福田幸太郎
身体は疲れているのに、『イカれた連中』への恐怖から睡眠は浅く、朝の五時前には完全に目が覚めてしまい、このままベッドに横たわっていても無駄、不安を取り除くためには真相を追及して警察に訴えてやればいい。幸太郎はそう考えて、身支度を素早く済ませ、ホテルをチェックアウトした。
まだ朝早いせいで、通勤や通学のため駅へ向かう人の姿はまばらだ。もし尾行されているならすぐにわかる。誰もつけてないことを確認してから、幸太郎は雑居ビルに入り、事務所と自宅、両方のドアに昨夜、貼り付けておいた髪の毛があるかどうか確かめた。どちらも、髪の毛は残っていた。あれから、誰も侵入しなかったということだ。――ドアからは。
幸太郎は念のため、室内に入って薄暗い室内に目を凝らしてみたけれど、昨夜から変わった点はなさそうだった。ミントの香りはすでに消えている。このまま害無しと判断されて、放っといてもらえればありがたいのだが、と考えつつ、またドアに髪の毛を貼り付けて、ビルの裏の駐車場へ足を向けた。
ボルボに乗り込んでも、エンジンは掛けず、煙草に火を点けた。そこでようやく、昨夜からの緊張から解放された気分になった。
「さて」と独り言を漏らしながら、スマートフォンを手にする。失踪した八人の生活エリアを巡る調査は、残すところ三人。恐らく、今日中で終わるだろう。年齢順でいけば、井上彩子、佐藤大輔、奥川博の順番でスケジュールを組むことになる。
「よし」まずは井上彩子の自宅を訪れ、旦那に接近してみよう。今なら出勤で家を出るところを捕まえられるかもしれない。幸太郎はエンジンを掛けて、ボルボを発進させた。道路に出てバックミラーで後方を確信したが、尾行車はない。窓を開けると、肌に優しく涼しい風が吹き込んでくる。快適なドライブになりそうだと、少し気持ちが昂るのを感じた。
道路は空いていて、順調に目的地に辿り着いた。閑静な住宅街に建つ一戸建て。『井上』の表札が貼られた、白塗りの二階建て住宅は、夫婦二人で住むには持て余してしまいそうだ。幸太郎は門の前に堂々と路駐して、車内から井上家を観察した。
何も植えられていない黒土が敷かれただけの庭が、井上夫妻の冷め切った関係を表しているようだと、幸太郎は穿った目で眺める。ネット上では、ご近所だと名乗る人物が、彩子は滅多に外出することがなく、たまに見かけた時には、頬骨に醜い青痣ができていた、という目撃証言を書き込み、DV被害を受けていたのではないかと噂されている。
外部からの視線を完全に遮るように、どの窓もカーテンがきっちり閉められているところが、夫婦間の争いを隠しているようだと、幸太郎は色眼鏡で見てしまっていることに気づき、なるべくフラットな視点で調査をしなければダメだと自戒した。先入観は間違った結論に行き着く原因になりかねない。長年の探偵生活で、そのことを学んだ。
味気ない庭の隣には車一台分の屋根付き駐車場があり、今は赤のアウディが停まり、そこだけが不自然なほど華やかに見える。まとめサイトに掲載された、地味な見た目の彩子とは似ても似つかない。彼女があの車を運転する姿は想像もできないな、と幸太郎が考えていると、唐突に玄関のドアが開いた。彩子の旦那、玲司が出てくるものだと思い、幸太郎は身構えたが違った。出てきたのは、黒髪をお尻の辺りまで伸ばし、顔の半分ほどもありそうな大きなサングラスをかけ、アウディの車体に負けないくらい鮮やかな赤色のリップ、スプリングコート、ヒールを身に纏い、白黒の千鳥柄の薄地ニットに黒のタイトなスカートを合わせた、四十歳前後くらいの女だった。キャリアウーマン風のできる女といった雰囲気。自堕落で男に対して緩い女が好きな幸太郎の好みではなかった。
女は手にしたリモコンキーをアウディに向け、ドアロックを解除する。その後ろで玄関のドアが開き、スーツ姿の男が現れた。今度こそ、恐らく彩子の夫の玲司だろう。背は高いが痩せ細り猫背。細い猫っ毛が生えた頭部は薄くなり、目は落ち窪んで頬はスプーンでえぐったようにこけている。堂々たる態度の女性とは対照的に、精気を奪い取られてしまったかのように陰気なムードに満ちている。早く乗りなさい、とばかりに女に助手席を指差され大人しく従う姿は、まるで下僕のようだ。
しかし、と幸太郎は首を傾げる。あの女は誰だろう? 親類だろうか? まさか、妻が失踪してる最中に、別の女を自宅に招き入れたりはしないはず。玲司がどれほど女好きかは知らないが、そんな常識外れのことはしないだろう。……もし、していたとしたら? 逆にあの女の存在によって、彩子を失踪に追いやった可能性だってある。だとすれば、あの女の素性を知りたい。玲司との関係性を突き止めねば。幸太郎はすぐにエンジンを掛けられるよう準備した。車での尾行はどれくらいぶりだろう? 当然、徒歩での追跡よりも格段に難易度が増す。緊張感を抱くと同時に、普段の浮気調査にはない高揚感も感じた。
やがて、運転席に乗り込んだ女が、アウディを発進させた。駐車場から出てくる時、こちらの顔を見られないように、幸太郎は屈んで身を隠した。アウディが百メートル近く先を進んだところでエンジンを掛け、相手に気づかれないように尾行を開始した。
時刻は七時を回ったところで、交通量が少しずつ増え始めている。付かず離れずの距離を保ちながら、ボルボの車体を相手に気づかれずに走っていられる、ちょうどいい車の量だった。
もしかしたら、このまま職場へ行くのかもしれない。ネットの情報では、玲司は銀行マンと特定されていた。しかし、あの派手な女も銀行員なのだろうか?
