奥川博
妻のうめき声が聞こえた気がして目が覚めた。薄暗い室内。ドーム状になった天井。ベッドの上。何もかもが自宅の和室とは違う。五十年近く連れ添い、枕を並べて寝た妻の姿もない。
そうだ、わたしは自ら死を選び、気がつくとこの不思議な世界にきていた。ここはどこだろう? 死後の世界というなら、妻も一週間前にここへきたのだろうか? だとするなら、今はどこにいるのだろう?
そう、妻は一週間前に亡くなった。五年前に大腸がんの診断が下されてからの長い闘病生活。最後の一年間は、認知症の症状も出始めて、記憶障害になったり、夜中に近所を徘徊したり、排泄のコントロールが利かなくなったり、わたしに何の断りもなく新興宗教に入会してしまったりと大変だった。
妻には内緒にしていたけど、その頃にはわたしも肺がんを患うようになり、以前よりも無理ができない身体になっていた。それでも、わたしたちには子どもがおらず、頼れる親戚もいない。ホスピスケアの施設に入れてやるお金もない。正直に言えば、心中しようと思ったことは一度ならずある。どうしてこの国には安楽死や尊厳死を認める制度がないのだろう? それさえあれば、身の回りの整理をして、妻と一緒に安らかに、恥じることなく死ぬことができるというのに。
そう、心中に踏み切れなかったのは、世間体が気になったからだ。わたしたちが自殺したところで、同情されたり憐れまれたりする遺族はいない。ただ、近所の人たちから、あれやこれやと自殺の原因を噂されるだけのこと。それでも、八十年近く生きてきた人生の幕引きが、おめおめと逃げるような格好になるのは気が引けた。わたしたちと同じ病気に罹りながらも、精一杯生きる人たちに対して申し訳なさや罪悪感も感じた。だから、わたしは一生懸命、妻の介護に努めた。
妻の最期を看取りさえすれば、地獄のような生活から解放される。後は自分のことだけ。身体の自由が利く内に、久しぶりに旅にでも出てみようか。パソコンを習い、色々な人と交流して趣味の幅を広げる。明るい老後生活をようやく送れると期待していた。
ところが、妻が逝ってから無気力状態に陥ってしまった。五十年近く、当たり前のように隣にいた存在がなくなった喪失感。介護していた真っ最中は、心中したくなるほど辛かったはずなのに、いざそれがなくなると、あの苦労が生きるモチベーションになっていたことがわかった。自分がいなくなったら妻は頼る人がいなくなってしまう。この五年あまり、わたしはそうして日々を過ごしていたのだ。
楽しみにしていた自由は、何の目的もなく怠惰に暮らす苦痛の種となった。社会はもとより家庭での存在意義も見出せず、わたしは次第にふさぎ込み、鬱状態に陥ってしまった。病は気から、という言葉は本当らしい。精神的に落ち込めば落ち込むほど、体調は悪化していった。そうなるとさらに気落ちする負の循環に入り込んでしまい、早く死にたい、早くあの世へ逝って妻と再会したいと、そう考えることが多くなった。
ただ、パソコンの勉強だけは続けた。死ぬ数日前、珍しく認知症の症状が軽い時、妻に言われたからだ。インターネットを使えるようになれば、世界中の人と繋がれるようになる。きっと、あなたの悩みを解決してくれる人が現れる。そんなことを言っていたからだ。
そして、妻の予言は当たった。死神と名乗る人物からのメッセージ。まるで今のわたしの状況をどこかで観察しているかのように、絶妙なタイミングで送られてきた安楽死への誘い。それは、わたしの暗い心を明るく照らしてくれた。迷う理由はなかった。わたしは、それがイタズラではないと確信できた。なぜかはわからないけれど、死神という人物はとても真摯にわたしの運命について考えてくれているのだと直感した。
そうして、死神に返信をしてからの数日間、身辺の整理を済ませてから鴉山へ向かい、今はこの不可思議な世界で、カプセルの中に一人きり、ベッドの上で横になっている。毎日の習慣から推測するに、今は恐らく午前五時前後だろう。ゆっくりとだけど、着実に外は白み始めている。
わたしは若い頃から二度寝ができない体質だ。無駄にベッドの上に横になっていると、身体がダルくなってしまう。この世界は楕円形を成していて、砂漠には何も危険がないことが昨日、明らかになった。少し散歩でもしてみよう。そう思い、わたしはベッドから身を起こした。
わたし以外、誰も外にはいない。カプセルの内部は外から見えないため、他の七人が姿を消していても気づきようがない。もしかしたらこの世界に一人、自分だけが取り残されてしまっているかもしれない。けれど、それならそれでいい。一人で死ぬのは怖いと、死神からの集団死の誘いを受けたけれど、それはあくまでも、死ぬまでの短い時間を一緒に過ごす仲間が欲しかっただけだ。
