような戦いになるかわからないが、第四次世界大戦はわかる。人類は恐らく、石と棒で戦うだろう、と。意味はわかるね?」
俺は何も答えず、肘や膝が痛むのを堪えながら匍匐前進を続けた。寺沢は俺の脇腹あたりに寄り添うように悠々と歩きながら話を続ける。
「つまり、第三次世界大戦では核兵器が使用されることで文明が失われ、石器時代に戻ってしまうということだ。教祖様は、その予言を真摯に受け止め、各地に核シェルターを建設した。すべての信者を守るために。そのお陰で、五年前にロシアが放った核爆弾の被害を受けず、人類が積み重ねてきた科学技術を失わずに済んだ」
俺はようやく展望台に辿り着いて、手すりによじ登った。
「ほら、無理をしないで」寺沢が背中を支えてくれる。今度はその手は振り払わなかった。目の前の光景に圧倒されて、後ろへ倒れてしまう恐怖があったからだ。
「どうだい、むごいだろ。ここで莫大な数の人々が灼熱地獄に晒されて死に、地中に埋まっていることを思うと、胸が苦しくなる。昼間に見れば、その悲惨さがもっとわかる。ここに来る度に僕は誓うんだ。科学を絶対に人類の進歩のために使うと。決して、滅亡のためには使うまいと」
寺沢の熱弁は空虚な言葉にしか聞こえなかった。俺は、かつて街の灯で煌めいていた景色が、今は真っ黒に塗り潰され、暗黒の海が広がるように激変してしまったことにショックを受けた。何も口に出せなかった。
「そうそう」寺沢が白衣のポケットから小さな瓶を取り出して、俺の顔の前に差し出した。瓶の表面には『甲子園』という文字と日付が記されていて、中には土が入っていた。準決勝戦で敗れた後、チームメイトが俺のために詰めておいてくれた土だ。
「放射能にまったく汚染されてない甲子園の土。今ではとても貴重なんだ。大事にするといい」
寺沢に言われ瓶を受け取った俺は、
「また野球がしたい」と呟いた。「また甲子園に出て、今度は優勝する。それが俺にできる一番の親孝行なんだ」
「うん」寺沢は俺の背中を優しくさすってくれる。「リハビリを続ければ、また野球はできるようになるよ。一緒に頑張ろう」
「そうじゃない」俺は頭を振りながら瓶を握りしめた。「野球ができたって、もう何の意味もないんだ」そう言って放り投げた瓶は、頭の中でイメージした放物線を描かず、すぐ真
下にある崖を転がって暗闇の中に消えていった。俺もこのまま闇の中に葬り去られたい。両親が眠る大地で一緒に眠りたい。
その気持ちを察したのか、寺沢は俺の肩に手を回してぐっと力強く掴んできた。どうやら俺は、この先も生き続けなきゃいけないらしい。何の夢も希望も抱けないこの廃虚と化した世界で……。
了。