幸太郎はしばらくそんなことを考えていたが、アウディは駅方面へ進んでいることが次第にわかってきた。玲司を駅前で落として、女だけ別の場所へ行くのだろうか? という幸太郎の予想は当たり、駅前のロータリーでアウディは停車すると、玲司が助手席から降りたところで発進した。ここで助手がいれば、二手に分かれて追跡ができるのだが。弱小の探偵事務所であることを惜しみながら、幸太郎はこのまま女を尾行することにした。何も成果がなければ、ネットで玲司の勤務地を調べてそこへ向かえばいいだけだ。
アウディは市街地に入っても停まる様子を見せない。そのまま走り続け、郊外へ向かうようだ。やがて、案内標識に『鴉山』の文字が見えた。玲司に頼まれ、失踪事件の現場の様子を見に行こうとしているのだろうか?
……いや、と幸太郎は心の中で否定し、心臓の鼓動が速まるのを感じた。瓢箪から駒。あの女はもしかしたら、失踪事件に直接的に関わりがあるのかもしれない。このまま尾行を続ければ、失踪した八人の居場所を突き止められるのではないか。そんな予感に胸が躍る。と同時に、もしそうであるならば、危険を伴うかもしれないと気を引き締めた。ミイラ取りがミイラになるわけにはいかないと、バックミラーで尾行車がないか確かめる。大丈夫。ただ、市街地から離れれば離れるほど、交通量が少なくなっていくのが懸念材料だった。距離感に気をつけなければ、こちらの存在を相手に気づかれてしまう。
幸太郎は細心の注意を払い、尾行を続けた。アウディは果して、予想した通りに鴉山へと向かっているようだ。どこにも立ち寄らず、次第に前方に黒々とした鴉山が近づいてくる。八人の靴と身分証明書が見つかった現場の様子は今、どうなっているのだろう。気になって幸太郎はスマートフォンを片手にネット配信のニュース番組を調べるが、現場でライブ中継している番組は中々、見つからない。大物俳優同士のW不倫に話題をかっさらわれてしまい、ニュースバリューが極端に落ちてしまったからだろう。
検索を続けてようやく、現場の様子をリポートする番組を見つけたが、あの山中の拓けた場所にぎっしり押し寄せていたマスコミ連中は今、三々五々といった様子で、世間の注目度が激減したことを、これでもかと表していた。
このまま失踪の真相を突き止めたとしても、大して得にはならない。そのくせ、『イカれた連中』に命を狙われる危険がある。ハイリスクローリターンの調査だが、幸太郎にはもはや損得勘定はなかった。別に悪事を働いているわけではないが、毒を食らわば皿までといった心境になっている。もしかしたらこの先に待ち受けているのは、幸太郎の想像を絶する猛毒かもしれない。それならそれでおもしろいじゃないか。浮気調査ばかりでルーティーン化してしまい、刺激の少なかった日常が急にスリリングに様変わりした。自分が探偵小説の主人公にでもなった気分になる。アドレナリンが分泌され、ギャンブルや女遊びに匹敵する興奮を覚えていることに、幸太郎は気がついた。
鴉山の麓に到着する頃には交通量は激減し、快晴の日射しを受けて走る真っ赤なアウディは、異様なほど目立っていた。運転手のプライドの高さや高飛車な態度、自己主張の強さを具現化しているようだ。幸太郎はそんなことを考えながら山道に入ると、それまでよりさらに車間距離を取り、慎重に尾行を続けた。
アウディは走り慣れた様子で山道を進む。鴉山駅に立ち寄って誰かをピックアップする可能性を幸太郎は考えたが、そのまま素通りして、やがて八人が失踪した現場へ続く横道が見えてきたものの、アウディは山頂を目指して国道を走り続けた。このまま山を越えるのだろうか。あの女は玲司の親類か何かで、ただ鴉山の向こうに用事があって、ここを走っているだけ。肩透かしを食らったのではないか。幸太郎は次第にその可能性もあるのではないかと考え始める。
すぐに次の行動に移せるよう、幸太郎は音声認識システムを使い、玲司の勤め先の銀行の所在地を調べた。
まもなく頂上が近づき、三百メートル近く続く長い坂に差し掛かると、アウディは少し速度を上げた。このまま下山するのだろうか。幸太郎は尾行したことを後悔しつつあった。
坂を登り切ったアウディが、山頂エリアに入り姿を消した。向こうのミラーにこちらの姿は映らない。幸太郎はアクセルをベタ踏みした。そのまま坂を登ると、今度は速度を落とし、前方へ注意を向ける。ところが、