今、わたしたちは生きているのか死んでいるのかわからない状態だけど、どうやらここで暮らしていくことになりそうだとわかった昨日の時点で、早くもいざこざが起こり始めていた。死への願望を持つ以外、何も共通点のない八人が、上手く付き合っていけるはずもない。ましてや、わたしは一番の年長者で、何人かからお荷物のように思われている雰囲気を感じる。そんなことを考えるのも煩わしい。もしまだ他の七人もこの世界にいるのなら、なるべくカプセルの中で一人きりで過ごし、必要な時以外は他人と顔を合わさずに過ごすようにしよう。
そういう意味では、誰の姿もなく、砂を踏みしめるサクサクという小気味いい音しか聞こえない今の時間帯はとても素晴らしく思える。これほど平穏な心境に至ったのは一体、いつぶりだろう? サラリーマン時代はバブル真っ只中を過ごしたけれど、製造業だったため、営業マンと違って接待の名目で経費を好き勝手に使うこともできず、給料は微々たるもの。そのくせ、忙しさだけは他の会社員並だった。体調を崩したり、心の病に侵されたりして退職した同僚も多かった。そういう点で、今の若者がブラック企業で苦しむ走りだったのかもしれない。
とにかく、毎日が息つく暇もなく過ぎ去り、妻とゆっくり二人きりの時間を作れるのは老後になってから。その時になったら色々な場所に旅をして回れるよう、少しずつでも貯金をしていこう。そんな話をしていた。ところが、待ちに待った老後は闘病で暗黒に染まり、年金や貯金は治療費に消えていった。人生はあまりに短く、目先の糧を得るのに精一杯で、楽しむ余裕なんてものはありもしない。一体、何のために生まれてきたのかもわからなかった。
けれど、苦労した分、それなりに年金は貰えた。恐らく、一生奴隷のように働かなければならない今の若い世代よりは恵まれているのだろう。少しでも良い部分に目を向けることができれば、自分の人生も悪くはなかったと納得できるものだ。
考え事をしながら歩いていると、空がどんどん明るみ始め、その光を反射して足元の白い砂もほのかに輝く。いつの間にか、楕円形の反対側の頂点まで来ていたらしく、それまで背後に見えていたカプセル群が、今は前方に見えるようになった。あそこへ到着する頃には、誰か起き出してるかもしれない。
しかし、こんな時間に一人きりで散歩するのは何年ぶりだろう? 会社を定年退職してからしばらくは、肥満防止のためにウォーキングをしていたけれど、冬の寒い時期になって断念して以来、運動はほとんどしてこなかった。あのまま散歩を習慣化していたら、もしかしたらガンにならずに済んだかもしれない。
……ガン? そういえば、息苦しさや胸の痛みを感じない。昨日はこの世界で目覚めた混乱から、身体の変化に気づかなかったけれど、心の落ち着きを取り戻した今、そのことをようやく認知した。
なぜ? この半年あまり、多少の差はあれ、肺がんの症状を感じない日はなかった。それなのに今は――
「よし!」と気合を入れて、わたしは試しに走ってみた。息は上がる。けれど、肺に痛みは感じない。立ち止まり、呼吸を整える。すぐに息苦しさはなくなった。運動したために呼吸が乱れただけだ。健康な人間と変わらない。なぜだ? ここの世界の空気がそうさせるのだろうか? わからない。けれど、
「やったぞ!」
わたしはうれしくなり、再び走り出した。息が上がり、立ち止まる。やはり、肺に痛みは感じない。しばらく休めば、息苦しさは収まる。いつぶりだろう? 自分の身体に自信がもてるのは。こんなにも健やかな気持ちになれるのは。
走るのはやめて歩いていると、カプセルから誰かが出てくるのが見えた。坊主頭の長身。遠藤大輔くんだ。八人の中で若さと強さの象徴のような存在。恐らく野球をやっているのだろう。高校野球には詳しくないけれど、相当な選手であることは、あの体格や背筋の良さ、全身から醸し出される雰囲気でわかる。だからこそ、どうして我々と一緒に死を望んだのかは不明だ。前途有望という言葉が、誰よりも似合うのに。
いや、無暗に詮索するのはやめよう。これだけ長生きしていれば、人は見かけによらないという経験を何度もしてきた。彼には彼なりに、わたしにはわからない深刻な悩みを抱えているに違いない。それが若さゆえの、我々の世代からすれば取るに足らないことだとしても、批判する権利は誰にもないはずだ。
何をするつもりなのかと歩きながら見ていると、大輔くんは自分のカプセルの前で柔軟体操を始めた。筋骨隆々、見るからに硬そうな肉体に思えるけれど、意外にもしなやかで関節が柔らかい。特に上半身はバレリーナのように可動域が広く、辺り一帯が明るんだ状況の中、一人きりでいる様子は、舞台上に立つ孤独なパフォーマーのように見える。その姿は生命力に満ち溢れ、その光景を見たことでわたしは直感した。我々はまだ生きている、死んではいないと。では、ここはどこなのだろう? 改めて天上を見ると青空が広がり、雲が流れ、その向こうには何も見えない。肉眼では見えないだけで、誰かがあそこから我々を監視しているのだろうか? なぜ? 何のために?