「あれ?」幸太郎は思わず声を出した。アウディの姿が消えている。おかしい。どこかに横道があるのではないか。左右に視線を送るも、ちょっと見ただけではわからない。そうこうしているうちに、今度は三百メートル近い下り坂が現れた。その先にもアウディは走っておらず、やはり考えられるのは、どこか脇道に入った可能性だ。
対向車がなく道は空いているため、幸太郎は素早くハンドルを切ってUターン。再び山頂エリアをゆっくり走り、左右に目を配る。だが、今回もまた、不審な場所は見つからず、森が広がっているようにしか見えない。
元来たほうの坂まで戻ってしまい、幸太郎は首を傾げる。山頂に到達してからアウディがどんなにスピードを出したとしても、視界から消えるほど距離を離されるわけがない。幸太郎にしても、アクセルをベタ踏みして坂道を上がったのだから。けれど、脇道らしい脇道は見つからず、神隠しにあったとしか思えない。そんなバカな。
幸太郎は苦笑しつつ、もう一度Uターンした。木々の間にアウディが通った痕跡が残ってないか、つぶさに観察するも、やはり何も見つからない。俺の目が節穴なのか、それともあの女が魔法でも使ったのか。幸太郎はわけがわからなくなり、少しの恐怖を感じた。もしかしたら、失踪した八人もこんな風にして、忽然と姿を消したのかもしれない。この世とあの世を繋ぐ霊穴が、この辺りに存在しているのではないか。
「バカらしい」
幸太郎は頭に浮かんだ考えを一笑して、今度は車から降りて歩いて調べようと、下り坂に差し掛かる前に停車しようとした。ブレーキを踏みかけたところ、思いがけず前方に赤い車体が現れたため、驚きで目を見張った。アウディは同じ車線の百メートルほど先で停車していて、真っ赤なコートを着た女が、トランクリッドに腰掛け、スマートフォンを弄っている。誰かを待っているのだろうか? それとも車が故障でもしたのか。いや、その前に今までどこにいて、どこから現れたんだ? 俺の尾行に気づいたのだろうか。
様々な憶測が頭の中に浮かび、幸太郎は困惑しつつも、ここで停車したら不自然すぎるため、そのまま坂を下ることにした。
女はスマートフォンに視線を落とし、ボルボに気づく様子はない。サングラスを掛けたままで表情はわからないが、どこか苛立った雰囲気は伝わる。何かトラブルが起こったようだ。これは、話しかけるチャンスだぞ、と幸太郎が車のスピードを落とすと、ふいに彼女は顔を上げ、思いがけぬ救いを見つけてよろこぶように、幸太郎に向かって手を振った。よし、これで自然に彼女にお近づきになれる。今までどこにいたのかという疑問は残るが、上手く会話を紡いで、彼女の素性を探ってやろう。
二メートルほど離れたところで停車すると、女はハイヒールをこつこつと鳴らしながら、幸太郎のほうへ近づいてきた。
「どうしました?」幸太郎はウィンドーを下げて応じる。
「ああ、助かった。どうしようかと思って」女は心底安堵したような声を出し、真っ赤なルージュを塗った唇から真っ白な歯を覗かせた。「タイヤが突然、パンクしちゃって。スマホも急に故障しちゃって助けを呼べないし、全然、他の車が通らないしで、困ってたところなんです」
女が言う通り、アウディの右側の後輪が完全にパンクしている。
「すみませんけど、電話お借りしてもいいですか?」
女はサングラスを外して頭の上に上げ、両手を合わせて懇願する。目尻には皺があり、年齢はもしかしたら五十歳前後かもしれないな、と幸太郎は上方修正した。ただ、パッと見では高飛車に思えたものの、話してみると意外にフランクな性格だ。そんなことを考えつつ、彼女の首元に視線を移した瞬間、ギクリと心臓が強く脈打った。
「どうかされました?」幸太郎の表情の変化に気づき、女は小首を傾げる。
「あ、いえ、それ」
幸太郎は女のネックレスを指差す。遠藤大輔の両親が装着していたのと同じく、シルバーのコインが付いたタイプのもので、コインの表面には、大きな目を両手で包み込み支えるデザインが彫り込まれている。新進福祉教のシンボルマークだ。
「これが何か?」と、女は手を首元に動かし、ペンダントに触れながら幸太郎を凝視する。
「あ、その、知り合いが同じ物を持っているので」
「まあ」女は顔を輝かせる。口が大きいために派手な顔立ちに見え、リアクションも外国人のように大きい。「そのお知り合いの方、新進福祉教の信者さん?」
「そうです」
「えっと」と、女は幸太郎をどう呼べばいいのか尋ねるように片手を向けてきた。
「福田と申します」彼女の素性を知るチャンスだと、幸太郎はすかさず名刺を取り出す振りをして、「すみません、今、名刺を切らしてしまっていて」と詫びる。
「そうですか。わたしはこういう者です」女性は有名ブランドのロゴが入った名刺入れから慣れた手つきで一枚取り出し、幸太郎に差し出す。
『新進福祉教 メディカル開発局局長 桜沢央香』
名刺にはそう書かれていた。
「メディカル開発局?」幸太郎は名刺から顔を上げた。「局長?」芹澤は同じ局の部長だったことを思い出しながら。
「はい」桜沢は自信に満ちた笑顔で頷く。
「開発って、その、具体的にどのようなものを開発しているんですか?」
「よろこんで説明させて頂きたいところですけど」桜沢は言葉とは裏腹に眉間に皺を寄せ、「その前に、電話を貸してもらえます?」申し訳なさそうに言う。
「ああ、そうですね、どうぞ」
「すみません、お借りしますね」
幸太郎に聞かれたくない話でもするのか、スマートフォンを手にすると、桜沢はアウディのほうへと移動する。幸太郎は名刺を見つめながら、八人が失踪した現場に、新進福祉教のメディカル開発局局長がいることの関連性を考えてみた。今までの展開から、どう考えても繋がりがあるようにしか思えない。何よりも、井上彩子の夫である玲司の家を訪れ、行動を共にしていたのだ。彼女と玲司の関係性は一体何なのか、という点も幸太郎は気になって仕方ない。
それに加えて、桜沢とアウディは、ほんの数分前までどこに雲隠れしていたのかも気になる。この辺りのどこかに隠し通路か何かが存在しなければ、姿を消した理由がつかない。それを調べるためにも、後でまたここを訪れよう。
幸太郎は名刺から顔を上げた。桜沢はアウディのトランクリッドにお尻を預け、幸太郎のほうを見ながら電話をしている。それが突然、ボルボの向こうへ手を上げて左右に振った。誰か来たのだろうかと幸太郎が振り返ると、山頂のほうから黒塗りのベンツが走っててくるのが見えた。まさか、芹澤が運転していることはないよな? そうなると、面倒なことになる。芹澤とは、川崎愛の両親が暮らすアパートで対面した。幸太郎のことを覚えていれば、失踪事件のことを嗅ぎ回っていることがバレる可能性が高くなる。
早くこの場から立ち去りたい。けれど、まるで人質のように、桜沢にスマートフォンを持たれてしまっている。
スマートフォン? どうしてあんな大事な物を何の疑いも抱かず貸してしまったのかと、幸太郎は自分の迂闊さを呪った。着信履歴には湯島の名前が残っている。もし、湯島が言っていた『イカれた連中』が新進福祉教であるなら、桜沢が湯島のことを把握しているのであれば、そこから幸太郎の正体に気づいてしまうかもしれない。教団にとっては害悪な存在であり、湯島と同じく自殺を装って殺されてしま可能性だってある。
幸太郎は高鳴る心臓の鼓動を感じながら、サイドミラーを見つめた。ベンツは次第に速度を落とし、ボルボの横をゆっくり素通りしていく。幸太郎は横目で運転席を確認して、とりあえずは安堵した。乗っていたのは、見覚えのない男だったからだ。
ベンツがアウディの前に停まると、桜沢は安堵の笑みを浮かべてボルボの運転席に駆け寄り、
「すみません、ちょうど知り合いがすぐ近くを走ってて、助けに来てくれました。これ、ありがとうございます」幸太郎にスマートフォンを返しながら礼を言うと、アウディのほうへ戻り、ベンツから降りてきたスーツ姿の小太りの男に、パンクしたことを伝え始めた。
しかし、知り合いが偶然、こんな山奥を走っているものかと、幸太郎は苦笑してしまう。桜沢が電話をかけてから、数分も経たずにベンツは現れた。ということはやはり、この近くに新進福祉教の施設があるはず。もしかしたらそこに、失踪した八人もいるのかもしれない。となれば、この尾行は大収穫ということになる。
焦るな、ここは一旦、立ち去ろう。幸太郎は逸る気持ちを落ち着かせ、ボルボを発進させた。アウディの横をゆっくり通り、頭を下げる桜沢に会釈を返した。小太りの男はタイヤの状態をしゃがんで見ているため、幸太郎には見向きもしない。
だが、スピードを上げて坂を下り始め、ベンツから五十メートルほど離れてからサイドミラーで後方を確認すると、小太りの男がスマートフォンをこちらに向けていた。
――まずい。
幸太郎はアクセルを踏み、速度を上げた。最近のスマートフォンのカメラ機能がどれほど優れているか知らないが、今の距離でナンバープレートやその他の詳細がはっきり写ってしまっただろうか。そうでなかったとしても、簡単に特定されやすい車種だ。山を下りたら、レンタカーに乗り換えようか?