考えても答えが出ないことは考えるだけ時間の無駄だ。けれど、この世界ではやることが何もなく、いくらでも無駄遣いできる時間がある。
わたしはそんなことを考えながら大輔くんに近づき、
「おはよう」と声を掛けた。足音でわたしに気づいていた大輔くんは、礼儀正しく背筋を伸ばし、四十五度ほど前傾姿勢になり、
「おはようございます」と返してくれた。
「早起きだね」
「はい。いつでも動けるように準備をしておこうと思いまして」
「準備?」わたしは首を傾げる。「何の?」
「ここから脱出するための、です」そう言うと、大輔くんは屈伸運動を始める。
「脱出といっても、どこにも出口はないように思えるけど」
「あるじゃないですか」大輔くんは断言する。「けど、その方法を使えるのは、八人の中で恐らく、僕だけでしょうけど」どこかシニカルな笑みを浮かべた。
わたしは辺りを見回してみた。そんなルートなんてあるようには思えない。唯一あるとしたら……いや、無茶だ。あの方法を使ったとしても、万が一失敗したら大ケガを負ってしまう。
「無理をしないほうがいい。ここにいれば安全なんだ。食料だって、働かずに手に入る」
「ずっとそれが続くとは限りませんよね? もしあれが途絶えたら、こんな何もない所、餓死するしかありませんよ」
「失敗して大ケガを負うリスクがある」
「僕は失敗しませんよ。絶対に成功させるために、今、こうして入念に準備をしてるんです」だから邪魔しないでくれ。大輔くんは、言外にそう匂わせる口調だった。空気の読めない老人扱いされたくはない。
「そうか。成功を祈っているよ」わたしはそれだけ言うと、自分のカプセルに戻ろうと大輔くんに背を向けた。しかし、
「あの、一つ訊いてもいいですか」と呼び止められた。振り返ると、大輔くんは屈伸を止めて、わたしを真剣な眼差しで見つめながら佇んでいる。
「何か?」若者と会話できることがうれしくなり、わたしは彼の緊張を解くように笑顔を見せた。「わたしなんかでよければ、何でも答えるよ」
「じゃあ、率直に訊きます。どうして、死のうと思ったんですか?」前置き通り、大輔くんは直球勝負で挑んできた。わたしはその球を逸らさず、しっかり受け止めて投げ返すことにした。
「自分に価値を見出せなくなったからだよ」一言で言えばそういうことだった。頼りにしてくれていた妻が死んだことで、わたしは誰にも必要とされなくなった。それが何よりも辛かったのだ。こんな惨めな老人の気持ち、大輔くんみたいな若者に理解してもらえるはずはないだろう。そう予想したけれど、
「一緒です」大輔くんは、目を細めてわたしを見てきた。
「きみも?」近くで見るとさらに逞しく思える大輔くんの全身を見つめ、わたしは思い切って踏み込んでみることにした。「わたしはきみのことを最初から羨ましく思って見ていた。きみには、わたしにはない若さがある。何をしているのかはわからないけれど、何かスポーツをやっているだろう? それも、かなり活躍しているように見える。わたしにはきみが前途洋々に思えて仕方ないのだけれど、一体どうして死のうと? もし差し障りがなければ教えてもらいたい」
若者特有の壁を作り、心を開いてはくれないかと思った。けれど大輔くんは、
「奥川さんがすべて話してくれたのに、僕のほうは何も話さないなんてわけにはいかないですよ」そう言って寂しそうに笑うと、野球で有望選手だったことや、昨年の夏の甲子園で活躍したこと、その準決勝戦で敗れたことをきっかけに、出口の見えないスランプに陥り、これ以上は生きていくのが辛くなったことを打ち明けた。
「奥川さんみたいに人生経験が豊富な方からすれば、僕が死にたいと思った理由なんて甘っちょろいですよね」と大輔くんは自嘲した。
「そんなことはない」と言いつつ、わたしは心の中では、何て甘いんだ、きみにはいくらだって人生をやり直せる時間も体力もあるじゃないか。何も人生、野球ばかりではない。大事に育ててくれたご両親に申し訳ないと思わないのか、としかりつけたい気持ちを抑えた。今のわたしには、人に説教する資格などないし、わたしが肯定してくれると思って大輔くんは腹を割って話してくれたのだと感じ取ったからだ。
「きみは特別な才能を持って生まれ育った。人並み以上の才能がある人間は、人並み以上の苦労や悩みも背負わなければならないのだろう。誰も大輔くんを責めたりはしないよ」
「ありがとうございます」大輔くんは軽く頭を下げると、「でも、死のうとしたこと、僕は今とても後悔しています」と率直に言った。
「どうして?」
「それは――」何か言い掛けたところで、大輔くんはふと顔を上げて空を見た。
「ん?」とわたしも見上げようとすると、
「皆によろしく伝えておいてください」大輔くんはカプセル群の中央、黄色いエリアがあるほうへ走り始めた。
「よろしくって、一体何を――」するつもりなのかと訊き終わる前に大輔くんはグングン加速していき、その勢いによって、彼が何をするつもりなのか、わたしは理解した。けれど、
「無茶だ!」反射的に叫んだ。大輔くんがなぜそんな行動を起こそうと考えたのか不思議でならず、裏切りとも思える行為を悲しく思った。