玲司の身辺にも、幸太郎がうろちょろしてないか見張りが付くかもしれない。それを危惧して、銀行へ行くのは断念した。どちらにせよ、今、Uターンするわけにはいかない。順番は前後してしまうが、鴉山をこのまま下りて行けば、奥川博が長年暮らしてきた街がある。まずはそちらへ行ってみよう。幸太郎はそんな風にスケジュールを変更した。
二
鴉山の麓の街に到着するとすぐ、幸太郎は尾行車がないことを確認して、レンタカー店に立ち寄り、ボルボから青色のプリウスに乗り換えた。これで変に目立つことなく行動ができる。少し安堵しつつ、奥川が長年住んでいた隣街へ急いだ。
失踪した八人の中で最年長となる七十六歳。ここ数年は、大腸がんを患う妻の世話に追われ、自分自身も肺がんを発症して、老々介護の苦労を味わった。ネット上では、心中を図ったことがある、という噂が広まり、一部では安楽死についての是非を問う論争も巻き起こっている。その情報を知った時、幸太郎の頭には、
『安楽死・尊厳死の合法化を推進』
『不治の病の殲滅』
という、新進福祉教のサイトに掲載された教義が浮かんだ。もしかしたら他の七人とは異なり、奥川だけは肺がんの特効薬を開発するための実験体にされているのではないか。そんな疑惑を抱いた。
妻を亡くし、子もなく親類のいない奥川の調査をしたところで、得られる情報はほとんどないだろう、と幸太郎は踏んでいた。しかし、井上彩子の夫を見張っていたことで、桜沢の存在を知ることができた。それと同じように、ひょんなことから重大な発見がないとも限らない。
そんな風に考えながら辿り着いた奥川の家は、海まで徒歩圏内にある、潮風が微かに香る住宅街にあった。いや、正確にいえば今は持ち主が代わり、『佐々木』の表札が貼ってある。二階建てで庭も駐車場もない、こじんまりとした家だ。売りに出す時に新しく塗装したのか、クリーム色の外壁だけが妙に目立って見える。
その家の前で一旦、プリウスを停車させてから、幸太郎は思案する。どう調査を進めればいいのだろう。ネット上の情報を鵜呑みにすれば、奥川は妻の介護にすべての時間を奪われ、近所付き合いはまったくと言っていいほどなかったという。六十歳の時に定年退職をして以降、働かずに年金生活を送っていたため、社会的な繋がりはほぼ皆無。家を売るのは不動産屋に任せ切りだろうから、佐々木家との交流も恐らくないだろう。
いや待てよ、と幸太郎は考え直す。もしかしたら、知人に家を譲った可能性も考えられる。たとえ違っていても訪ねてみて損はない。そうと決まれば即、行動。幸太郎はプリウスから降りると、佐々木家の小さな門扉を押し開けて入り、インターフォンを押した。ピンポンという音が家の中から微かに聞こえてくるが、人のいる気配は感じられない。留守だろうか。
「すみません!」
ドアをノックしてみた。すると、向こうから足音が聞こえ、ロックを解除する音が続き、ドアがゆっくり開けられた。隙間から顔を覗かせたのは、花柄のシャツにピンク色のカーディガンを羽織った、総白髪で小柄な老婆だった。
「はい、どちら様でしょう?」と、口元に上品な笑みを湛えて幸太郎を見上げる。
「あ、どうも、突然の訪問、失礼致します」幸太郎は精一杯、愛想よく努めた。「わたくし、以前、ここに住んでおられました、奥川博さんに、職場で大変お世話になった小池という者です」
もしかしたら後で、新進福祉教の人間がここへ来て、「福田幸太郎と名乗る男が来なかったか」と訊ねるかもしれない。それを警戒して、幸太郎は偽名を使った。老婆はにこにこ顔で話を聞いている。
「用事がありまして、すぐ近くを通ったものですから、久しぶりにご挨拶でもと思いましてこちらに足を運んでみたら、表札が変わっていて」幸太郎は眉間に少し皺を寄せ、困った表情をつくる。「奥川さんは現在どちらにお住まいか、ご存じないですか?」
「ええ、奥川さんね。知ってますよ」
「え?」まさかとは思っていたけれど、本当に奥川と繋がりがあるなんて。幸太郎は思わず素のトーンで驚きの声を発してしまう。「本当ですか?」
「はい、そうですよ」老婆はにこにこ顔を崩さず頷く。
「それは、あの、どういったご関係なんでしょう?」
「生まれ故郷が一緒でしてね。同い年の幼馴染みなんです。お互いに中学を卒業してから故郷を離れ、ほとんど会わずにいましたけど、つい先日、わたしの孫と博さんが偶然にもインターネット上で交流をもちまして。ちょうど、わたしが一軒家を欲しがってたところに、博さんがこの家を売りに出してらして。これも何かの縁だと、譲ってもらうことにしたんです。本当、奇跡みたいな出来事で驚きました。インターネットがある時代ならではですよね。わたしたちの若い頃には、こんなことってなかったですから」穏やかな見た目とは裏腹に、老婆は饒舌に語り、ホホホと上品に笑う。何はともあれ、身辺を整理していた奥川にとっては、渡りに船な出来事だっただろう。
「そんな偶然があるものなんですね」幸太郎は感に入った態度で相槌を打つと、「それで今、奥川さんはどちらにいらっしゃるのでしょう?」失踪事件のことなど微塵も知らない振りをして訊いた。
「それが……」ずっと明るかった老婆の顔が、急な嵐の到来のように暗く曇る。立て板に水だったのが、途端に鉛を埋め込んだように口が重くなってしまう。
「どうかされたんですか?」幸太郎は眉間に皺を寄せ、内緒話でもするように声のトーンを落として、老婆に顔を近づける。「一緒に働いていた頃はお元気でしたけど、今はもう歳も歳ですし」
「そうね、うーん、何て説明したらいいのかしらね」失踪事件のことを考えているのだろう。老婆は苦笑いを浮かべて首を傾げる。奥川は死が確定したわけではないが、生きている可能性は極めて低いのが現状だろう。自分が彼女の立場なら、やはり説明に困るだろうな、と幸太郎は老婆の心情を察しつつ、
「何か言いにくい事情があるのでしょうか。いきなり押しかけてきた分際で、奥様を困らせるわけにはいかないので、無理にお聞かせ下さいとは言いません」と助け船を出すものの、当然、すんなり帰る気はなかった。遠慮を見せることで、気遣いができる、秘密を他人にバラさない信頼の置ける人間であることをアピールしているのだ。案の定、老婆はそれまでよりも幸太郎を信用したような目つきになり、
「そんな、博さんが昔、お世話になった方を無下に追い返すわけにもいきません」と、幸太郎の左腕にそっと右手を触れた。
「お世話になったなんて、そんな」幸太郎は笑いながら顔の前で右手を振る。「お世話になったのは、こちらのほうですから。だから、もし奥川さんが今、何かお困りなら、わたしにできることなら何でもするつもりです」
「ありがとう。それを聞いたら、博さんもよろこぶと思うわ」老婆は幸太郎の左腕を軽く叩くと、急に近所の目を気にするように周囲に視線を配り、「小池さんと仰ったかしら」と幸太郎を眩しそうな目で見上げてきた。
「はい、そうです」
「少し、お時間よろしいかしら? 立ち話もなんですから、上がっていって下さい。ちょうど、美味しい和菓子を買ってきたばかりなので。ね?」老婆は幸太郎の左腕を掴む。彼女の頭越しに見える玄関の様子から、恐らく一人住まいらしい。この場で奥川の失踪について語るのは憚られるということに加えて、寂しさから誰か話し相手が欲しいのではないか、と幸太郎は察した。もしかしたら、家の中には奥川が残していった、失踪事件の手掛かりが何かある可能性だってある。それから、奥川自身かあるいは妻が、新進福祉教の信者だったか訊きたい気持ちもあった。というわけで、
「時間はあります。ご迷惑でなければ、お言葉に甘えて、お邪魔させて頂きます」と会釈した。
「ええ、そうしていらして。迷惑だなんてそんな。さあ、どうぞ」
老婆に誘導され、幸太郎は小さなサイズの靴しか並んでない玄関で靴を脱ぎ、きれいに掃除されてはいるものの、老婆が死ねばすぐに片づけて売りに出せそうな、無駄な物の一切ない家の中に上がった。
「ここに座って頂いて。コーヒーとお茶、それとも紅茶、何がよろしいかしら」と老婆に訊かれつつ足を踏み入れた応接間には、ソファとテーブル、テレビがあるだけで、老婆がここの住民だと示すような飾りや家族写真などは何もなかった。
「お茶を頂けますか」とソファに座りながら幸太郎が答え、
「すぐにお持ちしますね」老婆が向かった隣の台所には、調理器具や食器類がきれいに置かれている。それらをじっくり観察しながら、幸太郎は違和感を抱いた。しかし、どこが不自然なのか、上手く指摘することはできず、答えを見つけ出そうと部屋中を見渡した。
「何もないでしょう?」急須と湯飲み、和菓子が載ったトレーを手にした老婆が、自嘲気味に微笑む。「無趣味で、インテリアに凝るタイプでもないので、味気ないですよね」
「そんなこと」幸太郎は否定しながらも、家というよりどこかの事務所の応接室にいるような感覚を抱く。簡単に言えば、生活感が感じられないのだ。室内にも、老婆にも。どうやらそれが違和感に繋がっているらしかった。けれど、それがどうだというのだ。ここで暮らし始めてまだ短いから、そういう風に感じるだけだろう。軽く考え、
「どうぞ、召し上がってください」老婆に勧められるままに和菓子とお茶を口にした。
「それで、先程の続きですが」向かいのソファに腰かけた老婆に、幸太郎は早速、切り出す。「奥川さんは今、どうしていらっしゃるのですか?」
「本当に何もご存じない?」老婆は探るような目で見つめてくる。先程までとどこか雰囲気が違う。
「ええ」と惚けた幸太郎は、舌の動きが鈍くなっているような気がした。頭の中にゆっくり靄がかかるように、思考の回りが悪くなっていく感覚がある。
「嘘を仰い」老婆は笑うが、それまでの穏やかな笑みではなく、蔑むような調子だった。何かがおかしい。何だろう? 幸太郎は異変を感じつつも、その原因を探るのが億劫に思えた。頭の回転がどんどん遅くなり、両肩にプレスをされているように、身体中が重くてダルい。
「ちゃんとわかってるのよ」老婆はほくそ笑む。「あなたが、わたしたちのことを嗅ぎ回ってるってことは」
「わたしたち?」と訊き返したつもりが、呂律が回らない。幸太郎はようやく焦り始めた。和菓子かお茶に何か盛られた! 毒かもしれない!
「そう、わたしたち」老婆は頷き、カーディガンのポケットから煙草と銀色のジッポーを取り出した。煙草に火を点けると、ジッポーをローテーブルの上に置いた。まるで名刺を差し出すような素振り。幸太郎は視線を落とした瞬間、衝撃で「ハッ」という声を発して息を呑んだ。ジッポーの表面には、新進福祉教のシンボルマークである、大きな目を両手で包み込んで支えるデザインが刻印されていた。
「あなた、もしかして?」顔を上げた幸太郎の目に、老婆の姿はモザイクがかかったように見えた。急激に気分が悪くなり、座っているのも困難で、ずり落ちるように横になってしまう。次第に意識が遠のき、完全にブラックアウトする直前、
「ご苦労様」
隣の部屋から現れた何者かが、老婆の背後に立って労いの言葉をかける声が聞こえたような気がした。
三
最初に感じたのは、顔面への強烈な痛みだった。殴られたのかと思い、そのショックで幸太郎は目を覚ますと、あまりの眩さにすぐさま瞼を閉じた。そうしていても、瞼の裏が明るく網膜に染みるようだ。手を翳して影を作ろうとしても、後ろ手に縛られて動かせない。
――ここはどこだ?
幸太郎は自分が今、どのような状態でいるのかを、徐々に認識し始める。椅子に縛り付けられ座らされている。顔中がびっしょり濡れている。どうやら殴られたのではなく、水を勢いよくかけられたらしい。しかし、なぜこんなことに? 靄がゆっくり晴れるように、意識が正常に戻り始め、佐々木家に上がり込んだ記憶を思い出した。和菓子とお茶を口にして、意識を失った。毒を盛られたと焦ったが、殺されたわけではないらしいと安堵したものの、もしかしたら、殺されていたほうが幸運だったのかもしれない、と幸太郎は急に恐怖心を覚えた。
「目が覚めたかしら」突然、聞き覚えのある女の声とともに、コツコツとこちらへ近づいてくるハイヒールの甲高い足音が聞こえてきた。「福田幸太郎さん」
「誰だ?」まだ呂律が怪しい。それでも、不安を追い払いたくて、幸太郎は大声で叫んだ。「ここはどこだ? 何を飲ませた?」その声の反響具合から、どこか密室に閉じ込められていることを察知した。
「そんなに吠えても無駄よ」女は嘲笑う。「ここは完璧な防音室だし、仮に外に声が聞こえたとしても、誰も助けには来ない」ハッタリではなく本当のことを言っている。それが理解できるから幸太郎は戦慄した。そして、女の正体がわかった。
「あんた、桜沢だろ?」ようやく光に目が慣れ始め、幸太郎は薄目を開けた。真っ赤なコートではなく白衣を着ているが、髪型のシルエットで桜沢に間違いないとわかる。「ここはどこだ? 何をするつもりだ?」
「湯島学ってWEBサイトの管理者、知ってるわよね?」桜沢は幸太郎の質問を完全に無視して、逆に訊き返してきた。「うちの教団の手荒い連中が、屋上から突き落として自殺に見せかけた。それ聞いた時、わたしは『もったいない』って言ったの。ここへ連れてきてモルモットにすればよかったのにって」
「モルモット?」幸太郎には何を言っているのか理解できないが、桜沢の口調からは冷徹な印象を受けた。
「そう。うちの教団は理想の未来を目指していて、その目標を叶えるために、開発局が存在するんだけどね。そのための実験台って、そんなに都合よく手に入るわけではないから。忽然と姿を消しても、あまり騒がれない、社会性に乏しい人間って」
「まさか、鴉山で失踪した八人は、そのために?」
「正解。ただ、あの八人の場合は社会性に乏しいわけじゃなく、家族や恋人が提供してくれたの。謝礼として、それぞれに数百万円の提供料を払った」
「提供? 謝礼?」訊き返しつつ、幸太郎は湯島が言ったことを思い出していた。失踪した八人の家族が誰も捜索願を出していない、ということを。さらに、鈴木結衣や川崎愛の親が住むボロアパートの光景が頭に浮かんだ。数百万円の謝礼が貰えるなら、娘だって売るかもしれない。
「そう、提供。自殺に踏み出せない状況にある家族なり知人を教えてもらって、こちらから安楽死の誘いをかける。まんまと引っ掛かったのが、あの八人だったってわけ」
桜沢の説明で、幸太郎は新進福祉教の“理想”を思い出した。教団の公式サイトに掲載されていた、
『安楽死・尊厳死の合法化を推進』
『人体冷凍保存の研究』
『人生二百年時代の実現』
『不治の病の殲滅』
『人工子宮での妊娠、出産の研究』
五つの項目。それらを開発するためのモルモット。それが、今置かれた自分の状況であることに気づき、幸太郎はゾッとして全身に鳥肌が立つのを感じた。安楽死については八人が実験体になった。『不治の病の殲滅』と『人工子宮での妊娠、出産の研究』に関しては対象外だ。ということは、幸太郎に残されたのは『人体冷凍保存の研究』か『人生二百年時代の実現』を開発するための実験体ということになる。
「俺に何をするつもりだ?」恐怖に震えた声が室内に反響する。すっかり目が慣れた幸太郎は、真っ暗な中に自分がいる所だけ強烈なスポットライトが当たっていることに気づいた。その光の僅か外に桜沢が立っていて、その向こうはあまりに暗いため、どれくらいの広さがあり、何が置かれているのかもまったく把握できなかった。
「あの八人は、安楽死のモルモットにしたんだろ? 俺は何の実験台にされるんだ?」
「勘違いしてるみたいだけど」桜沢はスパッと切り捨てるような口調で言う。「安楽死っていうのは、あくまでもあの八人をおびき寄せるための口実に過ぎない」
「口実?」てっきり、八人はそのために集められたのだと予想していた幸太郎は困惑した。「じゃあ、他の実験のために集めたってことか?」
「そう。だって考えてみて。安楽死なんて、もうすでに世界で実施してる国がある。ノウハウならその国から学べばいいのだから、わざわざ実験をする必要はない。あの八人はもっと他の有意義な実験のために使った」
「他の?」幸太郎は首を傾げながら考える。奥川博は肺がんを患っていて、人工妊娠&出産に関しては女性陣が三名いる。「それぞれ別の実験ということか?」
「いいえ、八人とも同じ実験に使わせてもらった」八人をまるでモノ扱いの返答。この女はマッドサイエンティストに違いない、と幸太郎は感じた。この女の前では倫理など意味を成さない。こちらが痛みや苦しみに呻いていたって、平然と実験を断行することができるに違いない。そんな狂気を感じつつ、
「何の実験に使ったんだ?」無意識に幸太郎自身も八人のことをモノ扱いして訊いた。
「あなたには関係ない」桜沢は冷たく言い放つが、幸太郎も負けてはいない。
「で、その結果は?」と訊く。
「わからないわ」桜沢は髪の毛を揺らしながら頭を横に振り、「もし、お互いが無事であれば、あなたは八人と会うことになるかもしれない」幸太郎を不安にさせたいのか、わざと謎めいた口調で言う。
「八人と?」幸太郎は頭の中に五つの項目を並べ、自分と八人、どちらがどの実験を担っているのか考えようとしたものの、
「はい、余計なお喋りはこれで終わり。これから色々とやることがあるから、実験を円滑に進めるためにも、余計な抵抗はしないように」桜沢はそう言い置いて、ハイヒールの足音を鳴らしながら、暗闇の中に消えてしまう。
「おい! 何をするつもりなんだ! 言え! おい!」
幸太郎の叫び声は空しく響く。ふと、先程の桜沢の言葉が頭の中に蘇った。
『忽然と姿を消しても、あまり騒がれない、社会性に乏しい人間』
実験台にふさわしい人物像。幸太郎はゾッとした。今まで好き勝手に暮してきて、家族も特定の恋人もいない。唯一、心配してくれるとしたら、弁護士の杉浦太蔵だが、しばらく連絡がつかなくても、女遊びに忙しいと思われて、こんな事件に巻き込まれているなんて考えもしないかもしれない。来月末に今の事務所を引き払い、娘の家で隠遁生活を始めたら、幸太郎のことなど気にも掛けないだろう。
――まずいことになった。迂闊だった。このまま、あの冷血な女に実験台にされて、身体をボロボロにされた挙句、最後は殺されてしまうかもしれない。
新進福祉教が罠を仕掛けているとも知らず、旧・奥川家にのこのこ訪問したことを、幸太郎は後悔した。いや、それを言うなら、失踪事件に首を突っ込んだこと自体、大きな間違いだったのだ。柄にもなく、正義感を奮い起こして真相を突き止めようとなんてすべきじゃなかった。湯島が不審な死を遂げた時点で、自分の身にも危険が及ぶ可能性があることはわかっていたじゃないか。
頭の中に様々な考えが巡るが、後悔したところでもはや手遅れ。幸太郎は絶望感に苛まれ、暗闇に向かって言葉にならない叫び声を吠え続けた。